根こそぎに破壊される「大学の自治」:自民党・新憲法草案の隠された意図(2005.10.31)

 

 

去る1028日に発表された自民党・新憲法草案は、9条を改悪して日本を「戦争をする“普通の”国」にすることを主要な目的としているが、96条(改正手続き)の“3分の2”条項を“過半数”に改変するなどの悪質な仕掛けが随所に見られる。

「学問の自由と大学の自治」に関する23条に関しても、看過できない重大な改変がなされている。

 

【現行憲法】:

第二十三条 (学問の自由) 学問の自由は、これを保障する。

 

【自民党草案】:

(学問の自由)

第二十三条 学問の自由は、何人に対しても保障する。

 

一見、内容的に何も変わっていないかのように見えるが、自民党草案では、保障されるのは「“個人”に対する学問の自由」だけで、「大学の自治」は何ら保障されず、それどころか、「大学の自治」を積極的に排除する意図が隠されていると考えざるを得ない。なぜなら、現行憲法においては、《(23条の)学問の自由の保障は、個人の人権としての学問の自由のみならず、とくに大学における学問の自由を保障することを趣旨としたものであり、それを担保するための「大学の自治」の保障を含んでいる》(『憲法』(第三版、芦部信喜、2002年、岩波書店、156ページ)ことが確立されているからである。

すなわち、自民党が、過去半世紀以上の長きにわたって、「大学の自治」に対する一貫した敵視と攻撃の政策をとってきた事実をふまえれば、今回の自民党草案が、「学問の自由」の対象を個人に限定することで、滝川事件をはじめとする戦前の数多の大学弾圧事件に対する深い反省をもとに確立された「大学の自治」の原則を、憲法レベルで根こそぎに破壊しようとする悪辣な意図を隠し持っていることは明らかである。

おそらく、草案作成者は、過去の判例や学説等を検討して、現在進められている違憲の疑いが濃厚な大学に対する管理・統制政策、間近に迫った「教育基本法」改悪、あるいは、将来おこり得る大学弾圧などに備えて、反対論や違憲判決等が生じることがないように予め謀ったのではないのか。もしそうなら(おそらく、そうに違いないが)、その意図たるや悪質極まりないと言うべきだろう。

 このほか、現行憲法が基本的人権の限界を「公共の福祉」により制約しているのに対し、自民党草案では、これを、「公益及び公の秩序」による制約に改変している点は、専門外のことながら、大いに問題ではないかと直感する。【12条(自由及び権利の保持責任と濫用禁止)・13条(個人の尊厳と公共の福祉)・22条(居住・移転・職業選択の自由、外国移住・国籍離脱の自由)・29条(財産権)】。

実際、上記の『芦部憲法』(96ページ)では、《「公共の福祉」の意味を「公益」とか「公共の安寧秩序」(=「公の秩序」)と言うような、抽象的な最高概念として捉え》ることは、《法律による人権制限が容易に肯定されるおそれが少なくなく、ひいては明治憲法における「法律の留保」のついた人権保障と同じことになってしまわないか、という問題》がある点が指摘されている。

 とくに、自民党草案の12条では、『この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、保持しなければならない。国民は、これを濫用してはならないのであって、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚しつつ、常に公益及び公の秩序に反しないように自由を享受し、権利を行使する責務を負う』と、わざわざ、下線部のように改変して、主権者である国民に対して、「公益及び公の秩序」による制約と「責任・義務・責務」の存在をしつこく強調している(現行の12条では、下線部は、単に『常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う』となっている)。

このように、自民党草案は、《基本的人権が、本来、主として「国家からの自由」という対国家的なものであったということは、現代においても、人権の本質的な指標である。・・・人権にとって最も恐るべき侵害者はなお国家権力である》(同上書、110ページ)という、政治に携わる者として第一に考慮すべき基本的留意点を意図的に無視して、「国をしばる憲法から国民をしばる憲法」への視点で作成されたトンデモナイ代物である。専門家による批判的検討を期待したい。

 

 

参考資料

【自民党・新憲法草案】 低気温のエクスタシーbyはなゆー  【速報】 自民党・新憲法草案全文 より

■『憲法』第三版、芦部信喜、岩波書店(2002年)

国をしばる憲法から国民をしばる「憲法」へ 2004.8.30

 

2005.10.31ホームページ管理人作成)

 

 

2005.11.5加筆)

上記の『芦部憲法』(156ページ)にあるように、現行憲法の23条は、とくに、“大学における”「学問の自由」を担保する目的で「大学の自治」を保障している。自民党草案はその「大学の自治」に対する憲法レベルでの破壊を目的としているから、結局、“大学における”「学問の自由」も破壊されることになる。たとえば、現在、横浜市立大学や首都大学東京(クビ大)で進められている、「大学自治」の核心である教授会の人事権(や教学権)を剥奪したうえに、任期制・年俸制を強要するというような、違憲の疑いの濃い諸制度の導入が正当化される。その結果、大学から批判精神が消滅し、行政に対する批判はおろか、幹部(あるいは、同僚)教員への学問的批判すら憚られるという甚だ好ましくない雰囲気が蔓延することになる。“学問の自由”の死の到来である。

 

 

参考資料

阿部泰隆(神戸大学):「大学教員任期制法の濫用から学問の自由を守るための法解釈、法政策論京都大学井上事件をふまえて」+『追記』(2004.3.28 より

 

・・・同じ大学で、競争講座をおいて、あえて学説の対立を現出することによって、学問の進展を図ることなど、およそ夢の又夢になる。これでは、教員の学問の自由が侵害され、大学が沈滞することは必然である。したがって、教授の任期制を導入するまともな国はない。・・・私は、これまで幾多の闘争をしてきた。それは学問を発展させたと信じているが、それが可能となっているのは、わが同僚からは追放されない保障があるからである。もし同僚と意見が合わないと、追放されるリスクがあれば、私は「毒にも薬にもならないお勉強」をするに止めたであろう。