「中期目標」はどこで決められたか? 永岑三千輝氏『大学改革日誌』(2005.12.26)

 

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12月26日 「全国国公私立大学の事件情報」(本日付)に、市大学生新聞のブログ記事(教員組合主催、学生・院生など自由参加)が掲載されている。それで、直接、学生新聞ブログ(12月23日付)にもあたってみた。

新聞記事には、私が聞いていなかった冒頭委員長挨拶などに関する情報をはじめ、一読し、吟味すべき情報が掲載されている。各報告者・各発言者の意見の内容の受け取り方も、私の受け止め方とはニュアンスの違う部分がある。

ということで、できれば、各報告者・各発言者が、正確な自分の発言意図・発言内容などを、市大新聞や教員組合に届けて、それを公開すると、有益だろう。当日、集会に参加しなかった人々でも関心を持っている人は多いであろうから。

ひとつ記憶に鮮明に残っていることとして、書き記しておけば、「中期目標は6年間変更されない」という論点である。教員側の発言のひとつで、その点が指摘された。教員サイドからすれば、まさにこれは市当局が決めて大学に示したものであり、なんともしがたいということである[脚注1]。これに対し、学生が「6年間変更がないなんて、絶望的」といった発言があった。この「絶望的」というのが鮮明に記憶に残っている[脚注2]

 

「中期目標」はどこで決められたか?誰の責任で策定されたか?

すくなくとも、昨年度まで存続した「教授会、評議会」(学則による大学の自治機関)の議事録を見れば分かるが、教授会、評議会では議論になったことはない。それは行政当局のマターだということで、独立行政法人化と平行して、市当局(その大学改革本部)が協力する(せざるを得ないような)教員を選抜して、行政当局のイニシアティヴのもとで策定したものである(だから、多くの教員には無力感、不安感が蔓延していた)。

その策定過程・策定方法における幾多の重要問題(全教員任期制問題など)のひとつとして、しかも全学生に直接影響するものとして、トッフル500点=進級基準問題がある。その肝心のことをきちんと見据えておく必要があるだろう。

「メジャーな変更」、「マイナーな変更」というのは抽象的であいまいになってしまう。「大学外部の試験=トッフル」・「500点=大学内部の進級基準」問題、「プラクティカル・イングリッシュ」講義3コマの担当教員の単位認定権否定問題(教授会権限の否定問題)は、カリキュラム編成(学校教育法における教授会審議事項の最重要事項の一つ)にかかわる根本問題である。私の理解では、これこそは最重要の本来の教授会マターであり、教授会(評議会)審議事項であるべきだったが、それがまったく為されなかった(なされていない)ことに問題発生の根本原因があると考える[脚注3]

6年間変更できない」ということが、具体的な問題のどこに関わってくるのかも、重大である。「トッフル500点、進級基準[脚注4]」は、全学生に対する制度として公表されたが(手許には新聞記事がないが、記憶によれば、記者会見等で改革の目玉として特筆されたはず)、最終局面で、変更があったかのようでもある。国際総合科学部と医学部では取り扱いが違うようでもある。こうした重要なこと(変更があったとすれば、変更する主体はどこで、誰が、どの機関が、いつ決定したのかが問題になる)が、明確な形で公開され、学生に周知されているわけではない。うわさがうわさを呼ぶ。システムの欠陥は、結局のところ、学生・院生にしわ寄せされる。「教育重視」という言葉は徘徊するが、学生・院生が安心して講義に参加できるシステムではないとすれば、一体何のための改革か。

今後、どのようにこの問題を処理するのか(どこで、誰によって、どのように審議し、決定するのか)は、大学改革の今後のあり方にとってきわめて重要であろう。

市大新聞ブログが報じるところでは、教員組合委員長は、「大学は、我々が積み上げてきた文化共同体だ。誰に責任を押し付けることもなく我々の手で立て直していかなければならない」といったという。

「立て直す」ためには、どこをどう立て直すのか、ひとつひとつはっきりさせなければならないだろう。そして、その立て直すべき点に関する「責任」(権限)の所在はどこにあるか(誰が、いかなる責任と権限で審議し決定するのか)、事実関係をはっきりさせなければならない[脚注5]。それが、はっきりすれば、複雑な問題もおのずと解決できるあろう。問題はすでに提起されている。提起されている問題を適切に検討しないとすれば、それ自体が問題となる。

「立て直す」前提としては、問題の所在の明確化、その問題解決のための決定者(決定責任と解決責任)の明確化が必要となろう。それは、「押し付け」とはちがうであろう。

この間、院生と立ち話をする機会があったが、学内の院生ですら、「トッフル500点問題」の所在をはっきりとは認識していないようであった。一般社会はなおさらであろう。このままでいけば、問題が深刻化したときに、社会問題化することであろう。耐震構造の設計問題(設計ミス=設計偽造)は、新聞報道によれば、問題の最初の指摘から社会問題化するにいたるにはすくなくとも1年半ほどかかっているようである。

制度設計の問題、制度運用の現実が提起する問題をどう処理したかのこの一年間ちかくの問題、それぞれにしかるべき責任と権限とが明確にされなければならないだろう。

 

 

[脚注1]

本日誌読者から、「中期目標の変更の可能性はある、ただ、むしろ改悪の可能性がある、その見直しの結果、いまよりも状況が悪くなる可能性もある(むしろ、その可能性が高い)という意見も寄せられた。恐るべきことではある。

 

 教授会構成員の意見が正式に反映されないシステムで、変更された場合、ますます事態が悪くなる可能性がある、と。

 

 学生の希望はどうなるのだろうか?

 

 「大学案内で履修が自由だと信じて入学してきたのに、不自由だ」と嘆いている学生諸君の悲鳴に対して、さらに厳しい縛りがかけられるということか?そのような動きがすでにあるということか?

 

 そうすると、この改革の筋道は、ますますわけが分からなくなる。

 

 

[脚注2]

もうひとつ、受験生向けの大学案内では、3つの学部がひとつになったので、科目履修が非常に自由になる、コース選択なども自由になる、と受け取っていたが、蓋を開けてみれば、コース選択の縛りが厳しい、主専攻・副専攻の縛りなども厳しい、といった発言も記憶に残っている。

 

 これは、われわれ教員にとってもそうである。

 

 商学部、国際文化学部、理学部の三つの学部の垣根を低くすれば、学生の履修は自由になり、また入学後の学部変更も容易になり、わざわざ学部をひとつ視統合してしまう必要はない、という3学部統合反対論に対して、それでは不十分・不徹底だ、ひとつの学部にして、入学後自由に針路変更できるようにするのだ、と3学部統合が進められたからである。

 

 実際には、コース間の移動がきわめて不自由に設定されている。コース間の履修の自由度が、かつてよりも狭く厳しくなっている。

 

 これは、研究院(教員の所属)と教育組織(実際の科目担当先)との分離という当初理念とも食い違うものであり、古いシステム(コースなどへの教員の縛りつけ・貼り付け)がむしろ狭く固定化されている、ということでもある。

 

 

[脚注3]

 科目を担当している教員の単位認定権を剥奪するということを教員が提案するわけはないので、問題の所在ははっきりしているであろう。その点は、各種文書によっても確認できよう。

 

英語の教員は、他の科目の教員がもっている単位認定権(英語教員でもプラクティカルイングリッシュ以外の担当科目では単位認定権をもっているが)を、プラクティカル・イングリッシュの科目(しかも、全員必修科目)に関しては、剥奪されでいる。

 

 

[脚注4]

 「TOEICなら600点」という基準も、集会の場で言及された。

 

だが、その換算基準は、どこで、誰によって、いつ決められ、いつ学生に周知徹底されたのか?その証拠文書類は?

 

 知っている人だけが知っているのでは、不透明・不公平きわまる。

 

 

[脚注5]

 「大学」とは、何を意味するか?

 

「文化共同体」を構成する大学人は、どのような人々か?

 

法人と大学との権限・責任関係は?

 

今発生している問題は、何が原因か?

 

法人経営者(理事長・副理事長など、あるいは事務局全体)を市長(行政当局)が任命しているが、われわれ一般教員も学生院生もその任命にかかわりがない。大学の長である学長についてすら最初はまったく行政当局任命であり、次期の学長選考に関してすら、一般教員にごくごくわずかの「推薦権」が与えられた他は、そうである。

 

それは事実関係である。