横浜市立大学、驚くべき「当局回答」 永岑三千輝氏『大学改革日誌』(2006.3.17)

 

http://eba-www.yokohama-cu.ac.jp/~kogiseminagamine/SaishinNisshi.htm

 

 

3月17日 教員組合ウィークリーが届いた。団体交渉申し込み文書の内容が報じられている。昇任と任期制適用に関するきわめて重要な問題であり、当局が関連諸法律に基づき、依拠する諸法律を明示し、団体交渉で明確に示すと共に、誤解や紛れのないように文書で回答すべき内容であろう。

 

         下記の当局回答で驚くことがいくつもある。

たとえば、「透明性については、学外の委員2名入っており、十分確保している」という点である。誰が学外委員を任命したのか?学外委員が経営サイドの意向を暗黙のうちに反映するような人材であることは、普通に考えれば十分にある。学外委員選任基準は公開されているか?「学外委員」は、なんら透明でもなく、透明性を通じて確立すべき公平性・公正性を保障するものでもない。当局者・経営サイドは、自分たちが選んだ「学外者」の資質について、その公平性・公正性についてどのように証明できるのか(社会的説明責任)?

しかも、当局者は行政当局によって任命されたものであり、その立場の公平性が、「大学の自治」(学問の自由)の観点から、自明のものとして保障されているのではない。上記のような発言を平気でするところに、行政主義的上位下達の精神が露骨に表れている。

「特別契約教授」に関しても、「専任教員と同様の手続き」として、透明性・公平性・公正性が確保されているというが、経営サイドの唯我独尊というべきスタンスである。まさに、今回、組合の冒頭の昇任候補者選定に関わる交渉要求を見ても分かるように、専任教員についてこそ、不透明・不公平・不公正が問題になっているのである。

まして、「特別契約教授」に関して、どこで誰がどのような基準によって妥当と判断されたのか、それは今後の大学のあり方にとってきわめて重要である。審議機関の如何、審査機関の所在・構成如何によっては、経営サイドに都合のいい人物だけがよりぬかれるということが十分にありうるからである。そして、それは、大学の自治、学問の自由の見地からすれば背反するのである。既にある人は「特別契約教授」に任命されたが、ある人は拒否されたとも耳にする。その情報が正しければ、実際に任命された人と、今年定年退職する人で任命されなかった人とを並べてみれば、見る人が見ればすぐ傾向がわかる。かくして、その実例が他の人々への教訓・示唆を与え、ある方向へ、ある方向へと大学教員が方向づけられることになる。「経営の論理が、真理探究などを中心的で最高の基準とする教育研究の論理と相容れないことは、歴史上も現実にも幾多の事例があるからである。

さらに、次の点も驚く。

4.これまで講師だった者の年俸算定基準を旧来の助教授の給料表に基づくものに移行させること。

当局側回答

 これまでの給料表はなくなっており、年俸決定の際に評価し、年俸に反映させていきたい。」

 

年俸決定と「これまでの給与表」とには一切の関係がないのか?

現在施行されている年俸制は、何を基準にしたのか?

評価制に基づく年俸制という新しい制度がきちんと労使合意の上で確立していない段階で(その案すら提案されていない段階で)、旧制度であれば当然にも昇給していた人が昇給されないとすれば、それこそ不当な変更である。

組合の要求は正当であり、少なくとも移行期の10年間くらいは、これまでの給与表体系ならばどうなるかの参照基準がなくしては、それこそ恣意がまかり通ってしまうではないか。その点からすると、「政治的判断として実現していただくようお願いしたい」という発言には首をかしげる。法人化によって講師だった人が不当に不利益を得ることについては、その不当さを証明して、筋の通った解決こそもとめるべきではないか?既得権は既得権として確実に実施させなければならないのではないか。「筋の通った判断」と政治的判断がイコールであるならば問題ないが。

 

トッフル500点問題は、経営サイド・行政サイドの責任を回避するような「責任のあいまい化」(第二次世界大戦後の「一億層懺悔」的な責任論)が、当局から示されている。「大学として決めたことであるから、全学をあげて努力していく」と。改革の強行に際しては、設置者権限を前面に出していたことがすっかり覆い隠されている。

トッフル500点などは、どこで審議決定されたのか?

「大学として」というが、大学の組織といえば、その当時はまだ教授会・評議会があったが、どの教授会、どの評議会で決定したことか?

これは、決定過程をきちんと検証し、市行政当局が主導でやったことをきちんと事実関係に即して、検証する必要がある。任期制の導入に関する経過もそうだが、市長諮問委員会あり方懇答申にはじまる諸プロセス、設置者権限を前面に出して進められた審議過程の資料があらためて問題となろう。Cf.トッフル問題重要資料

大学として決めたことであるから、全学をあげて努力していく」というが、誰がどのような方針で、どのような予算措置の責任をとってやっていくのか?その審議機関は? 教授会で審議させるのか?

「全学を挙げて」というが、その具体的な政策決定はどこで誰が行うのか?その決定権限と責任の所在は裏腹の関係にある。

精神主義でこの問題は片付くものではない。外部試験であるトッフルの一律の基準を全員に適用し進級基準にした責任(決定者・組織)が、その実行・実現の責任を負い、それが不可能なら変更の責任をとらなければならないだろう。

全員任期制とまったく同じく、画一的な「上から」、「外から」の決め方の決定的な問題があったのであり、それに付随して制度自体が根本的に問題をはらんでおり、それをどの機関が責任を持って改正するか、それを公表するか、その際誰が責任を取るか、これが問題なのである。

こうした決定的なことで、問題と責任の所在をあいまいにするこの回答のやり方こそ、大学教員のやる気を失わせるものではないか?

制度設計への参加、制度変更への審議権を教授会・評議会といった機関に与えないで、問題が起きたら責任だけを全員に負わせる、というわけだから。管理職手当てなどをもらい、その他のさまざまのメリットを享受しながら、責任を取る段階になると、その責任は私たちにはありません、責任はみんなで分けましょう、と。

責任にも軽重がある。靖国神社問題でも、問題になっているのは、主要戦犯(主要責任者)の合祀の問題であり、その神社への首相という一国を代表する人物の公式参拝の問題である。

「全国民に責任があるから全国民で努力しましょう」などという論理が通るか?そんなことが問題になっているのか? ライブドアの全社員が今回の事件に関係があるからといって、全社員が責任を問われているか?

主たる責任の所在を明確に、あるいは責任の軽重の度合いを明確にしなければ、それこそ、無責任体制である。