ミニシンポジウム「市大改革とはなんだったのか?」 報告 永岑三千輝氏(2009.8.17)

 

永岑三千輝氏 大学改革日誌 2009年8月17日付より

http://eba-www.yokohama-cu.ac.jp/~kogiseminagamine/SaishinNisshi2007/SaishinNisshi.htm 

 

ミニシンポジウム「市大改革とはなんだったのか?」――市大のこれからを考えるために――(2009.8.8

 

 

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 15日のミニ・シンポは、夏休みの真っ最中、しかも敗戦=終戦記念日ということもあり、ご案内をさし上げたかなり多くの方から別の会・用事があるのでとお断りの返事をいただいていたので、せいぜい10人も集まればいいかとおもっていたところ、30名ほどの参加者があり、熱心な報告と討論が行われた。

 

法人化への移行過程から法人化後の大学自治破壊(憲法違反状態)を丹念にフォローした労作を出された吉岡直人元教授は、冒頭の報告でこの本の執筆経過のほか、全国さまざまの方面から寄せられた感想文を披露されながら、今日の大学が抱えている問題を指摘された。

 

第二、第三の報告は、法人化への移行段階の教員組合の委員長・書記長として、教員の身分を不安定化し、研究教育の自由を脅かし大学自治を破壊する全員任期制の導入などと戦ったお二人の報告であり、非正規雇用の問題、不安定雇用の問題が全社会的な問題となっている現在のスタンスから、いかに本学の全員任期制が問題であるかが浮かび上がってくる報告であった。

 

私自身は、大学自治破壊の状態を、学生全員と関係する問題、すなわちPEの問題に関して報告した。この問題が、学生一人一人にも分かる問題として、PEが大学自治が破壊された状況で作り出された制度であること、その問題状況が続く中で、制度制定時代の問題を累積させていることを説明した。

 

PEは、多くの問題点を代議員会等で指摘されながら、「中期計画」などを理由として一切制度の再検討の対象とされず、そのおかげで、この4年間にいかにたくさんの悲劇(1年留年すれば55万円ほどの学費負担のほか、生活費負担が大きく、さらに貴重な青春の一年間を足踏みさせる、退学その他、それに関連する種々の問題)の原因になっているかを指摘した。

 

強調したのは、なぜ画一的基準であるTOEFL500点を全学生に強制するのか、その根本のところが、合理的に説明されていないという問題である。

「学生中心」、「学生の個性を尊重」といった文言が当局のいろいろの文書におどっているが、実際に行われていることはそれに全く反して、学生の個性、専門分野、進路にかかわりなく、PE全員必修とし、しかも、全員一律基準を押し付けている。国際総合科学部に7つのコースがあるということは、文科系から理科系へさまざまのウエイトを持ってカリキュラム体系が違い、学生諸君の個性・進路希望などが配慮されているからではないのか?

文科系から理科系へ、個々人の個性や進路希望の多様性などを一切考慮しない画一基準は、「個性尊重」、「学生重視」、「学生中心」といえるのか?

「最低達成水準としてTOEFL500点を設定し、国際総合科学部では、プラクティカルイングリッシュの修得を3年次への進級要件にしてい」るというのだが、コースの多様性とも関連するその論理的不整合性、説明責任の欠如、それを放置したままの不誠実さなどを明らかにした。

 

なぜ、「国際化」が、英語だけの強化なのか?

なぜ、最低達成水準がTOEFL500点なのか?

 

最低達成水準=TOEFL500点以上を、「リベラルアーツを学ぶために必要なレベル」と正当化しているが、それはいかなる意味か?実際に行われていることと矛盾するではないか。

2年次までの諸科目(総合講義、教養ゼミなど)は、リベラルアーツではないのか?

2年次までに50単位とか60単位、さらに多くの単位が履修可能であり、それらが秀・優・良・可・不可という段階的評価で単位認定されているが、そうした諸科目はリベラルアーツではないというのか?

まさに、TOEFL500点以上をクリアしていない多くの人が、実際にリベラルアーツの諸科目を学び、それらの単位が認定され、取得できているではないか。

 

また、3年次以上の諸科目は、TOEFL500点をクリアしていることによって、2年次までの諸科目とどこがどのように違うのか?

3年次以上の諸科目は、「読む・書く・話す・聞く」のTOEFL500点水準をクリアしなければならないような内容になっているか?

 

 以上のすべてに、何の客観的で合理的な説明もない。説明責任欠如、アカウンタビリティ欠如!したがって、暴力的制度!

 

「中期計画できまっているだけ」。まさに、ここに、大学自治が破壊された状況での「中期計画」の根本問題が露呈している。また、それが教授会審議の対象とならなかった根本問題が露呈している。そして、次の中期計画もまた、そうした教授会審議抜きで策定されようとしている。

 

総括的にいえば、現在の本学の法的状態が、憲法第23条の視点=基準からすれば違反状態(大学統治システムが根底から非民主主義的であり、上意下達システムで、理事長・副理事長・学部長・研究科長・管理職全員が民主主義的なチェックシステム[普通は秘密自由の選挙制度]なしに「上から」「大学外から」任命されるシステム、憲法の要請する「大学の自主的判断」がシステム上否定された状態=憲法違反状態、しかもそれを補完するものとしての全員任期制および上から任命した管理職による評価制度=物言わぬ人々の創出=学問の自由の抑圧状態)にあること、PEに典型的に示される問題、すなわちカリキュラム体系を一切教授会審議の対象としてこなかったことからすれば、学校教育法違反の状態にあることなどが、参加者の多くに理解されたように思われる。

 

私が結論的に言ったことは、

改革すべきこと・・・@大学自治の再建、学長の自由で民主主義的な選出体制の構築。大学自治(憲法23条)と学部自治(学校教育法に基づく審議事項の審議・それによる教授会の権限と責任の明確化)の合理的有機的再建。大学に憲法を!APEに関しては、諸個人の進路・希望・専門分野を配慮した成績評価と進級基準への変更(段階的評価という世界に普遍的な成績評価の在り方とする。一例:TOEICで、 800点以上、優700-799点、良600-699点、可400599点。この基準を公表する。社会的客観的評価と本学の秀・優・良・可・不可との対応関係を明確化させた段階的評価)。大学・学部・コースが目指すべきは、それぞれの所属学生の個性・徳性を踏まえ尊重しつつ、「語学力強化」の一つとして上を目指す学生たちを支援し、その意味で高いランくの割合を高めていくこと。他方、それぞれのコース、学問体系の必要性・学生の進路・専門分野に応じたその意味で真のプラクティカルな(画一的ではない)語学力基準・カリキュラム体系の創出(英語力も強化すべきところが分野により違うはず)。

 

時間がなく言及しなかったが、PEだけでなく、プラクティカルな中国語、ドイツ語、フランス語などの諸外国語の認定(外部試験の一定の成績による)も、代替措置として、あるいは語学力メニューとして、設定すべきであろう。さらに、現場の教員の単位認定権を普通の他の科目と同じように与えるために、外部試験の成績に、現場の出席状況(出席回数、その態度、その他)を加味することを可能なものとし、機械的に外部試験の点数を秀・優・良・可・不可の段階的評価に当てはめるのではなく、外部試験の点数にそれぞれに関してプラスマイナスの評価を加えて(そのプラスマイナスの合理性・客観性はまさに現場を担当する教員の説明責任に属し、公開が求められるだろう)、段階的評価を行うべきであろう。

 

 

シンポジウムでは、この状態をどのようにすれば改められるか、その手段はなにかということが一つの大きな論点となった。

現在の制度ではっきり不利益措置を被っている学生などが、訴訟を起こすことがあれば、勝つのではないか、そして、制度見直しが根底から行われるのではないか(かつて学生の成績開示に関しては、非常に意志強固な学生さんの訴訟が提起され。学生の勝利に終わったと記憶する)。

教員組合が、この間の法的諸問題を踏まえ、行政訴訟を提起すべきではないか。そのための資金は長年の蓄積があり、十分やっていけるのではないか、など。

(教員組合がその態度になるかどうかは、組合執行部と組合員の意思如何であろう。確かに、長年、組合資金をためてきたので、訴訟資金としてはかなりの額がたまっていることは事実だろう。)

 

シンポ終了後、集会の幹事的役割の人々と夕食をともにしながら今後の方針を話し合い、中田市長による大学「改革」に関して、市長候補がどのように考えるかの質問状を出そうではないか、ということになった。

 

中田市制誕生の時は、中田氏(当時民主党衆議院議員)が自民党の小泉純一郎氏に投票したことからもわかるように、新自由主義の跋扈・規制「改革」・福祉切り捨てや労働保護法制の改悪(派遣労働者の規制緩和など)の時代と重なっていた。その流れの中で大学法人化が強行された。

 

しかし、現在はまさにそうした新自由主義・弱肉強食の市場原理至上主義が根底から問い直されつつある段階であり、市長候補がどのように大学「改革」問題をとらえているのか、とらえようとしているのか、確認する必要があるということである。

大学教職員の全員任期制などという、どこの民間会社でさえ採用していない無茶苦茶な制度が導入された今回の「改革」の「目玉」ひとつをとってみても(大学法人化による市職員減など「大幅な人員削減」を自分の市政の業績として看板に掲げ再選というメリットを享受し、さらに自分は任期途中で職を投げ出してもなお「業績」として誇っている)、中田市長による「改革」がひどいものであったかが歴然としてきている。

大学教員のテニュア制の導入は早急に行うべきだし、職員に関してもそのような任期なし制度を採用し、しっかりとした業績・実績を積んだ者が安心して仕事を継続できる状態にし、教職員が一体となって大学を盛り上げていくようなシステムとしなければならないだろう。

 

 

---------参加者からの発言のいくつか(要旨)--------

 

代議員会は学生の身分にかかわる事項を審議しています。代議員会の議を経ないと決まらないのは単位認定や学生処分、入試判定といったことがらになります。(PEの判定も代議員会の審議事項になるので、何も資料がないではないか、等の批判が出されたことがあります。)・・・審議権の内容が学生の身分に関することだけというのは、どこからみても違法(学校教育法違反)です。

 

2003年ごろには、全員任期制にせよ教授会権限のはく奪にせよ、横浜市の行おうとした大学「改革」は、小泉政権の新自由主義路線ともあいまって、ある種、「時代の先取り」的に受けとられえた部分があったと思うのですが、現在は、(任期後のテニュア付与をともなうテニュアトラック制の普及を推進する)文科省自体を含めて、こうした路線への反省への志向は少しずつですが出てきているように思います(中教審答申「学士課程教育の構築に向けて」では、大学設置の「市場化」政策への反省とともに、「TOEFLTOEICなどの結果に基づいて単位認定を行う場合,大学教育にふさわしい水準か,また,単位数が適当か等について吟味する」必要を述べて、学士教育において実用的な英語能力の育成を一面的に強調する傾向に警告を発しています)。経営的な合理性を欠落した運営の実態に加えて、医学部問題や学長・理事長はじめ執行部の突然の辞任など、外から見ていると「改革」後の市大はどう見ても「成功例」とはいえないように、市民には映っているのではないか、という気もします。小泉改革による弱者切り捨て路線が今回の総選挙で批判されるように、横浜市長選においても、有力市長候補者が、中田市長が進めた福祉の民営化路線への見直しとともに、市大に関しても大学官僚統制化「改革」の見直しを行う可能性は皆無ではないように思います

 

---------------Aの論点に関して、学校教育法を開設した文部省のマニュアルから---------------

 

教授会が審議すべき重要な事項として、「学生の入学・退学・卒業等は、施行規則67条の規定により、教授会の儀を経て学長が定める」、と。

また、「教授会で審議すべき重要な事項の範囲は、各設置者の判断によることとなるが、施行規則67条に定める事項、すなわち、学生の入学・退学・転学・留学・休学および卒業については教授会の議を必要とする。

教授会に関して、大学運営における権限と責任の明確化を図る観点から、教育研究に関する大学の自主性を十分尊重し、組織運営の準則を明確化し、(ア)学部又は研究科の教育課程の編成に関する事項、(イ)学生の入学・卒業または課程の修了その他その在籍に関する事項及び学位の授与に関する事項、(ウ)その他学部等の教育または研究に関する重要事項、などを審議する責任と権限を持つ、とされている。

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上記Aの意見が、現在の本学の状況(教授会が年一回しか開かれず、しかも、そこでは何も審議されず事務的事項の報告だけ)という現実、それに代わる組織体として機能すべき代議員会においても、まったく審議に値することが行われず、しかも、十分な資料も提示せず、単位認定や進級判定などだけを行っているというのは、上記の文部科学省の解説マニュアルからしても、明らかに違法だといえよう。

設置者権限を大義名分に、一部教員をワーキンググループとしてカリキュラム編成作業に動員し、教授会の審議を経ることなく、また、その後4年間教授会審議を一度も行わず、「決まったこと」として、単位認定作業だけを行わせていることは、違法である。

代議員会の教員の口を封じこむための武器としては、全員任期制のシステムがあり、3年から5年で任期を更新しない可能性の脅迫効果があり、さらに、教員評価(年々の昇給、さらに昇進等に関係する重大事項)が、すべて市当局が任命した理事長・副理事長(二人の副理事長のうち一人が学長)、それらに任命された学部長、コース長によって行われるとすれば、言論封殺効果・思想の自由の抑圧効果は十分であろう。

どこからみても、憲法違反状態ではなかろうか?

 

しかも、以上の教授会重要審議事項のなかには、「進級」という項目はない。

そうした独自の制度を設ける以上は、進級制度の内容、可否に関して、きちんと議論を積み重ね、現実の「進級」状況とそこでの問題を踏まえて、適宜見直すべきなのだ。しかし、これまた、「決まったこと」(どこでだれが決めたか?)として、何も検討されてこなかった。

 

なにも検討されなくて実害がなければ問題ない。しかし、説明責任を欠如した進級制度により、何百人の学生が、不利益措置を被っているとすれば、ただでは済まないのではないか?

進級制度により、留年が強制され、卒業が確実に留年の期間だけは(少なくとも)延長されるのであり、進級制度は密接に卒業要件と関連しているのである。したがって、卒業にかかわる進級条件を審議していないということもまた違法であろう。

そして、そうした審議無き制度の継続で、何百人もの学生が、1年、それよりは少ないが2年、さらに数は少ないはずだが3年と、さらに途中で現今の厳しい経済状況下で退学に追い込まれている(人生を狂わせている)とすれば、これは大変なことではなかろうか?

わずかの成績優秀学生を特待生にするといったことよりも、PE問題をしっかり改善する方が、はるかに大学の雰囲気が良くなるのではないか?

 

大学の倫理法令委員会は何をしているのであろうか?

これまた「お上」の決めた、「お上」の意向だけをおもんぱかり、「学生中心」などは看板だけでいいと考えるような委員たちによって、問題の検討がサボタージュされていることを示すものであろうか?

法令との整合性はともかく、倫理的には重大な問題をはらんではいないだろうか?

 

市長が突然理由を明確にしないまま、辞職した。

そうした無責任市長による大学「改革」だった。

いまこそ、学生の多くに説明責任を欠如した制度を押し付け続けている人々は、再考すべきでは?