Nayana OSHOとアート


瞑想は生に本当の始まりをもたらす
最初の誕生は、生の始まりとは言えない
最初の誕生は、ただ生きる機会を与えるだけだ
最初の誕生は、実際の生ではなく
潜在的な生を与えるにすぎない
その潜在性を現実のものへと変容させることだ
そうして初めてあなたは真生に生きるようになる
瞑想は潜在するものを顕現させるアート
種子を花々へと変容させるアートだ
瞑想を経て、人は第二の誕生を迎える

最初の誕生で肉体が生まれ、第二の誕生で魂が生まれる
自分自身が魂であると知って初めて私たちの生は満たされる
さもなければ、生はいたずらに浪費されるだけだ
種子は種子のまま
芽生えることも、樹木に成長することも
枝いっぱいに花開くこともない
木陰で休む人もなく、鳥たちが訪れることもない
その周りで風が舞い踊ることもない
雲や太陽や月や星々との語らいもない
種子は存在と通じ合うことができない
それは閉ざされ、自分の殻の中に閉じ込もる
瞑想はあなたを開いていく
瞑想とは多次元的に開いていくことに他ならない
存在の美しさに、風の調べに、愛の自由さに
あなたを取りまくあらゆる神秘に
そして内側と外側のすべてに開いていくことだ

__________OSHO

夜眠る前に贈る言葉
(A must for contemplation before sleep)
month 6 −あなたは空− No.21

12月写真


・・私の役割は
何であれ、あなたが身につけたものをことごとく取り去り
その代わりとなるものを、何ひとつ与えないことだ

なぜならもし私が、ある石を取り去って
その場所に別の石を置くとしたら
私は、最初の石を置いた人より
危険なことをしていることになるからだ
最初の石は古くなりつつあり
あなたは、それに飽き飽きするようになっている
それは、あなたに何の滋養も与えてくれはしない
石はしょせん石だ
石があなたに、どんな滋養を与えるというのかね?
そして、あなたはその重荷を背負い続け
ゆっくりと、この石を投げ捨てた方がましだと
気づくようになっているかもしれない

だが新しい石となると、また新たなハネムーンが始まる
あなたは、この石こそは
然るべき石なのではないかと、考え始める

私はあなたの信仰にとって代わるような
別の信仰を提供しはしない
私は、ただ破壊するだけだ

私がただ壊すだけだと聞いて
あなたは驚くかもしれない
____私はあなたに押しつけられてきたものを
    ことごとく破壊したいと思っている
そして代替する必要のあるものなど何もない
創造性は、あなたに本来備わった潜在能力だ
創造性を作り出す必要などありはしない

ひとたび障害が取り除かれれば
あなたは成長し始め、流れるようになる
あなたは自分自身で探求し始め
すぐに強さと新しい力を身につける
なぜなら自力で発見したものは、ちょっとしたことでも
思いもよらないほど、途方もない幸福感を
あなたに、もたらすものだからだ

ほんの小さな発見を自力でするだけで
あなたは別の存在になる
なぜなら、今やあなたの中に真実が生まれたからだ

・・私の唯一の役割は、あなたを一人きりにして
自分自身と向き合わせることだ

あなたは両親から、一人きりにしてはもらえなかった
あるいは教師によって、ラビによって
僧侶によって、牧師によって
一人きりにさせてはもらえなかった
誰ひとり、あなたを信頼してはくれなかった

私はあなたを信頼する
彼らは皆、自分のイメージに沿って
あなたを何者かに仕立て上げたかっていた
私は、自分のイメージに合わせて
あなたを何者かに仕立て上げようとは思わない

私はただ、あなたが花開いて
本当のあなた自身になることを望んでいるだけだ

私には、本当のあなたがどんな風になるのかは分からない
あなたにも、本当の自分がどんなものかは分からない

なぜなら、それは非常に驚くようなものだからだ
____それは、まるで、あなたが突然にして
無尽蔵の宝物を見つけたようなものだ・・・

__________OSHO

NEW CHILD より抜粋

2003年12月


意識には二つの川の流れがある
ひとつは哲学者のものであり__
西洋のアリストテレスはその父、その始祖だ
もうひとつは神秘家のものだ
それは完全に種の異なる川だ
哲学的な思索とは何の関係もない
それは実存的な経験に根ざしている
偉大な神秘家がいた時には
ほとんど決まってその追従者たちが
いずれかの流れに二分していったものだ

マスターを理解し
心底マスターを愛した真の人々は神秘家となる
そしてマスターの言葉だけを理解したものは
実に物知りとなり
そういう人が哲学者となる
ソクラテスは神秘家だった
プラトンは彼の弟子だったが
道を踏みはずし哲学者となった
アリストテレスはプラトンの弟子だった

だからこの瞬間から心しておきなさい
私の道は神秘家の道だ
哲学者の道ではない
私は至福を信じている
至福についての学理ではなくね

そして私は、あなたにそれを味わってもらいたい
それについて単に考えるだけではなく
食べ物について考え続けても無意味なことだ____
それは滋養にはならない
水について考え続けていても馬鹿げている
なぜか?_____
流れている川があるのなら
水を飲み、喉を潤せるはずだ
土手に立ったり座ったりしながら

水について考え
水について学説を立て
水がどんな要素で成り立っているのか
模索しているうちに喉が渇いて死んでゆく
愚かな人々がいるのだ!

だから思索者にはならないこと
哲学者にはならないことだ
神秘家となりなさい
私のサニヤシンたちは神秘家
実存の経験者でなくてはならない
それは悟りの一部だ

__________OSHO

夜眠る前に贈る言葉
(A must for contemplation before sleep)
month 5 −生との戯れ− No.14

11月写真


●22

Love
いま着いたばかりのところだ
汽車が5時間も遅れてしまった
ここについたらすぐに手紙を書いてくれと言っていたので
こうしてペンをとっている
道中ずっとあなたのこと
そして、あなたの眼からこぼれた涙のことが頭にあった
世の中に、愛と喜びの涙より神聖なものはない
純粋極まりないそのような涙は、この世のものではない
肉体の一部ではあっても
そうした涙は肉体とは違う何かを表している
お返しに何をあげたらよいのやら



●107

Love
渇きはいい
希求はいい
痛むハートはいい
なぜならば、神は涙のヴェールの向こうからやってくるのだから
とことんまで泣くがいい
あなたがいなくなって涙だけがあとに残るほどに___
もし涙のみが残り
泣く者が消滅したならば
そのとき、神はみずからおいでになる

わたしがあなたを引き留めることをせず
あえて行かせたのはそのためだ
あなたが後悔するだろうことはわかっていた
が、このような涙にはそれなりの役割がある
世の中に涙より深遠な祈りがあるだろうか?

__________OSHO

A CUP OF TEA ( OSHO 初期書簡集 )

2003年11月


限界の中に生きることは、暗黒の中に生きることだ
侮蔑的待遇の中に生きることだ
それはあなたの自尊心を傷つける
なぜなら私達の実存には、大空の全てが必要であり
そうして初めて、踊り歌うことが可能になるからだ
そうでない限り、全ては麻痺し、無力なものとなる
そこには飛び、動くための空間(スペース)が全くない
しかしながら人間は限界の中に生きている
肉体の限界、マインドの限界、感情や気分の限界の中に
全て限界に次ぐ限界だ

これらの限界は全て超えていく必要がある・・・・・
人間はどんな限界にも決して甘んじるべきではない
限界に突き当たったならそれを超えるよう試みることだ
全ての限界を超え、無限なる何かに到達するとき
あなたは存在へと至る
あなたは我が家に辿り着いたのだ

__________OSHO

夜眠る前に贈る言葉
(A must for contemplation before sleep)
month 9 −踊りながら神のもとへ− No.23

10月写真


・・タントラは「闘うな!」という。そうすればエゴが生まれることはない。
タントラを理解すると多くの問題が生まれる。というのは、私達にとって、闘いがなければ、耽溺しかないからだ。
私達にとって、闘わないことは耽溺を意味する。そして恐怖が頭をもたげる。私達は、幾世にも渡って耽溺し続け、その結果どこにも行き着かなかった。だが、タントラの耽溺は私達の耽溺と同じではない。タントラは、耽溺し、しかも気づいていなさいと言う。タントラは、怒っているときに怒ってはならないとは言わない。「全身で怒りなさい。ただし気づいていなさい!」と言う。
 タントラは怒りに反対ではない。ただ魂の眠り、魂の無意識に反対している。はっきりと気づいて怒りなさい。気づいていれば、怒りは変容される。それは慈愛になる。これが、この方法の極意だ。
 だからタントラは言う。怒りを敵としてはならない_____それは慈愛になるための種子だ。同じ怒り、同じエネルギーが慈愛になる。闘えば慈愛に変容される可能性はない。だから、闘いと抑圧に成功したら死人になるだけだ。抑圧したから、そこに怒りはない。だが、慈愛もない。慈愛に変容されるのは怒りだけだ。抑圧に成功したら___それは不可能だが____セックスはない。だが、愛もない。セックスが死んでいては、愛に成長するエネルギーはない。だから、セックスはないが愛もない。そして、全ては終わりだ。愛がなければ神聖はない、愛がなければ解放はない、愛がなければ自由はないからだ。

 タントラは、この同じエネルギーが変容されなければならないと言う。それはまた、次のように言い換えることができる。世間に敵対すれば涅槃はない____。というのは、世間そのものが涅槃に変容されるべきだからだ。世間に敵対すれば、源泉の根本的なエネルギーに敵対していることになる。そこでタントラ錬金術は言う。闘ってはならない。与えられた全てのエネルギーの友になるがいい。それらを迎え容れなさい。怒りがあること、セックスがあること、貪欲があることに感謝しなさい。それらが隠れた源泉であるから感謝するのだ。それらは変容され開かれる。セックスが変容されると、それは愛になる。毒は消え去り、醜さは消え去る。
 種子に美しさはない。だが、息を吹き返し、芽生え花開くとき、そこには美しさがある。種子を捨ててはならない。それでは、中の花まで捨てることになる。花はまだ見えない。姿を現していないから、肉眼で見ることはできない。姿は見えないが、花はそこにある。花を達成するために種子を用いなさい。受容、繊細な理解、覚醒があるとき_____耽溺は許される。

__________OSHO

タントラ(Tantra・Spirituality and Sex)
 −第一章 タントラとヨーガ−より抜粋

2003年10月


目を閉じるとすべては闇と化す
目を開けると生はありとあらゆる光彩に溢れる
神とは目を見開いて存在を体験することだ
神を否定する人はただ
自分たちが盲目であることを表明しているにすぎない
彼らは盲目であるばかりではなく、強情でもある
自分たちは盲目ではなく
神の方が存在しないのだと言い張る

もし目を閉じたままなら
太陽が空から光を降り注いでいても
あなたは暗闇に住む
あなたが真実を見ることを阻むには
目を覆うほんのちっぽけなカーテンだけで充分だ

生は偉大な教師だ
それは闇から光への究極的なジャンプができるよう
あらゆる人々の用意を整えている

__________OSHO

夜眠る前に贈る言葉
(A must for contemplation before sleep)
month 11 −死んで再び生まれる− No.27

9月写真


●144

Love
無神論は有神論への第一歩だ
それも必要不可欠の____
もし無神論の火を通過していなければ
けっして有神論の光に到達することはできないだろう
もしあなたに「ノー」と言う真の強さがなかったら
あなたの「イエス」はいつも無力だろう
だから、私はあなたが無神論者であることを嬉しく思う
これは有神論者にしてはじめて言えることだ

だから私はこう言う 「もっと深く無神論の中へ入ってゆけ」と_____
浅薄さは通用しない
ただ無神論を考えるのではなく、それを生きるがいい
それが究極的にはあなたを神へと導くだろう
無神論は「それ」ではない
無神論はただの懐疑だ
疑いはいいが、「それ」ではない
現実には、疑いは信頼の探索に他ならない
だから、進み続けなさい
旅に出るのだ
真理への道はこの疑いで始まるのだから
疑いはサーダナ(修行)だ
なぜならば、疑いはやがて
抗しがたき真理を明らかにするものだからだ
疑いという種子の中には、信頼の樹が眠っている
だから、もし疑問という種子を植えて
手をかけたならば
必ず信頼を収穫せざるをえなくなる
そして、全ての宗教に要注意!
ただ諸宗教だけが<宗教>という真の道を阻むのだ


●147

Love
そこに疑いがないかぎり、どうして探求が始まりうるだろう?
そこに疑いがないかぎり
どうしてハートが真理を知ろうとふるい立とう?
おぼえておくがいい
信条と信仰は人間を縛る
疑いは人を解放する

__________OSHO

A CUP OF TEA ( OSHO 初期書簡集 )

2003年9月


知識は死んでいるものだ
だが知ることは生き生きと流れている
実のところ、将来のいつの日か
私達は全面的に新しい言葉に切り換える必要がある
すべての言語が使い古されてしまっているせいだ
言語は異なった人種により
異なった目的のために、異なった状況下で展開されてきた
現在そうした背景はすべて消滅したが
言語のみは置き去りにされている

目下のところ、静止しているものは何もないということが
宗教的にも科学的にも、判明されている
あらゆるものが常に動いている
だから「知識」という代わりに
私は「知っている」と言いたいと思う
「愛」というより「愛している」と表現したい
だが私達はあまりにも名詞に慣らされているため
川でさえも、川と呼ぶ
それはただ「川になっていくもの」だ
ほんの一秒たりとも、同じではありえない
私達は木を木と呼ぶ
木はすべて木になっていくものであり、一瞬一瞬成長している
古い葉は落ち、新芽は吹いてくる
移り変わりがなかったら
存在において永続するものはひとつもない

生を見つめ始めなさい
ただ見つめるだけではなく生き抜くことだ
すると知ることは後からついてくる
それは、決して終わることのない巡礼の旅だ
そして美しいのは、驚異は驚異のままであり続け
神秘は神秘としてあり続けることだ
私達はさらに知り続ける
知ることはまだまだ山のようにあるのだから
存在は尽きる所を知らない
だから人は常に子供のようにあり続けることができる
驚異と畏敬に満ちて
神は神秘だ
そして神は、そのハートが驚きで踊り出し
その実存が畏敬の念に震える人にのみ現れる

__________OSHO

夜眠る前に贈る言葉
(A must for contemplation before sleep)
month 7 −ハートはエデンの園− No.11

8月写真


・・日の出はひとつとして同じではない。日没はひとつとして同じではない。
世界は非連続的な連続だ。瞬間ごとに何か新しいことが起こっているゆえに非連続的であり、それでいてなお、ゆえに連続している。それは無条件に新しいのではない。それは繋がっている。だから、こういうことわざは両方とも正しい。「太陽の下、新しきことなし」そして、それと矛盾するように見うけられる「太陽の下、古きことなし」ということわざ、両方ともに真実だ。
何ひとつ新しいものはなく、そして何ひとつ古いものはない。あらゆるものが変化し続けてゆく。そしてなお、どういうわけか、どのようにか同じままでいる。どのようにか同じままでいながら、なお変化し続ける。これこそその美しさだ。その神秘だ。その秘密だ。
あなたはそれをどんな範疇にも縮小できない。あなたはそれは同じだということはできない、それは同じでないということもできない。あなたは生を自分の範疇の中に縮めることはできない。あなたの頭の中の整理棚は全く価値がない。生に関することとなったら、あなたは整理棚を、自分の範疇を全て落とさなければならない。それはあなたの範疇以上に大きい。あらゆる範疇を超越している。それはあまりにも広大で、あなたにはその始めも終わりも見つけられない程だ。

この質問者は言う。
「同じ夜明けに同じ夕暮れ、同じ追いかけっこに、目覚めについての同じ思考、同じ話に、同じ、同じ・・・」と。
そうだ。ある意味ではそれは同じだ。
そして、別の意味ではそれは同じではない。昨日も私はここにいた。しかし、今日の私は同じではない。どうしてそんなことができる?その間に多くの水がガンジス河を流れたのだ。私は昨日より24時間年を取り、24時間分の経験が、24時間の強烈な目覚めが私に追加された。私はいっそう豊かだ。私は同じではない。死は前より少し近くなっている。あなたもまた、同じではない。
そしてなお、私は同じに見え、あなたも同じに見える。
あなたはその要点を見なければならない。
これこそが私が生は神秘だと言うときに意味していることだ。あなたはそれを分類することはできない。あなたは、これは決定的にこうだということはできない。あなたがそう言う瞬間、突然あなたは生が自分を偽ったことに気づく。

あれらの樹々は昨日と同じだろうか?
多くの葉が落ちた。多くの新しい葉が出てきた。多くの花が散った。それらはいっそう高く伸びた。どうしてそれらが同じでありえる?
見てごらん、今日はかっこうは啼いていない。とても静かだ。昨日はかっこうが啼いていた。それは違う静けさだった。その静けさは歌で満ちていた。今日の静けさは違っている。歌で満ちてはいない。風さえも吹いていない。あらゆるものが止まっている。昨日は強い風が吹いていた。今日樹々は瞑想している。昨日は踊っていた。
同じではありえない。そしてなお、それは同じだ。

それはあなた次第のことだ。あなたが生をどのように見るかだ。
もしあなたが、あたかもそれが同じであるかのように見るなら、あなたは退屈する。そのときには、自分の責任を他の人に転嫁しないことだ。それはあなたの見方なのだ。もしそれは同じだと言ったら、あなたは退屈する。
もしあなたに、絶えざる変化を、周り中にある流動するような、大きな旋風のような動きを、生のダイナミズムを、瞬間ごとに古いものが消え、新しいものがやってきているのを見ることができたら、もしあなたに、間断ない誕生を見ることができたら、もしあなたに神の手が絶えず創造しているのを見ることができたら、そうしたら、あなたは魅了され、戦慄する。あなたの生は退屈しない。あなたは、「次は何なのだろう・・・?」と絶え間なく驚き問う。あなたは鈍重にならない。あなたの知力は、鋭敏で生き生きとして若さを失わない。
何を望むかは、あなた次第だ。
もしあなたが死人のようになりたかったら、愚かで鈍重で陰気で哀しげで、そして退屈になりたいのだったら、それなら、あなたは生とは同じことだと信じるがいい。もし、あなたが非常に若々しく、生き生きと、新鮮に、賢くなりたいと望むなら、それなら、生は瞬間ごとに新しいということを信じるがいい。

老ヘラクレイトスが言っている。
「あなたは同じ河の中に、二度足を踏み込むことはできない」
あなたは同じ人に二度出会うことはできない。同じ日の出を二度見ることはできない。それはあなた次第だ。もし、あなたが私を理解するなら、私は「選択するな」と言おう。
もしあなたが、あらゆるものは古いという考えを選ぶなら、あなたは古くなってゆく。もしあなたが、あらゆるものは若々しく、新しいという方を選んだら、あなたは若くなる。もし、あなたが私を理解するなら、私は「選択するな。両方とも真実だ」と言おう。
そのときには、あなたは全ての範疇を超越する。あなたは老いてもいなければ、若くもない。そのとき、あなたは永遠になる。そのとき、あなたは神のようになる。そのとき、あなたは生のようになる。

__________OSHO

バウルの愛の歌(THE BELOVED)
第6話 方向とは終わりなき過程

2003年8月


瞑想は、ただあなたを戸口まで連れ出すにすぎない
だが、それはもっとも素晴らしい旅だ__
頭からハートへ、論理から愛へ
知ることから感じることへ
詩人が科学者よりも瞑想に近く
ダンサーが政治家よりも近く
恋人達が実業家よりも近いのはそのためだ

だが、詩人が瞑想の第一歩に気づくようになるのは
唯一、瞑想を通してだ
さもなければ人は中に入らぬまま
寺院の戸口に佇んでいるだけだろう
それが詩人のおかれている状況だ
寺院の戸口に立ってはいるが、外側を見ている
神秘家もまた同じ戸口に立っているが、内側を見ている
彼らは同じ地点に立っている
違いを創りだしているのは瞑想だ
瞑想はあなたを180度方向転換させる
つまり目を向ける方向が、外側ではなく内側になる

詩人と神秘家の方向性は異なっている
同じ場所、同じ段階にはいる
詩人と神秘家は間違いなく同じ段階、同じ戸口に立っている
だが詩人は外側を見、神秘家は内側を見ている__
そしてそのことが違いを
決定的な違いをもたらす

神秘家が内側を覗き込む瞬間、即座に内側に入っていく
そうなると彼にはそれを止めることができない
何物を持ってしても不可能だろう
内側へと向かう衝動は、否応のないものだ

瞑想は、あなたを究極の段階へと至るのを可能にする
あなたの努力の全て
あなたの全存在をただ一点に合わせなさい
「瞑想」__この言葉をいつも心に留めておきなさい
あなたとエネルギーの全てを、その中に注ぎ込むことだ
そうすれば、瞑想があなたに起こり始めるだろう

__________OSHO

夜眠る前に贈る言葉
(A must for contemplation before sleep)
month 4 −瞑想は火− No.21

7月写真


瞑想とはインド式の方法(メソッド)ではない。それは単なる技法(テクニック)ではない。あなたはそれを学ぶことはできない。それは成長だ。あなたの生全体から生まれる、あなたの生全体の成長だ。瞑想は、いまあるあなたに付け足すことのできるようなものではない。それがあなたに訪れるには、根本的な変容、変換によるしかない。それは開花であり、成長だ。成長は常に全体から生まれる。それは付け足しではない。あなたが、瞑想へと向かって成長しなければならないのだ。
この人間存在の全面的開花は、正しく理解されなくてなならない。そうでないと、人は一人でゲームをすることもありうるし、精神的トリックで自分をいっぱいにすることもありうる。そしておびただしいトリックが存在する!それにだまされるだけでなく、何も得られないだけでなく、本当の意味であなたは傷つけられる。瞑想に何かトリックがあるというまさにその姿勢が___瞑想をメソッドの観点から考えること自体が__根本的に間違っている。そして人が精神的トリックと戯れるようになると、心の質そのものが悪化し始める。

思いが存在する限り、それは瞑想的ではない。瞑想が起こりうる前に、心全体が変わらなければならない。では、今あるこの心とは何なのか?それはどのように機能しているのだろうか?
心は常に言葉で表現する。あなたは言葉を知ることができる。言語を知ることができる。思考の概念的な構成を知ることができる。だがそれは考えることではない。それどころか、それは考えることからの逃避だ。あなたは花を見て、それを言葉にする。人が通りを渡っているのを見て、それを言葉にする。心はあらゆる実在的なものを言葉に変えることができる。それによって、その言葉が障壁に、監獄になる。この絶え間ない、物事の言葉への変換、実在の言葉への変換は、瞑想的な心への障害となる。

そこで瞑想的な心へと向かうのに必要な第一のことは、絶え間ない言語化に気づくこと、そしてそれを止められるということだ。物事をただ見なさい。言葉にしてはならない。その現前(プレゼンス)に気づいていなさい。だが言葉に変えてはならない。言語なしで、物事をそのままにしておきなさい。言語なしで、人々をそのままにしておきなさい。言語なしで、状況をそのままにしておきなさい。それは不可能ではないし、自然なことだ。今ある状況こそ不自然なものだ。だが私達はそれに全く慣れきっている。それは全く機械的になっているため、私達は、絶え間なく体験を言葉に変えていることに気づくことすらない。
日が昇る。あなたは、それを見ることと言葉にすることの隙間(ギャップ)に決して気づかない。あなたは太陽を見る。それを感じる。そして、すぐにそれを言葉にする。見ることと言語化の間の隙間は見失われる。日の出とは言葉ではないという事実に気づかなければならない。それは事実であり、現前だ。心は自動的に体験を言葉に変える。このようにして、言葉はあなたと体験との間にやってくる。

瞑想とは、言葉なしで生きること、非言語的に生きることを意味する。ときには、それは自然発生的に起こる。恋をしているとき、言語ではなく現前が感じられる。愛する二人がお互いに親密なときには、いつも彼らは無言になる。表現することが何もないわけではない。それどころか、表現したいことは山ほどある。だが言葉はそこにない。存在できない。それは愛が去ってしまったときにしかやってこない。
二人の恋人達が沈黙していないとしたら、それは愛が死んでしまったことを意味している。今や彼らは隙間を言葉で埋めている。愛が生きているとき言葉はない。それは愛の存在が全く圧倒的で感動を与えてくれるため、言語や言葉の障壁が消え去るからだ。そしてそれは、普通はただ愛のなかでのみ消し去られる。

瞑想は愛の頂点だ。ひとりの人間に対する愛ではなく、実在全体への愛だ。私にとって瞑想とは、あなたをとりまく実在全てとの生き生きとした関わりだ。もしどんな状況においても愛のなかにあるとしたら、あなたは瞑想のなかにある。
そしてこれは精神的トリックではない。それは心を静める方法ではない。むしろそれは、心の仕組み(メカニズム)の深い理解を求めるものだ。言語化の習慣、つまり実在を言葉に変える習慣を理解するとき、隙間が生み出される。それは自然に生まれてくる。影のように、理解についてくる。
本当の問題は、どのようにして瞑想のなかにあるかではない。何故あなたは瞑想のなかにいないのかを知ることだ。瞑想の過程そのものが、消去的(ネガティブ)なものだ。それはあなたに何かを付け足すことではない。それはすでに付け加えられているものを打ち消すことだ。

社会は言語なしには存在できない。それが言語を必要としている。だが実在には、それは必要ない。私は言語なしで存在すべきだと言っているのではない。それは使わなければならないだろう。だが言語化の機械装置(メカニズム)のスイッチを点けたり消したりできなければならない。あなたが社会存在としてあるときには、言語のメカニズムが必要になる。だが実在とともに一人あるときには、それを消すことができなければならない。消すことができないとしたら__それが休みなく続いて止めることができないとしたら___そのとき、あなたは奴隷になってしまっている。心(マインド)は、主人でなく道具でなければならない。
心(マインド)が主人であるとき、非瞑想的な状態が存在する。あなたが主人であるとき、あなたの意識(コンシャスネス)が主人であるとき、瞑想的な状態が存在する。つまり瞑想とは、心のメカニズムに対して主人となることを意味している。
心、そして心の言語的な機能は、究極的なものではない。あなたはそれを超えている。意識は言語を超えている。実在は言語を超えている。意識と実在がひとつであるとき、それは合一(コミュオン)のなかにある。このコミュオンこそが瞑想だ。

__________OSHO

秘教の心理学(THE PSYCHOLOGY OF THE ESOTERIC)
第2章 瞑想の神秘

2003年7月


快活でありなさい____
それが宗教的であることの私の定義だ
悲嘆にくれるのは罪人となること
快活であることは聖者となることだ
心から笑うことができれば、生は神聖なものになり始める
心からの笑いは類い希だ
心からの笑い以上にあなたの笑いを神聖にするものはない
笑うときは、肉体の全細胞を自分とともに笑わせること
頭のてっぺんからつま先まで、その笑いを広げなさい
あなたの実存のもっとも深い奥底まで浸透させなさい
じきにあなたは、祈りよりも笑いを通した方が
もっとたやすく存在に近づけることに気づき、驚くだろう

__________OSHO

夜眠る前に贈る言葉
(A must for contemplation before sleep)
month 10 −惨めさか至福か− No.12

6月写真


・・人間がただの物質にすぎないと見なされていなければ、ヒロシマとナガサキは起こらなかっただろう。人間が隠された神、秘められた輝きであると、破壊されるのではなく発見されるべきもの、打ち壊されるのではなく、光輝の中ー神の寺院の中ーに導かれるものと見なされていたら、これほど大量の核兵器が積み上げられることはなかっただろう。しかし、もし人間が単なる物質、ただの化学反応、物理現象、皮膚に覆われた骸骨にすぎないのだとしたら、そのときには、死と共に全てが死滅し、跡には何ひとつ残らないということになる。アドルフ・ヒトラーがあれほどたやすく六百万もの人々を殺せたのはそのためだ。人々がただの物質に過ぎないのであれば、一瞬の憂慮も必要がないというわけだ。
西洋は魂を失い、内面性を失った。無意味感、倦怠、苦悩に取り囲まれ、自分自身を発見できずにいる。科学の成功などまるで役に立っていない。なぜなら、家はあらゆるものでいっぱいなのに、その家の主人がいないからだ。
ここ東洋では、主人は生きているが家が空っぽだ。空っぽの胃袋、病気の体、自分を取り巻くのはただ死だけというのでは、祝うことは難しい。瞑想することなど不可能だ。私達は不必要に敗北者になってきたといえる。
私達の全ての聖人、全ての哲学者にー唯心論者と唯物論者の両方にー人間に対してなされた、この計りしれない犯罪の責任がある。

ゾルバ・ザ・ブッダがその答えだ。
それは物質と魂の統合だ。
それは物質と意識との間には葛藤がないという、私達はその両面において豊かになることができるという宣言だ。私達は世界が与えうる、科学と技術が生産しうるあらゆるものを持つことが可能であり、そしてなおかつ、ブッダやカビールやナナクのような人が内なる存在に見出すもの全てー歓喜の花々、神性の香り、究極の自由の翼ーを持つことができる。
ゾルバ・ザ・ブッダは新しい人間、反逆者だ。
彼の反逆は、人間の精神分裂症を破壊すること、可分性を破壊すること・・物質主義の対立物としての精神性を破壊し、精神性の対立物としての物質主義を破壊することから成り立っている。
それは肉体と魂はひとつだという、「存在」は精神性に満ちているという、山々ですら生きており、木々にすら感受性があるという宣言だ。この全存在はその両方だ・・・あるいはおそらく、物質と意識というふたつの現れ方をするただひとつのエネルギーだ。エネルギーは純化されると、自らを意識として表現する。エネルギーが粗雑で純粋でなく、濃密であれば、物質として現れる。だが、いずれにせよこの全存在は、ひとつのエネルギーフィールド以外の何物でも無い。
それは私の体験だ・・哲学ではない。それは現代物理学やその研究によっても支持されている・・「存在」はエネルギーだ。
人間がこの両方の世界を持つということは可能だ。あの世を得るためにこの世を放棄する必要はないし、この世を楽しむためにあの世を否定しなければならないわけでもない。実際、その両方を得ることができるのに、たったひとつの世界しか持たないというのは、なんという無益な貧しさだろうか。

ゾルバ・ザ・ブッダは最も豊かな可能性だ。
彼は自らの本性をその極限まで生きる。
彼はこの大地の歌を歌う。
彼は大地を裏切らないし、また天空を裏切ることもない。彼はこの大地にある全てのものーその全ての花々、その全てのの楽しみーを自らのものと宣言し、それと同時に全ての星々をも自らのものとして宣言する。彼は、この全存在を自分の我が家であると主張する。
過去の人間が貧しかったのは、彼らが「存在」を分割していたからだ。新しい人間、私のいう反逆者、ゾルバ・ザ・ブッダはこの全世界が自分の我が家であると主張する。そこに含まれるもの全てが私達のものであり、私達はそれをあらゆる可能なやり方で使わなければならないーどんな罪の意識を持つことなく、葛藤もなく、選択もせずに。えり好みをせずに、あらゆる物質を楽しむことは可能だし、あらゆる意識を祝うことも可能だ。
ゾルバのような人間でありなさい。が、そこで止まってしまってはいけない。
ブッダになるために進み続けるのだ。
ゾルバは「半分」であり、ブッダも「半分」だ。

ゾルバはめくらだー彼は見ることができない。だが、踊ること、歌うこと、祝うことならできる。ブッダは見ることができるが、ただそれだけしかできない。彼はまさに純粋なる目ー明晰さと知覚そのものだーだが彼は踊れない。歌うことができないし、祝うこともできない。
今がその時だ。世界は野火に包まれている。全ての人の生命が危機に瀕している。ゾルバとブッダの出会いは、人類全体を救うことができる。彼らの出会いだけが唯一の希望だ。
ブッダは意識、明晰さ、ほとんど不可視のものを見る目を提供することができる。ゾルバはこのブッダのヴィジョンに彼の全存在を差し出すことができーそしてそれをただの無味乾燥なヴィジョンに留めておくのでななく、それをダンスに、喜びに、歓喜に満ちた生の道にすることができる。目覚めるまでは彼もゾルバのような人間だった。目覚めていない者は誰もがゾルバだ。

ゾルバとは架空の人物(カザンザキス著「その男ゾルバ」の主人公)であり、肉体の快楽、感覚の快楽を信じた男だ。彼は来生で自分に何が起こるかー天国に入るか地獄に投げ入れらるかーなど全く気づかうことなく、生をその極限まで楽しんだ。彼は貧しい召使いだった。そして彼のボスは大金持ちだったが、実に深刻で陰気で、まさに典型的な英国人タイプだった。
ある満月の夜・・・私はゾルバがボスに言った言葉が忘れられない。彼はキャビンにいた。そしてギターを抱えて外に出てきた・・浜辺で踊ろうと思ったのだ・・彼はボスを呼んでこう言った。
「ボス、あんたにはひとつだけ間違ったところがありますぜ。あんたは考えすぎるんだ。ちょっと来てごらんなせえ!考えてる時じゃないでしょう。月は満月だし、海全体がダンスしてるっていうのに。この挑戦を逃しちゃいけませんぜ。」
彼は腕ずくでボスを引きずり出した。ボスは彼と一緒には行くまいと抵抗した。というのも、ゾルバは実に狂った男で、毎晩浜辺で踊っていたからだ!ボスは閉口していた・・もし誰かがやって来て、ゾルバと一緒にいるのを見られたらどうしよう?しかもゾルバは、ただそばに来いと誘っているだけでなく、一緒に踊ろうと言っているのだ!
満月の夜、踊っている海、潮騒、そしてギターに合わせて歌うゾルバ、突然、ボスはかつて感じたことのないようなエネルギーを足に感じ始めた。勇気づけられ、説得されて、とうとう彼はそのダンスに加わった。初めはしぶしぶと、あたりに目を配りながら・・・だが、真夜中の浜辺には誰もいなかった。ついに彼は世間の全てを忘れて踊り始めた・・踊り手ゾルバと踊る海、踊る月とひとつになって。あらゆるものが溶け合い・・・全てがひとつのダンスになった。

ゾルバは架空の人物であり、「ブッダ」は自らの眠りを落とし目覚めた、あらゆる覚者達に適用できる形容詞だ。
私は、ブッダには踊ることのできるエネルギーを与え、ゾルバには大空を超えて彼方なる存在と進化の天命を見抜く目を与える。
私のいう反逆者は、ゾルバ・ザ・ブッダ以外の何者でもない。

__________OSHO

反逆のスピリット(THE REBEL ーThe Very Salt of the Earth)

2003年6月


瞑想は、あなたに二つの事を及ぼす
ひとつはあたり一面をとりまいている美しさに気づかせ
美に対して敏感にする
二つめに、それはあなたに美しさをもたらす
ある種の優美さをもたらす
あなたの目は、美しさに満ちてくる
何しろ、存在するものの全てが美しいのだから
私達に必要なのは、ただそれを堪能し
美しさが私達の中に入るにまかせるだけだ

通常、人は周りをとり囲む美しさに気づいていない
むしろ、醜悪なものの全てにより気づいている
それはマインドが
常に否定的なものを捜し続けているせいだ
マインドはとげを数え上げ、バラを見逃す
苦痛を数え上げ至福を逃す
それがマインドのやり口だ

瞑想へと移行する瞬間
もう少しばかり沈黙し
もう少しばかり穏やかで、静かで、くつろぎ
あなたの実存の中に安らぐようになれば
その瞬間に突如として
木々の美しさに、雲の美しさに、人々の美しさに
そこに存在するもの全ての美しさに気づくようになる
全ては美しい、全てが神性に満ちている
岩ですら、神性に満ち溢れている

神聖さに欠けるものなど、ひとつもない
そしてひとたび、そうした美の次元を経験し始めると
あなたの経験した美しさ
・・音楽、詩、踊り、祝祭、愛によって育まれていき
その最終的な結果として、あなたは美しくなる
自然の成り行きとして
優美さがあなたの実存の中に湧き起こり
四方八方へと広がっていく
それは誰の目にも明らかなことだ
見ないことを決意しない限りは
だが、それはまた別の問題だ
見たいと思えば、それはそこにある
だが、もしあなたが目を閉じて心をかたくなにしていたら
言うまでもなく、見ることは叶わない

__________OSHO

夜眠る前に贈る言葉
(A must for contemplation before sleep)
month 4 −瞑想は火− No.24

5月写真


愛とは希な開花だ。
愛はほんの時折にしか起こらない。
何億もの人々が、自分達は恋人達だという偽りの姿勢の中で生きている。
彼らは自分達は愛し合っていると信じている・・・
だが、それは彼らの思い込みにすぎない。

愛とは希な開花・・
時折、それは起こる。
それが希なのは、恐怖が無くなったときにしか起こらないからだ。
それ以前には決して起こらない。
愛は極めて深い内面的な宗教的な人にしか起こり得ない。

セックスは誰にも可能なこと。
交友関係を持つことは誰にも可能なこと。
だが、愛は違う。

あなたが怖れていないとき、そのときには何ひとつ隠すものは無い。
そのときあなたは自らを開くことができる。
そのときあなたはあらゆる境界線を取り除き
あなたの内部に、あなたの核にまで浸透するよう他者を招くことができる。
いいかね
もしあなたが、自分の内部深くに浸透することを誰かに許したら
相手もまたあなたが彼の中に、彼女の中に入ってゆくことを許すだろう。
なぜなら、あなたが他者を自分の中に入ることを許すときには
信頼が生まれるからだ。
あなたが怖れていないときには、相手からもまた恐怖は消えてゆく。

怖れることはない。
怖れを落として、オープンでいてごらん。
他者の中心があなたの中心に出会うのを許すがいい。
あなたはそれによって再び生まれ変わる。
存在の新しい質が創り出されるのだ。

存在のこの質は言う。
「神」は在るーと。
「神」は論議では無く、或る充足
充足を感じ取る感覚(フィーリング)のことだ。

あなた方も観察したことがあるだろう。
不満を感じているときには決まって神を否定したくなる。
満足していないときには
あなたの存在全体が、神などいない、と言いたがる。
無神論というのは論理から出てくるものではない。
それは不満から出てくるものだ。
あなたはそれに理屈をつけるかもしれない。
それはまた別問題だ。
あなたは、自分が不満だから無神論者なのだとは言わないだろう。
あなたは、神など存在しない、私にはその証拠があるんだ、というかもしれない。
しかし、それは本当のことではない。
もしあなたが満足していたら、突如としてあなたの存在が言い始める。
「神」はある!と・・・
不意にそう感じるのだ。
実在全体が神性になる・・
もし愛がそこにあったら、あなたは生まれて初めて実在は神性であり
あらゆるものはその恵みであるという実感をもつことだろう。
しかし、これが起こるためには多くのことが為される必要がある。
これが起こりうるためには、多くが壊されなければならない。
あなたは、自分の内部で障害を生み出すようなもの全てを
壊していかなければならない。

愛をサダナ(修行)にしなさい。
とるに足らないつまらぬものに終わらせてはならない。
頭の中の考え事で終わらせてはならない。
肉体的な満足感で終わらせてはならない。
愛を内なる探求にしなさい。
そして、相手を助けとし友人としなさい。

もう少し説明しようかね。
もしあなたが人を愛したら、少しずつ、その人の外面の部分が消えてゆく。
その人のかたちが消えてゆく・・
あなたは、形のない内側のものにもっともっと接するようになる。
形は次第にぼんやりとなり、消えてゆく。
そして、あなたがもっと深く見入ったら
そのときにはこの形のない個さえも消え始め、溶け始める・・
と、彼方なる世界が開かれる
そうなったら相手のその個人は単なる開口部、扉だったことを知る。
愛する人を通じて、あなたは神性を見出すのだ。

__________OSHO

マイ・ウェイ(The Way Of The White Clouds)
7日めの朝

2003年5月


歌はその人が心を開いた状態にあり
そのハートを存在へと注ぐ用意のあることを簡潔に示すものだ
歌は象徴的だ・・・その人が惨めさとは無縁であることの
ちょうど朝、さえずる鳥たちのように
あなたは絶え間なく、歌うムードの中にあるべきだ
あたかも、常に朝の日の出の時であるかのように

どの瞬間にも太陽は昇りうる
あなたはそれを歓迎し、受容する状態にあらねばならない
あなたは目覚めている必要がある・・
その客人はいつ何時でも訪れるだろう
歌う鳥たちはまさに、太陽を歓迎する支度をしている
花々が開き始め、木々はそよぎ始める
地球全体が活気づき、燃え立ち、
新しい日を迎える用意をしている

歌う心、躍る心、愛する心は
神を享受するための下地を整えるものだ
惨めな人々も祈り続けることはできるだろう
だが、惨めさからの祈りはまさにその出だしから誤りとなる
その祈りは重いものにしかならず、地面に倒れ込むことだろう
その祈りにはどんな翼もない
究極なるものを目指すことも
神に辿り着くこともない

あなたがこの上なく幸せで、愛に溢れていれば
笑いや喜びに満ち
生に対し深刻にならず
幼い子供のように遊び心に満ちていれば・・・
無邪気であらゆるものを不思議がり
あらゆるものを畏敬の念を持って見つめ
ハートがハレルヤを歌っているとき・・・
神はどの瞬間にも訪れる
どうすれば、受容的で、オープンで愛に溢れ
歌に満ち、快活でいられるかを学ぶことだ・・・
神はきっと訪れる

イエスは語った、「叩けよ、さらば開かれん」と
私はこう語る、「思い悩んではならない!」
ただ歌いなさい
すると神はあなたの扉を叩くことだろう
神はこう言うだろう
「入ってもいいかね?」

あなた自身を至福で満たすことだ
神でさえもあなたの中に入りたがるほどに
神の扉を叩くよりも
いっそ神を誘惑することだね!

__________OSHO

夜眠る前に贈る言葉
(A must for contemplation before sleep)
month 9 −踊りながら神のもとへ− No.29

4月写真


バウルのような人々は決して創始「されるものではない。バウルの宗教のような宗教は、ハプニングに近い。誰がバラを創始した?毎朝小鳥が歌い続けている歌は、誰が創始した?いや、私達は決してそんな質問はしない。それはいつもそこにあった。

哲学は創始された。あなたはその創始者を見いだせる。主義、教条、信条などは創始される。
バウルは教条ではない。それは自在な生き方だ。人々は、いつもこの生き方で生きてきた。生きてきた人々は、いつもこの生き方で生きてきた。生き生きとしていた人々の生き方は他には無かった。
彼らがバウルとして知られていたかどうかは重要では無い。その名称はどこか他に起源があるかもしれないが、私はそれに関知しない。その言葉は単純に「狂人」を意味している。実存との狂った愛、生との狂った愛だ・・しかし、この狂気はいつもあった。それに、ある人々がいつもこのように狂うことで、私達が実存の根との結びつきを失わなかったというのはいいことだ。彼らがいたおかげで、私達は失わなかった。
彼らは歌い、踊り、そして生き、愛することができた。・・本物の人々だ、核心に真正な人々だ。

だから、私はけれらがいつ始まったのか知らない。彼らは、まさに始めから出発したに違いない。もし、そこに始めがあったとすればだが。彼らは、最初の人間と一緒に出発したに違いない。というのも、彼らの教え全体は、本質的人間についてだからだ。
実際には、彼らは段々消えていった。始めのうち彼らはもっと多くいたに違いないが、やがて減少していった。彼らの数は毎日少しずつ減っている。というのは、世界が世俗的になりすぎたからだ。
世界は狡猾に、賢くなりすぎた。それはハートの純朴さが存在するのを許さない。世界は競争的になりすぎた、野心的になりすぎた。それはあの美しさの全てを忘却した。それはあのつくりだすことのできぬ全てを忘れてしまった。どのように明け渡し(サレンダー)するかを、どのように時間の中で永遠が起こるのを許すかを忘れてしまった。エクスタシーの言語を忘れてしまった。

さかのぼればさかのぼるほど、あなたはもっともっと多くのバウルを見つけ出す。
始めのうちは人類全体がバウルのようだったに違いない。今でもあなたはそれを観察できる。全ての子供がバウルとして生まれる。それから後になって、彼は腐敗させられる。
あらゆる子供は、狂ったように生に恋して再び生まれてくる。しかし私達は彼らを強化する、彼らを刈り込む。私達は存在の自在性を彼らに許さない。私達は彼らを調整し、一定の性格を与える。
バウルには性格がない。彼らは意識の人間達だ。しかし性格人間ではない。
性格は固定的だ。性格とは固定観念であり、性格とは鎧だ。あなたはただ、自分の性格が許すものだけしかしてはならない。性格は決して自在にはなり得ない。性格はいつも、過去によって現在の上に強制されている。
あなたは在ることに自由ではない。対応することに自由ではない。あなたにできるのはただ反応のみだ。

バウルは「サハジャ・マヌシュ」ー自在な人間を信じている。バウルは、自在な人間こそ本質的な人間への道だと言う。
自在であるというのは、本質的であることに向かう道の上にあることだ。
あらゆる子供がバウルなのだ。
だから、私が見る限り、始めのうち・・もし、何か始めがあったとすれば・・人類全体がバウルのようだったに違いない。真実で、真正で、誠実で、狂っており、深い愛の中にあって、祝っていた。
祝いとは神が与えた機会だ。祝いとは神の贈り物なのだ。

私達は、生にいかなる要求も持てない。
あなたは今まで、それに、つまり自分達には何の要求も無いということに注目したことがあるだろうか。
もし、自分が生まれてこなかったら、在りようがないのだから、訴える方法もなかった。苦情を申し立てる方法はなかった。
もし、あなたがいなかったら、あなたはいないのだ。次の瞬間にもあなたは消滅し得る。生は壊れやすい。それに、どんな要求も無しである。私達は生をもぎ取ったのでは無い!それこそ、私がそれは贈り物なのだと言うときに意味していることだ。
贈り物とは、自分がもぎ取ったものではなく、それに対して何の要求もないものだ。あなたは、自分はそれをもらう権利があると言うことはできない。贈り物とは与えられるものなのだ。

生は贈り物だ。
それは全く理由もなくあなたに与えられた。あなたが自分でそれを稼ぎとることはありえない。というのも、もしあなたがいなかったら、どうやってそれを稼ぎ取ることができる?
生は贈り物だ。しかし、私達はそれを忘れ続ける・・私達は感謝すらしていない。どんな謝恩の気持ちもない。私達は人生で足りないと思っている千とひとつのものの苦情は確かに申し立てている。だが、生それ自体に対しては絶対に感謝をおぼえない。

バウルは途方もない感謝の中に生きる。
彼は歌い、そして踊る・・これが彼の祈りだ。彼は泣き、単純に不思議がる。なぜだ?何のために自分に生が与えられたのだ?なんのために、自分は大空の虹を見ることが許されたのだ?なんのために自分は花を、蝶を、人々を、河を、岩を見ることが許されているのだ?なんのためだ?
生はあまりに明白にあるため、あなたはその中に隠されている途方もない贈り物を忘れる傾向がある。

始めのうちは、誰もがバウルだったに違いない。
というのも、そこには腐敗させる文明がなかったからだ・・破壊する社会がなかったからだ。
始めのうち、生は溢れ、流れていたに違いない。誰もが自分自身の存在によって生きていたに違いない。何かの戒律のためではなく、経典のためでもなく。そこには経典も戒律もなかった。モーゼはまだ出現していなかった。
始めのうちは、誰もがバウルだったに違いない。そして、全ての子供達は生まれるときバウルだ。バウルという存在の、この現象が何かを理解するには、子供を観察することだ。なんの理由もなく歓喜している、ただ喜んで叫んでいる、ただエネルギーに溢れてここかしこを駆け回っている子供達ー。
あなたが一人のバウルになるとき、あなたはもう一度子供になる。

バウルになるということは、原始的になることだ。
バウルになるということは、個人の原始性を、原初生を回復するということだ。人は再生する。それは再誕生だ。再び子供が起こる。肉体は老いているかもしれない・・マインドは老いているかもしれない。しかし、その意識は肉体とマインドの束縛から解放される。
あなたには過去があり、多くの経験がある。しかし、それらはもうこれ以上あなたの重荷にならない。あなたはそれらを脇に置き、必要な時に使う。そうでなかったら、あなたは24時間連続してそれらを頭上に持ち歩きなどすまい。
これが解放というものだ。それはあなたを実存から、あるいは生から、あるいは花や愛から解放するのではない。それは単純にあなたの過去からあなたを解放する。
解放されればされるほど、あなたはいっそう神との恋に落ちる。解放されればされるほど、あなたはいっそう祝い、愛することができるようになる。

だから、誰がバウルを創始したのかなどと私に尋ねないことだ。いまだかつて、このようなことを創始した人はいない。その主張全体は自在性にある。
アインシュタインの相対性理論のような法則を得るには、もちろんアインシュタインが必要だ。彼無しには、それはつくりだせない。彼無しではそれは存在しない。複雑な相対性理論を発見するには、極めて複雑なマインドが必要だ。
バウルはどんな理論も与えない。彼らは簡単に言う。「あなたはすでに、あるべきその全てだ。」
それは、非常に賢くあるという問題ではなく、単に素朴であるということだ。バウルになるには何の才能も必要としない。子供になるのにどんな天才が必要だ?こどもは全て子供として生まれてくる。何の才能も要しない。幼年期というのは、あらゆる人の本性なのだ。

バウルであるために必要なものは何もない。
実際のところ、あなたが何も必要としなくなるその瞬間、あなたはバウルになる。あなたが重荷を下ろし、どんなものも、どんな過去も所有しなくなるその瞬間、あなたはバウルだ。
いいや、このようなことは決して創始されたことはない。誰も彼らを創造した人はいない。
彼らは起こった。彼らは自然の一部だ。

__________OSHO

バウルの愛の歌(THE BELOVED)上巻
第10話 真理はわたしでもあなたでもない

2003年4月


真理は無垢な意識だけに開かれている
・・・子供のように無垢な意識、何も知らぬ意識だけに
何かを知ると、あなたの鏡はほこりでいっぱいになってくる
・・・ちょうど鏡にほこりがたまるように
知識はごみをかき集める
何も知らなければあなたは驚異と畏敬に満ち溢れていて
その鏡にも汚れがない
真理を映し出すのはそのような汚れのない鏡だ

__________OSHO

夜眠る前に贈る言葉
(A must for contemplation before sleep)
month 3 −闇から光へのジャンプ− No.17

3月写真


女性は子宮を持つ。この「女性 women」という言葉そのものが、「子宮 womb」をそなえた「人 man」ということから出てきている。子宮は極めて重要だ。子宮以上に重要なものは無い。生命全体がそれを通過してこなければならないのだ。生命の動的現象はすべて子宮を通過する。それはまさにこの世界への門だ。そしてこの子宮のために女性は受容的であらねばならない。女性は攻撃的ではあり得ない。子宮は攻撃的ではあり得ない。それは受け入れ、ひとつの開口部として未知なるものを招き入れる。子宮は主人役(ホスト)であり、人間はその客となる。

子宮が女性の肉体のなかで中心的な現象であることから、女性の心理全体が違ってくる。彼女達は非攻撃的で非詮索的、問うこと疑うことをしない。これらは全て攻撃性の一部だ。男性は疑い、詮索し、探し続ける。女性は待つ。男性はその彼女の探索に出かける。彼女はイニシャティブ(主導権)を取らない。彼女はただ待つだけ。そして女性は無限に待つことができる。

この「待つ」ということを憶えていなさい。これが違いのひとつになる。

女性が宗教の世界に入るときには、男性とは全く異なった道程を辿らなければならない。男性は攻撃的だ。疑い、探索し、探求のために道を外れたり、あらゆるものを征服しようとする。そうしなければならないのだ。というのも、彼は攻撃的な精液の回りに存在しているからだ。その肉体全体が探し求め、侵入しようとする性的なものの回りに存在する。

今までに男性が作り出してきた武器ー爆弾、水爆でさえーの全ては男の性のプロジェクション(投影)、男性器の投影に他ならない。矢、銃、爆弾・・・それらは侵入してゆく。距離を飛び越えて達する。

月に行くことさえ、女性は笑ってバカなことだと考える。「なんであんな処へ行くの?」しかし男性にとっては、それは命を賭けるに値することだ。なぜならこれは一種の侵入だからだ。生命の神秘への侵入だからだ。ゴールが遠く離れていればいるほどますます魅力がある。男性はエヴェレストに登る。月まで行く。もっと遠くまで行くだろう。彼らを牽制することはできない。阻むことはできない。知ってしまったことは全て無用になる。知ったらもう興味は無い。神秘にはより深く侵入して行く。あたかも大自然が女性であるかのように。男性はどうしても侵入していって知りたい。

男性は科学を生み出した。女性は決して科学的ではあり得ない。彼女達にはその基盤となる攻撃性が無い。彼女達は夢見る人にはなれる。夢見るというのは一種の待つことだからだ。子宮の一部だからだ。しかし科学者にはなれない。論理的にはなれない。論理もまたひとつの攻撃だ。女性は懐疑的には、疑い深くはなれない。信頼することはできる。忠実であることはできる。これは彼女達には自然なことだ。というのもそれは全て女性の子宮の一部だからだ。その肉体全体が、子宮が中で生存できるようにできている。体全体が子宮を助けるための自然の装置になっている。大自然は子宮に関心がある。生命が子宮を通して実在に入ってゆくためだ。

このことは女性に全面的に違った指向をもたらす。女性にとって、宗教とは一種の愛だ。それは真理の探究にはなり得ない。真理の探究という言葉使いそのものが男性指向だ。女性にとって宗教は愛する者を、恋人を待つことにはなり得る。「神」は息子・夫ではあり得ても、真理ではあり得ない。「真理」では、あまりにむきだしで単調で干からびていて、死んでいるも同然だ。真理という言葉の中には生命が全くない感じがする。しかし男性にとっては、「真理」は最も意味のある言葉だ。彼らは言う。「真理こそ神だ。真理を知ったら全てを知ることになる。」そして男性が辿る道は征服の道、大自然は征服されなければならないものだ。

これらの違いのために、このことが常に問題となってきた。この問題は仏陀の前にも持ちあがっている。それというのも、仏陀のメソッドは全部男性指向だったからだ。が、それはそうであって当然だ。手法を考案することもまた攻撃的なことだ。科学はひとつの攻撃であり、ヨーガもまたひとつの攻撃だ。その努力は全て、いかにして神秘の中に侵入していってそれを溶解するか、いかにして知るかにある。その努力全体が、いかにして宇宙の神秘を解くかという処にある。

仏陀は男だ、イエスは男だ、ツァラトゥストラも、マハヴィーラも、クリシュナも老子も男だ。彼らのように手法を考案してきた男性に匹敵できるような女性はひとりもいない。光明を得た女性達は今までにもいる。が、彼女達には手法を考案することはできなかった。彼女達は依然として従う方に回る。彼女達にそれができないというのは、手法や方法論、進路を考案するためには攻撃的なマインドが必要なためだ。

・・女性には待つことができる。彼女達は無限に待てる。その忍耐力には限りがない。それはそうであって当然だ。子供を9ヶ月も体内に入れておかねばならないのだ。しかも毎日毎日それは重くなってゆく。ますます大変になってゆく。忍耐強く待つ以外ない。それに関してできることは何もない。重荷でさえ愛する以外ない。そしてただ子供の誕生を待ち、夢見る。

母親を、まさに母親になろうとしている女性を見てごらん。彼女はますます美しくなってゆく。待っている間に彼女は花開く。彼女は一種違ったタイプの優雅さを得、オーラがある。今や彼女はピークに達し母親になろうとしている。自然によって考案されたその肉体の機能が今や満たされようとしている。彼女はつぼみをふくらませている。まもなく花が満開となる。・・子供が生まれるたびに、子供だけが生まれるのではない。これは誕生の一部にすぎない。母親もまた生まれるのだ。・・母親になることはピークに達することだ。それはあたかも、夫あるいは愛人は、母親になるための単なる手段であるかのようだ。この違いを見るがいい。

このことは、人が神へ向かう道を歩む時に違いをもたらす。この問題はくり返しくり返し何回も何回も取り上げられてきた。何千という数の女性が仏陀に関心を寄せた。だが、仏陀は抵抗した。その理由は、その手法が基本的に男性指向のものだったからだ。しかし彼は譲歩しなければならなかった。彼は慈悲の人だった。何千人もの女性が入門を求めてくり返しくり返しやってくるのを見て、彼は譲歩した。だが、彼は悲しげに言った。「私の宗教は五千年の生命力を保つはずだった。が、今や、それは五百年の生命力しか持てないだろう。」これというのも異性が入ってきたからだ。となったら全てがカオスと化す。なぜなら、女性が入ってくる時には、多くの問題も一緒に入ってくるからだ。彼女はその「女性であること」を持ち込む。教会はずっと反女性であり続けてきた。神を探求する者達は常に女性を恐れてきた。男性にはどうしてもはっきり解らないためだ。彼女達を旅の道連れにしてもいいことにはならない。彼女達はきっと面倒を引き起こす。となったら、面倒はまさに多次元的になる。

あらゆる宗教が基本的には女性に敵対的なままできた。というのも、宗教は全て男性によって創られてきたためだ。だがこのことによって何も評価されてはならない。それは評価するべきことではない。それはただ単に男性によって創られてきたからにすぎない。男性は女性を恐れてきた。男達は自分の領土をはっきりとさせたかった。女性にそこに入ってきて欲しくなかった。だから宗教は全て基本的にはホモセクシャル(同性的)のままに留まった。ヘテロセクシャル(異性的)なものではない。・・ここで男性は、自分達がより高い地位にいるなどと考えてはならない。これが意味しているのは、女性が通常生きている内なる暗闇、そこで生きなければならない暗闇、それは女性がより肉体指向的にできているからのこと、それだけのことだ。

だから女性がイエスのもとにやって来るときには彼女は神を求めてやって来たわけではない。いいや遠くのものは彼女にとって意味あることには成り得ない。彼女はイエスを愛して恋に落ちるかもしれない。女性が仏陀のもとにやって来るときには、彼女は真理を見出すためにやって来たわけではない。彼女は仏陀を愛して恋に落ちるかもしれない。彼女は仏陀に魅かれて来たのかもしれない。これはまた私のずっと感じてきたことでもある。男性が私のところにやって来るときには必ずこう言う。「あなたのおっしゃることには全て説得力があります。ですから私はあなたに恋してしまいました。」女性の場合はそのようには言わない。「私はあなたに恋してしまいました。ですからあなたのおっしゃることには全て説得力があります。」

男性は頭の中で生きる。男はより頭脳的だ。だから男の方が狂いやすい。自殺者も男の方が多い。女は少ない。女性は弱くない。男性の方が弱い。マインドは肉体ほど強くはなれない。マインドが実在するようになったのはずっと後のことだ。肉体には長い経験がある。しかしこの肉体に根を下ろしているという質は女性が神に向かう道に入る時には問題になる。生、自然の中にあっては女性は勝者だ。だが、内面世界の生は自然に反し、自然を超えてゆく・・・。そして宗教は全て遠くにあるもののために存在してきた・・・・・。

女性は生ける肉体であるために、女性にとっては道はより長い。
肉体・精神・精霊・・・これらは三つの層だ。女性は生ける肉体であり、男性は生ける精神(マインド)だ。この二つを超えた処に生ける精霊・アートマンがある。マインドからアートマンへと向かって動く距離は短い。肉体からは長い距離を旅しなければならない。

しかしだからといって女性が落胆することはない。自然の中にあっては全てにバランスがある。距離が遠いから困難ではあっても、別の見方からすれば逆に簡単だ。なぜなら女性とは単純な現象だからだ。男性は複雑だ。そしてその複雑さが問題を生み出す。マインドから精霊は近い。が、マインドから飛躍(ジャンプ)することは簡単なことではない。マインドは疑問を出し続ける。女性は簡単にジャンプできる。女性は肉体に根を下ろしている。女性は信頼そのものだ。女性は疑問を持たない。一度女性が恋に落ちたら、彼女はその相手と地獄にまでも行く。どうなろうと構わない。

ひとたび信頼があったら、女性はついてゆく。
ひとたび女性が愛したら、ひとたび信頼したら、彼女はジャンプすることができる。このゆえに女性の世界から導師(マスター)はあまり出てきていないが、偉大な弟子達は出てきている。そして偉大な弟子たることに関してはどんな男性も比較にならない。一度信頼したら、彼女達は真に信頼する。

インドを回ってみるがいい。あなたはジャイナ教の僧達を見るだろう。そしてジャイナ教の尼僧達をよく見てごらん。男の僧達はごく普通に見えるだけだ。着ているものこそ異なれ、彼らはごく普通のビジネスマンだ。もし彼らの服装を変えて市場の真ん中に連れていったとしても、あなたには区別がつかないだろう。だが、尼僧達は違う。彼女達には純粋さがある。ひとたび信頼したら彼女達は純粋さを得る。カトリックの尼僧達を見てごらん!彼女達はカトリックの司祭や僧侶達とは違う。僧達は狡猾だ。あなたは彼らが本当に性的に純潔なのかどうか信じることはできない。もし彼らが全くのバカだとしたら、それならそれで結構だ。が、もし彼らにちょっとでも聡明さがあるとしたら、何とか方法を見つけ出しているに違いない。しかし、尼僧達は?彼女達は純潔だ。彼女達は信用できる。一度女性達が歩み始めたら、彼女達はやり通す。

__________OSHO

愛の錬金術(THE MUSTARD SEED) 下巻
第7話 女と男

2003年3月


瞑想とはあなたをまさに
自分の中心(センター)へと連れていくアートだ
人々はその周辺で生きているー
どうやって周辺からその中心へとジャンプするか?
それがアートの全てだ
私はそれを科学というより、むしろアートと呼ぶ
なぜなら科学はより数学的だが
アートはより芸術的、より詩的なものだからだ

科学には例外などなく、それは宇宙の法則に則している
アートには例外がある
実際、自己の中心への至り方は
他の誰ともわずかながら違っている
それはどの個人にも
他人には見られないところがあるからだ
それは宇宙の神性、大いなる恩恵だー
それはたぐいまれな個性だけを創り出す

瞑想とは、周辺部と中心(センター)をつなぐ橋だ
外側と内側、マインドとノー・マインド
物質と意識との間に架かる橋だ

__________OSHO

夜眠る前に贈る言葉
(A must for contemplation before sleep)
month 3 −闇から光へのジャンプ− No.27

2月写真


・・男性的なマインドはずる賢い。男性的なマインドはうまくことを進めている。今やたくさんの女性がこの観念に毒されている。知っているかな?男女平等を最初に唱え始めたのは、女では無く男だった。種は男性のマインドから来ている。いつでもそうだったー。男は、自分に都合のよい事を感じると必ずそれをものにする。男のずる賢さは実に巧妙だ。時として男は、女性が自分でそれをやっているのだと思い込むようなやり方でそれをものにする。

昔もそうだった。かつて男は、女性は純粋な存在、天使だと女性達に言い含めた。男は汚れている、男はやはり男だー。が、女性は?女性は神聖だ。男は女性を祭りあげた。それは女性を支配するための男性の策略(トリック)だった。男は崇拝した。そしてその崇拝を通して支配した。当然のことながら、祭り上げられた女性は、自分はなかなか神聖なのだと考えたー。彼女は男がやっている事をやれなかった。彼女にはできなかった。それは彼女のエゴに反していたからだ。その高座はエゴそのものー満足を与えるものだった。彼女は母親だった。彼女は神聖だった。彼女は男性よりも聖なる資質を備えていた。男は醜く不道徳で、それだけのものでしか無い。それゆえに、男は許されてしかるべきだ。

こうして男は、いつの時代にも自分の流儀を続けるようになった。そして女性は気高かった。だが、これは策略(トリック)だっった。エゴがそそのかされた。そして、ひとたびエゴがそそのかされると、あなたは捕まる。そうなったら自分の姿勢を崩せない。平等を求めることは一種の堕落になるー平等になるためには降りてこなければならない。それは策略だった。女性は純潔なままだった・・。

私がはっきりさせようとしていることは、女性達はいつの時代にも自分の力でそれをやっているつもりでいたということだ。だが、そうでは無かった。ことの全体に深く見入れば、驚くだろう。男性のマインドは狡猾なマインドだ。女性はもっと純真だ。あまり策をめぐらせたり、あまり政治的になったりはできない。女性はいつも男性を信じてきた。あなたは驚くだろう。解放運動の女性達は、またもや男を信じている!何ひとつ変わっていない。

男は再び美しい哲学を創りだしている。男は前にもそれをやったことがあるー。女性はその時も騙された。そして彼女達はまたもや騙されようとしている。女は信頼する。信頼は彼女達にとっては易しい。論理よりも愛の方が彼女達には易しい。

さて、デボラは質問の中で少なくとも5回「私は女ですが」と繰り返している。 どこか不安でもあるのかね?どこか疑いでもあるのかね?あるに違いない。あなたに言っておかねばならない事がひとつある。女性の肉体の中にいるからといって、人は女である必要は無い。男性の肉体の中にあるからといって人は男である必要は無い。男と女はむしろマインドの状態だ。心理的には女であって、男では無い男性がいる。そして心理的には男であって、女では無い女性がいる。これらの人々は多くの問題を引き起こす。なぜなら、彼らは異性を愛することができないからだ。異性愛は彼らには魅力が無い。彼らはホモセクシャルかレズビアンにならねばならない。彼らの心理と肉体は別々だ。彼らの心理と生理の間にはギャップがある。橋が架かっていない。

そして彼らにはどこまでも問題が残る。実際、よりよい世界、未来の世界ではー私が思うには、まもなく今世紀末までにーものごとはもっと易しくなるだろう。なぜなら、もし男性が奥深くで心理的に自分は女だと感じているとしたら、手術を受けて生理的にも女になった方がいいからだ。あるいは女性が奥深くで自分は男だと感じているとしたら、手術を、整形手術を受けて男になった方がいい。そうすれば橋を架けることができる。

そして第3のカテゴリーもある。混乱した人々、彼らは自分が誰なのか知らない。朝は女性だが、夕方には男になっている。その差があまりに大きいので彼らはひるむ。彼らは両性愛者になる。ある瞬間には女性を愛し、またある瞬間には男性と恋に落ちる。彼らの心理と生理は入り乱れている。彼らはとても混乱した生を送る。今では科学が、物事をすっきりさせるために、こうした人々に手を貸すこともできる。

「男と女の資質に関する一般化などありうるはずがありません。もし私達がそれぞれ半分男で半分女であるとしたら、肉体が現世で男に生まれようと女に生まれようと、それとは全く関わりなく、各自が程度の差こそあれ、男と女の性格を持っているに違いありません。」

一般化された概念に完全に対応する人間は、ただのひとりも見つけることはできない。人間はあらゆる大きさや形や色で現れる。彼らは皆ユニークだ。が、一般化にはなおそれなりの意味がある・・・・・。

たとえば、たったひとりの女性しかこの質問をしなかったー。ここには無数の女性がいる。

いかなるものに関しても一般化は不可能だ。それに合致する個人などいないからだ。だが、それでも一般化には意味がある。それは指摘するだけだ。女性は身近なものにより多くの関心を示すという時、私は何も特定の女性について言っているのではないーデボラのことでも、他の誰のことでも無い。私は単に、<女性的資質>について言っているだけだー。女性的資質は身近なものに関心を示す、と。身近なもの、差し迫ったものへの関心、それが正に女性であることの本質だ。

だが、一般化はあくまで一般化だ。それを覚えておきなさい。個々の人間には様々な違いがある。が、一般化の意味は、単にある資質を指摘することにある。それは特定の個人については何も言わない。単に女性であることの特質は即時性であると言っているだけだ。・・私はデボラの詩が見たい。詩そのものにその即時性があるかもしれないからだ。その詩は差し迫ったもの、今ここを問題にしているかもしれない。それは究極的なものは問題にしていないかもしれない。質問もそれを表している。彼女の全関心は自分が女であることにある。彼女は言う。「これは私にとって最も深く、最も正直な質問です。」

ブッダフッド、神、それらとは遠くかけ離れた質問だ。彼女の全関心は自らの肉体、自分が女であることにある。女性が鏡の前に何時間も立っているのは偶然では無い。彼女達の関心は身近にある。魂よりも肉体に関心を持っている。彼女達は精神主義者であるより物質主義者だ。空想的であるより現実的だ。

「私は女ですが、いつも詩を書いていましたし、決して買い物リストを作るのがうまいわけでもありませんでした。私は女ですが、男性が芸術に抱く恋情を疑ったことも嫉妬したこともありません。実際、私は家や家族に結びつくことを選ぶより、書くことを選ぶことの方が多いのです。私は女ですが、内側から創造性や発想が強烈に湧いてくるのを感じます。・・私は、男と女の資質に関する一般化は、私達がすでに持っている幻想世界に対する強い先入観や、肉体の世界への信条を強めると思います。」

さて、これは複雑な事柄だ。女性は男性と平等(イコール)でなければならないといった雰囲気。
だが、男と女は決して平等では無い。男と女は非常に異なっているー。どうして平等(イコール)であり得よう?対極だ。あまりにも違うので、平等とか不平等とかいう観点で比較することはできない。女は女、男は男だ。そして私達は絶対に男と女のままでいるべきだ。

・・ニーチェが、仏陀やキリストにはどこか女性的なところがあったというとき、彼は正しい。私も同感だ。そうあるべきだー。仏陀は希望そのものだからだ。男はもう少し女性的に、もっと柔らかく、もっと水のようにならなければならない。だが、起こっていることは実に不幸なことだ。女が男のようになろうとしている。

だが、これは損失だ。これは全くの損失だー。人類の唯一の希望は、男性の固さでは無く、女性の柔らかさだからだ。私達は男性の固さに充分苦しんできた。必要なのは、女性がもっと男性のようになることでは無く、男性がもっと女性のようになるべきだということだ。

私自身の理解はこうだ。男はもう少し女性的にならねばならない。男は男になることにかけて、あまりにゆきすぎた。男は全ての人間性を見失った。男に従ってはならない。男と競い合ってはならない。さもなければ、あなたは同じ型、同じ繰り返しをし続ける。あなたは好戦的になる。そして、金切り声をあげ、大声で叫びながら路上で抗議している解放運動の女性達は醜いだけだ。彼女たちは、男性的マインドの最悪の特徴を示している。

「私があなたに腹を立てているのがお分かりでしょう?それはあなたが私に触れ始めたからだと思います。」

さあ、私はあなたをいやが上にも怒らせたに違いない。
私と恋に落ちてごらん!

__________OSHO

一休道歌(TAKE IT EASY)下巻
第2話 再誕生のプロセス

2003年2月


どの子供もオープンになる術(すべ)を知っている
すべての子供がとても美しく
とても至福に満ちているのはそのためだ
子供たちの目を覗き込んでごらんー
何という静けさだろう
子供たちの喜ぶさまを見てごらんー溢れんばかりだ
どの子供も至福に満ちていることの秘訣を知っている
だが、まもなく忘れてしまう
自分で忘れてしまうか、大人たちが忘れさせる

それは再び学ぶことができる
再びそのアートを学び、オープンであることの
アートを思い出しなさい
取り逃がしているものはない
不完全なものはないー
これが存在しうるもっとも完璧な世界だ・・・

様々な姿をとって顕れる存在の恋人になりなさい
すると石の中にも教えを見出すだろう
実のところ宗教の聖典を見る必要など
全くないことに気づき、驚くだろう
宇宙全体が本物の聖典だ
いたるところに存在のサインが刻まれている
いわゆる宗教は、すべて人間の作りものにすぎない

__________OSHO

夜眠る前に贈る言葉
(A must for contemplation before sleep)
month 10 −惨めさか至福か− No.11

1月写真


女性はけっして怖れることがない

女性は怖れるときレディになる
私はレディが大嫌いだ
鼻持ちならない
特にイギリスのレディ達、レディの中のレディ達!

美性の瞬間にあって、誰がそんなことを気にするだろう?
ヤシュー・バルティ、けっしてレディになってはならないよ

・・ヤシュー・バルティがくすくす笑いをしている
彼女はレディのままだ
なんとも残念だが・・・
私の横で、私の隣にいて、彼女は淑女のままでいる
笑いなさい、くすくすじゃなく!
星が落ちるほど大笑いしなさい
すくなくとも、この家が倒れるほどに

ヤシュー・バルティよ、怖がることはない
恐怖を除けば、何ひとつ女性の敵だったことはない
女性が従属させられてきたのは、その恐怖のせいだ
何世紀もの間、女性達には用意ができていた・・
従属させられるのを、奴隷になるのを喜んで受け入れてきた

怖がらなくていい
すくなくとも、私と一緒の時には怖がらずにいなさい
私が教えているのは、恐怖なしでいることだからだ

__________OSHO

狂人ノート(Notes of a madman)

2003年1月


最新2004年|2003年|2002年