た ま に は 、 真 面 目 な こ と を 話 そ う か
−キリスト教信仰を持った私の場合−

今年度は全然練習に行かなかった不真面目な4年生   小 町  継 太

 私こと小町継太がクリスチャンである、ということを知る人も、混声合唱団の中には幾人かいらっしゃることと思う。ただ、普段あまりに好き勝手で不信仰な生き方をしているものだから、その事実を知らない人の中には、「えっ、そうだったのか」と、驚愕の反応を示される人も居るかもしれない。しかしそうだとしたらあまりにも悲しい。せめて最後には、混声合唱団の中で、自分がクリスチャンであることの証しをしたい、と思ってこのような文章を書くことにした。読んでくださった方が何事かでも考えてくだされば幸いである。   以下の聖書からの引用は、日本聖書刊行会発行「聖書(新改訳)」による。
 私の生まれたのは1973年(1)(昭和48)秋の某日、父母ともクリスチャンだった。両親がクリスチャンであり、子供をクリスチャンとして育てていく家をクリスチャンホームというが、私はそのクリスチャンホームに生まれた、クリスチャン2世ということになる。この事実が私の後の精神形成に大きな刻印をつけたことは間違いない。自分の性格からして、親がクリスチャンででも無かった場合、教会には一生涯近付くことは無かったかも知れぬ。クリスチャンホーム生れでないクリスチャンを、時には、羨ましいなと思うこともあるが(2)、やはりこの事実は、自分にとって本当に良いことであったと思っている。信仰者的に言えば、神様がこのような形をとって自分に救いのチャンスを与えてくれた、ということになろうか。
 だから、退院して次の日曜日から教会には通って(連れられて)いるし、受洗したのも次の年の2月のことである。洗礼(バプテスマ)は、信仰者・教会の一員となることを神と人の前に宣言して行われる儀式であり、信仰者としての人生において非常に重要な意味を持つものだが、当然ながら私にその時の記憶なんぞある筈も無い(3)。私が本当の意味でクリスチャンとして歩み始めるのは、もっとずっと後のことである。
  (1)クリスチャンは基本的に西暦を使用する。クリスチャンの国際性や、西暦の起源もさることながら、元号には天皇による時間支配の思想が集約されているとしてあまり好まれない。クリスチャンと天皇との関係は、彼が国家神道の大祭司であることや、戦時中の天皇崇拝強制の記憶などから、ややデリケートな関係である。
(2)キリスト教信仰を当然の環境として育つクリスチャンホームの子供の場合、キリストとの実存的な問い掛けの経験に乏しく、霊的リアリズムに欠けた、「純粋培養」とも形容される、やや脆弱な信仰が形成されやすい。勿論必ずしもそうなるというわけではないので、私の件に関しては言い訳でしかないのであるが
(3)クリスチャンホームに生まれた子供に、乳幼児のうちに洗礼を授けることを「幼児洗礼」という。カトリックの伝統を受け継いだものだが、プロテスタントの一部教会ではそれを認めない。また、幼児洗礼を行う教会でも、それだけでは信仰者としては不十分であるとして、聖餐式などの儀式や教会総会など教会運営への参加は、「信仰告白式」などを経た上で認められる。
 私の通っていた教会は、日本長老教会(4)に属する調布南教会である。住宅地の中の20人程度の小規模の教会で、私の家から自転車で10分くらい離れたところにあった。教会では毎週、「礼拝」が行われる。その内容は主に、歌を歌う「賛美」(5)と、お話を聞く「説教」(6)、お金を捧げる「献金」(7)で、そこに適宜聖書朗読・交読(8)や祈りが加わる。また月に一度のペースで「聖餐式」(9)が行われる。およそ10時30分ごろから12時近くまで行われ、教会によってはその後に昼食を共にする交わりの時が設けられている。
 それとは別のプログラムで、「教会学校」も持たれる。子供に聖書の教えを伝えることを目的として設けられており、メンバーはクリスチャンホームの子供や近隣の子供たち、多くは9時頃から、礼拝の始まる前に行われる。形態は教会によって千差万別であるが、一般に「礼拝」と「分級」が持たれる。「礼拝」は教会の礼拝を子供向けによりコンパクトにしたもの、「分級」は礼拝で受けた教えをより深めるため、年齢ごと(「幼稚科」「小学生科(下・上)」「中学生科」「高校生科」など(10))に分かれて学びが行われる。教師は教会員の中から適当に選ばれる。
 私も教会学校から通い始めた。ただ、親も教会に来て、礼拝に出ていたので、物心ついた時から礼拝には出席していた。ただ、礼拝のプログラムは子供向きに作られたものではないので、退屈であったし、やがて説教中に本を読むことを覚えて、落語に興味を持っていた時分は『落語全集』などを読んで思わず吹き出してしまい、周囲のひんしゅくを買ったこともある。
 礼拝ではこの調子であった分、教会学校では信仰が深められていったかというとそうでもなくただ毎週、親も行くので通っている、といったような調子だった。プログラムに特に魅力を覚えていたわけでもない。というか、先述の通り、教会学校のスタッフは教育的に「素人」であるので、子供たちの心を掴むプログラムを作っていくのがなかなか大変で、どこの教会でも課題となっているものである。さらに私のようにクリスチャンホームの子供の場合、信仰というものがあたりまえの「空気」のような存在になってしまっていて、それはそれで恵みなのだと思うが、そこから一歩進み出て、信仰の確信を持つ、というのはかなり大変な作業なのである。あの頃の自分は、先生を困らせて喜んでいるような、手のかかるガキだったような気がする。
  (4)「長老教会」とは、カルヴァンによる宗教改革の流れを汲む、「長老政治」(信徒の代表である「治会長老」といわゆる牧師である「牧会(宣教)長老」とが協同して教会運営にあたる政治形態)を採る教会で、世界的にも大きな勢力である。別に教会員が老人ばかりというわけではない。
(5)神をほめたたえる歌は、「詩篇」など聖書的な根拠もあり、キリスト教会において歌は、一般の宗教儀式における音楽の役割以上に重視されてきたことは、「ミサ曲」などを想起してもらえれば納得していただけよう。プロテスタントでは、日本基督教団出版局発行の『讃美歌』(1954年、すべて文語、有名な讃美歌はほぼ全て含まれる)と日本福音連盟発行の『聖歌』(1958年、一部口語のものもある、福音派教会を中心に使われている)の2曲集が主に使われる。また近年は、アメリカを起源とする「ゴスペル・ミュージック」と呼ばれるポップス調の新しい讃美歌が日本でも作られ初め、若い世代を中心に急速に支持を広げている。
(6)聖書の教えを牧師が語るもので、プロテスタント礼拝の中核を成す。カトリックでは典礼の一部として、語られる説教の内容も固定化してくるが、プロテスタントにおいては、牧師の自由な裁量に任される。
(7)普段から多くの恵みを神様から受けているので、その恵みの一部を金銭として返す、という位置付けがなされており、決して強制ではない点、オウム真理教の「お布施」などとは是非区別していただきたい。一般に「10分の1献金」などと呼ばれ、安定した収入のある場合はその10分の1を献金することが推奨されるが、義務ではない。献金は、具体的には牧師への謝儀や教会運営に使われる。非課税であるが、日本の教会はもともと経済基盤が非常に脆弱であるため、最近国会などで論議されている宗教法人への課税強化については、キリスト教会は一貫して反対の立場を取っている。
(8)聖書を司会者と会衆で交互に読み会うこと。ミサの形式に起源があるものと思われる。『讃美歌』にある「交読文」や『聖歌』にある「唱える詩篇」を使用する(いずれも文語)ところと、その教会で使っている聖書を1節ずつ読むところとがある。
(9)パンと葡萄酒を用いて、キリストの十字架による贖いを記念する儀式。小さく切ったパンと小さな杯に入った葡萄酒(所によっては葡萄ジュース)を皆で食べたり飲んだりする光景は、一見おままごと風でもある。
(10)教会によっては、他に「嬰児科」や「成人科」も持たれる。また日曜日以外(土曜日など)に持つ教会もある。
 そのような単調な信仰生活を支えるものは何か。一つはそれでも出席だけは引き続きさせるための家庭内でのフォローだろう。どういうわけか、他の子供と違って自分には日曜の休みが無いことに疑問を感じつつも、当時日曜の朝に放映していた「忍者ハットリくん」などを見られずに歯がゆい思いをしながらも、出席だけは続いていた。それは、自分の性格や長男という立場もあるだろうが、親の存在も大きかったのではないかと思う。私の父は教会で「長老」(11)という一定の責任ある役職についていたせいもあるが、親が教会を欠かさなかったという事実は、私にも有形無形の影響を与えていたものと思う。
 そしてもう一つは、キャンプへの出席である。キリスト教会では、夏休みなどにしばしばキャンプが持たれる。本格的にテントを用いるようなものもあるが、多くは山麓や海沿いにあるキャンプ用の施設(12)へ行き、そこで3日なり5日なりを教会学校の子供たちや先生たちと過ごす。1つの教会学校単独で行われることもあるし、幾つかの教会学校が合同で行うこともある。プログラムは遊びと学びが半々といったところか。説教や分級を通して、いつも以上に聖書の理解を深め、信仰を身近に感じられるように、いろいろと配慮されている。
 普段は慣れてしまっていて、信仰のことを語ったりすることに一種の「照れ」を感じてしまっているが、キャンプという社会から離れた環境で、いつもは見知らぬ先生から、そのために練られたメッセージを聞いたりすると、けっこうその気になったりするものである。多くのキャンプでは、最終日のメッセージの時間などに、「招き」といって自分がキリストを救い主として受け入れるかどうか、信仰に確信が持てたかどうか、出席者に問い掛ける時間が設けられていて、その時は信じた気分になっていたものの、キャンプから帰るとその熱も冷めてしまって、何だかあの時の自分が小恥かしいものに思えてしまったりする(このような状態を「キャンプ・クリスチャン」略して「キャンクリ」と言ったりする)。しかし、「あの時はそう思えたのだ」という記憶は以後にも残り、それが一種のトラウマとなって「自分は神様の福音から逃れられないんだ」という気持ちになったりもした。
 私も、小学生以来、高校生に至るまで、毎年のようにキャンプに参加して、いろいろなものを持ち帰ってきた。小学校の頃はそんなに感じなかったのだが、だんだんとキャンプの「ノリ」に追いていけなくなり、中学生頃から参加が消極的になってきたが、それでも、私の信仰の成長にキャンプの果たした役割は大きかった。中学校の時に参加したキャンプを今でも明確に覚えている。一人で、東京から電車に乗って南佐久郡小海町の松原湖まで、そこで開かれたキャンプ(13)に参加したときの事だ。何日目かのメッセージの時間、「神様は私たちを、罪に汚れた状態のまま愛してくださる。罪に汚れた私たちを愛され、救おうとされたゆえに十字架で死なれた」(14)との話を聞き、はっとさせられた。今まで、信仰を持つためにはキリスト教徒としての「精進」が必要だと勝手に思い込んでいたが、そのようなこと以前に、神様は、自分をこのままの姿で愛し受け入れてくださる、とのメッセージを受け、心をぎゅっと掴まれた気がした。その時は、話を聞いた後は何もせずに過ごしてしまったのだが、今でもあの夜のことは、前後のことは忘れてしまったがメッセージのあの瞬間だけは覚えているところをみると、私の中に本当の意味で神様の信仰の入った、初めての瞬間であったのかもしれない。
  (11)教会運営の全般を統括する信徒代表。「役員」という言い方もする。一般に教会員の互選により選出される。クリスチャンホームの当主であるケースが多い。また、被選挙基準を女性に対して制限する教会もある。
(12)キリスト教各教派や宣教団体により運営されている。海外のミッションによって建設されたものもある。その施設が主催したり、貸し出したりしてキャンプが行われる。
(13)日本同盟基督教団が運営する「松原湖バイブルキャンプ場」(日本でも割合と有名なキャンプ場である)で行われた中学生のキャンプ。参加人数は関東圏の子供達を中心に80人くらいだったように記憶している。
(14)神であり人であるイエス・キリストが、十字架で死に、3日目によみがえったことを信じることにより、罪の中に死んでいる人間が救われる、というのがキリスト教信仰の枢要だろう。キリスト教は「愛の宗教」と言われるが、それは人類の救いのため十字架刑に甘んじたキリストの愛を起源とし、それだけ多くの愛を受けている個人は、他人に対しても愛を示していこうとする。キリスト教人道主義はこのようにして生まれる。
     
 小学校も高学年になってくると、教会で教えられたことと世の常識とはどうも異なるところがありそうだということに気付き始めた。例えば「進化論」、単純なものからより複雑なものへと進化していったとする進化論的な生物誕生の様子は、神がすべての生物をその形に創造したとする聖書の説く教えとは対立する。ガリレオの宗教裁判などの知識を得たのもこの当時である。教会での教えっていうものは古いのかな、キリスト教と「科学」は対立するのだろうか、将来キリスト教徒ということで理科の先生に苛められはしないだろうか、など。聖書の知識も、科学的な知識もまだ未熟だった当時は、いろいろと思い悩んだもので、聖書的な世界観を受け入れることができたのはまだ後になってからである。しかし、大学に入って、いろいろな勉強をしてみると世界の様々な場所に神の「摂理」のようなものが感じられて、不思議なものである(15)。聖書の教える世界観の素晴らしさを、少しでも検証できたことが、私の大学での学びの大きな成果であったと言える。   (15)「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです」(ローマ人への手紙1章20節)このように、自然を通して神の永遠の力と神性が示されていることを特に「一般啓示」という。
 小学校6年生の頃、親が離婚した(16)。その事件は勿論、私にとってもショックの大きいものだったが、お互いにクリスチャンであるはずの両親が分かれてしまった、ということによりショックを受けた。もっと小さかった頃、近年日本でも離婚が急増している、というような報道を見ても、「うちはクリスチャンだから大丈夫」と思っていた(こんなことが記憶にあること自体、子供心に両親の不仲を感じていたのかもしれないが)のだから、一種、「裏切られた」という気にもなったことは確かである。ただ、後から思い返すと、クリスチャンの行動が(教会を中心とする)権威に決して縛られてはいないことを教えられたようにも思う。私の信仰は、信仰義認を強調して、行動や体験による聖めをどちらかというと敬遠する傾向があるが(17)、この時の経験が影響を与えているのかもしれない。無論、この時の不安定な私を支えてくれたのも、やはり信仰(というか、教会に出席しているという事実そのもの)であったように思う。ただ、この事件は現在に至るまでいろいろな影響を私に与えていて、まだ総括し切れていないかもしれない。   (16)私は(というか、兄弟全員が)父親に引き取られた。父は私が中学校3年生の時に再婚している。
(17)「しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです」(ガラテヤ人への手紙2章16節)「それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです」(ヤコブの手紙2章17節)と、聖書の中には、「信仰重視」型と、「行動重視」型との、一見矛盾する2つの信仰のありかたが同時に示されている。リベラルな立場の聖書学者は、この2つの旋律を、聖書筆者の神学の違い(パウロの神学と、ヤコブの神学)と片付けるが、私のように保守的な立場からは受入れ難い。伝統的教派は「信仰義認」を強調するが、新しいグループ、特にリバイバル(信仰復興)運動と結び付いたグループは行動を重視し、信仰義認に安住する伝統的教会を「冷たくもなく、熱くもない(ヨハネの黙示録3章15節)ぬるま湯の信仰だと批判する。やや感情に走りがちになってしまい、両者の対話はなかなか難しくなってしまっているのも、現在のキリスト教の姿の一こまである。
 中学校時代には、信仰生活においての飛躍は現れなかった(先に紹介したキャンプでの出来事も、その場、私の気持ちの中だけで終わってしまった)。身近に同年代のクリスチャンの友人が居なかったせいかもしれない。私の教会には、当時、同年代のクリスチャンが非常に少なく、特に男性は皆無に近く、教会学校では肩身の狭い思いをしたものである。というか、どこの教会においても、中高生の減少は深刻な問題である。年齢ピラミッドがこの年代でくびれた形になっていることは、教会の長期ビジョンの上でも好ましいことではない。
 一方、学校の友人とは、交際も深まっていき、良くも悪くもいろいろな事を吸収していった。現在の私のオタクっぽいところとか、スケベなところとかは、この時期にその基礎が形成された(18)。以来、現在に至るまで、教会の中と外で都合よく「顔」を入れ替えて生活している自分ができてしまい、このままではいかんなあ、と、時々は真面目に考えている。
  (18)中学校の級友に「ドラクエU」を貸してもらって、以来、ずっぽりとロールプレイングゲームにはまってしまう。また、『レモンピープル』という美少女漫画雑誌を友人に譲ってもらったのも中学生のとき。シン・ツグルの作品なんかに胸をときめかせたものである。
     
 中学校時代には同年代のクリスチャンと交わる機会が少なかった私に、そのチャンスが訪れたのは高校生になって「Hi−ba」の活動に関わるようになってからである。これは、超教派(19)で活動している高校生対象の伝道団体で、センターのある渋谷を中心とした各地(ただし東京と大阪近郊に限られる)で、高校生主体の集会活動を行っている。別に会員制というわけでもなく、音楽やゲームやグループによる聖書の学びや、スタッフ(大人)によるメッセージなどが、ざっくばらんな雰囲気で行われる。
 私は学校から最も近かった、吉祥寺(東京都武蔵野市)の集会に参加していた。毎週水曜日の(4時か)5時から7時まで、商工会議所(だったっけ?)の一室(畳の部屋)を借りて、10人前後の人数で持たれていた。アットホームな集会で、割と安心して入っていくことができた。
 Hi−baでの思い出も多くある。キャンプにも何度か参加した。ただ、私はその集会に、積極的に関わっていた、というほどのことはない。一応3年間通してはいたが、水曜日の集会も毎週参加したわけでもないし、渋谷のセンターでは毎週何らかのイベントが催されていたにも関わらず、私がセンターに出向いたのは最後の最後の「卒業祝賀会」になってからだった。このようにHi−baの活動にやや冷淡であった理由は、その中核・常連の学生たちのノリというか、元気のよさというか、言ってしまえばガキっぽさというか、そういったものに、ちょっとついていけないな、という気がしてしまったからである。私の現在の信仰態度が、良くも悪くも知識を重視しているのは(20)、この時の経験の反動であるのかもしれない。また、他人のことを非常に気遣ってくれて、それは非常に嬉しいことであるのだが、その気遣いがかえって私にとって負担になってしまうこともあった。そういう、べとついた関係がちょっと嫌だったこともある。こういう関係はしばしば閉鎖性を併発するが、それは教会全般も抱える問題点かもしれない。教訓を汲まねばなるまい。
 ただ、このような場のない地方の高校生に比べて、同年代のクリスチャンと交われる場の与えられたことは間違いなく恵みであり、上記のようなことは贅沢な悩みであろう。また、私の妹(2才違い)はHi−baに熱心に参加していたし、弟(6才違い)は現在進行形で関わっているが、いろいろな恵みを受けているようで、私はちょっと恵みを受けるチャンスの枠を自分で狭めてしまったところがあるかな、という憾みも無くはない。
  (19)キリスト教会は、唯一の公同なる教会であるが、現実においては、多くの「教派」に分かれてしまっている(仏教の「宗派」とは異なる。分家と思ってもらえば、いいかもしれない)。俯瞰すると、大きく東方正教会(オーソドックス)と西方教会に、西方教会はカトリックとプロテスタントに、プロテスタントはルター派・カルヴァン派・バプテスト派・英国プロテスタントなどに分かれる。日本における最大の教派は「日本基督教団」で、信者数は20万 519人(1988年)。戦時中の宗教統制により誕生したもので、プロテスタントの古い大きな教会は、ほぼここに含まれる。「超教派」とは、特定の教団に依存せずに活動することで、理念を掲げてキリスト教会内に広く賛同者を募る。宣教団体などは多くこの形態を採る。
(20)注17参照。信仰には、知識において神を知るいわば知性的傾向と、救いの実存的体験を持ついわば感情的傾向との2側面がある。どちらも大切なことだが、強調点の違いが2つの潮流となって分かれてしまうのは、ちょっと困りものである。
     
 大学受験が近付くにつれ、気分的にちょっと焦りの気持ちも出てきた。漠然と地方の大学に行きたい気持ちもあったし、何より私の実家は団地で狭く、大学生になったら別居を検討せねばなるまいと考え始めていた。そのような事態に立ち至るとき、現状のまま中途半端な信仰生活を続けていることに不安を覚えた。それは親の立場からも同様だったらしく、高校を卒業するまでには信仰告白を、と考えていたようだ。
 先述の通り、私は幼児洗礼しか受けていないので、正式な信仰者として教会に認められ、「一人前のクリスチャン」になるには「信仰告白式」(21)を経なければならない。「一人前のクリスチャン」になることについて、例えば、親から与えられたものであり満足できない、といったような異存は無かった。確かにすでに引かれているレールであったが、その上を走っているのは自分であるし、勿論自分の意思で走っている積もりだった。信仰によって救われたいという気持ちは、小学生以来、一貫して持ち続けていた。
 クリスチャンになるためには何が必要か。それは、イエス・キリストが自分の罪を贖うために十字架にかかって死んでくださったことを信じ受け入れることである。知識においてはすでに十二分に分かっていた。自分が罪人であることも、その罪人である自分を神様は愛してくださることも知っていた。ただ、それを神様が自分にじかに語りかけている実感が無かった。また、自分のようなふざけた、力のない人間が、クリスチャンとしてやっていけるのかどうか自信も無かった。どちらの不安も、神様(聖霊(22))が自分に内在しているとの確信の欠如から来るものである。「見えるもの」(23)を求めているとも言える。自分とクリスチャンである自分との間に一線を、大きな一線を、勝手に引いてしまっていたとも言える。
 私の信仰は、いわば膠着状態にあった。何らかの「きっかけ」が欲しかった。そのきっかけが与えられたのは、教会で私の高校2年生の秋に行われた特別伝道集会だった。集会後の午後に招かれた先生と2人で話し合う機会が与えられた。先生は信仰の非常に基礎的なことを、もう一度教えてくれた。全て、すでに聞いたことがある話しばかりである。そんな事は分かっている、そう、分かっているのだ。だから、信仰を受け入れることに何の過不足があるだろう。不思議なもので、その時は初めて、素直にそう考えることが出来たのである。信仰告白をすることを望みますか、との先生の問い掛けに、私は、はい、と答えた。このように、何だかあっさりと、私の求道(24)生活はゴールを迎えてしまった。もうだいぶ以前からゴールに着いていたのかもしれない。ただ、ゴールした時点からまたスタートする、信仰生活の、(本当の勝利のゴールへと続いているが)より長く険しいその道程を見て、ゴールインをずっと躊躇していたのかもしれない。
  (21)言わば「宣誓式」、民族宗教でないキリスト教では、自分の信じるものを「告白」することが重視される。この式を通して、公式にもクリスチャンとして認められるのである。具体的には、「あなたは、イエス・キリストが、自分の罪の身代わりとして十字架にかかり、3日目によみがえったことを信じますか」などという牧師の問い掛けに対し、「信じます」などと答える。
(22)神の第3位格。信者に内在し、その人を助け導くものと解される。「聖霊のバプテスマ」など霊的体験を伴うとも言われるが、そのような現象を聖書的なものと判断する根拠は一般に乏しく、そのような理解には注意が必要だろう。
(23)イエスの弟子トマスは、イエスの復活を他の弟子から聞いても、「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言っていたが、そんなトマスのもとにイエスが現れ、トマスはようやく信じることができた。その時にイエスがトマスに対して言った言葉「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです」(ヨハネの福音書20章24〜29節)。確かにイエスの復活という歴史的現象はすでに終結しており、現在の私たちはそれを見て信じることはできない。例えば霊的体験など「見えるもの」を求めてしまう私たちには、トマスと同じ弱さが示されている。
(24)信仰告白・洗礼に至ることを希望し、教会に出席する未信者を、「求道者」という。
     
 私の信仰告白式は、1991年(平成3)3月31日、イースター(25)の日に行われた。勿論、信仰生活上、というか、人生の上での一大転機である。多くのクリスチャンの中には、信仰を持つに至ったとき、何らかの霊的体験を持つ人もいる(26)。しかし、私にはそんな事も起こらず、表面上も、率直にいって内面もそれほど変わること無く、「新生」(27)生活に入った。
 そんな事でいいのか、という気がしないでもないが、現実問題として、例えクリスチャンになったとしても、その人の本質が「罪人」である点は以前と変わらないわけだし(28)、特に私の場合は、その「瞬間」に何てことが無かった分、それから長い間をかけて、だんだんと変えられていく、そんな道が用意されていたのではないかと思う。そしてその道は、現在も、将来も、ずっと続いていくだろう。
 例えば、礼拝に出席する心構えがずいぶん変わった。小学校時代は本を読んで過ごしていた礼拝の時間も、中学高校と進むにつれ、僕は何のためここに座っているんだ、という思いが起きてきて、だんだんと話を聞くようになってきたが、信仰告白後はさすがに、積極的に話を聞くようになっていった。奉仕(29)についても、従来以上に関われるようになった。義務感というわけではないが、教会に対する責任感が生まれてきたように思う。
 外に対しても、例えば友人に自分の信仰的立場を語るときも、以前まではクリスチャンなのかそうでないのかどっちつかずだったのが、今ははっきり、自分はクリスチャンだと言うことができる。この変化は大きい。そして、だからこそ、自分を通して神様の名前が現され、神様の証しがなされていればこそ、再び自分の行動を見つめ直す視線も現れてくる。神様に対する責任感、と言おうか。現在の私の行動がどれくらい神様の証しになっているかは、皆さんの判断に任せるが‥‥‥うーん、まあ、いいや(良くない!)。
 そして、自分が「キリストのかおり」(30)を放つ者になるためにも、自分の内に御言葉(聖書の言葉)を蓄える必要がある。ここから、日々のデボーションが導き出される。毎日、それぞれのペースで、聖書を読み、神様に祈る。私は夜の寝る前に行っているが(本当は朝やった方がいいのだけど)、それぞれの日に、教えられたり、励まされたり、示されたりする。飽きっぽい私が、この事については、忘れてしまうこともあるが、あの日から一貫して続いているというのはやはり神様の助けがあってのことだろう。そして何より、聖書のこと、神様のことをもっと知りたい、という内からの欲求もある。神学や教会史に関する知識も、殊に大学に入ってから、ずいぶんと身についた。
  (25)いわゆる復活祭。キリストの十字架による死からの復活を記念する。春分後の最初の満月の後にくる第1日曜日(たいてい4月の初め)。クリスマスと並んでキリスト教の大切な行事で、卵探しなどを行なう所もある。なお、ハロウィンは一般にプロテスタント教会では祝われない。
(26)光を見たり、「異言」を語ることもあるという。聖書にも根拠が見えるものだが、こちらをあまりに重視すると、信仰の本質を見失う恐れもあり、注意が必要だろう。注17、20、22、23など参照。
(27)「人は、新しく生まれなけれは、神の国を見ることができません」(ヨハネの福音書3章3節)とのイエスの言葉にもあるように、罪に汚れた今までの自分と訣別し、聖霊に導かれつつ信仰生活に入ることは、生物としての誕生の瞬間にも等しい、決定的な事件である。クリスチャンホームに育たなかった人の場合その「落差」は非常に大きいようだ。注2参照。
(28)信仰を持って救われたとしても、自分の罪がきよめられる訳ではない。また、罪を犯したからといってその人のクリスチャンとしての性質が変化する訳でもない。そのように罪に汚れた自分をも愛してくださるということが重要なのだ。このような点が、仏教の「修行」などの発想とは大きく異なる点だろう。ただし、だからといって罪に安住してよしとする態度は、怠け者と批判されるものだろう。「あなたがたは、地の塩です」(マタイによる福音書5章13節)「光の子供らしく歩みなさい」(エペソ人への手紙5章8節)との教えに耳を傾けるべきである。
(29)教会での様々な職握分掌をよく「奉仕」という。「人の子(イエス:小町注)が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり」(マルコによる福音書10章45節)とのイエスの教えまた態度を模範とするものである。具体的には教会役員、教会学校教師、礼拝の司会、奏楽、昼食の用意、掃除など
(30)「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです」(コリント人への手紙第二2章15節)。注28の「地の塩」「光の子供」と意味的にはパラレルである。
     
 東京の教会で過ごした信仰者としての1年間は、高校3年生の受験生としての1年間でもあった。勉強に忙殺される日々が続き、教会員として信仰を成長させるどころか、奉仕からも逃げ回って過ごしていた。英語が苦手だった私は、センター試験の得点も芳しくなく、無敵のE判定を胸に、記念受験の積もりで岳都松本にやって来た。そして、なぜか合格してしまった。奇跡だ、と思った。そして、神様の導きを何よりも強く感じた。自分は守られている、という気がした。    
     
 松本での初めての一人暮らしに、勿論不安は多くあった。日々の生活についてもそうだが、教会生活についても、一人でも教会に行き続けられるか、新しい教会に馴染めるだろうか、挫折してしまいはしないか、と多くの不安を抱えていた。父親が、松本での教会を紹介してくれた。松本聖書福音教会(31)。住所は松本市里山辺となっている。ご案内の通り、里山辺は県の森の裏から美ヶ原温泉、教育文化会館に至る広い範囲をカバーしているが、私はその教会に電話で確認することもせず、北小松という小字だけを頼りに、松本に引っ越して初めての日曜日、自転車で出発した。右も左もわからない松本で、ちょっと無謀な試みだったかもしれない。確かに北小松には着いたが、付近に教会は見当たらない。散々探し回った挙げ句、たんぼの向こうの薄川の土手ぞいに、屋根に十字架を掲げたその建物を見付けた。その時は、この不信仰な私も、神様の助けを、心に感じることが出来たのである。このように、さっそく初日からの遅刻で、私の松本での教会生活はスタートした。
 松本の教会で教えられたことは本当にたくさん有る。それをいちいち挙げようとするなら、もう一つ別の文章を書かなければならないだろう。ここでは核となることだけを一つ挙げておく。教会出席に対する自覚が飛躍的に高まったということである。受け身ではなく、自発的に教会に出席しようとし始めたことである。教会に行くことが、楽しみ、喜びになっていったことである今までの自分の気持ちは、邪魔だなと思いながら仕方なく、そこに教会があるから、といった感じで出席を重ねていたのが、いざ自分から腰を上げて行かなければならないという段になって、教会に行かなければならない、いや義務感からではない、教会に行って恵みを受けたい、と思うようになっていった。日曜日が週末から、週の初め、そこから一週間が始まっていくということを、実感できるようになった。これは一向に成長が見られない私の信仰においての、この4年間での最大の変化だったように思う。
  (31)日本福音キリスト教会連合所属。私の母教会と教派は異なるが、福音主義的な雰囲気は同じ。規模は礼拝出席者30人前後程度。
     
 次の課題は、自分の生活の中に、信仰を本当に中心に位置付けられるか、ということだと思う。教会の内と外で「顔」を入れ替えて暮らしている、と先に書いたが、そのように世の中の流れに身を任せるのではなく、その流れに逆らい、いかにして証しをしていくことができるだろうか、ということである。日曜日はできるだけ教会出席を優先させようと、混声の練習もいく度も休んだ(32)。最近、水曜日の祈祷会(33)にもできるだけ出席しようとしている。キリスト教関係の大学(34)に就職したのも、そんなことを考えての事なのかもしれない。私は、まずは行動から自分の信仰を染めていってみようと思っているのかもしれない。1年生の時、農学の授業で玉井袈裟夫氏が「心の押し掛け」なんてことを言っていたのを思い出す。であるのだから勿論、最終的には、心からそう出来なければいけないのだけど。
 ただ、徒にキリスト教社会の中に入り込み、自家中毒に陥ってしまうかもしれないという不安もある。どうしたら一番良いのかは、まだ分からない。今後とも、考えていかなければならない。
  (32)教会に来るとき「ただいま」、教会を出るときに「行ってきます」という教会もあるという。クリスチャンにとっては、教会生活こそが生活の中心なのである。信者でない人には誤解されてしまうかもしれないが、仕方ない。
(33)ほとんどの教会では、週の真ん中の水曜日の夜に、祈りの会が持たれる。松本の教会では出席者は牧師夫妻を含め6〜10人程度。
(34)私の就職先である「東京キリスト教学園」は「東京基督教大学」という神学部のみの単科大学などを経営する学校法人。私の母教会の教派と関係を持っている。有名な「ICU(国際基督教大学)」とは違う。
     
 4月からはいよいよ社会人である。不安もたくさん有るし、失敗もすると思う。でも、自分には頼るべきものがあるし、今まで本当に良くしてもらったから、これからも守られるに違いないという、はたから見ると全く根拠がないと思われるような、妙な自信もある。私は、非常に楽観的な人間である。緊張感が無さ過ぎるほどに楽観的で、自分でも困ってしまうこともあるが、いつもそのように導いてくれる神様に、もっともっと感謝を捧げたい。    
     
 本当はもっと書きたいこともあるのだが(天皇代替わりのときの思い出とか、信州大学聖書研究会のこととか、クリスマス劇のこととか)、だいぶ長くなってしまい、私もいいかげん書くのに疲れたし、締切りもかなり過ぎているので、このへんで止めとく。読みにくい、つまらない文章かもしれないが、一人でも多くの人に読んでもらいたい。そして、納得しないまでも、こんなことを考え、信じている人間もいるのだな、と思ってもらえれば僥幸である。    
     前期編集係であったにも関わらず、締切りを守っていないということは心苦しい限りである。今期編集係の菊池君、来期編集係の熊野君、その他編集作業を手伝ってくれる皆様、お疲れ様です、本当に有り難うございました。

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