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『文学散歩』

 

『わが町松阪』

 私達の住む町が日本の長い歴史の中でどのような歩みを辿ってきたかと考えてみるのも、たまには面白いものではありませんか。松阪に住む程の人は、起源といえば誰しも蒲生氏郷の名を挙げます。しかし、彼が松阪城を築いたのは、つい最近(1558)の事で、気候温暖なこの地には紀元前8千年の昔にも人々が立派に生活をしていた跡が随所に残っております。(小黒田町長庄遺跡等)そして紀元前3百年頃にはもう水田が開かれ農耕が始まっていたのです。(御殿山遺跡等)

 

しかし、此処に地名が定まり一志・飯高・度会(ワタライ)の三郡が出来たのはずっとずっと後の事で、天智天皇と鎌足物語で有名な大化の改心の時代(645)になります。奈良時代になりますと、わたしたちの先祖達は今日までも語り継がれますどでかい事を成し遂げました。あの大仏様は先祖達の協力がなければ決して完成しなかったのです。(大仏の金鍍金には丹生の水銀が大量に必要であった。)

 

いつか機会があって大仏様の前に立たれるときがあったなら、今でこそ昔の面影もありませんが、ヨロケ(水俣病の古い呼名)と戦いながらも必死に献上した水銀により、燦然と輝いていた大仏様のお姿を瞼の裏に想像してみて下さい。

 

東大寺の大仏建立において私達の郷土が歴史の上に大きくクローズアプされて以後、さしたる出来事もなく時は過ぎて行きました。しかし、兵火で焼けた大仏様が再建(1195)されるに当り、再び丹生の水銀が世に現れて来ます。そして、この時代に水銀から軽粉(かるこ・・・白粉)の製造が開発(1205)され、このことがずっと後の事になりますが、天下にその名を轟かす伊勢商人の発生へとつながってゆくのです。太平記の時代(1390)になりますと、この地は国司北畠氏の支配地として北朝方(足利幕府)の激しい攻撃に晒される事になります。神山城(神山神社)・田丸城などでの激戦が南北朝合一の時代(1392)まで続きますが、その後小康を得て、北畠親房の祖孫満雅が南朝再興をかけて再び阿坂城(白米城)に旗揚げ(1414)をする事になります。そのときの戦が私達もよく知っているあの白米城物語なのです。

 

やがて世は戦国時代へと移ってゆき、暗く殺伐たる世相へと変わってゆきますが、かの軽粉の産業だけは時代のニーズの中に着実に伸びてゆきました。この頃から私共の誇りとする伊勢商人たちの芽生えが始まっていたのです。


雑煮雑感(1992年1月発行)

 

私は父の仕事の都合で2歳の時から亀山(伊勢)でそだちましたが、両親は代々の伊賀の人であった為、我が家にはごく最近まで伊賀路の風習が色濃く残っておりました。同じ三重県でありながら山1つ越えただけでこうも色々なことが違う物かと子供心によく思ったものでしす。

中でもお正月の雑煮には決定的な違いがあり、よく友達から言われた「伊賀の人間は肋骨が1本多いから」との冗談混じりのからかいもまんざらウソではないような気さえしたものです。

お正月号に因み、その雑煮の違いについて少し述べて見たいと思います。

伊勢では元来味噌汁仕立てで角餅(のしから四角に切る)の湯炊きが本流です。具は大根の輪切りと里芋、だしは煮干でとります。大根や里芋は、「角のない人」への願い、里芋は「人の頭に成れる人」への願いだそうです。また、少し前までは、「正月早々泣く(菜食う)のはかなわん」と7日までは葉菜を一切用いなかったのですが、今ではそんな事も昔語りとなりつつあります。一方伊賀では醤油仕立てが本流で持ちは丸もちで両面を焼いてから入れます。父も母もすでになく、我が家にも新しい流れが定着し、今のこっている最後の名残は、この餅を焼いてから汁に入れるという事だけになってしまいました。

何時か孫達の時代、あるいはその次の代には、正月に雑煮を食う習わしもなくなってしまう時が来るのではないでしょうか。一寸淋しい気もしますが。


北畠戦争 その@(1992年2月発行)

 

織田信長が天下布武の旗揚印の下に、北勢四十八家を血祭りにあげ、関氏・長野氏を席捲しつつ(1568)総勢7万人の大軍で、わが松阪の地に乱入して来たのは永禄12年(1569)8月のことでした。

時に伊勢の国司北畠具教卿は南朝の忠臣北畠親房より8代目、我等の先祖達がこの君を擁して敢然と立ち向かっていったのは言うまでも有りません。後の太閤木下藤吉郎が先手の大将として三千余の兵を連れ、まず攻めてかかってきたのは北方の要、阿坂城でした。城将大宮氏よく戦い、一時は藤吉郎に失疵を負わしむる程苦しめましたが、城中に裏切り者が出て、惜しくも落城しました。

阿坂城を手に入れた信長は、本陣を桂瀬の山に移し、本城大河内城を十重二十重と囲みました。永禄12年(1569)8月29日、即戦即決を期する織田軍も、心1つに奮闘する1万足らずの城兵を攻めあぐね、50余日の戦に引き込まれて行ったのです。


北畠戦争 そのA(1992年3月発行)

 

前号では、雲霞のごとく取り囲む織田軍団に一歩も譲らぬ我等が先祖の勇猛さについて申し上げてきましたが、中でも蝮谷での激戦は今に至るまで、古老達の語り伝えとなっております。

しかし所詮は田舎武者のかなしさ、敵の参謀竹中半兵衛等の戦略にかかり、やがて和議に、そして具教卿謀殺のうきめを見ることとなってゆくのです。さしも名流北畠氏も、又死を賭して義をつらぬいていった武者達もこうして歴史の表面から消えて行きました。(天正4年(1576)11月25日)

しかし斎藤十郎・安西武二・または知事(元)田川亮三氏など私達にも耳慣れた方々が、かつての勇士達の子孫と聞けば、この北畠戦争もずっと身近な物になってくるではありませんか。機会があれば一度五輪峠をお尋ね下さい。苔むす五輪の石塔にあの日散った武者達の啾啾たる哭き声を、あなたもきっと聞くことが出来るでしょう。


開府の祖(1)(1992年4月発行)

 

私達の町に「松坂」という名が付いたのは天正16年8月4日(1588)であると言われております。
蒲生氏郷が四五百森(現在の城跡)に城を築き、旧領民の近江日野、あるいは伊勢の大湊から商人達まで連れて来て、松ヶ島城より移転、松坂と命名した日なのです。

蒲生氏郷はこれより天正18年(1590)8月10日まで僅か2年余の短い間ながら、治政よく現在の松阪の基いをつくりました。今に至るまで市民より開府の祖として親しまれている所以です。しかしどんな人であったかと言われると秋祭りの主役、馬上の武者姿以上にくわしく知る人は少ないのではないでしょうか。今回はこの英傑の一代記を簡略に追って見たいと思います。

蒲生家は代々近江の守護六角氏の家臣として日野、中野城六万石の家柄でした。氏郷は幼名を鶴千代と云い、蒲生賢秀の嫡男として生まれました。13歳の時、父賢秀により織田信長の人質とされましたが、信長はその大器なるを知り、小姓として身近に置いたのです。

鶴千代は天賦の才に加えて、この不世出の天才から直接学ぶことが出来、次第に並ぶもの無き武将へと育ってゆきました。

永禄12年(1572)3月、元服して忠三郎賦秀と名のりました。そして文禄4年(1595)2月7日40歳を一期に息を引き取るまでの間、自ら戦陣に赴く事十有七度、後年の史家をして、天若し会津宰相(天正20年1597年会津若松100万石)に余命10年を与え給わば、決して関が原の合戦は興らなかったであろうと言わしむる程の武将に成長していったのです。

このように述べてきますと氏郷とは鬼をも拉ぐ武人の様に思われ勝ちですが、民生にも大層力を発揮し、城下に楽市楽座の制度を設け又今も残る日野町・湊町の様に商人達をその先進地より呼び寄せ大いに経済の発展に尽くしました。

また家庭のよき父として永保12年(1572)結婚した信長の息女冬姫と終生変わらぬ愛を貫いたこと。そしてなにより忘れてはならない事は、秀吉の不興を蒙り切腹した千利休の二男少庵を匿しのち家康とともに秀吉を説得して千家の再興をはかった功績ではないでしょうか。今に伝わる表千家、裏千家の名流も、もし氏郷がいなかったならば決して存在し得なかったと思えば彼もまた、日本文化の大恩人であったと言っても決して過言ではありますまい。


開府の祖(2)(1992年5月発行)

 

私達が横町を歩く時すぐ気が付く事はその家並の何とも奇妙な食い違いです。

「伊勢の松坂(木綿)いつ着(来)てみても襞(氏郷は飛騨守)の取りよで襠(マチ・・・町)悪し」これが往時歌にまでうたわれた、氏郷独特の防衛都市の名残なのです。市内縦横に流れる排水溝、また今はすっかり憩いの場として定着している松阪城跡。松阪にとって氏郷の治政はわずか2年余にしかすぎなかったのですが、随所に残る遺構により(日野町・湊町などの町名と共に)彼の偉業は今もなお私達の心に生きつづけているのです。

秀吉の無法な朝鮮の役のさ中に病を得、40歳と言う盛りで、去っていった彼の心事を思う時、四五百の森の石垣にも何か物悲しさをかんじるのは、私だけではありますまい。

京都の紫野の大徳寺に、または知恩院に、静かに眠る昌林院殿岩忠公大禅定門、日桂涼心英誉清薫大禅定尼の氏郷・冬姫のお二方は、年移りて既に400年、県の中核都市として頓に工業化へと脱皮しつつある、わが松阪をどう言う思いで見ておられることでしょう。

毀誉褒貶、人々の評価もまたかわるでしょうが蒲生氏郷はやはりわれ等市民の忘れ得ぬ開府の祖なのです。


伊勢商人(1)(1992年6月発行)

 

暗く忌まわしい戦国の時代も過ぎて、秀吉から家康へと、平和が国々に蘇ると共に、先祖達は再びその類まれなる商才を発揮し、ついにはわが国の流通経済をほぼその手中に収めてゆきました。これが三井家を筆頭とする伊勢の商人達なのです。

室町から徳川幕府初期にかけて、わが国の経済の主役であった、博多・堺の商人達も、鎖国が断行されて世の戦乱が治まるにつれ、次第にその活動は停滞し、内需拡大の旗手として、近江商人と共にわれ等の伊勢商人達が台頭してくるのです。

郷土の生んだ最高の国学者、本居宣長先生は、名著「玉勝間」でこの商人達をこのように述べております。「松阪はことによき里にて・・・富める家はおほく、江戸に店という物をかまえおきて、手代という者もおほくあらせ、うはべはさしもあらで、うちうちはいたくゆたかにおごりてわたる」この短い文章は伊勢商人の世界を見事に描いていると云われます。


伊勢商人(2)(1992年7月発行)

 

天正13年(1585)射和の富山家(大黒屋)が小田原に進出したのを皮切りに、竹川、国分家がこれに続き、延宝元年(1673)三井(越後屋)が江戸に出店する頃にはさらに小津(伊勢屋)長谷川(丹波屋)川喜多(伊勢屋)田中(田端屋)中条(神戸屋)と、百貨繚乱たる伊勢商人の群像が大江戸を彩っていきました。

そして犬公方綱吉の頃、(1680)ともなると「江戸に多きもの伊勢屋、稲荷に犬の糞」と言う俗語さえ流行するほど、伊勢商人は隆盛を極めたのです。江戸町人名前一覧によると、伊勢屋601、越後屋377、三河屋373、萬屋356、近江屋246とあって、圧倒的に多く、しかも伊勢出身でも伊勢屋を名乗らなかった家(越後屋、大黒屋等)もあるし、又木綿問屋が70軒も並んでいた大伝馬町1丁目ではそのほとんどが伊勢出身者であった為、他の店と区別する上からも伊勢屋と云っている訳にはいかなかったようです。

まさに江戸、否日本の流通経済を一手に握っていた観がありました。


伊勢商人(3)(1992年8月発行)

 

「伊勢の射和の富山さまは四方白壁八ツ棟造り、前は切石切戸の御門、裏は大川(櫛田川)船が着く」と歌に歌われ、また井原西鶴にもその著「日本永代蔵」の中で「才覚を笠に着る大黒」と称された、大黒屋こと富山家を筆頭に、伊勢の商人達がなぜ江戸経済のリーダーになり得たか。今回はその確信的経営とも云うべき商いの道を辿って見たいと思います。

彼等の特色は、先ず本家と江戸店に、店舗を明確に分け、各店は各々完全な独立採算制に依り運営されておりました。本家は伊勢にあり、主人(経営者)が故郷より遠隔操作しつつ、富を蓄積してきました。そのことは長谷川家(松阪)の記録の中にも、年間約三億円余(二千両)の上納金が、江戸店より納められていたと残されております。

江戸店には伊勢出身の支配人、番頭などの幹部従業員がやはり地元出身者の従業員を指揮し、この強固な組織が着々とその地歩を固めてゆきました。

この地縁血縁集団は当時の江戸の人達の目にも余程奇異なものに写ったらしく「駿河町(三井家)ほぞの緒は皆伊勢にあり」という狂歌さえ流行しました。

こうした逞しい商魂は勿論、一朝一夕に出来たのではありません。遠く上古より、戦国時代の世へと、あの水銀から軽粉への商の道が、太平の世に一挙に花を開いたのです。

江戸の地に治安が定まるにつれ、人々の暮らしにやっと芽生えた心のゆとりが、木綿の需要を急速に広げてゆきました。

背後に本邦随一の品質を誇る綿の生産地(和漢三才図絵(正徳三年刊)に曰く、伊勢松坂を上とし、三河、摂州これに次ぐ)をひかえた松坂で、江戸っ子好みの粋な縞柄が考案され、その販売元が、先の伊勢商人グループであったと云う事が、伊勢商人達に江戸の地で、確乎不動の地位を築かせていったのです。

木綿が売れば、当然綿の作付けが増え、その為には大量の肥料が必要になり、また染色の仕事も共に繁盛を極めました。こうして松坂の地は、江戸の伊勢屋の隆盛と共に、干鰯屋(ホシカヤ)、紺屋と地場産業も栄えていったのです。


伊勢商人(4)(1992年9月発行)

 

「明月や花かと見えて綿畑」

初秋の空に冴えわたる、日の光に白々と浮かび上がる綿畑に、感慨に耽る芭蕉の姿を想像してみて下さい。 この綿畑は、遠く九十九里浜より運ばれる干鰯(ホシカ)によって育てられ、糸は法田の紺屋の壺の中で藍染めになり、土地の女達によって反物におられました。

当時の金で田地5反〜6反よりの生産高が年間10両足らずであったことに比しこれ等の女達は楽々と5両前後の現金を稼いでいたといわれますから、そのことだけでも当地の木綿が如何に品質よく又巧みに販売されていたかが解ります。

  そして4千駄とも5千駄とも言われる松坂木綿が、江戸の地で伊勢商人達によりさばかれていたのです。

  何時の世にも変わらぬ商いの道「ハイクオリティーにして、ユーザーの心をくすぐる商品を、確たる経営方針の下で販売する」

実にわれ等の先祖達は唯その事だけを実践していただけなのです。


伊勢商人(5)(1992年10月発行)

 

革新的経営で商いの道を拓き、江戸経済のリーダーとして活躍し、豊かな遊び心と故郷の文化に生き、伊勢路にルネサンスのはなを咲かせた商人達(越後屋三井・伊勢屋小津・丹波屋長谷川・伊豆蔵鈴木・射和蔵小野山・梅屋長井・大黒屋富山・射和国分勘兵ヱ等)も所詮は飯野の米を食み(ハミ)、てい水(櫛田川)に産湯をつかった、私達と同根の人。

今に生きる私達の血の中にも、その精神は脈々と流れている事を述べたかったのです。

東京は日本橋1丁目1番地の橋畔に聳えるK&Kビルをご存知ですか。
これぞ大江戸に名を馳せし伊勢商人の末裔の、栄光を今に伝える晴れ姿の1つなのです。(伊勢商人終わり)


鈴屋大人(1)(1992年12月発行)

 

『プロローグ』
大和民族のメッカ、お伊勢さん(天照大神)の鎮座まします伊勢の地は、その独特の街道と、行き交う人々によって、幕藩体制下には珍しい「情報社会」が成立していました。
特に松阪では、伊勢商人たちの豊かな富を基盤として、遊芸が盛況を呈し「小京都」とも云うべき有様でありました。そして当然の事として、町民たちの間には色々な文化サークルが組織されてゆきました。
著名な俳諧、和歌の会をはじめ、富商長井嘉左衛門を中心とした、漢籍、源氏物語など、学習論読など、アカデミックな活動も興りつつありました。
右の様に盛んな文化活動の中で最も規模が大きく内容が注目されるのが、鈴屋大人(ウシ)、本居宣長を中心とする「鈴屋」学習会でありました。江戸時代の学問や道徳の主流は、武士階級を地盤とする朱子学であり、「理想的人間観」によって組み立てられていましたが、宣長の国学はこれと異なり自由で革新的な物のあわれを尊重する「感性的人間観」に立脚したものであったから新興階級の商人の心に強く訴えたのであります。

『生い立ち』
郷土の生んだこの偉大なる学者は、享保15年(1730)5月7日、伊勢の国松坂に、小津定利・かつの子として生まれ、幼名を富之助と名付けられました。
父定利は当時の伊勢商人の類にもれず、江戸店3軒を構える商人でしたが、折からの木綿の販売不振に加えて番頭の使い込み等が重なり、経営の危機に直面しておりました。店の再建の為、自ら江戸におもむいた定利は不幸にも天文5年(1740)7月、無理がたたって不帰の人となりました。富之助10歳の夏の事です。


鈴屋大人(2)(1993年2月発行)

 

元文5年(1740)7月、江戸店再建のため出府していた父定利の突然の死は、富之助(宣長の幼名)一家にとってまさに青天の霹靂以上の衝撃でした。しかし気丈な母かつは遺言通り、養子宗五郎に家督を継がせ、富之助・はん・親次・やつの子供達と共に、翌年の5月には魚町に移り(本家は本町にあった)新しい生活に踏み出したのです。
富之助はやがて亡父の幼名、弥四郎をつぎ、漢籍など、逐次学問の世界へと馴染んでいく事になります。
古来より傑出した偉人には伝説的幼年時代の物語がつきものですが、鈴屋大人宣長先生にも、幾つもの神童物語が語り継がれております。(詳しくは松阪青年会議所発行の「鈴せんせい」を見られるとよい)そして15歳の12月元服した弥四郎は、翌年2月伊勢商人の常として、江戸の叔父小津源四郎のもとへ見習い奉公に上がりました。
しかし本の読めない商家の見習にはどうしても耐え切れず、僅か1年余りで帰松して来るのです。


鈴屋大人(3)(1993年3月発行)

 

江戸での商人見習を断念して帰松した弥四郎(宣長)であったが、代々の伊勢商人の血はそのまま学問に埋没してゆくのを許さず、再び商人の道を志して、山田(伊勢市)の紙商今井田家の養子となりました。しかし、此処でもやはり商売が身に入らず、22歳の12月にはまたまた離縁されて帰って来るのです。
一方家督を継いだ義兄定治の、江戸再建中の急死は彼をして、再度江戸下行となりました。
母かつは、こうした弥四郎の動向を眺めながらも、心の底には小津家の再興の夢を彼に託していたのですが、一向に直らぬ生来の学問好きに、終に観念し、又、医師小泉見卓の進めもあり、医術を以って家業とさせようと決心しました。
この賢明なる母の決断が後世我国文化史上に燦然と輝く大学者の誕生につながっていったのです。
京都での医術修行中(宝暦2〜7年、1752〜1757)弥四郎は小津姓を捨て先祖の姓「本居」を名乗り、儒学者堀景山の門に入り、いよいよ学問の道にのめり込んでゆきました。また僧契沖の書(枕詞抄(マクラコトバショ)に触発され、和歌にも心を奪われてゆきます。
一方医学の方でも、日々精進を重ねる中で、たまたま遭遇した痛ましい出来事に心に深く帰する所あり、小児科医武川幸順に師事し、小児科医を目指しておりました。
宝暦5年(1755)3月に、許されて医師となり、名も春庵と名乗りました。そしてこの当時から本名を本居宣長と呼ぶようになったのです。


鈴屋大人(4)(1993年4月発行)

 

昨年12月より三回にわたり、本居宣長についてその生い立ちを述べて参りました。最近では学校でも余り詳しくは習わない様ですが、それでも「古事記伝」の著者であると言う事くらいは誰でも知っております。それなら、「古事記伝」とは?と言う事になると、一寸困る人もいるのではないでしょうか?
今回はその事について少し述べてみたいと思います。「古事記」という日本最古の本があります。この書物の出来たのは712年(和銅5年)で、そのころまで語り継がれてきた天地開闢以来推古天皇(593)までの物語を漢字の音または意味に当てはめて作った物です。一方、宣長は京都時代より手がけた古典への憧れ、特に源氏物語、和歌への傾斜の中で、日本人古来の心は、「もののあわれを知る」心、即ち喜びは喜びとし、悲しみは悲しみとする素直なもので、儒教や仏教により幾重にもおおわれた教訓的、道徳的なものではない、何とかして、古来の日本人の真の心を知りたいと考えていました。


鈴屋大人(5)(1993年5月発行)

 

「源氏物語」は本居宣長にとって終生離れる事の出来ぬ心の故郷でした。源氏54帖の中に流れる「もののあわれを知る心」こそ、宣長をして、35年の歳月を「古事記」解明に駆り立てた、日本人の魂だったのです。そして、仏教や儒教により歪められない日本人の真の姿をつたえるものとしての「古事記」解明を自らのライフワークと決心したのでした。
わが国にはこれと同じ頃(720)に著された勅撰の正史「日本書紀」と言う本があります。しかし宣長が敢えて「古事記」にこだわった理由は「日本書紀」の正しい漢文表記に対し「古事記」は、同じように天皇家を中心とする国家統一の思想で貫かれてはいるが、所謂万葉仮名で、当時の語り言葉を綴り、多くの神話と共に赤裸々な人々の営みを織り込んだ一大ロマンであったからです。宣長が外来思想に侵される事の最も少ない史書として「古事記」を選んだ理由はこの辺にあったのだと思います。
しかし残念ながら、漢文で書かれた「日本書紀」の方は宣長の時代でも、さして支障なく読む事ができたようですが(1762年、津の谷川士清・・・コトスガ著、日本書紀通証)万葉仮名で書かれた「古事記」の方は最早非常に難解な古文書になりはてていました。宣長は日夜之が解明の糸口を探るべく苦闘しておりました。
明和元年5月25日はそうした宣長にとってあたかも夜明けに等しい日となりました。かねて入手し万葉集の研究書「冠辞考」(カンジコウ)の著者として、夢にまで見た心の師、加茂真淵が日野町新上屋に宿泊したのです。史上有名な「松阪の一夜」のシーンです。この若き学究と老泰斗との出会いこそ、我国国学の幕開けでもあったのです。名著「古事記伝」はこの日から延々35年の年月を経て完成したのです。日本人古来の心を知る為には「古事記」を研究する事である。「古事記」をときあかす為には万葉集の言葉を知ることが不可欠である。との老師おアドバイスがどれほどこの若き学究を奮い立たせたか、今も残る数々のエピソードがその事を物語っております。

万葉仮名 例

茜草指武良前野逝標野行野守者不見哉君之袖布流

あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖ふる      (額田王)


鈴屋大人(完)(1993年6月発行)

 

35年の歳月をかけて完成した「古事記伝」、44巻が我国、国学の根底を確立し、古代史、古代研究の典拠となった事は勿論、そこで展開されている議論の大枠は、今日でも広く支持されていると言う事は、何と素晴らしいことではありませんか。また、儒教・仏教を拝して、古道に帰るべきを説いた「もののあわれ」文学評論は「てにをは」活用などの研究において一時期を画しました。
初期の作「排芦小船」(アシワケコブネ)「紫文要領」更に「源氏物語玉の小櫛」「古今集遠鏡」「てにをは紐鏡」「詞の玉緒」「石上私淑言」(イソノカミササメコト)「直昆霊」(ナオビノミタマ)「玉勝間」「うひ山ぶみ」「玉鉾百首」「カラサメウタレコト」「玉くしげ」等、数々の著書が古典の解明に或いは文法の習得に、はたまた大和魂の振興に、江戸末期の文学史上赫々たる光彩を放っていた事を思うと、同じ郷土に生まれた者として、心あたたまる思いもするではありませんか。
そして最近流行の「萬葉集講座」などで現在もなお学説として生き続けている「萬葉集玉の小琴」の歌論等を聴くと、何とも云えぬ嬉しさが込み上げてくるのは私だけではありますまい。
商人の町松阪と言う封建社会においては些か特異な環境が、この世界にも誇る大学者を生んだ事を、松阪市民たるわれわれにはもっともっと認識し、そして先人達に負けず努力すべきではないでしょうか。
享和元年(1801)9月72歳を一期にこの一世の大学者も終に冥府の人となりました。前年自ら墓所と決めた山室山の山上に、門人平田篤胤の歌碑に寄り添われ、こよなく愛した山桜の木々に囲まれ「本居宣長奥墓(オクツキ)」は立っております。(樹敬寺にある本居家墓所の宣長の墓は空墓)
和田金・三松ばかりが松阪ではなくある時期、我が国の経済を左右した財界人、またこうした文化人達のひしめいていた松阪を時には静かに思い出して見ようでは有りませんか。

追記
このシリーズでは国学と言う言葉が随所に出て来ましたが、国学とは、記・紀・萬葉等の古典に基づいて、特に儒教・仏教渡来以前における我が国固有の生活及び精神を明らかにしようとする学問、近世学術の発展と国家意識の勃興とに伴って起こり、荷田春満(カダアズママロ)、加茂真淵、本居宣長、平田篤胤(国学の四大人)などその門流により確立された学問のことです。


幕末より明治へ(1)(1993年7月発行)

 

時が過ぎ、幕府の威令にも翳りが出はじめると、さしも泰平の文化を誇った松坂にもあわただしい気が忍び寄って参りました
狂気の様に「おかげ参り」の集団が街道を駆け抜けて行った(1830、天保1年)と思うと天保の飢饉が人々の心をいっそう暗くしてゆきました。
こうした折から浦賀に来航したペリー提督の噂はどれほどこの町の人々にも衝撃をあたえたことでしょう。
射和の学究竹川竹斎をして憂国の書『海防護国論』を著させたのは丁度このときです。(嘉永6年、1853)
慶応3年(1867)あの『ええじゃないかおどり』の悪夢が通りすぎた後、世は一気に明治の御世へと突入してゆきました。
明治4年(1871)廃藩置県により松坂は一時和歌山県に編入されましたが、11月、度会県(ワタライ)が出来ると直に之に編入されました。当時の戸数は3,367戸、人口は10,813人と記録に残されております。
明治9年三重県の発足とともに、わが町松坂はやっと現在の行政区域の中に入りました。


幕末より明治へ(2)(1993年8月発行)

 

明治9年(1876)新政府による地租改正は、織田信長の来寇以来久しく眠っていた先祖達の心に再び反骨の火を点じました。またたく内に全国に燃え広がって行った伊勢暴動の発端です。
魚見町の戸長中川氏が最初の火付け役となり、農民側に多くの犠牲者を出しながらも、「竹槍でどんと突き出す二分五厘」と歌にも歌われた、地租2.5%の減額を勝ち取ったのです。
今日、松阪といえば、すぐ「牛肉」と言う位、有名になった肉用牛の飼育は、早くも明治19年頃よりはじめられておりました。
そして同22年、やっと松坂が現在の松阪にかわりました。しかし市に昇格したのは、ぐっと遅れて昭和8年(1933)のことです。人口は34,546人でした。
しかし其の頃より我が国は日一日と暗黒の時代へと近づいて行きました。
以来60有余年、幾度かの変遷を経て今日の松阪が出来上がりました。

「わが町松阪」の来し方につき、長い間の拙文とのお付き合い、有難うございました。感謝を以って終了させて頂きます。