かおりの育児日記 (後編)




 この前に発表した日記で、神谷早苗に加えて田村明美という二人の赤ちゃんの面倒をみることになるまでを紹介しました。さて、その後どうなったと思います? 日記の続きを読んでみてね。




   【四月三〇日】
 大学は今日もお休み。昨年から、ゴールデンウィークの間は長期休暇になったんだ。先生が講義をしたって、勝手に休む学生が多いんだもの。
 だけどわたしは、休日だからってのんびりできない。二人の大きな赤ちゃんの面倒をみなきゃならないんだ。早苗を赤ちゃんにしちゃった頃には、ただ可愛いい、で済んでたんだけど、今はさすがにちょっと疲れてきちゃった。
 とは言うものの、わたしの赤ちゃんたちは本当によくできた子で、オシメの交換は自分たちで済ませちゃう。今朝も様子を見にベビールームに入ったんだけど、早苗がオネショで濡らしたオシメを明美が取替えてたの。床に敷いたオネショシーツの上でロンパースの股の部分を開いた早苗が横になってたんだけど、そのお尻の下に新しいオシメを敷きこんでるのが、淡いピンクのベビーワンピースを着てその下にオシメカバーを着けた明美なんだもの、思わずほのぼのした気持になっちゃった。
「ママ、早苗ちゃんのオシメ取替えてあげたの」わたしの姿を見つけた明美が、自慢気な声で言った。
「そう、明美は偉いわね」わたしは、明美の頭を撫ぜて言った。「本当なら、早苗の方がお姉さん(そうだよね、早苗の方が先に赤ちゃんになったんだもの)なのに、妹の明美にオシメを取替えてもらうなんて、おかしいわね」
「いいでしょ、昨日は私が明美ちゃんのオシメ取替えてあげたんだから。これで、おあいこよ」早苗が拗ねたように言う。
 わたしは、そんな二人の頬に交互に軽くキスをした。キスをしながら、明美が赤ちゃんの生活にすぐに馴れたことに感心していた。早苗という赤ちゃんとしての先輩(?)がいたおかげかしら。

   【五月 一日】
 今日も朝から洗濯に大忙し。早苗と明美はお互いにオシメの交換をするから、その分は楽だけど、それでも洗濯はわたしがしなくちゃいけない。双子の赤ちゃんを持つママの苦労がわかるような気がする。だって洗濯物なんて、ちょっとびっくりするくらいの量になっちゃうものね。
 洗濯の合間に朝食の用意もしなきゃ。早苗がベビーフードに飽きてきたようなので、今日はコーンフレークにしておこう。ウサギの絵がついた可愛いいお皿にコーンフレークを入れてミルクをかける。ベビールームの床に置いてあるテーブルの上にお皿と哺乳瓶を並べると、仲良くプラスチックブロックで遊んでいた早苗と明美がハイハイでやって来る。オシメでモコモコと膨れたお尻が大きく揺れるのを見ていると、わたしの顔に柔らかな表情が浮かんできた。向い合わせで床に座らせた二人のよだけかけを胸から外して、ビニル製の食事用エプロンを着けさせる。これなら少々汚しても、すぐに綺麗になる。それに、エプロンの下端が大きなポケットになってるから、こぼした食べ物が床に落ちることも少ないんだ。
 二人が食べ始めると、わたしは再び洗濯機の所に戻った。全自動の大型洗濯機はコースを終了したようで、静かになっていた。蓋を開けて、脱水された洗濯物をベランダに干してゆく。雪花柄や水玉模様のオシメ。最初の頃は赤ちゃん用の仕立あがりオシメを使ってたんだけど、途中からは、頑張ってわたしが縫った大きなオシメを使うようになっていた。赤ちゃん用のでも使えるんだけど、やっぱり、それなりのサイズの方がズレにくいからだ。それに、オシメを自分で縫うことが赤ちゃんへの愛情表現みたいにも思えたもの、裁縫が下手なんて言ってられない。たくさんのオシメが風になびいてる中へ、大きなベビー服も干してゆく。昨日着せていたロンパースやベビーワンピース、それに、明美がたくさんのオモラシをして濡らしちゃったレモン色のカバーオールも。
 その後、よだれかけやソックス、それにわたしの衣類を洗って干し終えた頃には、お昼が近づいていた。
 あーん、やっぱり疲れちゃうよ。

   【五月 二日】
 早苗と明美をお昼寝させて、わたしも休憩しようかな、と思った時、インターフォンの呼出チャイムが鳴った。どなたでしょうか、とダイニングルームの壁に掛っている受話器を取り上げて声をかける。
「田宮佳子です。突然、ごめんなさい」受話器からは、とても懐かしい声が流れてきた。田宮佳子――子供服メーカー『 NN』の営業次長。子供服やベビー服ばかりではいずれ営業が行き詰まることに気づき、大人用のベビー用品を提案して商品化した人だ。早苗のためのベビー服やオシメカバーも田宮さんの会社の商品で、色々とお世話になった人。
 わたしは慌てて玄関に向かった。先日わたしが出した手紙には、夏用のベビー服を買うために会社を訪れたい、と書いておいたんだけど、彼女の方から出向いてくれたんだろうか?
「ごめんなさいね。突然のことで驚いたでしょう?」わたしが開けたドアから入ってきた彼女は、軽く頭を下げた。
「いいんですよ。まぁ、こちらへ」わたしは彼女のバッグを手に取って、ダイニングルームへ案内した。

「だけど、どうしたんです? こちらへはお仕事ですか?」テーブルにティーカップを並べながら、わたしは田宮さんに尋ねてみた。本人の言うように、突然の来訪なんだから。
「実は、こちらに子会社を作ることになってね、私も出向することになったのよ」紅茶を一口すすって、彼女が説明を始めた。「その場所が、あなたのマンションの近くだって気づいて、下見がてら寄ってみたの。早苗ちゃんにも会ってみたいし、ね」
「へぇー、こちらへ転勤になるんですか。で、新しい会社はどんなことをするんです?」「うちは大人用のベビー服も作ってるでしょ、あなたも大事なお得意様だけど。でね、その部門を拡充してみようかって上層部が判断したの。それには、都会の方に営業所なり支社なりを設置した方がベターだってことになったのよ。そうやって話を詰めてるうちに、どうせなら大人用ベビー用品を専門に扱う新しいブランドを作ろう、なんてことになって、子会社設置という結論になったの」彼女は、やや満足気な表情を浮かべていた。そりゃそうよね、自分が開拓してきた分野が発展するんだもの、嬉しくないわけがないわ。
「すごいですね、また出世ですか?」わたしは、お世辞抜きで感心しちゃった。新しい分野に挑戦する上に、それを成功させちゃうんだもの。しかも、わたしが大好きな分野で。「ありがとう。来月末にもオープン予定だから、あなたの買物も楽になる筈よ。だから、夏物のベビー服を買うのは、その時でいいでしょ?」
「勿論ですよ。商品サンプル、たくさん用意しておいて下さいね」
「わかってるわよ」彼女は、小さくウィンクしてみせた。「そうそう、あなたの赤ちゃんに会ってみたいんだけど?」
「すみません、今、お昼寝してるんです。……よければ、今夜、お泊まりになりませなか? そうすれば、たっぷりと遊んでもらえるんですけど」
「……そうね。だけど、あなたは構わないの?」
「わたしなら、いいんです。是非そうして下さい」
「じゃ、お言葉に甘えようかしら。ホテルをキャンセルしちゃうわね」
 彼女が携帯電話でホテルにキャンセルを伝え、わたしたちは、早苗や明美が目を覚ますまでお茶を楽しむことにした。

 夕方近くになってやっと目を覚ました早苗と明美は、ベッドサイドで見知らぬ女性(田宮さんのことよ)が自分たちの顔を見つめているのに気づいて、大声でわたしを呼んだ。
「恥ずかしがらなくてもいいの。この人はね、ママのお友達なんだから」わたしは赤ちゃんたちの手を軽く握りながら、耳許で囁くように説明した。それでも、二人とも、体を固くしたままだった。
「ああ、こっちが早苗ちゃんね。ママが写真を送ってくれたから、すぐにわかったわ」田宮さんは、早苗のおでこに軽くキスをした。固い表情を浮かべていた早苗なのに、キスをされた途端に、すっと穏やかな表情に変わっていた。
「で、こっちは明美ちゃんかな? 明美ちゃんは初めて見るけど、とても可愛いいわね」彼女は、明美にも早苗と同じことをしてみせた。明美の表情も明るくなり、笑顔さえ見せていた。
 ゆっくりと赤ちゃん返りをしている早苗と明美の心には、子供のように、良い人と悪い人とを一目で見抜く直感が芽生えてるようだ。その直感が、田宮さんは良い人だよ、と二人に教えたんだろう。それにしても、大きな赤ちゃんをこんなにすぐに手なづけるなんて、彼女にはよほどの育児の才能があるのかしら? 案外、本当の赤ちゃんには嫌われたりすると、面白いんだけどな。
 一目で田宮さんになついちゃった早苗と明美は、夕食の後、彼女と一緒にお風呂に入った。金魚の玩具やシャワーで遊んでもらってるのか、なかなかバスルームから出てこなかった。湯当たりするんじゃないかって心配しちゃったくらい。その後も、長湯で疲れたからすぐに眠るかなと思ったけど、なかなか。
 田宮さんが二人にオシメをあててベビー服を着せる間はおとなしくしてたんだけど、その後は大騒ぎ。ねぇ遊ぼうよ、という二人に合わせて、彼女は大忙しだった。お馬さんになったり、ボールを転がしたり、大丈夫かなって心配になるほどの張り切りようだった。
 その時、わたしは理解したの。どうして彼女が大人用のベビー用品なんて考えついたのか、を。彼女は、大人の赤ちゃんの可愛らしさを知ってたんだ。どういう経緯かは知らないけど、大人の赤ちゃんがとっても可愛らしい存在だってことに、彼女は早くから気がついてたんだろう。だから、そんな赤ちゃんをもっと可愛らしくファッションアップしてあげたくて、大人用のベビー服を作ろうとしたに違いない。そんな彼女だからこそ、早苗と明美はすぐに気に入っちゃったんだし、彼女も二人と遊び続けてくれるんだ。

   【五月 三日】
 わたしが目を覚ましてみると、田宮さんは既に起きちゃってるみたいで、布団はきれいに片付けられていた。さすがに社会人、怠惰な学生のわたしとは大違い。
 髪をとかしてから着替えたわたしがベビールームに入ってみると、彼女はその部屋にいた。そして、明美のオシメカバーを開いて何かしているようだった。
「あら、おはよう。なんとなく気になって明美ちゃんのオシメを見てみたんだけど、やっぱり、ぐっしょりよ」わたしの気配に気づいたんだろう、振り返りながら声をかけてきた。
「ああ、すみません。それで、オシメの交換をしてくださってたんですか?」わたしの寝ぼけた頭が、彼女が何をしているのか、やっと理解した。
「そう。だけど、この子がオネショしちゃうのも、無理はないわね。昨夜あんなに遅くまで遊んでたんだもの、オシッコに気がついて目を覚ますのは無理よ」
 彼女の言う通りだった。早苗も明美も、あんなに遊んでたんだもの。だけど、本人も疲れちゃったろうに。

 赤ちゃんたちはまだ目を覚まさないだろうから、先に朝食をとっちゃうことにした。トーストにハムエッグ、それにグリーンサラダ。コーヒーを飲み終える頃、田宮さんが急に押し黙っちゃったの。どうしたんだろ?
「……あのね」しばらくしてから、何かを決心したように、彼女が口を開いた。「私も赤ちゃんが欲しくなっちゃったんだけど、明美ちゃんね、譲ってもらえないかしら?」
 そういうことだったのか。それを言うために決心を固めてたのか。わたしは考えた。二人とも、わたしの可愛いい赤ちゃんだ。でも二人もいると、疲れてきちゃうのも事実。さあ、どうしよう?




 結局、明美は田宮さんに引き取られることになりました。明美が目を覚ました後、本人に希望を聞いてみたんです。わたしや早苗と別れるのはイヤみたいだけど、田宮さんのことをとても気に入っちゃったみたいで、ずいぶん迷ってました。
「それじゃ、どうかしら。かおりママや早苗ちゃんの近くなら、私と一緒に生活してくれるかしら?」田宮さんが提案したんです。「実はね、新しい会社が入るビルの上階のマンションに私たちの住居を構える予定だったんだけど、変更するわ。この隣の部屋、今は空いてるみたいね?」
 彼女は早速、管理会社に電話しました。今のところ引合いはないから契約できますよ、という返事が返ってきました。これならお隣同士ね、ということで、明美はすんなりOKしちゃったんです。

 数日してゴールデンウィークは終わっちゃったんだけど、わたしたちは大学に行きませんでした。長い休暇中ずっと赤ちゃんとして生活していた早苗と明美には、大人に戻るつもりが無くなっちゃったからです。赤ちゃんを二人も抱えたわたしとしても、彼女たちを放って行ける筈がありません。そんなわけで、殆ど主婦のような生活の毎日です。

 日記の日付を、田宮さんが引っ越してきた日まで進めてみましょう。




   【六月二〇日】
 マンションの玄関ホール間近に、一台の乗用車が駐車した。その車に誘導されるようについてきていたトラックも並んで駐ったみたい。乗用車からおりた女性が、ベランダから見ているわたしたちに気づいたように手を振り始めた。田宮佳子だった。
 引っ越しセンターの作業員がテキパキと仕事を始め、トラックに載っていた荷物は驚くほど短時間で部屋に納められちゃった。もっとも、田宮さんが持ってきた荷物が少なかったから、という理由もあったんだけどね。独身の女性が一人で転勤、という場合に多くの荷物を持ってこようとはしないでしょうね。必要なさそうなものは処分しちゃっただろうし、必要な物も、こちらで新品を買った方が手っ取り早いもの。
 ただ、部屋に納められた荷物の整理を手伝ってみると、独身の女性には似つかわしくない物が随分とあることに気がついた――各種の育児用品やベビー服、オシメカバーなんかがダンボールの箱から出てきたんだ。とはいっても、それ等はこれから確かに必要になるものばかりだった。明美という大きな赤ちゃんを引き取ることになっている田宮さんにとって、そんな育児用品を前もって用意してくるのは当然のことだもの。それでも、大きなベビーベッドやベビー箪笥まで持ってきているのにはちょっと驚いちゃったけどね。
「ベビーベッドやベビー箪笥なんて、こちらの家具屋さんで手配できたのに。その方が、運賃も少しは安くできたんじゃないかしら?」わたしは、思わず溜息をついていた。
「いいのよ。これはね、取引先のメーカーがくれたものなの。大人用のベビー服やオシメカバーだけじゃ品揃えが足りないと感じた私が家具メーカーと打合せして試作してもらったものなんだけど、私の転勤を知ったメーカーの担当者がお餞別にって」お皿を食器棚に並べながら、彼女が笑顔で説明した。
 そして、彼女が取引先から貰ってきたのはベッドや箪笥だけじゃなかった。これ早苗ちゃんにね、って言って彼女が差しだした大きな箱を開けてみると、普通のものと比べると二回りほども大きな歩行器が出てきた。これなら、早苗が乗るのにピッタリのサイズだった。更に、大きな乳母車。昔ながらの乳母車というデザインじゃないけど、今の簡単なベビーバギーよりは本格的な造作になっていて、日光や風から赤ちゃんを守るのに便利そうな構造のものだった。
「気に入ってもらえたかしら? たまには外へ連れて行ってあげないと、赤ちゃんたちも運動不足になっちゃうものね。明美ちゃんのとお揃いになってるの」乳母車をしげしげと眺めているわたしに、彼女が楽しそうな声で話しかけてきた。

   【六月二一日】
 昨夜開いたささやかなパーティでワインを飲み過ぎたみたい。瞼がしっかりと開かないや。
 頭をすっきりさせようと思って、ベランダに出てみた。今年の梅雨は雨が少ないのか、今日もお日様が出ている。うーん、と背伸びすると、少しは気分が良くなるみたい。
「おはよう、気分はどう?」両腕を高く差し挙げたわたしの耳に、田宮さんの声が聞こえてきた。声の方に振り向くと、エプロン姿の彼女が洗濯物を干しているところだった。その洗濯物の殆どは、昨夜のうちに彼女のところへ引き取られた明美のオシメだった。それにオシメカバーとよだけかけが一枚ずつ。
「もう、お洗濯を済ませちゃったんですか? 早いんですね」わたしはノンビリした声をかける。
「もう一〇時よ」彼女が、クスクス笑いながら腕時計を振ってみせた。
 あらぁ、もうそんな時間なのか。どうりで、お日様が高いところに在るわけだ。わたしは慌てて室内に戻り、ベビールームに足を踏み入れた。パーティで疲れたのか、早苗はまだ小さな寝息をたてている。タオルケットをどけてオシメカバーに手を差し入れてみると、ぐっしょり濡れたオシメの感触が掌に伝わってきた。わたしがずっと眠っていたせいで、濡れたオシメのままで長い時間お尻が気持わるかったろうね。ごめんなさい、って小さな声で謝りながら、手早く新しいオシメと交換する。オシメを取替えてる間も、早苗は少しも目を開かなかった。よっぽど疲れたみたいね。
 それに、そうそう。昨夜、引き取られてゆく明美と別れるのが嫌で、さんざん泣いてたもの。泣き疲れちゃったのね、きっと。だけど、寂しがらなくてもいいのよ。明美と早苗はお隣同士だもの、いつでも会えるのよ。
 わたしは早苗の頬に軽くキスをしてから、ベビールームを出た。

   【六月二二日】
 お昼前、インターフォンのチャイムが鳴った。受話器からは田宮さんの声が聞こえた。
 わたしが玄関のドアを開けると、明美が乗った乳母車を押して田宮さんが入ってきた。
「いらっしゃい。だけど、会社の方は?」わたしはスリッパを揃えながら、田宮さんに尋ねてみた。
「うん。開業は明後日からでね。それまでは、日常生活の準備に使える時間なの」彼女は、乳母車から明美を抱き上げながら答えた。へぇー、見かけによらず力が強いんだ。
 抱き上げられた明美は、何故か、田宮さんの胸に顔をうずめるような仕草をしていた。何かを恥ずかしがってるみたい。
「明美ちゃん、どうかしたの?」田宮さんに尋ねてみた。
「実はね、ここに来るまでにお散歩してきたの」彼女はクスッと笑った。そして、明美を抱っこしたまま、わたしと並んで早苗の部屋へ向かって歩く。「ずっと部屋の中だと体に良くないから、乳母車に乗せて近くの公園まで行ってきたのよ。ただ、明美を乳母車に乗せる時には、そうは言わなかったの。早苗ちゃんのところへ行きましょう、って言ったから、素直に乳母車に乗ったんでしょうね。で、実際にはエレベーターで下へ降りてったでしょ。明美は、乳母車からおりる、って騒いだものよ。でも、自分ではおりられないような構造になってるの。私は明美の言葉を無視して、玄関ホールから外に出たわ。歩道にも公園にも、わりとたくさんの人がいるものね。散歩中のお年寄りなんかが、赤ちゃんですか、ちょっと見せて下さいな、なんて寄ってきてね、明美を見て驚いてたわ。で、見られる度に明美は恥ずかしそうにするんだけど、どうしようもないものね。少し散歩してマンションの中に戻った時には、こんなふうに私にしがみついたままなの」
 彼女の説明を聞いて、わたしは明美の態度を理解した。精神が少しずつ赤ちゃん返りしてる、っていっても、まだまだ心の中には大人の部分が多いんだもの、いきなり自分のベビースタイルを見知らぬ人に見られちゃ、恥ずかしがるのが当然よ。田宮さんも、なかなか大胆なことをするのね。ビックリしちゃった。
 ずっと田宮さんにしがみついたままの明美でも、早苗の部屋に入った時には、掌をかえしたように早苗のところへ近づいていった。二人の赤ちゃんは、きゃっきゃっと嬉しそうな声をあげて、一緒に転げ回ったりヌイグルミを取り合いっこして遊び始めた。そんな赤ちゃんを見つめる田宮さんの目は、既に母親のように優し気なものになっていた。

 四人で昼食をとり、しばらく早苗と明美を遊ばせていると、いつのまにか二人は眠っていた。並んで眠っている赤ちゃんたちのお腹にタオルケットをかけ、わたしたちはお茶にすることにした。
「ねぇ、田宮さん」オレンジペコの香りを鼻孔に受けながら、わたしは彼女に尋ねてみた。「明美ちゃんのことなんだけど、いきなり他人の視線に曝すのはどうかしら? 本人にしてみれば、ものすごい羞恥を感じちゃうんじゃないかしら」
「……そうでしょうね」彼女は右手に持っていたカップをテーブルの上に置いた。「でも、それが私の狙いでもあるの」
「どういうことかしら?」
「このまま、赤ちゃんになった明美を部屋から出さないつもりなら、今までのままでもいいかもしれない。でもね、世間とまるきりの没交渉のままで生活できるわけじゃないわ。万が一だけど、私が出かけている間にマンションが火事になったら、どうなるかしら? ベビースタイルを他人に見られることを恥ずかしがってるばかりじゃ、助けに来てくれた消防士からも、明美は逃げ出すかもしれないでしょ。そうさせないためにも、赤ちゃんである自分の姿を他の人に見られることに慣れてもらいたいの。それに、そうなれば、明美をマンションに残したままで私が出かけることもなくなる――ベビースタイルの明美を連れて、堂々と外出することができるんだもの。そのための第一段階が今朝の散歩だったのよ」 わたしは納得した。
 早苗や明美を大きな赤ちゃんにしちゃったのは、わたしだ。そして、いろいろなことがあったけど、二人とも赤ちゃんになった自分に満足しているように見える。それなら、今の姿の早苗たちを世間にアピールし、それなりの生活を送ることをこちらから宣言することこそ、わたしたちの権利であり義務でもある筈だと思う。アメリカでゲイの人々が自分たちの存在を大きく主張しているように、大人の赤ちゃんの可愛らしさを知ったわたしたちは、それを大声で叫ぶことはできないとしても、その性癖を恥じてはいけない筈だ。
 本当の赤ちゃんは可愛らしいし、犬や小鳥も可愛いい。そして、蛇や虫を可愛らしく思う人もいる。誰が何に可愛らしさを感じても、正しいとか間違っているとかいう尺度でとらえる必要はないことだ。
「……そうですね、田宮さんのおっしゃる通りなんでしょうね」わたしは小さく頷いた。そして、理解していた――彼女が早苗に持ってきてくれた乳母車は明美のものとお揃いだと言っていた。早苗にも明美と同じようにしてあげなさいよ、という彼女からのメッセージが乳母車に込められているんだろう。
「ところで、話は変わるんですけど。明日から会社が始まるんでしょう? 明美ちゃんはどうするんです? なんなら、わたしが面倒みておきましょうか」わたしは、気になっていたことを言葉にした。
「ううん、御好意だけいただくわ。あなたから明美を引き取っちゃった上に、都合の悪い時だけ面倒みてよ、なんて言えるものじゃないもの」彼女は顔を大きく横に振って答えた。「それに、新しい会社には託児室も設けられてるの。よかったら、早苗ちゃんと見学に来ない? 明日はオープンのセレモニーだけで実務は無いだろうから、こんなに可愛いい赤ちゃんが来てくれたら、みんな喜ぶわよ」

   【六月二三日】
 今日から、田宮さんの新しい会社が業務を開始する。昨日の彼女の言葉に甘えて、わたしと早苗もついて行くことにした。お出かけ用のレースのフリルがいっぱいついたベビーワンピースを着せ、新品のベビー帽子を被らせると、早苗は恥ずかしそうに顔を染めた。やはり、この格好で外出することに羞恥を感じるんだろう。丈の短いベビーワンピースの裾から、ピンクのオシメカバーが半分ほど見えている。そのオシメカバーから出ている脚が赤く染まり、小刻みに震えている。その姿がまた可愛いいのよ。
 わたしは早苗の手を強く握り、玄関のドアを開けた。そこには、ウサギのアップリケがついたよだれかけとイエローのロンパースを着た明美が立っていた。ベビー帽子は被らずに、髪の毛は左右二ケ所で大きなリボンでくくってある。わたしは、短めのソックスを履いた明美の脚が少しO脚ぎみに開いていることに気づいた。外出先でオシッコが外に漏れちゃわないようにオシメを普段より多くあてられてて、そのせいで脚が真っ直に伸ばせないんだろう。そういえば、ヒップラインの膨らみもいつもよりも目立つみたい。
「おはようございます」田宮さんが声をかけてくる。
 わたしも挨拶を返して、わたしたちはそれぞれの赤ちゃんの手を引いて歩き始めた。
 早苗と同様、わたしも恥ずかしくないわけがなかった。立派な成人に赤ちゃんの格好をさせて連れているんだもの、昨日の田宮さんの言葉に納得してはいても、なかなか心の底までは同調できないもんだ。
 駐車場まで歩いてゆく途中、わたしたちを目にした人々は様々な反応をみせてくれた。何かのパフォーマンスかと尋ねてくる人、横目でちらちらと見るものの何も見ていないようなふりをする人、あからさまな侮蔑の表情を顔に浮かべる人、はっきりと驚きの表情になりながらもすぐに笑顔を浮かべる人等。
 次第に、こちらが観察していて面白く思えてきた。そうなれば、後は楽なものだった。周囲の人たちの反応を楽しんでやろうって開き直っちゃった。同時に、さきほどまでの羞恥心はどこかに吹き飛んでしまった。

 田宮さんの車は、会社の地下に在る駐車場に駐った。そこから、玄関に回らずに専用の階段で一階フロアに上がる。既に出社していた社員は早苗や明美の姿を見ても、驚くような気配を見せなかった。それどころか、おお、とでも言うように目を細めて無言で歓迎の意を表してくれる人が多かった。特に、若い女子社員などは近くまで寄ってくると、早苗や明美の頭を撫ぜたりポケットからキャンディーを取り出して握らせようとした。
 軽い会釈を繰返しながら、田宮さんは廊下を歩いて行った。やがて突き当たりのドアの前で立ち止まると、小さなボタンを押す。
「はい?」若い女性の声が聞こえてきた。
「田宮です」田宮さんが応える。
 ドアが内側から開き、エプロン姿の女性が現われた。ここが託児室になっていて、この女性がベビーシッターなんだろう。でも、大丈夫なのかしら? いくら従業員用の託児室だっていっても、こんな大きな赤ちゃんまで預かってくれるのかしら?
 だけど、わたしの心配は無用だった。
「明美ちゃんと早苗ちゃん、ですね。お預かりします」エプロン姿の女性が、はっきりした口調で言った。そして、わたしの顔を見て言葉を続けた。「早苗ちゃんのお母様ですね、初めまして。私、ベビーシッターの佐伯芳美です。よろしく」
「こちらこそ」
「もうすぐ、オープニングセレモニーが始まるわ。あなたも御得意様として参加手続きをしておいたから、この子たちは佐伯さんに任せて、私と一緒に参加してちょうだい」挨拶をしているわたしに、田宮さんが声をかけてきた。
 じゃよろしく、と言って、わたしたちは廊下を戻って行った。わたしたちが託児室の前から立ち去ろうとした時には、早苗と明美は既に芳美になついちゃってるみたいだった。田宮さんと同じ雰囲気を彼女から感じたのかもしれない。
 三階のホールが今日のセレモニーの会場になっていた。普段は会議室に使う部屋らしく、ホワイトボードやスクリーン等が演壇の後ろに置かれている。
 親会社の社長や仕入先、それに納入先の代表が順番に挨拶に立ち、退屈なスピーチを繰り返していた。こんなことなら託児室で遊んでた方がよかったかな、なんて思った頃にやっと挨拶が終わって、社内の見学ということになった。七〜八人で一つのグループになって、各グループに案内役の社員がつくことになる。
「それでは、『アーバンキッズ』の社内を御案内いたします。どうぞ」ふーん、『アーバンキッズ』って社名なのか。初めて知っちゃった。
 わたしたちのグループは若い女子社員に先導されて、ゆっくりと二階に降りて行った。このフロアには大小さまざまな商談室が設けてあって、プライバシー保護のためか、それぞれの商談室は防音壁で囲まれている。フロアの中央は商品サンプルの展示場として構成されていて、色とりどりのベビー服やオシメカバーがハンガーに掛けられたり、棚に置いてあったりする。通路はゆったりとってあるから、商品を手に取って観察する時もゆっくりと時間をかけられるようだ。その奥は大物の育児用品コーナーになっている。大きなサイズのベビーベッドや乳母車、歩行器やオマルといったものが並べられていて、なんともいえない迫力さえ感じられた。

   【六月二四日】
 田宮さんと明美が会社へ行く時、わたしたちも駐車場まで見送ることにした。明美は託児室の芳美になついちゃったせいか、会社へついて行くのが楽しみみたい。早苗は昨日よりマシとはいえ、まだまだベビースタイルを他人に見られるのが恥ずかしいようで、わたしの後ろに隠れるようにして歩いていた。
 田宮さんの車が出た後、わたしは早苗に訓練をすることにした。今までは可愛がってばかりだったけど、田宮さんが言っていたように、そろそろ世間に慣れるようにしておいた方がいいもの。
 一旦部屋に戻ったわたしは、大きなリュックサックに早苗のオシメやオシメカバーなんかを詰めこんだ。このリュックサックは昨日、田宮さんの会社で早速買ったものなんだけど、フタが子猫の顔になってて可愛らしいのよ。ほら、ハイキングに行く時なんか、オシメの入った小っちゃなリュックサックを赤ちゃんが背負ってるでしょ。あれの大きなやつなの。それから、玄関で早苗を歩行器にのせちゃう。一度のっちゃうと自分の力だけじゃ出てこられないようになってるから、この歩行器はなかなか役に立つんだ。
 これからどうするの?とでも言いたげな表情の早苗をのせた歩行器を、わたしは玄関から通路に押し出した。そうしてエレベーターまで押して行く。その頃にはわたしが何をしようとしてるのか、早苗にもわかったみたい。手足を大きく振って嫌がってみせた。でも、そんなことには構わずにエレベーターで一階まで降りて行く。
 一階の玄関ホールには何人かの人がいて、お喋べりを楽しんでいた。エレベーターのドアが開いてわたしたちが姿を見せると、そのお喋べりが不意に止まっちゃって、妙な静けさがホールに満ちた。わたしたちにどう反応すればいいのかわからずに、口を開けたり閉じたりしながらも声が出ないようだった。早苗はまっ赤に染まった顔をうつむけちゃったけど、わたしは視線の中を平然と歩行器を押して行った。わたしたちがガラス戸の外に出た途端、背後がワッと騒がしくなった。それでも、わたしたちの後をつけて来ようとする人はいないみたい。
 部屋の中と違って、外で歩行器を押すのは大変だった。路面が荒れてるし小石が邪魔をするしで予想以上に力が要ったけれど、なんとか公園に辿りついた。ベンチに腰かけてお喋べりしている人や、子供を遊ばせている若い母親など、梅雨の間の晴れ間を楽しもうとする人たちが公園には大勢いた。わたしはそんな人たちの中に歩行器を押して行くと、オシメなんかを入れてきたリュックサックを歩行器に付いているフックに提げた。そして歩行器をそこに置いたまま、公園の出口に戻って行った。遠ざかるわたしの姿を、早苗はぽかーんと口を開けて見てた。公園に連れ出されることは覚悟してたけど、まさか一人で置き去りにされるなんて思ってもみなかったんだろう。
 わたしは早足で公園を出た後、もう一度そっと早苗のいる所に近づいた。但し早苗や周囲の人には気づかれないよう、低い木の茂みに体を隠しながら、ね。
 しばらくの間は、誰も早苗を見ながらも近くには寄ろうとしなかった。そうだろうね。突然、赤ちゃんの格好をした年頃の女の子が(それも歩行器にのって)現われたんだもの、反応のしようがないよね。みんな、ぽかんとした表情で見てるだけだった。
 けれど。やがて、一人の若い母親がおずおずと歩行器に近づいていった。そして、恥ずかしそうに下をむいている早苗の顔をまじまじと見てから、友人らしい女性に声をかけた。「ねぇねぇ、二軒隣の、ほら……高木さんとこの、じゃないかしら?」
「そうみたいね。でも、どういうつもりかしら? この子を一人で置いてくなんて」友人らしい女性が相槌を打っていた。
 その会話で、その二人がわたしと同じマンションの住人だと思い出した。しかも、同じフロアの人だ。母親は、山口美香という名前だったっけ。もうひとりは……石垣舞子だったかな? 三月の下旬から大学生のわたしのベランダにベビー服が干してあることに気づいて、何かあると思ってたことでしょうね。そこにもってきて一昨日から田宮さんが明美を外に連れ出し始めたもんだから、彼女たちは早苗とわたしの関係にも気がついた筈だ。だから、早苗の顔を一目見て、わたしの部屋に同居してることを言い当てたんだろう。
 そうしているうちに、彼女がつれている子供が泣き始めた。どうしたの?と言いながら、彼女はその女の子を抱き上げようとした。けれど、その手は途中で止まっちゃった。
「オモラシしちゃったのね。ダメでしょ、三歳にもなって」彼女は子供が泣き出した原因に気づくと、手早くスカートとパンツを脱がせながら優しく叱った。そうしておいて、手に提げていた袋から着替えを取り出して、さっさと着替えさせる。
「ねぇ、あの子はオモラシ大丈夫かな。ちょっと見てあげたら?」その様子を見ていた舞子が、クスクス笑いながら、早苗の方を指差した。
「えー、だけど」
「あなたができないんなら、私がやってみるわね」
「……そうね。置き去りになっちゃってるんだもの、そのくらいしてあげた方がいいかもね」
 舞子は、歩行器に座っている早苗のオシメカバーの中に静かに手を差し入れた。早苗はビクッと体を震わせてから、いやいやをするように激しく首を振った。
 オシメカバーに手を入れて感触を確かめていた彼女はその手を引き抜くと、信じられないような表情を顔に浮かべた。
「やだ、この子ったら、ほんとにオモラシしちゃってるわ。オシメカバーの中はびしょびしょよ」ハンカチで拭いた手を見ながら、彼女は美香に説明した。
「あらあら、可哀想に。どこかに替えのオシメがないかしら。探してみるわ」美香は、早苗が本当にオシメを汚していることに当惑しながらも、本当に可哀想というふうな表情に変わっていた。それまでの好奇心いっぱいといった表情はどこかに消えちゃって、知り合いの赤ちゃんがオモラシしちゃったことを心から可哀想がってるみたい。
 やがて、彼女はリュックサックに気づいた。その中にオシメやオシメカバーが入っていることを確認すると、二人で早苗を歩行器からおろしていた。ベンチに早苗の体を横たえさせると、大きなサイズのオシメに手をやきながらも、その交換を済ませていった。大きな赤ちゃんがオシメを取替えられている様子を、三歳の女の子が興味いっぱいの顔つきで見守っていた。その子にとっては、早苗は本当の赤ちゃんに思えたことでしょうね。
「はい、できたわ。サッちゃん、この子のママが帰ってくるまで、遊んであげなさいね」なんとかオシメの交換を終えた美香が、子供に言っていた。
 サッちゃん、と呼ばれた子は大きく頷くと、早苗の手を引いて芝生の方へ歩き始めた。予想外のできごとにうなだれていた早苗も、サッちゃんの手に引かれて、やがてベンチから立ち上がった。二人は芝生の上で遊び始めたけど、もちろん、サッちゃんが全てをリードしているようだった。だって、サッちゃんの方が早苗よりもお姉さんだもの。

   【六月二五日】
 今日は朝から雨が降ってる。やっと梅雨らしい天気になったみたい。
 おかげで、早苗を外に連れ出すことができない。昨日サッちゃんと公園で遊んだことで、早苗は外に出ることをあまり嫌がらなくなったのに、今日一日このまま部屋の中に居ると、今までと同じに戻っちゃうんじゃないかしら。それが気がかり。
 それに、洗濯物を外に干せないから、部屋の中に干すことになる。そのおかげで、ただでさえ湿っぽい部屋の中がますます湿っぽくなっちゃう。乾燥機を使えばいいんだろうけど、早苗の大きなオシメやベビー服をたくさん乾かすには、信じられないほどの電気代が要るんだよ。早苗の衣類を揃えるのにお金をだいぶ使っちゃったし、生活費も倍になっちゃったから、いくらかでも倹約しなきゃ。やっと洗濯物を干し終えてみると、部屋の中は、万国旗がたなびく小学校の運動会みたいになっちゃった。そこここに色とりどりの布(オシメとかオシメカバーだよ)が天井からぶらさがって、立って歩くのが一苦労。
 そうこうしていると、インターフォンのチャイムが鳴った。田宮さんは明美を連れて会社に行ってるし、誰だろう?と思いながら受話器を耳に当てた。
「サッちゃんです。早苗ちゃんと遊んであげるの」受話器からは、昨日公園で知り合った女の子の声が流れてきた。
 わたしが玄関のドアを開くと、サッちゃんと母親の山口美香が立っていた。
「朝からごめんなさいね、この子がどうしても早苗ちゃんと遊ぶんだって言い張るもんだから」わたしの顔を見た美香が小さく頭を下げた。
「いいんですよ。サッちゃんに遊んでもらった方が、早苗にも良い影響を与えるだろうし」わたしは手を振りながら答えた。

 昨日、サッちゃんと早苗が遊び始めてしばらくしてから、わたしはみんなの前に姿を現した。そこでいろいろあったんだけど、そのことは省略しておこう。とにかく、山口美香や石垣舞子、その他に公園に来ていた同じマンションの住人には、わたしと早苗の関係をちゃんと説明した。もちろん、田宮さんと明美のことも。そうして、みんなは漠然とだけど、わたしたちのことを理解してくれた。まだまだ完全にとはいかないけど、それは仕方ない。れっきとした大人が赤ちゃんとして生活する、なんてことを最初から理解してもらえるなんて思ってはいない。ただ、そういうこともあるのか、くらいには知ってもらえたと思う。
 だから、最初の頃は好奇の目で見ていたみんなも、わたしたちがマンションに帰る頃には、近所の赤ちゃんを見るような目に変わったんだ。もっとも、明美の場合はオシメを取替えてくれた時点で、早苗を本当の赤ちゃんみたいに思ってたみたいだけどね。
 そして、この一件は早苗の心に大きな影響を与えたみたいだった――外に出ることや他人にベビースタイルを見られることを、嫌がらなくなり始めたみたいなんだ。そりゃ、恥ずかしそうにはするけど、最初の日に比べれば大違いだった。本当の赤ちゃんがちょっと人みしりする、くらいになったんだもの。これで、早苗の心の赤ちゃん返りは一段と進んだことだろう。

「早苗ちゃん、今日もお姉ちゃんが遊んであげるわね」サッちゃんが、早苗の頭を撫ぜながら優しく言っていた。
 自分よりも随分と年下の少女から赤ちゃん扱いされたことに羞恥を感じながらも、早苗は、うん、と頷いていた。赤ちゃん返りの進んだ心は、ますます素直なものになってるんだろう。
 しばらく遊んだ二人の目の前に、わたしはプリンのお皿を置いた。サッちゃんは喜んで食べようとしたけど、プリンをすくったスプーンが唇の前で止まった。どうしたのかな?とわたしが見てると、サッちゃんはスプーンを早苗の口に持っていったんだ。
「お姉ちゃんはあとでいいから、早苗ちゃん、先に食べなさいね。はい、あーん」サッちゃんは、早苗に食べさせてあげることにしたようだ。なかなかのお姉ちゃんぶりだわ。早苗は口を大きく開けて、サッちゃんが運ぶスプーンを咥えた。そうして、スプーンにのっていたプリンを口の中に運びこむ。だけど、ちょっと失敗しちゃったみたい。小さなかけらが唇の端に残っちゃったんだ。目ざとくそれに気づいたサッちゃんが、よちよち、なんて言いながらよだれかけの端で拭き取っていた。
 おやつの後は、オシメの交換だった。ぐっしょり濡れた動物柄のオシメが新しいオシメに取替えられる様子を、サッちゃんは興味深く見ていた。
「早苗ちゃん、いつになったら、自分でオシッコできるんだろ?」サッちゃんは、美香に小さな声で尋ねていた。
「さあ、いつかしらね。でも、サッちゃんも時々オモラシしちゃうもの、早苗ちゃんみたいにオシメあてとこうか?」美香が、おどけた口調で答えていた。
「やだよ。サッちゃん、赤ちゃんじゃないもん」サッちゃんが真面目な顔で反論した。




 サッちゃんという遊び相手もできたし、同じマンションの人たちからも可愛がられるようになって、早苗は窮屈な部屋の中から出るようになりました。普通の赤ちゃんがそうするように、公園ではしゃいだり、マンションの通路で転げたりしています。
 休日には、サッちゃんと早苗それに明美の三人が一緒に遊ぶ光景がよく見られます。この頃では、サッちゃんの友達もたくさん一緒に遊んでるようです。それだけ、早苗も明美も赤ちゃんとして認識されるようになったんだと、わたしは考えています。
 田宮さんの会社『アーバンキッズ』も順調らしいです。内緒の話だけど、このマンションに住んでる人も何人か商品サンプルを見に行ってるようです。ひょっとしたら、近いうちに早苗や明美の仲間が増えることになるかもしれません。大きな赤ちゃんたちが一緒に遊ぶ光景が見られることになるかもしれないんです。ほのぼのした光景になることでしょうね。そうなったら、大きな赤ちゃんを預かってくれる託児所が必要になるかもしれません。『アーバンキッズ』の託児室みたいに。

 さて、『かおりの育児日記』の発表は、この辺りで終わろうかと思います。やっと早苗が本当の赤ちゃんらしくなった今からが「育児」の期間だから、この後のことも発表したいとは思うんですけど、ちゃんとした日記をつけてる余裕がなくなっちゃうと思うんです。ほんとの「育児」なんて、それこそ体力勝負でしょうから、人様に読んでもらえるような立派な日記なんて書く体力が残ってるとは思えません。だから、これで一段落にします。
 早苗を立派に育てあげたら、その時にまた後日談みたいなものを発表したいと思います。 じゃ。
 いつか、どこかで。


P.S.
 マンションの近くに来ることがあったら、是非とも立ち寄って下さい。わたしも早苗も大歓迎しますから。そうそう、『アーバンキッズ』へも案内しますよ。田宮さんと明美が喜んで迎えてくれると思います。



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