誠と真琴


高木かおり



 船場など大阪の古くからある商家では、女の子が生まれるとめでたいとされる風潮がある。跡継ぎとして男の子の誕生を待ち望む世間一般の感覚からすると、これは少し不思議なことに思えるかもしれない。だが、その理由を聞けば、なるほどと納得できるに違いない。それは、古くから続く商家をこれからも末永く存続させるための知恵なのだ。
 少しばかり大きな商いをしていると、もしもその商売が立ち行かなくなった場合、多くの従業員の生活にまで多大な影響を及ぼしてしまう。だから、誰が家督を継ぐのかということは切実な問題だ。なにせ、普通の家のように長男が家を相続しても、当の長男に商いの才覚が無ければたちまちにして大勢の人間の生活が困窮してしまうのだから。それなら、いっそ、才覚に長けた男性を外部から招き入れた方がよい。そうするためにこそ、女の子の誕生が歓迎されるというわけだ。いずれ成長した娘の婿養子として商売気あふれる男を迎えるために。それがあって、女の子の誕生を慶ぶという風潮がうまれたのだ。




 随分と華やかな結婚披露パーティーだった。
 佐倉家も藤代家も、本町の一角に立派な本社ビルを構え、業界の中でも中堅どころと評される企業の創業者の家系で、両家ともに創業時から現在に至るまでそれぞれの会社のオーナー経営者であり続けている。そんな、名門として並び立っている佐倉家の長男と藤代家の次女との結婚披露パーティーが華やかでないわけがない。
 けれど、その華やかさは、結婚披露パーティーという言葉から素直に想像されるような華やかさとは少しばかり異なっているようだった。新婦の友人の若い女性が何人かで恥ずかしそうにマイクを握って歌ったり、新郎の友人が新郎の学生時代の失敗を照れたような笑顔で披露したりするたびに親戚のテーブルから笑い声があがって、その笑い声が高い天井に響いてキャンドルの炎が揺らめいたりするような暖かな華やかさではなく、会場中が煌めいていてテーブルを飾る花もとても豪華なのに、どこか冷たい感じがする、そんな無機質な華やかさだった。
 もっとも、佐倉家の長男・誠と藤代家の次女・真奈美の結婚が二人の恋愛の結果ではなく、きわめてビジネスライクな経緯によって成立したのだから、それも仕方のないところかもしれない。
 両家の会社とも、繊維業界の中堅どころだ。ただ、同じ繊維業界とはいっても、佐倉家が呉服の卸売りから始めて今は小売業のチェーン店を展開する『株式会社サクラ』として流通業を生業にしているのに対して、染め物から身を起こして現在は総合アパレルメーカーになったのが『藤企画株式会社』のオーナーたる藤代家であるように、両者の業態は異なっている。これまでは順調に業績を伸ばしてきた両社だが、人件費を低く抑えることのできる中国や東南アジアに生産拠点を構えた業者が破格の安値でカジュアルウェアの販売を始めるなど商取引の環境が劇的に変化し始めたことは強く感じ取っていた。そこで、業績が落ちる前に手を打とうと広く情報を集め始めたところに両家の出会いがあった。もともと同じ業界団体に属してはいたものの、両者の業態の違いのせいで本格的な情報交換をするような間柄ではなかったのが、将来に対する強い危機感のために始めた情報収集の中で互いに相手の存在を強く意識し始めたといったところだ。互いに流通業どうしだったりメーカーどうしだっりしたら、むしろ反目があったかもしれない。だが、この時は両者の業態の違いが幸いした。多くの小売店のネットワークを持つ佐倉家と、優れた企画力を持ったメーカーである藤代家。互いに補完し合うことのできる理想的な提携相手の出会いだった。
 提携の話は速やかに進むかに思えた。けれど、問題があった。交渉が進む中で、互いに、相手が自分の会社を利用するつもりだけなのではないだろうかと疑心暗鬼になってしまったのだ。それまでに大きな取引の実績がある相手ならそういうこともなかったかもしれないが、殆ど取引のなかった両者の間にそういう疑念が湧き起こるのは、当然といえば当然だった。それでも、日増しに厳しくなってくるビジネス環境の中、この提携は是非とも実現させなければならないこともまた明らかだった。そこで両家の家長が採ったのは、古典的とさえ言われるような方法だった。古典的ではあるが、オーナーが経営者を務める会社どうしが信頼関係を築くには極めて確実な方法。それは、両家が血縁関係になることだ。――そのために佐倉誠と藤代真奈美の結婚が決まった。
 だから、二人の結婚披露パーティーに暖かな華やかさを求めるのは最初から無理な話だった。それに加えて、パーティーの会場には、誠や真奈美の友人達に比べて圧倒的に大勢の取引業者が並んでいた。それだけでなく、サクラと藤企画の提携を記事にするために業界紙の記者が何人も会場に姿をみせていたし、地方紙とはいえ一般新聞の経済担当の記者もカメラマンを連れて会場入りしていた。むろん、記者達は無断で入りこんできたのではない。両家の会社が広報部を通じて正式な招待状を送り届けていたのだ。要するに、このパーティーは、二人の結婚披露というよりも、佐倉と藤波という二つの家そのものの披露であり、サクラと藤企画の結びつきの強さを披露するための場なのだ。そう、両社の提携を世間にアピールすることこそに主眼が置かれていた。それだから、まるで取引先相手の大がかりなプレゼンテーションのような、機械的で冷たい華やかさに満ちた披露パーティーになってしまうのも、当然と言えば当然の結果だった。

 どこか気怠げな表情の上に無理に作った笑みを浮かべた誠と真奈美は、シャンパングラスを持った手を胸元に軽くささげながら、招待客たちを相手に、いつ終わるともしれない、うわべだけの談笑を続けるしかなかった。




 陰鬱でさえあった結婚披露パーティーから一年が経過しても、二人は本当の意味での夫婦にはなりえなかった。形だけのまるでお義理だといわんばかりのセックスもそうだし、何を話すわけでもない二人きりの食卓もそうだ。二人はただ、郊外の洒落た新居に同居しているだけの関係でしかなかった。
 そんなだから誠が不倫に走ったのだというよりも、むしろ、誠の不倫があったから二人の仲がそんなだといった方が正しいのかもしれない。
 もともと、誠には、学生時代から交際を続けている女性がいた。梅井綾野という名で、誠と同い年だ。個人経営ながら綾野の生家も繊維業を生業としていて、家どうしもさして離れていないため、小学校の頃から遠い仲ではなかった。互いに意識し始めたのは高校時代で、その後たまたま同じ大学の経済学部に進んだこともあって、学生時代から友人達の間では公認の仲になっていた。長男で一人っ子ということで大事に育てられたせいなのか、それとも生まれつきの性格なのか、誠にはどこか線の細いところがあった。少しばかり優柔不断で、周りから何か言われるとすぐにその言葉に従ってしまうような、気の弱いところがあった。そうして、そんな性格そのまま、体の方もお世辞にもがっしりしているとはいえなかった。むしろ華奢な体格で、身長も一メートル六十センチそこそこと、今どきの男性としては小柄な体つきだった。それに対して綾野は、何があっても明るい笑顔を絶やさないおおらかな性格と、誠よりも頭一つ背の高い、どちらかといえばぽっちゃりした体格の持ち主だった。そんな対照的な二人だからこそなのだろう、二人が並んで歩く姿に違和感を覚える者はなく、友人達はみな、とてもなごやかな目で二人を見守っていた。
 が、その交際も長くは続かなかった。大学を卒業後、生家が経営するサクラに入社して一年が経つか経たないかという頃に佐倉家と藤代家が互いに提携を模索する中、誠の意志など無視して父親が強引に真奈美との婚約を発表してしまったからだ。けれど、父親の強引な決定を拒否しなかった誠を責めるのは酷だろう。佐倉家の商いを取り巻く厳しい環境に思いをいたらせれば、そうして、数多くの従業員の生活に思いをいたらせれば、藤代家と手を組まざるを得ないこと、そのために綾野と別れて真奈美と結婚せざるを得ないことは明らかだった。将来の家長としての、それは辛い選択だった。綾野にしても、誠の立場は痛いほどにわかっていた。小さいながら自分の生家も佐倉家と同様の立場にある――むしろ、佐倉家よりも厳しい立場にある綾野は、誠と真奈美の婚約発表を業界紙で知ると、自ら身を退くようにして誠から離れていった。
 しかし、誠と真奈美の新しい生活が始まって一ケ月も経たない頃、不意に誠の携帯電話に綾野からメールが届いた。会って相談したいことがあるという文章に、日時と場所が書き添えてあるだけの簡単なメールだった。少し気迷いしながらも会社の業務を終えた後、メールにあった小さな喫茶店に足を踏み入れた誠を待っていたのは、随分やつれた感じのする綾野だった。笑顔を絶やすことのなかった学生時代からは想像もできない、疲れきった表情。ぽっちゃりしていたのが嘘だったかのように痩せてしまった体。そんな綾野がおずおずと口にしたのは、融資の依頼だった。個人経営の小さな事業だと、この厳しい時勢、よほど特別な技術でも持っていないと生き残ることは難しい。梅井家も例外ではなく、果てしなく続く売上げの減少が、もうどうしようもないほどに財務状況を逼迫させているらしい。そこで、無理を承知で誠に相談を持ちかけたということだった。経営者を志す者としては、綾野の依頼を拒否するのが本当だろう。回収の目処も立たない融資話などこれからの佐倉家には重荷にしかならないのは目に見えている。将来の家長として綾野と別れる決心をした誠なら、そうすべきだった。だが、ここで生来の優柔不断と気の弱さが現れてしまう。事業のために彼女を捨てたという負い目もあったのかもしれないが、綾野の依頼を引き受けてしまう誠だった。入社して一年そこそこでしかないが、誠のその時の肩書きは既に常務取締役になっていた。綾野が依頼してきた金額なら一人で決済できる権限を持っている。そんな甘さもあったのだろう。
 そのことがきっかけになって、文字通り「焼けぼっくいに火がついた」という状況になってしまった。融資の段取りを進めながら何度か逢瀬を重ねるうちに、いつしか二人はホテルに出入りするような仲になっていったのだ。
 そして、そんな二人の仲に気づかない真奈美ではなかった。誠と真奈美の生活は、始まってすぐに冷え冷えしたものになっていた。それでも、二人が別れるわけにはゆかなかった。佐倉の長男と藤代の次女という立場は、それほどに重いものだった。



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