誠と真琴


高木かおり



「ちょっとつきあってほしい所があるんだけど、いいわよね?」
 ぬるくなったコーヒーを飲みほすなり、真奈美が、テーブルの向かい側に座っている誠に言った。
「いいよ。別に、何をするということもないんだし」
 ぶっきらぼうに誠が応えた。会社が休みの土曜日といっても、これをするというあてがあるわけではない。それに、綾野との不倫を真奈美が勘づいているということは当の誠も気がついている。それが負い目になって、真奈美の言葉に逆らいにくいという事情もある。
「じゃ、行きましょう」
 誠の返事がさも当然のように真奈美は立ち上がった。
「随分とせっかちなんだな。だいいち、どこへ行くんだい?」
 真奈美の後を追うように誠も慌てて立ち上がった。
「ついてくればわかります。もう迎えの車が来ている筈なのよ」
 真奈美は誠の顔を見おろして言った。
 誠が今どきの男性にしては小柄だということは先に述べたが、一方、真奈美の方は随分と背が高かった。誠よりも頭一つ背の高い綾野よりも更に大柄だった。しかも、中学生の時からテニスを続けていて今も週に三度は本格的なレッスンを受けているというから筋肉質の引き締まった体をしている。
「……わかったよ」
 そんな真奈美に見おろされて、誠は口ごもりぎみに応えるしかなかった。

 玄関前には黒塗りの高級車が待っていた。
「おはようございます。お迎えにあがりました」
 二人の姿を目にして後部座席のドアを引き開けたのはサクラの若い男性社員・百地剛だった。
「それでは出発いたします。よろしいでしょうか、常務」
 二人が後部シートに腰をおろしたのを見届けてから運転席に着いた剛が慇懃に話しかける。
「やめてくれよ、百地。プライベートの時は佐倉でいいよ、常務と呼ぶんじゃなくて」
 いくぶんげんなりした声で誠が言った。
 誠と剛は大学で同じゼミだった。大学を卒業した後は、剛は中堅の広告代理店に勤めることになっていた。それを、普段の弱気な誠からは想像し難いほど強引に、佐倉の会社に勤めるよう説得したのだ。誠が剛の才能に惹かれたからだった。経済学というのは、統計学を駆使して現実世界をモデル化する点で、どちらかといえば理系の学問に近い。その時に必要になる数学の能力、そして、数式で表現された世界を言葉で展開するセンス。単に秀才というだけではない、「才気あふれる」という言葉がこれほど似合う人間も珍しいだろうと思われる、おそらく大手の広告代理店でも活躍できるだろうその才能をサクラに引き入れたかったのだ。そうして誠は、剛を引き連れて父親の会社に入社したのだった。以来、オフィシャルな場所では剛は誠のことを常務と呼んでいる。
「お言葉ですが常務、そうはまいりません。奥様もご一緒ですし、それに、完全にプライベートというわけでもありませんので」
 前方に向き直ってそう言うと、剛はアクセルを踏み込んだ。
 重そうなボディが軽々と加速する。
「完全にプライベートというわけではない? どういうことだい?」
 要領を得ない表情で誠は訊き返した。
「新しい事業に関係あるんですよ、これから行く所が」
 応えたのは真奈美だった。
「新しい事業に関係ある所……」
 誠は繰り返すように呟いた。
 サクラと藤企画の提携は、まず、藤企画の既存の商品をサクラのネットワークで販売することから始まった。しかし、それは提携のほんの端緒に過ぎない。本来の目的は、サクラの広範囲に渡る店舗ネットワークから吸い上げられるマーケット情報と、藤企画が持つ高級かつ斬新なブランドとを融合させて、他の業者が真似することのできない魅力的な商品群を開発・販売することにある。その第一段として、誠をリーダーとするプロジェクトが三ケ月前に立ち上がったばかりだった。
 実のところ、真奈美は完全な専業主婦というわけではない。藤代家には、真奈美と、真奈美の姉である摩耶という二人の娘がいる。姉の摩耶は某産業ロボットメーカーの社長の三男と結婚していて、現在は、摩耶と結婚したその男性が藤企画の次期社長となるべく修行しているところだ。摩耶はどちらかというとおとなしい、家庭に引っ込むような女性だから、それはそれでうまくゆきそうだ。ところが、真奈美の方は、二番目の子によくあるような勝ち気な性格をしていて、実際、性格が勝ち気なだけではなく、いろいろなことに目覚ましい能力を発揮することも少なくない。正直なところ、商いの才能にしても、サクラの次期社長である誠よりも上だろう。だから、結婚と同時に、真奈美は誠の父親に懇願してサクラの非常勤役員として登記してもらっていた。誠と一緒にサクラを発展させたいと言って。真奈美の能力をすぐに見抜いた誠の父親は二つ返事だった。そうして、新しいプロジェクトの出発にあたって、真奈美を員外メンバーとして抜擢したのだ。新しいプロジェクトを成功に導くために様々な情報を手に入れる業務をまかせるために。
「……どんな所なんだい?」
 真奈美の能力にはこちらも一目置いている誠は興味ありげに尋ねた。家庭内の不和はあれ、そのことは、ビジネスとは無関係ということにしておきたかった。
「エステティックサロンよ。あまり大きくない」
 真奈美は正面を向いたまま、目だけ動かして言った。
「エステだって? 今回のプロジェクトとエステがどうなふうに結びつくんだい? そりゃ、ま、プロジェクトのターゲット層の中にはエステに通うような人たちも少なくないかもしれないけど、でも……」
 誠は思案顔になった。まるで無関係というわけではない。かといって、プロジェクトリーダーである自分を連れて行かなければならないほど関係がありそうにも思えない。
「いいのよ、行くだけで。サロンのオーナーとの話は私と百地さんとで詰めるから、あなたは顔だけ出してくれれば」
 真奈美は曖昧な言い方をした。
「……」
 急に興味を失ったように誠は押し黙った。なんだか、自分の知らないところで何かが動いているような、落ち着かない気分だった。
 それにしても、子供服とエステサロンとがどんなふうに関係してくるっていうんだろう。誠は胸の中で呟いた。
 そう、新しく立ち上げたプロジェクトというのは、これまでにない魅力的な子供服・ベビー服の開発だった。藤企画は総合アパレルメーカーだが、子供服やベビー服を手がけた経験はない。サクラのチェーン店にしても、ほんのお飾り程度にしか子供服は置いていない。子供服やベビー服というのは、どちらかといえば専業メーカーとその直営店(または、直営ではないにしても、子供服を昔から扱ってきた店)が扱うアイテムだという商慣習があったからだ。が、これからの将来性を分析してみると、これほどおいしい商売に手を出さないというのはどうかと思われるようになってきた。現在、子供の数は年々減少し続けている。普通に考えれば、パイが小さくなり続けているマーケットで新たに事業を展開するのは得策ではないように思えるだろう。ところが、実際に調査してみると、子供服のマーケットは小さくなどなっていないのだ。少子化の傾向は確かなのだが、その代わり、子供一人当たりの購買価格は上昇し続けているのだった。皮肉なことに、これも少子化の結果だった。つまり、子供の数が少なくなるぶん、祖父や祖母は数少ない孫を喜ばせるために思いきりお金を出してやる傾向にあるということがわかってきたのだ。これまでのように孫の数が多いと、一人一人にはたいした物は買ってやれない。ところが孫の数が少なくなってくると、一人一人にどんと豪華な物をプレゼントしてやれるようになるということだ。それは、サプライヤーの方から見れば、低価格の商品を数多く売りさばくといった考え方から、高級で利益率の高いアイテムを確実に売るという考え方への転換を意味している。そこで、優れた情報収集能力と高いブランドイメージを揃って手に入れたサクラ・藤企画の連合が真っ先に市場開拓に打って出たのが、この高級子供服の分野というわけだった。
 ただ、子供服開発のプロジェクトとエステサロン――誠には、どうしてもこの組み合わせの意味がわからなかった。




 真奈美が言った通り、剛の運転する車が停車したのは、ひっそりした感じのエステサロンの駐車場だった。エステサロンというのは若い女性や余裕のあるマダム連中が通うのだから華やかな所なんだろうなと思っていた誠は、そのひっそりした雰囲気に微かに違和感を覚えた。
 そんな誠の胸の内を知ってか知らずか、振り向きもせずに真奈美が階段を上って行く。その横を剛がつき従っていた。独り取り残されたような状態になった誠の目に、二人の背中が映る。その後ろ姿に、誠は軽い嫉妬を覚えた。自分よりも頭一つ以上も背がたかくてスレンダーな真奈美と、その真奈美の頭が肩よりも少し上になるくらいにこれも背の高い、そして学生時代はアメフトのレギュラーだった逞しい体つきの剛。関係のない者が見れば、それはお似合いの二人だったろう。だが、華奢で貧弱な誠の目には、二人の連れ添う姿は嫉妬の対象でしかなかった。誠自身が綾野との不倫を続けているからそんなふうに感じてしまうのかもしれないが、片方が自分の妻で、もう片方が自分の友人で部下だと自身に言い聞かせてみても、それでも、胸の中に渦巻き始めた感情はなかなか消えそうになかった。二人ともに自分よりも才能がありそうだと直感しているからこそ、その感情の炎は衰えないのだろうか。不意に、自分の知らないところで何かが動いているようだと感じた、あの、わけのわからない感覚が再び湧き起こってきた。それも、前にもまして、今度は殆ど確信めいて。
 誠はぶるんと頭を振った。どうかしているぞ、今日の俺は。俺の妻と部下が並んで歩いているだけじゃないか。それも、商売のために。もういちど自分に言い聞かせて誠は歩き出した。

 豪華ではないが上品な内装の応接室だった。
 ひとしきり雑談を交わして打ち解けた頃を見計らったように秘書の女性が飲み物を持ってきた。
「どうぞ。うち特製の、プロテイン配合のスタミナジュースなんですよ」
 エステサロンのオーナー兼院長は、大きく手を広げて三人に飲み物を勧めた。
「それでは、遠慮なく」
 最初に口をつけたのは真奈美だった。
 続いて、剛。それから誠。プロテイン配合というからどんな味かと思っていたが、すっきりしたシトラス系のジュースだった。朝からコーヒー一杯しか口にしていなかった誠はまたたくまにグラスを空にしていた。
「ごちそうさまでした。このままパーラーでもお開きになれそうですね」
 お世辞ではなく誠は言った。
「ありがとうございます。お代わりはいかがですか」
 相好を崩して院長が応えた。
「ああ、いえ、それには及びません。そろそろ本題に入りたいと思いますので」
 そう言って誠は真奈美の横顔にちらと目をやった。さて、ようやくプロジェクトとエステサロンの関係がわかるわけだな。真奈美のやつ、いったいどんなふうにこのエステサロンを役立てるつもりなのか、じっくり聞かせてもらおうか。
「それでは早速ですが……」
 誠の視線を受けて、剛がブリーフケースから取り出したリーフレットを手に真奈美が口を開いた。
 誠の視線が真奈美の横顔からリーフレットに移る。
 が、なんだかリーフレットに焦点が定まらない感じで、その白い紙に書いてある文字がぼんやりとしか見えない。
 真奈美は院長に向かって何やら盛んに話しかけているようなのに、何を言っているのか誠には聞き取れなかった。風がうなるみたいに、真奈美の声が大きくなったり小さくなったりして、まるで意味をなさない。
 頭の中に白い霧がたちこめてくる。
 次第に、座っているのさえ億劫になってきた。
 剛がこちらに向かって声をかけているようだ。
 それに応じることもできないまま、誠は唐突に意識を失った。



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