誠と真琴




高木かおり

 
 誠の意識が戻り、剛と真奈美の幼い娘としての羞恥と屈辱の毎日が始まって三週間ほどが過ぎた或る日。
 いつものように、綾野の手でおむつを取り替えられる感触で誠は目を覚ました。
「おはよう、まこちゃん」
 もう新しいおむつで誠のお尻をくるんでしまった綾野はおむつカバーのマジックテープを留め、パジャマの代わりに着せているサンドレスのブルマーの股間に並んだボタンを留めながら明るい声で言った。
「おはよう、おねえちゃま」
 ねぼけまなこで誠が応えた。ふと見ると、枕の横におしゃぶりが落ちていた。昨夜ベッドに寝かしつける時に綾野が誠の口にふくませたおしゃぶりが、眠っている間に唇から落ちてしまったらしい。
「まこちゃんはおっきしてるかな?」
 突然ドアが開いて真奈美が入ってきた。
 まだ朝の七時だ。こんなに早い時間から真奈美が部屋に姿をみせることは、誠が意識を取り戻してから今日まで一度もなかった。なんとなく嫌な予感を覚えて誠が真奈美の顔を見てみると、なんだか、いつもと少し感じの違う化粧をしているみたいだった。いつもより少し明るくていつもより少し派手な感じのするメークだった。
「おはよう、おかあちゃま」
 誠はぎこちない微笑みを浮かべた。
 この三週間ほどの間に、剛や真奈美や綾野の顔を見れば笑顔になるよう「しつけ」られてきた結果だった。
「おはよう、まこちゃん」
 真奈美はベビーベッドを覗きこむようにして誠の顔を見おろした。そうして、綾野がポリバケツの中に入れた濡れたおむつをちらと見て言った。
「今朝もたくさんおしっこしたのね」
「うん。まこ、たくちゃんおちっこちたの。まこのおちっこのおむちゅ、おねえちゃまがとりかえてくれたの」
 いつしか誠は自分のことを『まこ』と呼ぶようになっていた。それだけではなく、幼い女の子がするような喋り方もすっかり身につけていた。それも全て三人によって「しつけ」られたからだった。「しつけ」の方法は幾らでもある。最も手っ取り早いのは、真奈美がお尻をぶつことだった。それでも誠が言うことを聞かなければ、今度は剛が思い切り誠のお尻を叩く。たいていのことはこれで「聞き分けのあるいい子」になるのだが、尚も抵抗するようなら、ミトンで両手の自由を奪った上でベビーベッドの中に閉じ込めるという方法もある。ベビーベッドのサイドレールを起こしてしまえば、ただでさえ手足の力が入らないところに加えてミトンを着用させられているものだから、誠一人の力では絶対に逃げ出すことはできない。そのまま、おむつが濡れても何時間も新しいおむつに取り替えてもらえなかったとしたら、それはどれほど屈辱的なお仕置きになることだろう。しかも更に、そんなお仕置きでも効き目がない時、誠は、芝の生えそろった広い庭に連れ出されて一人で放っておかれることになる。このあたりの邸宅はどこもそうなのだが、敷地を取り囲む塀はコンクリートなどではなく、背の高い樹木を敷地を取り囲むように植えた生け垣になっている。作り物ではないから木と木の間に隙間があって、外の道路を散歩する人間がその気になればその隙間から庭の様子を伺い見ることもできる。さすがにわざわざそんなことをする人間が多いとも思えないが、何かのひょうしにこちらを覗き込むこともないとは言えない。そんな時に庭に放っておかれたら――小柄とはいえ、とてもではないが本当の幼児には見えない誠が幼い女の子の格好をしているところを誰かに見られたりしたら、その時の羞恥はどれくらいのものか。それだけではない。生け垣の隙間から覗きこまれないように庭の中ほどにじっとしていれば、今度は隣の家の二階から丸見えになってしまう。この姿を誰かに見られるかもしれないという怯えは、それで充分なお仕置きだった。その上、いざとなれば綾野が誠に母乳を与えないというお仕置きもある。唯一の栄養補給の源である母乳を絶たれでもすれば、胃を小さくする処置を受けている誠はひどい空腹に苦しむことになる。そこまで追い込まれることを思えば、誠には、剛や真奈美の「しつけ」に抵抗できるわけがなかった。そんなふうにして三人は誠に本当の幼女のような喋り方を身につけさせ、幼児めいた仕草を覚えさせていったのだ。
「そう、おねえちゃまに取り替えていただいたの。よかったわね」
 真奈美は誠の頬を人差し指でつんとつついた。
 誠がぎこちないながらもにこっと笑うと頬にえくぼができた。顔を整形する時に人工的に作ったえくぼだが、今の誠の笑顔にはとてもお似合いだ。
「それじゃ、まこちゃん。おねえちゃまにお洋服も着せていただいてお出かけの用意をしましょうね」
 なんでもないことのように真奈美が言った。
 真奈美の言葉に誠は体を固くした。いくらいい子に「しつけ」られていても、『お出かけ』という言葉に頷けるわけがない。幼女のような格好で家の外に連れ出されるなんて、とてもではない。
「や。まこ、おでかけしないもん。おうちがいいもん」
 拗ねたような口調で誠は言った。
「ふぅん。お出かけよりもお仕置きの方がいいのね、まこちゃんは」
 腰に手を当てて真奈美が言った。
「おちおきは、や。でも、おでかけも、や」
 真奈美の口から聞こえたお仕置きという言葉に、誠は怯えきった表情を浮かべた。
 真奈美は、枕元に落ちていたおしゃぶりを誠の口にくわえさせた。
 途端に誠は口をつぐんでしまう。これも三週間かけて「しつけ」られた結果だった。普通に考えれば、無理矢理くわえさせられたおしゃぶりなど、勝手に吐き出せばおわりだ。誠も最初はそうした。しかし、くわえさせられたおしゃぶりを吐き出すたびに厳しいお仕置きが待っていたとしたら。駄々をこねる誠を静かにさせようとする時、三人は決まっておしゃぶりをくわえさせた。そして、それを誠がわざと吐き出そうものなら、それはそれは屈辱感に満ちたお仕置きを与えたものだった。そんなことが繰り返されて、いつしか誠は、おしゃぶりを口にふくむと反射的に唇を閉じるという習性を身につけさせられてしまっていた。
「お出かけするわよ、まこちゃん」
 念を押すように真奈美は繰り返した。
「……」
 言葉を奪われると、急に弱気になってしまう誠だった。抵抗する最後の手段さえなくしてしまったことを身にしみて思い知らされるからだろうか。
 なす術もなく、誠はおどおどと頷いた。

 黒塗りのリムジンのゆったりした座席に、剛と誠と真奈美が並んで座っていた。向かいの席に一人で座っている綾野は明るいクリーム色のパンツスタイルのビジネススーツを着ていたが、目の前の剛は、ちょっと見には黒色なのだが光の加減で濃い緑にも見える渋いタキシードを着ていた。真奈美は、レースをたっぷりあしらった純白のウェディングドレスに身を包んでいた。そして剛と真奈美の間にちょこんと腰かけた誠が着ているのは、腕の肌の色が透けて見えるくらいに薄いシルクのふんわりした長袖のブラウスと、膝丈の紺色の吊りスカートに、飾りレースでボリューム感を出した、真奈美が着ているウェディングドレスと同じ純白の生地で仕立てたエプロンが愛らしいエプロンドレスだった。前髪はふわりと内側にカールして、後ろ髪を耳よりも少し高い位置で一つに結わえたポニーテールに、白いレースのカチューシャが清楚な感じを与えている。幅の広いベルトが特徴の黒いメリジェーンシューズを履いたその姿は、どこか妖精めいた可愛らしさに満ちていた。目の前で目を凝らす綾野でも、その誠が本当は二十五歳の男性なのだということを信じられなくなることが時々ある。特に、綾野の乳首を吸っている時のあどけない顔を見れば尚更に。
「どこへ行くの、おかあちゃま?」
 どこへ連れて行かれるのか教えられないまま迎えのリムジンに乗せられた誠は、不安にかられたように声を震わせて真奈美に訊いた。いつもならとっくに会社に行っている筈の剛が一緒にいることも、みんなが揃って、それまで見たこともないような装いに身を包んでいることも、誠の不安をかきたてるに充分な材料だった。
「いい所よ。すぐに着くから、おとなしくしてましょうね」
 艶然と微笑んで真奈美は言った。真っ赤な口紅がひどくなまめかしい。

 リムジンが滑り込んだのは、名の通ったホテルの地下駐車場だった。
 恭しくお辞儀をして運転手がドアを開けると、剛、誠、真奈美、綾野の順にゆっくり車からおりた。車からおりてすぐ、剛が誠の体を抱き上げた。お尻を右手の二の腕で支えるあの抱き方だった。
 そこへ、初老の紳士が近づいて来る。
「このたびは当ホテルをご利用いただきまして誠にありがとうございます。私、チーフマネージャーの橘でございます。早速ではございますがお部屋にご案内いたします」
 紳士は丁重に頭を下げて名乗ると、先に立って歩き出した。
 一行が行く先にはエレベーターホールがあった。それは、一般の客が決して足を踏み入れることのできないVIP専用のエレベーターホールだった。
「懐かしいだろう、まこ。まこがまだ誠くんだった時、やっぱりあのエレベーターに乗ったんだよね?」
 剛は橘に聞こえないよう誠の耳元に囁きかけた。
 誠は無言で頷くだけだった。
 そう、確かにこの地下駐車場にもVIP専用のエレベーターホールにも見覚えがあった。あの日――真奈美との結婚披露パーティーの日も、やはりこうしてこのホテルの地下駐車場で迎えのリムジンからおりて、橘と名乗ったマネージャーに導かれるままVIP専用のエレベーターに乗り込んだのだから。

 エレベーターをおりると、そこはもう、ホテルに一室しかないロイヤルスィートルームの中だ。このロイヤルスィートを控え室に使って結婚披露パーティーに臨んだことをまるで昨日のことみたいに思い出す。……それにしても、剛と真奈美はこのホテルで何をする気なんだろう?
「こちらにどうぞ」
 橘は四人を豪奢な作りのソファに案内すると、目の前にある大画面のテレビのスイッチを入れた。
「こちらで会場の様子をご覧いただけます。時間になりましたら案内の者がまいりますので、それまでごゆっくりおくつろぎください」
 橘の言う通り、どこかのパーティー会場らしき華やかな風景を大画面のテレビは映し出した。マイクテストらしき声も聞こえてくる。
 それから橘は誠と綾野の方に向かって言った。
「もしもお嬢様がご退屈のご様子でしたら、小さなお子様向けのDVDもご用意してございます。隣の部屋にも、こちらよりは小さな物ですがテレビの用意もございますので、どうぞお使いください」
「ありがとう。この子が退屈するようなら使わせていただきます」
 綾野がにこやかに応えると、深々と頭を下げて橘は出て行った。
「あれが何の会場か、まこはわかるかな?」
 橘が出て行くと、テレビに映し出された会場を指さして剛が面白そうに言った。
 誠が忘れるわけがなかった。それもやはり、あの日に使ったあの会場だった。あの日の会場をあの日そのままに飾りたてているのだ。テーブルの配置もテーブルの上の花の種類もそのままに。そして、時おり聞こえるマイクテストらしき女性の声。その声は、やはりあの日に司会をしていたフリーアナウンサーの声だった。
 何から何まで、誠と真奈美の結婚披露パーティーそのままだった。
「始まるまでに少し時間がありそうだから、その間にまこちゃん、おむつを取り替えておこうね」
 くいいるようにテレビの画面を見つめる誠に綾野が言った。
「まこ、おちっこちてないよ。おむちゅ、おちっこじゃないよ」
 綾野に言われて、誠は戸惑ったような顔で応えた。
「いいのよ、濡れてなくても。今から始まるのは特別なパーティーだから、特別なおむつをあててあげるの。おとうちゃまもおかあちゃまも特別なお洋服を着てるでしょ? まこちゃんも特別なお洋服を着てるでしょ? だから、おむつも特別のに取り替えてあげるのよ」
 綾野は誠の手を引いて立ち上がった。
「確か、着替えはそっちの部屋に運び入れてもらっている筈よ。一緒に行きましょうか」
 立ち上がった綾野の顔を振り仰いで真奈美が言った。
「お願いいたします、奥様」
 これだけのホテルのロイヤルスィートとなると、一つの部屋の中がまた幾つもの広い部屋に分かれている。こんな高級な所に足を踏み入れたことのない綾野はなんとなく気圧されてしまって、こういう場所に慣れ親しんだ真奈美の言葉がありがたかった。
 真奈美がすっと立ち上がった。この部屋に入るまで誠は剛に抱き抱えられていたからわからなかったが、こうしてみると、真奈美はいつもよりも随分と背が高かった。それもその筈で、いつもは自分の背の高さを気にしてローファーしか履かない真奈美が、この時ばかりはウェディングドレスに合わせて純白の踵の高い靴を履いていたのだ。
 そんな真奈美と誠を見比べると、それこそ大人と子供だった。
 慣れた足の運びで隣の部屋につながるドアを開けた真奈美は、部屋の様子を見て取ると満足そうに頷いた。壁に沿って、必要な着替えや小物の類がきちんと整理して揃えてあった。
 その一角に、『佐倉真琴様』と書いた札の付いたバスケットが幾つも並んでいた。
 綾野は誠を近くのベッドの端に腰かけさせ、幾つものバスケットを見てまわると、これだというふうに手を打って、バスケットの一つを持ち上げた。
「これよ。これが特別なおむつなのよ」
 そう言うと、綾野は布おむつを一枚、バスケットからつかみ上げて誠の目の前で広げてみせた。そのおむつには、いつも使うおむつの水玉模様や動物柄の代わりに、サクラと藤企画の包装紙に使われているのと同じロゴを少しデフォルメして様々な鮮やかな色でプリントしてあった。デザインの巧みさのためだろう、包装紙から感じることの多い宣伝の匂いは全く感じさせずに、赤ん坊が使う布おむつにお似合いの可愛らしい感じに仕上がっていた。そして、おむつの隅々にはパステルカラーで『まこちゃん』という文字。
「それと、これ」
 布おむつをバスケットに戻した綾野は、代わりにおむつカバーを取り上げてみせた。
 おむつカバーは純白の生地でできていた。はっとしたように誠は自分が身に着けているエプロンとそのおむつカバーを見比べた。
「まこちゃんも気がついたみたいね。そうよ、まこちゃんのエプロンとお揃いの生地でできたおむつカバーなの。だから、もちろん、おかあちゃまのウェディングドレスともお揃いの生地ね」
 言われて、誠は、傍らに立つ真奈美のウェディングドレスをじっと見つめた。確かに同じ生地のようだ。
「同じ生地なんだけど、ふっくらした感じを出すために、おむつカバーの方はキルト加工してあるの。だから、こんなに丸っこくて可愛らしいラインになっているのね」
 綾野は純白のおむつカバーの表面をそっと撫でて、ふんわりしたキルトの感触を確かめた。
「それに、ほら。おむつカバーにもちゃんとまこちゃんのお名前が入っているのよ」
 綾野が指さしたおむつカバーのお尻のところに、おむつと同じように『まこちゃん』という文字が入っていた。そして、その文字を隠すか隠さないかというくらいに控えめな飾りレースのフリル。可愛らしいラインと清楚な印象とを巧みにまとめた素敵なデザインのおむつカバーだった。
「じゃ、ベッドの上で横になってちょうだい」
 綾野は誠の体を軽く後ろに押すようにしてベッドの上に寝かせると、純白のエプロンと紺色のスカートをお腹の上に捲り上げた。誠のお尻を包みこんでいるのはクリーム色の生地に小さなチューリップのアップリケが付いただけのシンプルなおむつカバーだった。綾野はいつものようにおむつカバーのマジックテープを剥がして前当てと横羽根を開くと、誠の足首を持ち上げて、お尻とベッドのシーツとの間に僅かにできた隙間を使っておむつカバーと布おむつを一緒に手元にたぐり寄せ、その代わりにたった今誠に見せたばかりの真新しいおむつカバーと布おむつを敷きこんだ。布おむつの感触にはもう慣れている筈の誠なのに、その布おむつに、そしておむつカバーに自分の愛称がプリントされているのだと思うと、たまらないほどの恥ずかしさに包まれる思いだった。まるで、ずっとずっともう永久におむつの取れない子供になってしまうような気がしてくる。
「はい、できた。いいわよ、立っして」
 慣れた手つきで新しいおむつをあて終えた綾野はおむつで膨らんだおむつカバーをぽんぽんと叩いてから、誠の手を引いて床に立たせた。
 それまであてていたおむつカバーと違って今度のおむつカバーの生地がキルト加工されていてふっくらした感じになっているせいで、それまではさほどでもなかったスカートのラインが僅かに膨れて見えた。けれど、それは決して不格好な膨らみではなく、丸みを帯びた幼児のような誠の体型に不思議と似合う、愛くるしい膨らみのラインだった。

 新しいおむつをあてられた誠が元の部屋に連れ戻されると、剛はすっかりくつろいだ様子で大画面のテレビを眺めていた。
「お、戻ってきたね。特別なおむつ、気に入ったかい、まこ」
 綾野に手を引かれて戻ってきた誠に気がついて剛は声をかけた。
「まこ、はずかちいの。あのね、おむちゅにまこのおなまえがかいてあるの。だから、まこ、とってもはずかちいの」
 誠は頬を赤く染め、瞳を潤ませて言った。
「そうかい、恥ずかしいのかい。でも、誰のおむつかわからないと困るだろう? そう思って、おとうちゃまの会社のデザイナーの人達がそんなふうにしてくれたんだよ」
 あやすように言って剛は誠を膝の上に抱き上げると、テレビの画面を見せて言った。
「ほら、そろそろ始まるよ。まこやおとうちゃまはまだ行かなくていいからゆっくり見てようね」
「まこ、あちょこへいくの? たくちゃんのひとがいるよ。たくちゃんのひとがいるところ、まこ、やだもん」
 誠は声を震わせた。
 誠の羞恥と怯えをよそに、テレビのスピーカーからは開会を告げる司会の女性の声が聞こえてきた。
『本日は株式会社サクラならびに藤企画株式会社による合同発表会におこしいただきまして誠にありがとうございます。私、本日の進行を担当させていただきます五月でございます。なにとぞよろしくお願いいたします』
 胸にコサージュを付けたフリーアナウンサーは淀みなく喋り始めた。
『開会に先立ちまして、少しご説明させていただきます。私どもから皆様にお送りいたしました案内状には新製品合同発表会と書いてあったかと存じます。ところが、そのおつもりでこの会場におこしいただいた皆様の中には少し戸惑っておられる方もいらっしゃるかもしれません。ご覧のように、当会場は、新製品の発表会というよりも、パーティー会場のようにしつらえてございますので』
 五月と名乗った女性司会者の言葉に、会場のあちこちで知り合いらしき人物どうし囁き交わす姿が見えた。確かに、会場は誠と真奈美の結婚披露パーティーのデコレートそのままに飾りつけられている。新製品発表会にふさわしいしつらえとは思えなかった。
『ここで、そのようにさせていただいた理由をご説明申し上げます。一般的な発表会の形式ですと、私どもからの一方的な情報発信に終始して堅苦しい雰囲気のまま閉会ということになってしまいがちです。今回は、そうなることを避けるために敢えてこのような飾りつけにさせていただいた次第です。後ほどお酒や軽い食事もご用意させていただきますので、どうぞパーティーを楽しむような感じで発表会にご参加たまわりますようお願い申しあげます』
 司会者の説明に、参加者の大半は納得して頷き合った。まず、招待客の興味を惹くことには成功したといっていい。
『補足させていただきます。本日は株式会社サクラと藤企画株式会社とが協同企画した子供服をご覧いただくわけですが、皆様の前に展示してご説明申し上げるといった形ばかりの発表会にはしたくございません。そこで、ファッションショーの要素を盛り込んだ、実のある発表会を企画いたしました。同時に、或る一組のカップルの結婚披露も兼ねさせていただきたいと存じます。よろしくご承知おきくださいますよう重ねてご案内申し上げます』
 サクラと藤企画が企画した子供服の発表会と聞いて誠は息が止まる思いだった。。
 取引先とマスコミに発表する時、まこちゃんがモデルになるのよ。可愛い子供服やベビー服を着た可愛いまこちゃんがどんなふうにポーズを取ってカメラに写るのか、今から楽しみだわ。――あの言葉、真奈美は本気だったのだ。
「や。まこ、はっぴょうかい、やだ。はっぴょうかい、まこ、でないもん」
 ぶるんと首を振って拒否する誠だが、口をついて出てきたのは三週間に渡って体に覚え込まされた幼児言葉だった。こんな時にまでそんな言葉遣いをしてしまう自分がひどく惨めだった。そんなふうにするように誠に教え込んだ三人のことが恨めしかった。
「今ごろになって何を言ってるの、まこちゃんは。せっかく特別なお洋服と特別なおむつなのに」
 真奈美が言い聞かせる。
「やだ。やだったら、や。まこ、はっぴょうかい、や!」
 駄々っ子のように誠は喚いた。
 誠がお出かけを嫌がった時に真奈美がそうしたように、今度は綾野が誠の口におしゃぶりをふくませた。
「まこちゃんも発表会に出るのよ。わかったわね?」
 大柄な三人に取り囲まれて、抵抗する言葉をなくした誠は力無く頷くしかなかった。
『本日、皆様に結婚の披露をいたしますのは、百地剛ならびに佐倉真奈美でございます。ご存じの通り、藤代家より佐倉家に嫁いだ花嫁でした。が、申し上げにくいことながら、固い契りで結ばれた筈の佐倉誠が不意に所在不明になってしまったため、代わりに、佐倉家をますます発展させるために、あらためて佐倉家の籍に入ることになりました。そして本日、佐倉真奈美のことを公私ともに支えてまいりました百地剛と結ばれることになった次第です。本日より百地剛も佐倉家の一員として、ますますの事業発展に尽力する決意を固めていると聞いております。――また、本日付けをもちまして、佐倉剛が株式会社サクラの常務取締役に就任したことを代表取締役・佐倉健になり代わりましてご報告いたします』
 いつのまにか自分が失踪したことになっているのを知らされて誠は三人の顔を交互に見上げた。
「そう、司会のお姉さんが説明した通りよ。誠さんは、プロジェクトリーダーとしての重責に耐えかねて突然行方不明になってしまったの。私がそう報告すると、少し気の弱いところがあるからいつかそんなことにならなければいいがと思っていたとお義父様もおっしゃってらしたわ。だから、誠さんの代わりに私がサクラの事業を継承させてもらうことにしたのよ。剛さんと一緒にね」
 真奈美はわざとのように剛に寄り添って言った。
「繰り返すけど、誠さんは行方不明になっているのよ。だから、まこちゃんが会場に行っても、誰もそれが誠さんだなんて思うわけないわよ。こんなに可愛らしい真琴ちゃんが誠さんだなんて気づく人は一人もいないから、恥ずかしがることなんてないのよ」

 ドアをノックする音が聞こえた。どうやら迎えが来たらしい。




『お待たせいたしました。それではただ今より、サクラと藤企画が社運を賭けて協同企画してまいりました新製品を発表させていただきます。なお、さきほど申し上げましたように、今回の発表会は、結婚披露パーティーを兼ねたファッションショーとして進行させていただきます。それでは、新郎・新婦ご入場です』
 会場の扉の外で待つ三人の耳に司会者の声が微かに洩れ聞こえてきたかと思うと、〈ワーグナーの結婚行進曲〉が高らかに鳴り響いた。
 同時に、分厚い扉が内側に大きく開く。
 眩いばかりのスポットライトが三人の姿を照らし出した。
 臆することなく、剛と真奈美が歩き出した。
 ほほぉ。これはまたお似合いの二人じゃないか。お二人ともお綺麗ねぇ。全く絵に描いたような美男美女だな。ほら、背も高くて引き締まった体で。――剛と真奈美の姿を目にした招待客は会場のあちらこちらで感嘆の声をあげた。
 そして、二人の間に挟まれて、二人に手を引かれて一緒に入ってきた誠に気がつく。
 あの子、誰かしら。二人にお子様がいらっしゃるにしても大きすぎるわよね。着ている服は小学校に上がる前の子供が着るようなデザインの物だが、それにしては背が高いと思いませんか。そうだな、なんとなく年齢のわからない子だね。――うってかわって、会場のあちらこちらで囁き声が行き交う。
「ご紹介申し上げます。二人と一緒に入場してまいりましたのは、サクラと藤企画専属の少女モデルで、愛称を『まこ』と申します。本日がデビューとなりますので、今後ともよろしくお引立ていただけますようお願いいたします」
 会場のざわめきを受けて誠のことをを専属モデルだと紹介した女性司会者は、テレビのスピーカーを通して聴くよりもずっと魅力的な声をしていた。
 司会者の紹介があって、会場の目がよりいっそう誠の方に注がれる。
 専属のモデルか、なかなか魅力的な子を探てきたじゃないか。どこかのプロダクションにオーダーしていたんですかね。ロリータ系のファッションが似合いそうだからうちのブランドにぴったりなんだが、専属というのが残念だな。どうだい、あの胸の膨らみ加減から判断すると小学生くらいかね。しかし、小学生にしては背が高いようだが。いやいや、モデルになるような子は小さい頃から背も高いし、どこか目立つところがあるもんだよ。いいね、なんだか不思議な存在感があるな。そうね、どことなく中性的な印象があるし、年齢もなんとなく判断しにくいし、ついつい興味を持っちゃいそうな子だこと。そうそう、どこかミステリアスなところがありますよね。――真奈美が言った通り、誠の正体に気づいた者はいないようだった。
 とりあえず、少しだけ誠の気が楽になる。そうすると不思議なもので、魅力的なモデルだなという囁き声が聞こえるたび、なんだか、胸の中が熱くなるような気がしてくる。が、それがどういうことなのか誠自身にもわからない。わからないけれど、それまでの自分とは違う自分に変身しているのだと実感して、そのことが胸を切なくしているような感じだった。胸が痛むのではなく、胸の奥底のあたりがきゅっと締めつけられるみたいに。

 三人は、客席よりも一段高いステージに立った。ステージといっても、金屏風があるわけではなく、豪華な刺繍をあしらったクロスをかけたテーブルがあるわけでもない。どちらかといえば質素な造りの椅子が三つ並んでいるだけの簡単なステージだ。もっとも、主役の三人の姿が客席からよく見えるようにと一段高くなっている発表会用のステージなのだから、それも当然といえば当然のことだった。
「あらためてご紹介いたします。本日の主役、百地剛ならびに佐倉真奈美でございます」
 司会者の声が響き渡った。
 剛と真奈美がステージの一番前の所まで歩み出た。もちろん、二人に手を引かれた誠も一緒だ。剛と真奈美は軽く頭を下げた後、大きく手を広げて、まるで芝居を終えたばかりの役者がするように大げさな身の動きで客席に向かって挨拶をした。
「二人が身に着けておりますのは、私どもの幾つかあるブランドの中でも特にフォーマルな装いとブライダルの装いを受け持っております『アーバンフォーマル』が仕立てをいたしましたタキシードとウェディングドレスでございます。おかげさまで『アーバンフォーマル』は幅広いお客様から絶大な支持を賜っていると自負しておりますので、詳しい説明は割愛させていただきます」
 司会者は少し間を置いた。
 それが合図だったのか、剛と真奈美がすっと身を退いた。誠が一人だけ、ステージの最前列に取り残されてしまう。ただ、二人とも、足元のしっかりしない誠が倒れてしまわないよう、さりげなく誠の腰に手をまわすのは忘れない。
「続いて紹介いたします。私どもは、これまでにない極めて魅力的な子供服の企画に尽力してまいりました。そして本日、幸いなことに、その成果を発表する場を持つことができました。私どもは、『プチフェアリー』というブランド名のもと、本日より、子供服・ベビー服・育児用品のマーケットに新たに参入いたします。そして、プチフェアリー、つまり、小さな妖精というブランド名にふさわしい愛くるしいモデルを探し出すことに成功しました。それが、まこです」
 名前を呼ばれ、真奈美に背中を押されて、誠は、いかにも場慣れしていない様子でおずおずと頭を下げた。とてもではないが、大げさに手を振ってみせた二人の真似などできはしない。けれど、誠のその戸惑いが、いかにも初めて舞台に立ったばかりの少女モデルが初々しく挨拶をしたように見えたのだろう、客席に好意の笑い声が広がった。
「私どもの子供服ブランド・プチフェアリーには幾つかのシリーズがございます。今、まこが身に着けていますのは、フォーマルプチフェアリーと名づけたシリーズのアイテムの一つでございます。フォーマルプチフェアリーは、今回のような結婚披露宴に招かれた時やお友達のお家でのホームパーティーにお呼ばれした時などにお召しいただくために企画したシリーズでございます。ご覧いただければおわかりいただけますように、今、まこが身に着けているアイテムは『不思議の国のアリス』をモチーフにしたものですが、フォーマルプチフェアリーには、この他にも様々な装いを用意してございます」
 真奈美が、誠の腰を支えたまま、体をゆっくり回させた。エプロンの結び目が背中で大きなリボンになっていて、愛らしさを強調している。
「このフォーマルプチフェアリーシリーズに限らず、私どは、プチフェアリーのブランド全てを高級感と手作り感を融合させた製品にしたいと願っています。特に手作り感を強調するため、お買い上げいただいたアイテムの一つ一つにお子様のお名前を入れさせていただくサービスを提供する予定でございます。まこが着用しているアリスドレスの襟元をご覧いただけますでしょうか」
 薄い絹で仕立てたブラウスの襟と純白のエプロンの肩口にはパステルピンクの糸で『Mako』の文字が刺繍してあった。また、紺色の吊りスカートのウエストのあたりにも明るいグレーの糸で同じ文字の刺繍がほどこしてある。
 何人かのカメラマンが、刺繍の文字を大写しにするために、ズームレンズの付いたカメラで誠を狙った。ストロボの眩い光が誠の姿を何度も何度も白く浮かびあがらせる。
「フォーマルプチフェアリーをお召しいただくお子様の年齢層については、一歳から十二歳くらいを想定しております。一般的に子供服の場合、同じデザインでそれほど広い年齢層をターゲットに設定することは多くはないようですが、敢えて私どもは、一歳から十二歳という広い年齢層のお子様みなさんにお召しいただけるよう、様々なサイズのアイテムを基本的に同じデザインで展開することにいたしました。それには理由がございます。小学校中学年のお嬢様と保育園児のお嬢様という姉妹はよくいらっしゃいます。例えば叔父様が結婚されるということで披露宴に招かれた時、御両親は、上のお嬢様には少し大人びたドレスをお着せになって、下のお嬢様には年齢相応の子供らしいお洋服をお着せになることが多いかと思います。けれど、そうすると、私もお姉様のようなドレスを着たいのにといって下のお嬢様がご機嫌を損ねてしまわれる場合が多いようです。特に結婚披露宴に招かれるということは生涯のうちでも何度もあるようなことではございませんので、大きくなられてからも、その時の気持ちを引きずってしまわれないとも限りません。そんな小さなお嬢様の願いを叶えるべく私どもが提案いたしますのがフォーマルプチフェアリーのベースコンセプト『全ての年齢の全てのお嬢様のために』でございます」
 客席の目はステージ上の誠に集まっていた。
「ところが、一つだけ問題がありました。小学校高学年のお子様向けのアイテムから幼稚園に通っておられるお子様向けのアイテムまでは、同じデザインで仕立てることが難しくはありません。ウエストの位置を少し調整する、あるいは全体のラインのシャープネスを変更するといったことで、年齢ごとの体型差を補正しながらデザインコンセプトを保つことができました。けれど、そのデザイン手法は、一歳から三歳くらいの小さなお子様向けのアイテムを仕立てる時には有効ではありません。それは、小さなお子様は、あんよがまだあまりお上手ではないという理由のためでございます。ご覧いただいておりますように、フォーマルプチフェアリーのアイテムに含まれるスカートは、フォーマルな場所にふさわしい、落ち着いた感じを演出するために膝丈を基本にしています。ところが、あんよのお上手でない小さなお子様ですと、膝丈のスカートが、よちよち歩きの脚の動きを妨げてしまうおそれがあることがわかってまいりました。これまでに子供服を手がけたことのない私どもには見えなかった部分でした」
 女性司会者の『あんよがまだあまりお上手ではない』という言葉に、なんだか自分のことを言われているようで、思わず唇をきゅっと噛みしめてしまう誠。
「コンセプトを保持することと現実の問題との間でデザイナー達は迷いました。とはいうものの、子供服マーケットには新参者の私どもには良い勉強だったと申し上げておきます。こうして私どもも一つ一つノウハウを身に付けてゆくことができるのですから。そして、私どものデザイナー達は解決方法をみつけました。まこのスカートをご覧ください。スカートの真ん中あたりに飾りレースがあしらってあるのがご覧いただけると思いますが、実は、その下がファスナーになっているのです」
 言われて誠も自分が身に着けているスカートを見おろした。確かに、スカートの長さの半分くらいのところ、純白のエプロンの裾よりも少しだけ下のあたりに、スカートの色よりも少し淡い色合いの飾りレースが縫いつけてある。それにしても、そこがファスナーになっているだなんて、誠は全く気がつかなかった。
「そのファスナーを外せば、スカートの丈は半分になります。そうすれば、スカートが小さなお子様のあんよを妨げることもございません。お席でおとなしくしておられる時は膝丈のスカートでフォーマルに、あんよをする時はミニサイズのスカートでアクティブに。私どもからのちょっとした新しい提案でございます。更に、このような工夫は、小さなお子様のお世話をされるお母様にも喜んでいただけるものと自負しております。――おむつのお世話をされるお母様には特に」
 突然の『おむつ』という言葉に誠は身を固くした。まさか……。
 その時、剛の手でもない真奈美の手でもない誰かの手がスカートに触れる気配があった。はっとして首をめぐらせた誠の目に映ったのは綾野の姿だった。ステージの袖で発表会の成り行きを見守っている筈の綾野がステージに上がってきて誠のスカートに手をかけているのだ。それも、飾りレースに隠されたファスナーに。
 あっという間もなかった。ジジッという、殆ど聞こえない音を立てて綾野の手がファスナーを外してしまった。
 スカートの下の部分が誠の足元にふわりと落ちた。
 ファスナーを外したスカートは、誠の腿を半分ほどしか隠さないくらいの短い丈になった。正面からならスカートの中が見えるか見えないかくらいの長さだろうが、誠は一段高いステージの上に立っているため、客席からは誠のスカートを下から覗きこむようなかたちになってしまう。大勢の招待客やマスコミ関係者の目が、誠のスカートの中に隠されていた恥ずかしい下着に釘付けになった。どう見ても普通のショーツとは思えない純白の恥ずかしい下着に。その下着に狙いをつたけのか、カメラのストロボがぱぱっと光る。
「小さな女の子のスカートが短いのは、活動的だからという他にもう一つ理由があることを私どもは知りました。それは、おむつの交換をしやすいようにという理由でした。寝かしつけておむつを取り替える場合も、いざという場合お子様を立たせたままおむつを取り替えざるを得ない時も、長いスカートだとお母様の手の動きの妨げになってしまいます。また、短いスカートですと、万が一おしっこがおむつカバーから洩れ出したとしてもスカートまで汚してしまう心配が少なくなるということも勉強させていただきました。ですから、このスカートの工夫は、そういった小さなお子様をお持ちのお母様にも受け入れていただけるものと確信いたします」
 そう言って司会者は少し間を置いた。
「これまで、子供服やベビー服は、どちらかというと安価な物が好まれる傾向にありました。お子様の成長が早いため、せっかくお買い求めいただいた洋服があっと言う間に着られなくなってしまうからです。特に、おむつやおむつカバーなどは、消耗品に近い扱いを受けてまいりました。自分のお子様が大きくなったら、それまでお使いいただいていた布おむつやおむつカバーを、小さなお子様をお持ちの知り合いの方に差し上げてしまうということが普通に行われていました。けれど、私どもは提案いたします。お子様のお肌にいつも接していたおむつやおむつカバーといった小物こそが、お子様が小さかった頃の一番の思い出の品になるのではないでしょうか。だからこそ、いつまでも手元に残しておきたくなるような選りすぐりの品物をお買い求めいただくことが大切なのではないでしょうか。その提案を実現するため、私どもは、これまでは軽く見られる傾向のあった布おむつやおむつカバーにも新しいトレンドを作ることにいたしました。たとえば、このようなフォーマルな場所に合う、高級な素材で仕立てたおむつカバー。客席のみなさまからはよくご覧いただけるかと思いますが、私どものモデル・まこがスカートの下に着けているおむつカバーは、ウェディングドレスやエプロンと同じ生地で仕立ててございます。また、アリスドレスと同様、ネームを入れてございます。TPOに応じたおむつカバー、世界に一枚しかない、そのお子様だけのおむつカバー。フォーマルプチフェアリーは、外側に身に着けるドレス類に限らず、その内側にこそ重きを置きたいと願い、そのことを強く提案させていただく次第でございます」
 それまで客席の方を向いていた司会者がステージの方に向き直った。
「それではただいまからキャンドルサービスに移りたいと存じます。三人揃ってみなさまのテーブルを廻りますので、その時にみなさま、ただ今ご説明申し上げましたポイントをお近くでご覧ください。なお、堅苦しいご挨拶と乾杯の儀は割愛させていただきますので、その間、どうぞごゆっくりご歓談ください」
 司会者の言葉が合図だったのだろう、給仕係がシャンパンを満たしたグラスをテーブルに配り始めた。
 それまで一歩後ろに身を退いていた剛と真奈美が再び誠の横に並んだ。そうして、係りの者から火のついたサーベル型の器具を受け取ると、誠の手を引いて、ステージの横にしつらえてある短い階段に向かって歩き始める。
「やだ。まこ、みんなのとこにいくの、やだ」
 会場が賑わう中、誠は首を振った。恥ずかしいおむつ姿で会場中を連れ廻されるのかと思うと足がすくんでしまう。
「そう。まこちゃんがそう言うなら私にも考えがあるわよ。お客様の前で、実はまこちゃんが誠さんなんですって発表しちゃおうかしらね。私はかまわないのよ。そうした方が世間の注目を集めることができるかもしれないんだから」
 こともなげに、けれど先導する係員に聞こえないよう声をひそめて真奈美は言った。
「だめ! そんなの、だめ!」
 誠は顔色をなくした。
「じゃ、おとうちゃまとおかあちゃまと一緒にテーブルを廻るのね?」
 真奈美は誠に囁きかけた。
 返事もせずに、誠は力なく歩き始めた。




「いやいや、本当に可愛らしいモデルさんだ。どこで見つけてきたのか、うちにも教えてほしいものですな」
 どのテーブルでも、まず飛んでくる台詞は似たようなものばかりだった。それに剛や真奈美が適当に相槌を打って、手にした器具でテーブルのキャンドルに火をつけると、ちょっと拍手が起こって、それから招待客の一人がまた同じようなことを言う。
「それにしても、モデルも大変なお仕事だね。確か、まこちゃんといったっけ。もうおむつが必要な年齢じゃなさそうなのに、お仕事のためにおむつをあてなきゃいけないなんてね。よかったら、うちに来ないかな。うちだったらおむつなんてあてなくてもいいお仕事をさせてあげられるよ」
「駄目ですよ、菊田さん。うちのモデルを誘っちゃ。それに、まこちゃんがおむつをあてているのは、お仕事のためばかりってこともないんですから」
 馴染みの取引先ということもあって、真奈美は冗談めかした笑顔で言った。ただ、いくら真奈美が冗談めかしてだとしても、当の誠は心臓が止まりそうになる。
「それよりも、ほら、ここを見てください。司会の人も言っていたように、おむつカバーのここにもちゃんと名前が刺繍してありますでしょう? こういうことが流行すれば、おむつカバーにしても、使いまわすんじゃなくて、新しく赤ちゃんが生まれるたびに新しいおむつカバーが売れると思うんです。うちもそのあたりのことを考えているんですから、菊田さんのお店でも販売していただけるようなら、余所さんの商品よりもうちのを優先してくださいよ、本当に」
 誠の体を後ろ向きにしてスカートをそっとたくし上げ、飾りレースの下に見え隠れする『まこちゃん』という刺繍を指さして、真奈美は如才ない口調で言った。
「やれやれ、商売上手だな、藤企画のお嬢様は。あ、いやいや、今はサクラの新しい後継者だったっけな」
 招待客の一人がおどけた口調で言った。
 ひとしきり笑い声がわき上がったところで、剛と真奈美は次のテーブルに移動しようと歩き出した。
 が、なんだか誠が、心ここにあらずという感じで歩みを止めてしまう。
「どうしたの、まこちゃん?」
 訝しげな表情で真奈美が誠の顔を見た。
「あ、……ううん、なんでもない」
 慌てたように誠は応えた。
 けれど、なんでもないことはなかった。誠は、急に高まってきた尿意のために、もう歩けなくなりそうになっていたのだ。考えてみれば、家を出た後でおむつを取り替えてもらったのは、リムジンの中での一度きりだった。控え室で取り替えてもらった時は、誠が身に着けていたおむつは濡れていなかったから回数の内に入らない。リムジンの中で取り替えてもらってから、今でおよそ一時間三十分ほど。それは丁度、日頃から誠が粗相してしまう間隔だった。
 それでも、誠は無理に笑みを浮かべて二人に従った。これ以上この場に立ちすくんでいれば、何が起きたのか二人も容易に推察するだろう。こんな所でそんなことになったら、それこそどんな目に遭わされるかしれたものではない。たとえ歩きながらお洩らしをしてしまっても、それはなんとか隠し通すしかないと哀しい決心を固める誠だった。成人した者が固める決心としては、これ以上はないくらい惨めで屈辱的な決心だった。

 三人が次のテーブルのキャンドルに火をともそうとした時、どこからともなく結婚行進曲のメロディーが流れ出した。とはいっても、三人が入場した時のフルオーケストラの〈ドボルザークの結婚行進曲〉ではなく、携帯電話の着信メロディーに似た電子音の〈メンデルスゾーンの結婚行進曲〉だった。
 会場にいる全員が音の出所を探るように首をめぐらせる中、剛がタキシードのポケットからカードらしき物をつかみ出して、それを高々と差し上げた。そのカードは、携帯電話が普及する以前には女子高校生までもが競うようにして持っていたカード型のポケットベルのようにも見えた。
 どうやら、結婚行進曲のメロディーはそのカードが奏でているらしい。
 会場中の注目を一身に浴びながら、剛はカードのボタンを押した。と、それまで鳴り響いていた電子音の結婚行進曲がぴたりと止まる。
「ご説明申し上げます。ただいまご覧いただいたカードは、或る電波の受信機になっています」
 会場を静寂が満たすタイミングを計って司会者の声が聞こえた。
「みなさま、『ママコール』という商品があったことをご存じでしょうか。ベビーのおむつの中に差し入れておく一種のセンサーで、ベビーがおむつを濡らすとその水分を感知して音を出し、お洩らしのことをベビーのお世話をしている人に知らせるようになっている小さな装置です。ただ、ママコールは当時の技術的な制約のために有線方式になっていました関係上、動き回ることのできない、本当に生まれて間もないベビーにしか使えないという欠点がありました。そのママコールを現代の技術で蘇らせた物が先ほどのカードでございます。私どもは、服飾関係のみならず、お客様に喜んでいただける育児用品全般にも取り組みたいと考えております。その一つとして開発いたしましたのが、さきほどのカードです。センサーと一体になった薄いシート状の発信器をおむつの中に敷きこんでおきますと、おむつが濡れると微弱な電波を発生します。その電波を、薄いカード状の受信機で受ける仕組みになっています。受信機は、その場その場の雰囲気に合わせた着信音を選ぶことができますし、また、バイブレーションモードに切り替えることもできるような構造にしてございます。携帯電話の着信音機能と同じようなものとお考えいただければ結構かと存じます」
 説明を聞いた客の目は、剛が手にしたカードから誠の体に移った。それも、誠の下腹部のあたりに集中する。時おり、カメラのストロボが眩しく光る。
 モデルのお仕事で仕方なくおむつを着けているんじゃなかったのね。そういえば、真奈美さんが冗談ぽくそんなことを言ってたっけ。でも、いくらなんでも、もうそんな年齢じゃないでしょうに。まさか、それも仕事の内だなんてことはありませんかね。――会場がざわついた雰囲気になってきた。
「さて、みなさまもお気づきのように、まこがおむつを汚してしまったようです。それでは、いい機会ですので、私どもが開発した育児用品をもう一つご覧いただくことにいたします」
 会場のざわめきをやんわり制すように、司会者がよく通る声で言った。
 一瞬で会場に静寂が戻った。
 静寂が戻ると同時に照明が少し暗くなって、スポットライトが会場の一角を照らし出した。
 スポットライトの光に浮かび上がったのは綾野の姿だった。綾野は客席に向かって丁寧に頭を下げてから、何かを押して誠の方に向かって歩き出した。
 突然の照明の変化に目が慣れてくると、綾野が押しているのが大きなベビーバギーだということがわかる。

 みんなが見守る中、綾野は誠のすぐ近くまで押してきたベビーバギーの後ろに手をかけると、手早く蝶ネジを外して背もたれの部分を平らに倒した。
「私どもが開発した折りたたみ式のベビーバギーでございます。とは申しましても、これまでにあった、単に折りたたむことができるというだけというようなベビーバギーではございません。折りたたみという特色を最大限に活かして、幾つかの用途に合わせて形状を変化させることができるようになっております。例えば、小さく折りたたんで郊外の公園に車で持って行った後は、ステーの角度と高さを調整して、お子様向けのピクニックチェアとして使っていただくこともできます。また、遊び疲れたお子様を優しく寝かしつけるための簡易ベッドとしてもお使いいただけます。ベッドとしてご使用になる場合には、お子様のおむつを交換するためにお使いいただくことも考えて、替えのおむつを入れたリュックなどを掛けるためのフックも簡単に取り外しできるような構造になっております」
 司会者の説明に合わせて、綾野はバギーの車輪を固定し、足を載せる部分を上に跳ね上げ、全体を支柱で支えるといった作業を手早く行っていった。そうして最後に、司会者の言葉通り、取り付けたフックにおむつバッグを引っ掛けて笑みを浮かべた。
 身を退こうとする誠の体を抱き上げて、綾野が用意したばかりの簡易ベッドに寝かしつけたのは剛だった。
 誠は手足を盛んに動かして簡易ベッドから逃げ出そうとする。けれど、赤ん坊が落ちてしまわないよう中央が深くくぼむような構造になっているベッドからは簡単には抜け出せない。
「おとなしくしまょうね、まこちゃん。大勢のお客様の前で暴れるような悪い子じゃないものね、まこちゃんは」
 綾野は、スーツのポケットから取り出したおしゃぶりを誠の口にふくませた。
 が、この時ばかりは誠も必死だ。大勢の目の前でおむつを取り替えられるなんて……。誠はおしゃぶりを吐き出して叫んだ。
「やだ。まこのおむちゅ、おちっこじゃない。おちっこじゃないから、おむちゅ、とりかえなくていいんだもん」
 三週間にわたる「しつけ」はこんな時にも成果を表した。おむつの交換を拒否しようともがいておしゃぶりを吐き出してようやく口を開いたのに、それなのに、出てきたのは三人から「しつけ」られた幼児言葉だった。いや、それなのにという言い方は当たっていないかもしれない。むしろ、こんな時だからこそ、幼児めいた喋り方になってしまったと言った方が正確なのかもしれない。必死になればなるほど、心の余裕がなくなればなくなるほど――そう、パニックに陥れば陥るほど、人は自分の最も弱い部分を晒してしまうものなのだから。
 あの子の喋り方、お聞きになりまして? いや、どうも勘違いしていたのかな。ひょっとして、なりは大きいけれど、中身は本当に小さい子かもしれませんな。そうじゃないかしら、じゃなきゃ、あんな言葉を使うだなんて。まさか、演技というようなことは。いや、それはないでしょう。お芝居ならともかく、こんな状況で。――会場の雰囲気が少し変わってきた。それまで招待客は誠のことを、モデルという仕事のために幼児の装いを強要された可哀想な少女くらいに思っていたのに、誠の甲高い声の幼児めいた喋り方を耳にしてからは、なぜか体だけ発育してしまった奇妙な幼女を見るような目で、ベッドに横たえられた誠の姿を見おろしているのだった。
 そんな視線が無数の針となって誠の体を突き刺している。
 突如として誠は、この場から逃げ出す術がなくなったことを知った。
 哀れみと好奇と憐憫と興奮がない混ぜになった大勢の視線が、この場から逃すまいとして誠の体に絡みつく。
「や。おむちゃ、いやぁ……」
 弱々しく呟く誠の体中から力が抜けていった。ひょっとしたら、誠自身が力を抜いたのかもしれない。誠には、そうするより他にできることは何もないのだから。
 
 綾野が誠のおむつカバーとおむつを開くと、無毛の股間があらわになった。
 身長は一メートル六十センチくらいあるし、微かとはいえ胸の膨らみもある。そんな少女の股間が無毛なら、少しばかり驚くのが普通かもしれない。けれど、会場の中央付近に置いた簡易ベッドに広げられた布おむつの上にお尻を載せて横たわる誠の股間が無毛なのを見ても、誰も驚きはしなかった。むしろ、妙に納得してしまう。それは、おむつカバーに包まれた誠の下腹部を長く目にし、幼児めいたたどたどしい誠の言葉を耳にしたためだろう。
 しかし、次の瞬間、簡易ベッドの周りに集まって目を凝らすようにして誠の股間を見つめた招待客は一人残らず驚きの声をあげずにはいられなかった。誠の股間に、あってはならいない物を発見してしまった驚嘆の声だった。
「この子は……男の子だったのかい? いや、だけど確かに胸が膨らんでいるみたいだし……」
 驚きの声をあげたばかりの招待客の一人が、少しだけ冷静さを取り戻したのか、絞り出すような声で真奈美に訊いた。
「うふふ、どちらだと思われます?」
 悪戯を楽しむ子供のような屈託のない声で真奈美は訊き返した。
「いや、私にはどちらとも……」
 招待客は口ごもった。
「よろしいのですよ、それで。それが正解なんですから」
 真奈美は笑顔で言った。そうして、要領を得ない表情を浮かべる招待客の反応を楽しむように付け加えた。
「私どもの新しいブランドはプチフェアリー、つまり、小さな妖精です。妖精は男の子でもなく、女の子でもありません。どちらでもないとも言えますし、どちらであるとも言えます。だから、まこも妖精なんです。まこだから、男の子、女の子、どちらでもなくて、同時に、どちらでもあるんです」
「……それじゃ、もう一つ訊いてもいいかな。この子の本当の年齢は?」
「妖精は永遠の生命を与えられた存在です。子供でもなく、大人でもない。そうして、子供でもあり、大人でもある、特別な存在です。もちろん、まこも同じです。だから、こう言えばよろしいでしょうか。――まこは、ネバーランドで生まれた妖精・ティンカーベルなんです」
 真奈美の説明に招待客は納得はしなかった。納得はしなかったけれど、それでも、なんとなく、それはそれでいいような気もしてくる。まこは、まこ。私たちとは別の生き物なのだ、と。その招待客も、不思議の国のアリスのドレスに身を包んでおむつを取り替えてもらっている誠にふさわしい呼び方は『妖精』しか思いつきはしなかったのだから。




 おむつを取り替えてもらってからあらためて残りのテーブルを廻った誠を待っていたのは一回目のお色直しだった。
 大きな拍手に送り出された三人がしばらくして会場に戻ってくると、初めて入場する時に鳴り響いた結婚行進曲ではなく、〈チューリップの唄〉のメロディーが流れ始めた。パーティー会場の雰囲気に似つかわしい曲とは言えなかったが、大きく開いた扉から会場に入って来る三人の姿を見て、会場中の全員が納得した。
 剛はやや暗いグレーのソフトスーツに身を包み、真奈美は明るい色合いのパンツスーツ姿、そして誠は、柔らかそうな生地でできた丸首のブラウスにベビーピンクのスモックドレスという装いだった。誠を真ん中にして三人揃って入ってくる姿は、保育園の入園式の親子さながらだった。長身のがっしりした体を少し遊び感覚のあるスーツで包んだ頼もしい父親と、すらっとした魅惑的な体に若々しいスーツをまとった知的で優しそうな母親に手を引かれた、どこか頼りなげな瞳をきょときょと動かしている、まだ足取りもおぼつかない、年少組に入園したばかりの幼い娘そのままだった。そのほほえましいとさえ言える三人の姿に、可愛らしい動揺のメロディーはお似合いだった。

「お色直しを済ませて戻ってまいりました三人のいでたちをご紹介申し上げます」
 再びステージの上に立った三人を迎えて司会者が声を弾ませた。
 まず、剛と真奈美が前に歩み出る。
「二人が身に着けておりますのは『アーバンビジネス』ブランドのアイテムでございます。ビジネス用のスクェアなスーツはもとより、お子様の入学式や入園式、卒業式にお召しいただけるようなスーツまで幅広い取り揃えを用意してございます」
 二人が身を退いて、代わりに誠の体を前に押し出した。
「まこが身に着けておりますのは、プチフェアリーの中から『ステージプチフェアリー』シリーズのアイテムの一つでございます。このシリーズは、お子様の小学校の入学式や保育園・幼稚園の入園式、また、ピアノの発表会の時などにお召しいただくために企画いたしました。今まこが着ているアイテムは、その中でも特に幼稚園・保育園の入園式を迎えられる年齢のお子様をターゲットにしたアイテムになっております。ブラウスは、コットンに特殊な加工を施してこれまでにない柔らかさを持たせた生地を使って仕立てたもので、吸汗性にも優れています」
 確かに、ブラウスには、コットン特有の少しごわごわした感じは微塵も残っていないようだった。縫製技術のみならず、サクラの素材技術の高さが見て取れる仕上がりだった。
「また、スモックドレスにはベルベットを使用しております。ご覧いただければおわかりいただけると思いますが、今までにない染色技術を取れ入れた仕上げになっております。この技術によって、これまで以上に鮮やかな発色を実現いたしました」
 袖口がフリルになった見るからに柔らかそうなブラウスに組み合わせたスモックドレスは、全体に柔らかな曲線をたくさん使った、丸っこいデザインに仕立ててあった。子供らしい愛らしさを強調するために大きく膨らませたパフスリーブから胸元につながるラインは変に手を加えない自然な感じで下におろしているため、却って、そこから先、ハイウェストな仕上げでふんわり広げたスカートのラインが、幼児らしい丸みを帯びた体型にことさら似合って見える。スカート部分の長さは、ファスナーを外した後のアリスドレスのスカートの長さと同じくらいで、誠がお辞儀をすると、後ろにいる人間にはスカートの中が見えてしまうくらいの丈になっている。幼い子供の愛らしさを演出するには最適の長さと言っていいだろう。髪もポニーテールからツインテールに変え、黒のメリジェーンシューズの代わりに履き替えた赤いエナメルの靴と相まって、さっきまで着ていたアリスドレスの時よりも、ずっと幼く見える誠だった。
「ご覧のようにスカート丈が短いものですから、お子様の脚の動きを妨げることはございません。ただ、その分、下着が見えてしまうことが少なくありません。少しおませさんのお子様ですとそれを嫌がられることもございますので、スモックドレスと同じ生地で仕立てたオーバーパンツも販売することになっております。オーバーパンツは二種類を用意して、必要に応じてお買い求めいただけるようにいたします」
 剛と真奈美の手が伸びて、誠が着ているスモックドレスのスカートをさっと捲り上げた。突然のことに、誠はスカートを手で押さえることもできなかった。
「種類は二つございますが、どちらのオーバーパンツも基本的には同じデザインになっています」
 誠の下腹部を覆っているオーバーパンツは、スモックドレスと同じ素材、同じ色合いに仕立ててあった。またがみの深い、ショートパンツよりもどちらかというとブルマーのようなラインで、スモックドレスと同様、小さな子供の丸っこい体型に合わせたデザインになっている。オーバーパンツの後ろがわには上下に三段の飾りレースがあしらってあって、いかにも、スカートの下から見られることを前提にしたらしい作りになっていた。
「一つは、ショーツなど普通の下着の上から穿くためのオーバーパンツです。同じラインながら、まこが穿いているものに比べると、もう少しすっきりした感じに仕立ててございます。そしてもう一つが、みなさまにご覧いただいています、目の前のまこが着用しているオーバーパンツです。こちらは、まだおむつ離れしていないお子様のためにご用意いたしました。保育園や幼稚園に入園される年齢ですと、まだおむつが取れていないお子様もいらっしゃいます。そんなお子様のために、おむつカバーを隠すために用意したのが、こちらのオーバーパンツでございます。もともと丸みを帯びたラインにしてございますので、おむつで膨れたお尻のラインを隠すことができるかと思います。ただ、涼しい季節はおむつカバーの上にオーバーパンツの組み合わせもよろしいのですが、これからのように暑い季節になりますと、それではお子様が可哀想です。そこで、スモックドレスと組み合わせることのできる、このようなアイテムもご用意いたしました」
 再び真奈美の手が伸びて、今度は誠のオーバーパンツをさっとずり下げてしまう。ずり下げられたオーバーパンツは、誠の足元までは落ちずに、膝の所に引っ掛かって止まった。
 オーバーパンツの下から現れたのも、それまでと同じオーバーパンツのように思えた。ただ、目を凝らしてよく見ると、ずり下げられたばかりのオーバーパンツとは少しだけ違っているのがわかる。まず、誠のむっちりした太腿をぴっちり締めつけている裾の部分のが、細いゴムではなく、幅の広いバイアステープに変わっていた。それに、前の方が大きく開くようになっているのだろうか、重ね合わせになっているらしい細い線が見える。
「おわかりいただけますでしょうか。こちらは、スモックドレスやオーバーパンツとお揃いのおむつカバーでございます。暑い季節、なおさらに蒸れる重ね穿きを避けるために、一見したところではオーバーパンツにしか見えないおむつカバーをご用意いたしました。これで、おむつカバーだけでもお子様が恥ずかしがられることもなくなればと思います。これも、アウトフィットから布おむつ一枚に至るまで全てを一つのブランドとして提供することのできる私どもならではのアイテムと自負しております」
 ようやく剛と真奈美が手を離したおかげで、それまで捲り上げられたままになっていたスカートがふわりと舞いおりておむつカバーを隠してくれた。真奈美が膝を折って、誠の膝までずり下げたオーバーパンツを元通りに引き上げる姿は、年少組に入園する我が子を甲斐甲斐しく世話する母親そのものだった。




 最後のお色直しを済ませて会場に戻った三人を迎えたのは〈こんにちは赤ちゃん〉の優しいメロディーだった。
 赤い絨毯の上を歩く剛はチノパンに麻のシャツを組み合わせたラフな格好で、真奈美は白のブラウスにデニムのジャンプスーツというカジュアルな装いだった。そんな二人に手を引かれた誠は、コットンに化学繊維を組み合わせた柔らかそうな素材の丸襟のシャツとレモン色のスカート付きロンパースに身を包んでいた。髪はツインテールのままだが、さっきまでとは違って、ロンパースと同じ色合いの生地の周囲をレースで縁取りしたニットのベビー帽子を被っている。
 さっきまでの服装が少女のものだったのに対して、今度のは幼女と呼ぶのがふさわしい服装だった。いや、幼女というよりも、むしろ、ベビーと呼んだ方が似つかわしいだろうか。ボンボンの付いた足首までのソックスといい、甲のところが幅の広いゴムバンドになったピンクの靴といい、ようやくよちよち歩きを始めたばかりの幼い女の子の姿だ。

「お待たせいたしました。本日の最後のアイテムをご紹介申し上げます。まず、二人が着用している『アーバンホーム』はもう今更ご説明申し上げるまでもございませんでしょう。」
 同じ動作を何度も繰り返してきた、いかにも堂に入った身のこなしで二人が客席に手を振ってから、すっと身を退いた。
 同時に、誠の体が前に押し出される。
 誠も同じことを何度も繰り返してきた。けれど、決して慣れることはなかった。招待客もマスコミ関係者も気づいていないとはいえ、二十五歳の男性が少女の格好をさせられて大勢の目の前に立たされるのだ。何度繰り返しても慣れられるわけがなかった。しかも、少女にさえ似つかわしくない恥ずかしい下着を大勢の目に晒すのだから尚更だ。
 そうして今度はまるで赤ん坊じみた格好だった。
 体が震え、ただでさえしっかりしない足取りがますますおぼつかなくなる。本当によちよち歩きを始めたばかりの幼児のように、誠は二人の手にすがるようにしてステージの前に押し出された。
「まこが着用しているのは『プチ・プチフェアリー』シリーズのアイテムでございます。プチ・プチフェアリー、つまり『更に小さな妖精』というシリーズ名の通り、プチフェアリーの中でも特にベビー用の衣料を受け持つシリーズになっています。ベビー用とはいえ、プチフェアリーブランドの他のシリーズ同様、高級感と手作り感を両立させるというコンセプトのもと魅力的な商品を提供させていただく私どもの姿勢が貫かれていることは言うまでもございません。シャツの襟元をご覧ください。最初のアリスドレス同様、丸い襟にはお子様のお名前を刺繍で入れております。また、ロンパースにつきましては、肩紐タイプの場合は胸元に、まこが着用していますようなスリーブタイプの場合は肩口にネームを入れさせていただきます。お買い上げいただいた際にお客様にお待ちいただく必要がないよう、全ての直営店にネーム入れ用の専用ミシンを配置する予定になっております。また、直営店でない場合も、きわめてリーズナブルな料金で専用ミシンをレンタルさせていただくことも検討しておりますので、どうぞご活用ください」
 二部袖よりも短い、ちょっと見にはノースリーブにも見えるロンパースの肩口に、ロンパースの生地よりも少し淡いレモン色の糸でネームが刺繍されていた。それを見るたびに、今身に着けているベビー服がわざわざ誠のために仕立てられたのだということをあらためて思い知らされてしまう。誠のための――自分のためのベビー服。自分のための幼い女の子の装い。それも、おむつを取り替えやすいように股間のところがボタンになっている羞恥の装いだった。
 誠の体が震えた。
 けれど、それは、羞恥のためばかりではなかった。ゆっくりした進行のせいで、アリスドレスを着てお洩らしをしてしまってから、もう既に一時間半が経っていた。哀しいくらいに時間に正確で、哀しいくらいに惨めな生理反応だった。
 下腹部に力を入れてなんとか我慢しょうとする誠。けれど、次第に両脚が小刻みに震え出すのがわかる。
 激しくなるばかりの尿意を、唇を噛みしめて堪えようとする誠。なのに、下腹部がじんじんと疼いてくる。
 目の前の景色がぼんやりしてきて、急に下腹部の力が抜けてしまう。あっと言うように小さく唇を開けて、絶望的な色を浮かべた瞳を伏せた。
 ほんの少しだけ間があって、入場の時に会場に流れた〈こんにちは赤ちゃん〉のメロディーが今度は電子音で流れ出した。
 真奈美がジャンプスーツのポケットからカード型の受信機を取り出してボタンを押すと、電子音がぴたっと鳴りやむ。
 真奈美は受信機をポケットに戻すと、誠の体を抱き寄せた。真奈美の胸に顔を埋めた誠の目から突然、大粒の涙がこぼれ落ちた。
 やがて、しゃくり上げるような泣き声が聞こえはじめた。大勢の目の前で一度ならず二度までも粗相をしてしまった誠が羞恥と屈辱に耐えかねて思わず洩らしてしまった泣き声だった。
 声帯を薄くする処置を施されたために甲高くなった誠の泣き声は、おしっこで濡らしたおむつで大きく膨れたお尻をスカートの付いたロンパースで包みこんだ姿で母親の胸に抱かれて甘えるように泣き続ける幼い女の子の泣き声だった。
「いいのよ、まこちゃん。まこちゃんは赤ちゃんだもの。赤ちゃんがおむつを汚しても、ちっとも恥ずかしくないのよ」
 あやすように真奈美が囁きかけた。その声と口調は確かに優しかったけれど、それはわざとそうしてみせただけだった。わざと優しく赤ん坊扱いして誠の羞恥をくすぐるのが本当の目的だった。
 その声に、誠はますますしゃくりあげ、えっえっえっと声をあげて泣き始める。大勢の前でそれこそ本当の赤ん坊のようにあやされ慰められる屈辱と羞恥。真奈美の目論見どおりだった。
 けれど、実は、誠が手放しで泣き声をあげたのは、それだけが理由ではなかった。いずれは会社を継がなければならないのだからしっかりしなければと小さな頃から両親に言われ続け、母親に甘えた記憶も殆どない誠。母親の胸に抱かれた憶えなど微塵も持っていない誠。だからこそ、綾野のような大柄の女性に好意を抱くようになったのかもしれない誠。その綾野よりも更に大柄な真奈美の胸にぎゅっと抱かれていると、もう何もかもがどうでもよくなってくるような気がしてくる。自暴自棄というのではない、これまでの自分が別の何者かに変わろうとしているのを感じられるような、自分が自分でなくなることへの、けれど不安というのでもない、もっと別の感情。自分が大勢の目の前にいることも、幼い女の子そのままの格好をしていることも、そうして、赤ん坊みたいにおむつをおしっこで汚してしまったことも。そんなこと、もう、どうでもいいような気がしてくる。むしろ、幼い女の子の格好をしているからこそ、赤ん坊みたいにおむつをおしっこで汚してしまったからこそ、思いきって真奈美の胸に飛び込んでこうして抱いてもらえるんだという気さえしてくる。
 誠が意識を取り戻してから今日までの三週間の間にも、こんなふうに真奈美の胸に抱かれたことはあった筈だ。その時にはこんな気持ちにならなかったのに今になってこんな気持ちになったのは、大勢の目が見守る中で恥ずかしい目に遭わされた屈辱と羞恥がひどく心を高ぶらせているせいで、自分でも気づかなかった、胸の奥深い所にしまいこんでいた、殆ど哀しみと呼んでいいほどの本当の部分が姿を現したせいなのだろうか。
「おかあちゃま、ねぇ、おかあちゃま。まこ、おちっこなの。まこのおむちゅ、おちっこなの」
 三人に「しつけ」られたせいではない、この時ばかりは自分の言葉として誠は幼児めいた口調で甘えるように言った。
 これまでと同じような幼児めいた誠の口調の中に、それでもこれまでと違う響きを感じ取った真奈美は戸惑いの表情を浮かべた。戸惑いながら、更に誠の羞恥を掻き立てるように言う。
「でも、いいのかな。こんなに大勢の人がいるのよ。たくさんの人に見られておむつを取り替えてもまこちゃんは大丈夫かな」
「いいの。おかあちゃまがいいの。おむちゅはおかあちゃまなの」
 なおも誠は言い募った。
 少しも離れまいとして自分の胸に顔を埋める誠の姿に、真奈美の胸がきゅんと痛くなった。なんだか切なくて、なんだか放っておけなくて、なんだか胸の奥が痛くて、なんだか……。
「そうね、まこちゃんのおむつはおしっこなのね、そうだったね。うん、いいわ。おかあちゃまが取り替えてあげる。いつもは綾野おねえちゃまに取り替えてもらっているけど、今日はおかあちゃまが取り替えてあげるからね」
 なんだか、真奈美も泣きたくなってきた。
 そんなものなのかもしれない。
 最初は、古い言葉で言えば政略結婚の相手でしかなかった。そして、形だけとはいえ正式に結婚したのに、二人で家庭を築こうとするそぶりさえみせない男だった。結婚するまでつきあっていた女のことを忘れられない、ふんぎりのつかない優柔不断な男だった。家のため会社のためと言いながら、結局は自分のことも自分で決められない男だった。どんな事情があれ、どういう経緯であれ、誰かに命じられたことであれ、そのことを拒否しなかったのなら、新しい生活を受け容れて新しい生活に情熱を賭けるのが本当だろう。そんなこともわからない情けない男だった。だから真奈美は誠のことを憎んだし、それ以上に軽蔑もした。だから、こんな茶番劇めいた復讐方法まで考えた。いや、復讐というのは当たらない。復讐にふさわしい相手でさえなかった。正確に言えば、誠のことを徹底的に馬鹿にして惨めな姿にして苛めてやりたかった。そう、苛めてみたかっただけだ。なのに、真奈美がそうすることで、誠の胸の奥底に隠れていた、まるで誰かにみつかるのを恐れてじっと身をひそめてでもいるかのように隠れていた、誠が心の中に持っている最も弱い部分があらわになった。その弱い部分を目の当たりにしてしまった今、真奈美の胸の中でも何かがふっと姿を消して、別の何かがふわりと姿を現した。真奈美自身にもそれが何なのかわからない。わからないけれど、それがそれであり、頑として心の中に芽生えたのだということだけは確信できた。
 誠が見上げた真奈美の顔。その顔から暗い陰が消えた。瞳の中に宿っていた復讐や軽蔑の黒い炎が静かに燃えつきてゆく。それは、誠にもはっきりわかった。
「おかあちゃま。まこのおむちゅ、おかあちゃまがとりかえてくれるんだよね? まこのおちっこのおむちゅ、おかあちゃまがとりかえてくれるんだよね?」
 誠は何度も何度も繰り返した。真奈美が自分に向かって言ってくれた言葉を取り消してしまうのを恐れるように、たどたどしい口調で、それでも誠にできる限りの早口で何度も何度も。
「そうよ、まこちゃん」
 大きく頷いて真奈美は誠の体を抱き上げた。
 そこへ、簡易ベッドとして使えるベビーバギーを綾野が押してやって来た。
 綾野は何も言わずにベビーバギーを簡易ベッドに作り換えると、ただ目を細めて軽く一礼だけして身を退いた。
 真奈美は誠を簡易ベッドの上に横たえた。
 ここが大勢の人間がいるパーティー会場だということも忘れたかのように、誠が真奈美に向かってとびきりの笑顔を見せた。それは、「しつけ」られたから無理に作ってきたこれまでの笑顔とはまるで違う、自分の言葉として「まこのおむちゅ、おかあちゃまがとりかえてくれるんだよね?」と言ったのと同じ、誠自身の内面からこぼれ出た笑顔だった。人工的に作った筈のえくぼも、その笑顔の中では、まるで自然にできたえくぼのように見える。
 真奈美はロンパースの股間に並ぶボタンを、綾野ほどには慣れた手つきではないものの、一つずつ優しく外した。そうして、ロンパースに合わせて綾野が選んだレモン色の生地で仕立てたおむつカバーのマジックテープを丁寧に外してゆく。
 おむつカバーの前当てと横羽根をベッドの上に広げると、サクラと藤企画のロゴと一緒に『まこちゃん』の文字がプリントされた布おむつがあらわになる。
 そう、これはまこちゃんのおむつなんだ。他の誰のでもない、まこちゃんだけのおむつなんだ。布おむつの四隅にプリントされた文字を一つずつ目に焼き付けるように見つめて真奈美は思った。
 おむつは、お尻の方が濡れていた。まこちゃんは女の子だから後ろの方が濡れるんだ。そうだ、まこちゃんはおむつを濡らしてしまう女の子なんだ。だから、まこちゃんは私の娘なんだ。だから、私はまこちゃんのおかあちゃまなんだ。お尻の方が濡れた布おむつをいとおしげに見つめる真奈美。
 そんな真奈美に、綾野が新しい布おむつをそっと手渡した。綾野に微笑み返して、真奈美は、手渡された布おむつを客席の方に向かって両手で大きく広げてみせた。
「布おむつの一枚一枚にもお子様のお名前が入っているのがご覧いただけることと思います。これがプチフェアリーのコンセプトです。全てのお子様のために、全てのお子様に喜んでいただけるために、全てのお子様に自分だけの物を持つ喜びを感じていただくために。また、このおむつにはサクラと藤企画のロゴもプリントされています。この部分は、お客様のご要望に応じて自由に変更することが可能です。たとえば、ご家庭の家紋をあしらったおむつや、お子様自身の顔写真をプリントしたおむつにすることもできるようになっています。――全てのお子様のために、そうして、全ての大人のために。プチフェアリーのデザインコンセプトとポリシーをご理解いただけたなら、私どもとしまして、これほど嬉しいことはございません」
 司会者の声が凛として響き渡った。
 一瞬遅れて、いつの間にかしんと静まりかえっていた会場が拍手の音で満たされた。
 いつまでも鳴りやまない拍手の中、真奈美は誠のお尻をふかふかの柔らかな新しいおむつで包みこんでいた。




 発表会の翌日。
 いつものように、綾野がおむつを取り替えている感触で誠は目を覚ました。
「おはよう、まこちゃん」
 もう新しいおむつで誠のお尻をくるんでしまった綾野はおむつカバーのマジックテープを留め、パジャマの代わりに着せているサンドレスのブルマーの股間に並んだボタンを留めながら明るい声で言った。
 ねぼけまなこで誠は応えようとして、自分がおしゃぶりをくわえたままなのに気がついた。昨夜ベッドに寝かしつける時に綾野が誠の口にふくませたおしゃぶりを、夜通しそのままくわえていたらしい。仕方なく誠は目だけで綾野に返事をした。
「まこちゃんはおっきしてるかな?」
 昨日に続いて、まだ朝の七時だというのに突然ドアを開けて真奈美が部屋に入ってきた。ねぼけまなこのまま誠が真奈美の顔を見てみると、なんだか、いつもと少し違う感じの化粧をしているみたいだった。いつもよりも少し落ち着いた、いつもよりも少し地味な感じのするメークだった。
「奥様、今朝はまた少し雰囲気が違うようですね」
 メークの変化に綾野も気がついたのだろう、ちょっと興味ありげに真奈美に言った。
「あ、綾野さんにもわかる? へへ、ちょっとした心境の変化ってやつね」
 真奈美の口調は明るかった。なにか憑き物が落ちたみたいな、とても軽やかな喋り方だった。
「だって、ほら、私には娘がいるのよ。私がいなきゃ何もできない、まだおむつも取れない小っちゃな娘が。母親がいつまでも濃い化粧でちゃらちゃらしてちゃいけないもの。娘のお手本にならなきゃいけないもの」
 そう言って真奈美は綾野に軽くウインクしてみせた。
 ひょっとしたら、綾野もそうだったのかもしれない。誠は綾野の心が合成ホルモンの影響で変化してしまったのだとばかり思っていた。けれど、ひょっとしたら、それは思い違いだったのかもしれない。ホルモン剤とはまるで関係なく、誠の世話をしているうちに本当に自然にそんなふうに綾野の心境が変化していったのかもしれない。今の真奈美のように。
「あ、そうそう。お義父様が感心してらしたわ。誠さんがあんなに可愛いモデルに変身していたのを見て。それをまこちゃんにも教えてあげようと思って朝早くからここへ来たのよ」
 おむつカバーの前当てを留め終えた綾野に真奈美が言った。
 それまで笑みを浮かべていた誠の顔がこわばった。
「まこちゃんは知らなかったでしょうけど、お義父様はホテルの別の部屋でモニターを通して会場の様子をご覧になっていたのよ。私が先にお義父様に連絡しておいたからね、誠さんがまこちゃんに生まれ変わったこと、まこちゃんが専属モデルになったこと、そうして、まこちゃんが私と剛さんの娘になったことを。だって、いくらなんでも、お義父様にはいつまでも隠し通しておけるわけがないもの」
 真奈美は腰をかがめてベビーベッドの中を覗き込んだ。
「お義父様からは今朝早くにお電話をいただいたの。お義父様がおっしゃったこと、そのまま繰り返すわね。お義父様は『誠には随分と辛い人生だったかもしれないね。なまじ佐倉の長男として生まれてきて、それも一人っ子だったものだから、私達夫婦も過大な期待をかけてしまった。それが誠にはひどい重圧だったんじゃないだろうかね。モニターに映る誠の涙を見て、なんとなくわかったような気がするんだよ。真奈美さんと剛君がサクラを継いでくれるなら、誠はもう辛い生活から解放してやってもいいと思う。実の父親がこんなことを言うのは甘いかもしれないが、誠はよくやってくれたよ。私達の期待を裏切るまいとしてね。だからどうだろう、誠を真奈美さんの本当の娘として育て直してみてやってもらえないだろうか。性別はともかく、年齢まで戸籍を書き換えるのは難しいだろうが、私もできるだけのことはやってみるつもりだ。だから、もう仕事のことを考える必要もない小さな子供からもういちど人生を送り直させてやりたいんだ。それには、誠のことを一番よく知っている真奈美さんの手元に置いておくことが最善なのだと思うのだよ。お願いできないものかね』とおっしゃったの。今から思うとお義父様、涙声だったかもしれない」
 真奈美は、これ以上はないくらいに真剣な顔つきをしていた。
「もちろん、私は、お引き受けしますとご返事しました。喜んで引き受けさせていただきますと。そうして真琴がもういちど大人になって適齢期を迎えたら、才能溢れる男性を真琴のお婿さんとして迎え入れますと。その時にこそ佐倉の家に本当の意味での後継者ができるのですからね。――うふふ、いい考えでしょう? 年頃になった真琴は素敵な男性と結ばれて佐倉家を継ぐのよ。商家に古くから伝わる慣習に従って」
 真奈美は腰を伸ばして髪を掻き上げた。
「でも、真琴が嫌だっていうのなら、おかあちゃまも無理にとは言わないわ。もしも結婚が嫌なら、いつまでも、おむつの取れない赤ちゃんのままでいていいのよ。いつまでもおむつをおしっこで汚しちゃうような子をお嫁さんにくださいだなんて言うような物好きな男の人なんていないでしょうからね」
 もう真奈美は『誠さん』とも『まこちゃん』とも呼ばなかった。誠のことを『真琴』と呼ぶ真奈美の顔には、誠を自分の娘に仕立てた満足感が溢れていた。あるいは、それは、娘を持った母親の自信かもしれないし、あるいは、佐倉家の新たな家長としての威厳なのかもしれない。
「今度、お義父様とお義母様、お二人揃って真琴の顔を見に来られるそうよ。お二人にとっては目に入れても痛くない初孫の顔を見にね。その時には真琴、ちゃんと、おじいちゃま、おばあちゃまって呼んであげるのよ。わかったわね?」
 おしゃぶりを口にふくんでいるために口を開くことのできない誠は、はにかんだような表情で頷くだけだった。父が誠はよくやってくれたよ、誠はもう辛い生活から解放してやってもいいと思うと言ってくれたと真奈美から聞かされて、泣き笑いの顔になって頷くだけだった。

 誠と真琴、どちらの人生を選ぶ方が幸せなのか、その答えは、手を伸ばせばすぐの所にありそうだった。ちょっと手を伸ばせば届く所に真奈美が答えを運んできたのだから。
 今日も、郊外のお洒落な家の庭には無数のおむつが初夏の日の光を浴びて風になびくことだろう。



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