もういちど

もういちど(3)

高木かおり



 英子さんが部屋から出て行くと、恵美ちゃんの目からじわっと涙が溢れ出た。
 やだなぁ。いったい私、どうしちゃったんだろ? ママから聞いたことがあるんだけど、私はちっちゃな頃からオムツが外れるのも早くて手のかからない子だったんだって。なのにどうして、中学生にもなって。──ううん、これは何かの間違いよ。理由はわかんないけどちょっと体調が崩れちゃって、一晩だけたまたましくじっちゃったにちがいない。きっとそうよ。もう二度と失敗なんて……。
 ムリヤリにでもそう思いこむことにして手の甲で乱暴に涙を拭い取った恵美ちゃん少し鼻をスンと鳴らして、でも深く息を吸いこむと、ベッドで横になったままうーんと大きな伸びをしてみた。そうすると、不思議なことに少し胸の中が落ち着いてくるどんな事も、要は気の持ちようなのかな。
 ちょっとだけ晴れやかな表情が戻ってきた恵美ちゃん、もぞもぞとベッドから起き出して、なにげなく窓に近づいてガラス越しに庭を眺めることにした。恵美ちゃんの部屋は二階にあって、英子さんが日頃からきちんと手入れしている芝生が奇麗な庭を正面から見下ろすことができるんだけど、普段は(なんたって受験生なんだから)机にばかり向かってて、せっかくの景色を楽しむ余裕なんてなかったんだね。それが、少し恥ずかしい理由とはいえ学校を休んじゃって思いがけずほけっとできる時間が手に入ったもんだから気分転換してみる気になったのかもしれない。
 よく手入れの行き届いた芝生と何本かの背の高い樹木を眺めながら、恵美ちゃんはふとパパのことを思い出した。というのも、パパが転勤することになった時に家族揃って引っ越すんじゃなくて一人だけ単身赴任する決心を固めたのも、この庭のせいだったからだ。え、よくわからないって? じゃ、簡単に説明しておくね。えーと、恵美ちゃんが小学三年生になった年だったかな。それまで恵美ちゃん一家は賃貸マンションに住んでたんだけど、破格の条件で売り出されてる今の家のことを仕事の取引先から教えてもらったパパ、その広い庭にすっかり惚れこんじゃって(ずっとアパートとかマンションとかで暮らしてたパパ、木登りできるような立派な樹が生えてる庭っていうのに憧れ続けてたんだ)、さっさと契約しちゃったらしい。その二年後に転勤ってことになったんだけど、今この家を(というか、庭を)手放しちゃったらもう二度と手に入れることなんてできないとか考えて、家と家族を残して一人で遠くへ行っちゃったんだ。そんな事情をママから聞かされていた恵美ちゃん、だから庭を眺めながらパパの顔を思い浮かべたのももっともなことかもしれないね。
 私は広い庭よりもパパと一緒の方がいいのに。ちょっとセンチになりかけてる恵美ちゃん、少し大人びた様子で軽く溜息をつくと、ゆっくり首を振って庭の奥に目を向けた。で、なにやら動き回ってる英子さんの姿が目にとまる。
 ママ、何をしてるんだろ? 芝刈りは前の日曜日にしてたし、植木の剪定は庭師さんに来てもらったばかりなのに。恵美ちゃんはじっと目を凝らしてみた。すると、英子さんが植木の手入れをしてるんじゃなくて、樹と樹の間に細いロープをかけようとしてるんだってことがわかってくる。太い樹の下から二番目くらいのしっかりした枝にロープを結びつけて、その先をもう一本の樹にまわしてるんだ。それを見た恵美ちゃん、なんとなく興味を覚えて英子さんの動きを眺めることにした。
 でも、なんとか無事にロープを張り終えた英子さんが次にしたことを目にした途端恵美ちゃんは頬を真っ赤に染めて口を両手で押さえちゃう。だって英子さんたら、樹と樹の間に張ったロープに白いシーツを引っかけてくんだもの。それもただのシーツじゃない、夜中に二度も恵美ちゃんが恥ずかしい原因で汚しちゃったシーツなんだから。洗濯機で洗ったのか、羞ずかしい滲み(世界地図とかよく言われるヤツだ)は付いてなかったけど、でもさ。それに、そのシーツの横には、恵美ちゃんが寝つく時に穿いてたショーツとパジャマ。それに、途中で穿き替えさせられちゃった別のパジャマとスキャンティを並べて干してる。
 その光景を目にした恵美ちゃん、いたたまれない気分になって部屋をとび出した。
とび出して、廊下をとてとて駆けて行く。行く先はもちろん、庭に続く勝手口だ。恵美ちゃんは勝手口に置いてあるサンダルを履くと、そのまま英子さんの側まで駆けて行った。
「あら、もう気分はいいの?」
 ロープに掛けたシーツをぱんぱんと両手で挟みこんで叩きながら、英子さんはにっこり微笑みかけた。
「いいもわるいも……それよりも、これは何なのよ?」
 英子さんの質問にはまともに応えず、ちょっぴり怖い目で英子さんを睨みつけるみたいにして恵美ちゃん、うわずった声で言った。
「何って……シーツだけど?」
 英子さん、にこにこ笑ったまま応える。
「あ……」
 恵美ちゃん、思わず頭を抱えて。でもじきに立ち直ると、
「そのくらい、見ればわかるわよ。そうじゃなくて、どうしてこのシーツをこんな所に干してるのかを訊きたいの」
「だって、お洗濯したシーツはお日様の光で乾かすのが一番よ。乾燥機だとどうしても湿り気が残ってそうで、ママ好きじゃないの」
 英子さん、何を今更?っな顔でのほほんと説明する。
「ちがーう、ちがうちがう。そうじゃなくて──どう言えばわかるのよ(どう聞けばわかるのよ?っていうようなお約束の茶々は入れないでね)──いつもは軒先の物干し場で乾かしてるのに、どうして今日だけはここに干してるのか訊きたいのよ。……まるで私への当てつけみたいじゃない」
 恵美ちゃんの声、ちょっとぶすっとした感じだった。
「当てつけですって?」
 英子さんも少し固い声で問い質す。
「そうよ。だって、この場所、私の部屋から丸見えになるのよ。そんな所に私が汚しちゃったシーツや下着を干すなんて……そんなの……」
 最初は勢いのよかった恵美ちゃんの声、次第にぼそぼそしてくる。そりゃ、ま、こんなことを大声で言える人はいないよね。
「それ、誤解だわ。私はむしろ恵美ちゃんのことを思って庭に干してるのに」
 恵美ちゃんが怒ってる理由がわかった英子さん、諭すような口調で言った。
「私のことを思って……?」
 恵美ちゃん、なんとなくキョトンとした顔になって。
「そうよ。いつも通り軒先に干してもいいけど、あそこって、ほら、前の道路から見えちゃうじゃない? そんな所に干したりしたら恵美ちゃんが気にするんじゃないかと思ったの。だから他の人には見えないように庭に干したんだけど」
 英子さんは言い聞かせるように説明した。
「うう」
 恵美ちゃん、小声で唸るだけ。
 言われてみれば確かにそうだった。確かに、自分のオネショで汚しちゃったシーツや下着が人前に干してあるっていうのは(きれいに洗濯してあるんだから、道路を行き交う人達は、それがオネショで汚れてたんだってことには、そして恵美ちゃんの仕業だってことには気がつく筈もないよ。普通に洗濯物が干してあるんだなぁって思うのがせいぜいで、そんなことも思わずに通り過ぎる人が殆どの筈だよ。でもね)とてもイヤなものだし、なんとなくびくびくしてなきゃいけないような気になってくる。
でも、かといって、自分の部屋からよく見える所にこれみよがしに(英子さんにはそんな気はないんだけど)干してあるっていうのも……。
「……ごめんなさい、わかりました」
 胸の中であれこれと迷った恵美ちゃん、結局(ちょっと拗ねたみたいに)そう言って回れ右をする。
 こうなった以上、このシーツや下着の側にいても何にもならない。それどころか、悪い夢みたいな出来事を思い出しちゃって心を悩ますだけだもの。
「部屋に戻ったらゆっくり休むのよ。恵美ちゃん、このごろお勉強のし過ぎで疲れてるみたいだから、今日一日くらいはたっぷり休養しておきなさいね」
 足早に引き返す恵美ちゃんの後ろ姿に、英子さんの声がとんできた。
 で。部屋に戻ってきた恵美ちゃん、英子さんに言われるまでもなくベッドの上にごろんと横になっちゃう。ちょっといろんなことがありすぎて机に向かう気にもならずかといってテレビを見る気にもなれない(だいいち、平日のこの時間帯に、中学生の女の子が興味を持ちそうな番組があるわけないんだし)。
 それでもやっぱり庭の光景が気になるのか、寝転がったままじゃ見えないのに、ちらちらと窓の方に目をやってみて。そうして、細いロープにかかってるシーツのことなんかを思い出す度に顔を赤らめて。ああ、やだやだ。早く忘れちゃお。こんなこときれいに忘れて、楽しいことばっかり考えるんだ。そうよ、思いきり楽しいことを──そんなことをしてるうちに恵美ちゃん、英子さんが言ってたように日頃の勉強で疲れてるところへもってきて今朝はバカみたいに早く目を醒ましちゃったもんだからつい、うとうとし始める。


「恵美ちゃん、お昼よ。ほらほら、いくらなんでも寝過ぎじゃないの。さっさと起きて昼食になさいよ」
 英子さんの声が恵美ちゃんの部屋の空気を震わせてた。
 英子さんの言う通り、壁に掛かってる時計は十二時を過ぎていた。庭から部屋に戻ってきた恵美ちゃんがもう一度眠っちゃってから三時間ほどになろうとしている。睡眠不足の分はもう充分に取り戻した頃だ。
 でも恵美ちゃん、英子さんが何度も呼んでるのにてんで目を開けようとしない。しかも、なんとも幸せそうな表情を浮かべたりしてる。英子さん、ついつい昨夜のことを思い出しちゃって悪い予感。それに、昼食のスパゲティを用意していてミートソースの臭いが鼻についちゃってたのがマシになってきて、部屋の中に微かに漂ってる嗅ぎ慣れない臭いに気がついて。
 ちょっと慌てて英子さん、恵美ちゃんがもぐりこんでる薄い布団をぱっと捲くり上げた。途端に、ほんの微かだった臭いがつんと鼻をくすぐってくる。その臭いは、昨夜のように体を丸めて眠ってる恵美ちゃんと、その下になってるシーツから漂ってくるみたいだった。
 英子さんは右手を伸ばすと英子ちゃんのお尻(横を向いて寝てるから、正確に言うと腰かな)とシーツの間に指を這わせてみたんだけど、その指に、悪い予感が当たったことを知らせるじとっとした感触が伝わってきちゃった。
 恵美ちゃんの体の下から抜いた指を、英子さんは信じられないとでもいうように呆然とした目で見つめた。でも、そうしたからってどうなるってものじゃなかった。相変わらず幸せそうな微笑みを浮かべて眠ってる恵美ちゃんの顔を眺めながら、英子さんは深〜い溜息をつくしかなかった。




 でもって、場所は変わって。ここは『松本産科婦人科医院』の診察室。
 英子さんに付き添われた恵美ちゃんが木製の椅子に腰かけて、その正面には、ここの院長先生の松本麻里さん。
 どうして恵美ちゃんが産婦人科なんかの診療室にいるのか、ちょっと簡単に説明しとかなきゃいけないね。
 えと、昼食の準備を終えた英子さんが恵美ちゃんを起こしにやってきて、またまた恵美ちゃんがしくじっちゃってることに気がついたところまでは話したよね。で、その後のことなんだけど。
 なかなか目を醒まさない恵美ちゃんを、それでも英子さんは体を揺すったり鼻をつまんだりしてやっとこさ起こしたんだ。そうして目が開くと、自分の下腹部にじわっと広がってるイヤーな感じに恵美ちゃんはじきに気がついて、それがどういうことなのかってことにもすぐに気がついて。しばらくはただブルブルと体を震わせるだけだった恵美ちゃん、ぎゅっと目をつぶって何かを思いつめて──お医者様に診てもらうって自分から言い出したんだ。英子さんが薦めた時には頑として言うことをきかなった恵美ちゃんもこんなにもオネショが続いたんじゃ、体がどこかわるいのかもしれないって心配になってくるのが普通だものね。しかも、夜眠ってる時だけじゃなくて昼間にうとうとしてる時にまで失敗しちゃうんだもの、少しくらいの心配ですむ筈がない。
 だけど、なるべくなら泌尿器科になんて行きたくないんだけど?って弱々しく言う恵美ちゃんのために英子さんが思いついたのが、自分がかかってる松本産婦人科のことだったんだ。今から十五年前に英子さんが恵美ちゃんを出産するのにお世話になったことがきっかけで、随分と長いおつき合いになっている。恵美ちゃんが生まれる時に院長先生として頑張っていたのは今の麻里先生じゃなくて、そのお父様だった。その時には麻里先生は医大に入学したばかりのお嬢さんだったんだ。ただ、たまたま英子さんと同い年ってことで(片や現役の大学生、片や若いのに家庭の奥さんで赤ちゃんを生もうとしてるっていうふうに立場はぜんぜんちがってたんだけど)二人はたちまち意気投合しちゃって、生まれたばかりの恵美ちゃんも麻里先生はいろいろと面倒みたりして可愛いがってくれたみたい。それから七年が経ってインターン研修も無事に終えた麻里先生が、お父様が引退するのをきっかけに(とっても若い)院長先生になると同時に小児科も診療科目に加えることになって、その頃には小学校に通うようになっていた恵美ちゃんも風邪をひいたりお腹が痛くなった時にはよくお世話になったんだね。
 さすがに中学校に上がってからは小児科へ行くのも恥ずかしくなって別の医院へ行くことが多くなったんだけど、でも、そんなことがあって麻里先生の人柄をよく知ってる恵美ちゃんとしては、英子さんの薦めもあってこうして(少しは渋々なんだけど) 診察室に座ってるってわけだ。


 昨夜からのことを英子さんが詳しく説明するのを時おり頷きながら聞いていた麻里先生、英子さんが口を閉じると同時に、真っ赤な顔をして無言でいる恵美ちゃんの方に顔を向けた。
「お母様のおっしゃる通りなの?」
 麻里先生の声は昔と同じで、相変わらず優しい響きだった。
「……はい」
 麻里先生に顔を覗きこまれるようにして、恵美ちゃんは小さな声で応えた。
「そう。──お腹が痛いとかってことはない?」
 麻里先生、診察室に入ってきた看護婦から手渡された紙に記入された数字や記号を読みながら念を押すように訊いた。
「はい、大丈夫です」
 恵美ちゃんの声は弱々しい。
「そうね、さっき採取したお小水を調べてみたんだけど確かに異常はないみたいだわ。 血尿の気もないし、オリモノが混入しているような形跡もないし。──つまり、泌尿器関係の疾患じゃないということね」
 麻里先生は、英子さんと恵美ちゃんを安心させるように穏やかな声で言った。



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