もういちど

もういちど(4)

高木かおり



「あの、じゃ……それじゃ、恵美が失敗した原因は……?」
 だけど、麻里先生の口調とは裏腹に、却って不安が増したように英子さんが口ごもりながら尋ねた。泌尿器系のせいじゃないのに三度もオネショをしちゃうなんて、いったいどんな原因があるのかしら?
「それをこれから調べるんですよ。こんな時にはまずお母様がどっしり落ち着いていてあげてくださいね。でないと、恵美ちゃんまで要らない心配をしちゃうから」
 英子さんの言葉に麻里先生、ちょっとたしなめるように言う。昔からの知り合いということもあって、親しみのこもった温かい言い方だった。
「そう、そうね。それに、麻里さんなら安心だわ。よろしくお願いね」
 英子さんも、医者と患者というよりも、古い友人に対するようににこやかに応える。
「じゃ、ちょっと体を診てみましょう。恵美ちゃん、こちらへいらっしゃい」
 軽く頷いた麻里先生、机の前から立ち上がると診察室の隅にかかってるカーテンを引きながら恵美ちゃんを呼んだ。
 その言葉に従って椅子から立ちあがった恵美ちゃんは麻里先生の方へ歩きかけたんだけど、カーテンの中に据えてある診察台を目にした途端、ビクンッと体を引きつらせて足を止めちゃう。
 婦人科で使われてる診察台の形を知ってる人はわかるだろうけど、それって、とっても恥ずかしい形をしてるんだよね。腰から上、頭を載せるところまでは普通の(内科とか外科とかにあるような)寝台みたいな診察台なんだけど、問題は腰から下、つまり両脚を載せるところなんだ。どう表現すればいいのかな──寝台が左右に大きく分かれるような格好になっていて、それぞれに左右の脚を載せて、しかも脚を勝手に動かせないようにベルトで固定しちゃうような構造になってる。で、そうやって必然的に大きく(それもムリヤリみたいに)開かされることになる両脚の間に先生が立って恥ずかしい部分を覗きこむ(もちろん診察のためなんだけど)格好になるんだね。患者の腰の上にはカーテンがかかっててお医者様と直接顔を会わせることはないようにはなってるんだけど、でも、こういう姿っていうのは……。いくらそれが診察で、診てくれるのがよく知ってる麻里先生だっていっても……。
 恵美ちゃんが激しく首を振って立ち止まっちゃったのも仕方ないことだったんだ。
「どうしたの、恵美ちゃん。さ、いらっしゃい」
 なのに麻里先生ったら、恵美ちゃんの気持ちなんてぜんぜん気づかないように平然とした顔つきでてきぱきと診察の準備を進めながら声をかけてくる。
「……」
 恵美ちゃんは助けを求めるような目で、傍らの英子さんに顔を向けた。ねえ、ママ。 ほんとにあの恥ずかしい診察台に上がらなきゃいけないの?
「ほらほら、ほけっとしてないで早くなさい。先生も忙しいんだから」
 でも英子さん、恵美ちゃんの視線を無視して手を振るだけ。
 ほんとは英子さんにしても恵美ちゃんの胸の内はよく知ってる。なんたって、恵美ちゃんができた時にもお世話になったし、お腹にいる赤ちゃんのためにもこれから何度もその診察台の上に載らなきゃいけないんだし。それがどんなに恥ずかしい格好なのかなんてこと、英子さんはたっぷり味わってきたんだから。でもそんなこといってばかりしてたら結局は恵美ちゃんのためにならないんだって英子さんは考えて。だからここは、ちょっと冷たくて威厳のある母親にならなきゃいけないんだ。
「だって……」
 それでも恵美ちゃん、前へ進むどころか、たじたじと後ずさったりして。
 だけど、恵美ちゃんのたじたじも長くは続かなかった。英子さんが恵美ちゃんの体を後ろから抱きしめて、麻里先生が待ってる診察台の所へ連れて行こうとしたから。
「いつまでもグズクズ言ってちゃダメよ、恵美ちゃん。せっかくなんだから、ちゃんと診てもらわなきゃ」
 恵美ちゃんの背中を自分の胸で押すみたいにしながら英子さん、諭すように言いきかせる。
「やだってば。あんなとこに上がらなきゃいけないんだったら、私、もう帰る」
 英子さんに押しきられまいとして恵美ちゃん、足を踏ん張る。
 だけど英子さん、そんな恵美ちゃんの頑張りなんて無視してぐいぐい押してく。
「やだ、ねえママ、やだって言ってるのに……」
 恵美ちゃんは英子さんの両手に抱えられちゃった体を揺すったり脚をばたばたさせたりして必死で抵抗してみせる。
「もう、困った子ね。……じゃ、これでどうかしら? そーれ、こちょこちょこちょ」
 英子さん、恵美ちゃんの体にまわした両手の指を恵美ちゃんの脇腹に移動させるとさわさわと動かし始めた。それは、甘えんぼうのくせに時おりなぜとはなしに我を張ることも多かった恵美ちゃんに対して、英子さんがよく使う手段だった。初めて幼稚園に行く日、英子さんとバイバイするのがいやで幼稚園の門柱にしがみついたまま一歩も動かなかった時、歯医者さんの診療室に入るのが怖くて待合室で脚を踏ん張って泣いた小学一年生の時、単身赴任に赴くパパと顔を会わせるのがつらくて空港ロビーのトイレにたてこもってしまった時。英子さんはそんな時、恵美ちゃんの脇腹や背中をよくくすぐったものだった。そうすれば恵美ちゃんの体から力が抜けてしまい、手を引くにしても体を抱え上げるにしても抵抗を諦めちゃうからだ。
 さすがに恵美ちゃんが中学生になってからはそんなことはしなくなってたんだけど、 昔のことをふと思い出した英子さん、最終手段の発動を決心したみたい。
「きゃ〜ん、ママ、ママったら……やだ、ママ……」
 恵美ちゃんは体をよじってくすぐったさをガマンしようとするんだけど、恵美ちゃんの急所をよく知ってる英子さんの指はもぞもぞうねうねと蠢き続ける。
 不意に、恵美ちゃんの体からふにゃりと力が抜けてしまった。
「そろそろいい頃かしらね」
 診察室の床にぺったりしゃがみこんで肩を震わせている恵美ちゃんの脇腹から手を離し、英子さんがもう一度体を抱きかかえようとする。
「あぁん、いやー……」
 なんとも悲しそうな声が恵美ちゃんの口から洩れ出たのはその時だったんだ。
 英子さんは恵美ちゃんを抱こうとしていた手を止め、何があったのか確かめようとして恵美ちゃんの前にまわりこんだ。銀色に光る羞ずかしい形の診療器具をいくつも準備しかけていた麻里先生も慌ててとんでくる。
「なんて声出すのよ──どうかしたの、恵美ちゃん?」
 ちょっとくすぐっただけなのにまさかそんな悲鳴にも似た声を恵美ちゃんが出すなんて予想もしていなかった英子さん、唇を震わせてる恵美ちゃんの顔を正面から見すえて早口で尋ねた。
 でも、恵美ちゃんからの返事はない。
 恵美ちゃんはただ虚ろな瞳を微かに潤ませてるだけ。
「あ、あ……」
 恵美ちゃんの唇から、呻きとも喘ぎともつかない悲鳴みたいな声が聞こえてくる。
 診察室の床にぺったりとお尻をついて(一見したところじゃ正座してるみたいにも見えるんだけど)へたりこんでる恵美ちゃん、のろのろと両手を動かすと、女の子の大事な部分を押さえるみたいにしてスカートの上に持っていった。
「……いやぁ、こんなのやだよー」
 やっとこさ意味のある言葉になった恵美ちゃんの声は泣いてた。 最初は何が起こったのかわからずにあたふたしていた英子さんだけど、なんとなく気配を察した。察して、恵美ちゃんがへたりこんでる床に目を注ぐ。それにつられるみたいに、麻里先生も床を覗きこむ。
「見ちゃやだー、むこう向いててよー」
 恵美ちゃんはひっくひっくとしゃくりあげながら顔を伏せ、股間を押さえてる掌に力を入れる。でも──恵美ちゃんのお股から滴り落ちる温かい雫を止めることはできなかった。
「恵美ちゃん、あなた……」
 可愛い我が子の体に何が起こったのかがわかってホッとするどころか、今までよりも却っておろおろするようなことになっちゃった英子さん、恵美ちゃんの体に手を触れていいのかどうかもわからなくなって、すぐ横にいる麻里先生に助けを求めるみたいに目を向ける。
「……麻里さん、ね、麻里さん。娘は……恵美の体はどうしちゃったの?」
 日頃の英子さんからは想像もできないくらいによほど慌ててたのか『先生』も付けずにただ名前を呼ばれた麻里先生にしたって、目の前で床に座りこんだままオモラシしてる恵美ちゃんをどう扱うこともできる筈がない。
 そんな二人の目に映っているのは、温かそうな湯気を立ち昇らせながらゆっくりゆっくり広がっていく浅い水溜まりだった。
 両脚のつま先が膝よりも外側へ広がるような格好で膝を折ってぺたりと座りこんでいる(つまり、ちょっとだらしない正座だって言えばわかりやすいかな)恵美ちゃんの、床からほんの少しだけ浮いた所にある内腿の間からぽたぽたと切れ目なく滴る温かな水滴。内腿から太腿ヘつっと伝って行って、折れた膝の辺りから細い条になって床に流れる僅かに黄色がかった液体。へんに両手で押さえてしまったせいで、却ってショーツから溢れ出した恥ずかしい体液を吸って微かに変色していくデニムのスカート。次第に広がっていく水溜まりに浸ってじわりと濡れそぼる純白のソックス。
 そういった光景が、まるでストップモーションの映画みたいに二人の目に焼き付いていく。そうして当の恵美ちゃんは──スカートの上に置いた掌をぎゅっと握りしめ、 両腕をがたがたと震わせ、ちょっと生意気そうに見える形のいい唇をぴくぴく痙攣させている恵美ちゃんは、僅かにカールした睫があいくるしい瞼を閉じて、その羞恥に耐えようとしていた。でも、そんなことで、自分が置かれた状況を見ずにすむなんてことにできるわけがなかった。目を閉じてしまっただけに却って皮膚の感覚は鋭く研ぎすまされ、内腿を伝って滴る温かい液体の感触を、膝の裏側を流れるくすぐったくなるようなお小水の感触を、しとどに濡れていくソックスの感触を、そして、ショーツの中に溢れ出し、ショーツをあますところなくぐっしょりと濡らし、それだけでは足りずにショーツから滲み出していく生温かい感触を、恵美ちゃんはまるで頭の中に直接伝わってくるように鮮やかに感じてしまっていた。
「あ……ん……」
 恵美ちゃんの唇から、何かに耐えるみたいな呻き声が洩れてきた。
 それはちょっと聞いたところじゃ、中学生にもなってオモラシをしてしまった自分を責め、その情けない姿を思い、激しい屈辱と羞恥に耐えている可哀相な声だったかもしれない。
 でも。
「……?」
 娘の体を突然に襲った異様なできごとに呆然としてことの成り行きを見守るしかできない英子さんだったけど、その恵美ちゃんの声に混ざってる微妙なニュアンスを聞き逃すことはなかった。たぶん他の誰が聞いたとしても、恵美ちゃんのその声は哀しげで切羽詰まったふうにしか聞こえない。でも、ちっちゃな頃から(それこそ赤ちゃんの頃から)恵美ちゃんにつきあってきた英子さん、どんな泣き方の時にはミルクを欲しがってるのか、どんな声でおねだりする時には何を欲しがってるのかなんてこと、 手に取るようにわかるんだ。そんな英子さんの耳には、恵美ちゃんの声が屈辱に耐えてるだけじゃなくて、もっと別の感情を表してる様子がはっきりと聞き取れたんだから。
「ん……ん……」
 そして、恵美ちゃんの声の様子が変化した。それは、英子さんでなくてもそれとわかるような、なんていうか、体の奥底から絞り出してるみたいな切ない声だった。
 同時に、恵美ちゃんの表情が。
 いつのまにかうっすらと開いた瞼の下で恵美ちゃんの瞳は相変わらず潤んでいた。だけど、でも、それは涙なんかで濡れているんじゃなかった。うっとりしたようにも見えるその瞳はどこか遠くをみつめるみたいにとろんと焦点が合ってなくて、ぴくぴく震えてる唇にしても、そこからは、まるで熱く燃える甘い吐息が吹き出てそうだった。それは、英子さんがこれまでに見たこともないような恵美ちゃんの嘘みたいに大人びた表情だった。大人びた表情なのに、でも、恵美ちゃんがずっとちっちゃな子供だった頃に時々みせてたような純真であどけない無垢な表情。矛盾してるみたいなんだけど、そんな二つの表情が不自然じゃなく混ざり合い、輝いているようにさえ英子さんには感じられたんだ。


「ねえ、恵美ちゃん……?」
 不意にひどい不安を覚えた英子さん、恵美ちゃんの目の前でぱっぱっと手を振ってみせた。
 でも、恵美ちゃんの虚ろな瞳は動かない。
 もう膀胱に溜まってたオシッコは出しきっちゃったのか、恵美ちゃんのお尻の下にできてる水溜まりはそれ以上に広がる様子もなく、ただ静かに湯気を立ち昇らせてるだけ。時おり恵美ちゃんが軽い痙攣みたいに膝を震わせても、小さなさざ波がたつだけだ。恵美ちゃんは、ソックスがじわじわとオシッコを吸って足首に貼り付くようになってるのにも気がつかないみたいに、何を見ているのか何も見ていないのかもわからない目を遠くに向けてるだけ。
「そこを代わって、英子さん」
 それまで無言だった麻里先生が、英子さんの代わりに恵美ちゃんの正面に膝をついた。もう少しで白衣の裾がオシッコで濡れちゃいそうになるのを気にもしないで恵美ちゃんの近くに寄ると、ポケットから取り出した細いペンライトを灯して恵美ちゃんの目に向ける。それから、まだスカートの上からお股を押さえつけてる恵美ちゃんの両腕を軽く握って感触を確かめ、頸動脈に中指を押し当てる。
 そうしてる間も、恵美ちゃんは身じろぎ一つしなかった。
「中井さん、注射器を用意して。鎮静剤──そうね、K−6を二単位投与するわ。準備してちょうだい」
 恵美ちゃんの首筋から手を離した麻里先生、診察室の隅に突っ立ってる看護婦に向かって慣れた口調で指示をした。
「鎮静剤ですって? でも、恵美はちっとも興奮なんてしてないわよ」
 麻里先生の言葉を聞き咎めた英子さん、自分の方がちょっと興奮したような声を出した。
「説明は後でするわ。中井さん、早くして」
 麻里先生の表情はとても固かった。




「さ、かけてちょうだい」
 自分も椅子に腰かけながら麻里先生、机を挟んで向かい側の椅子を英子さんにすすめた。
 ここは診察室の隣にあるカウンセリング室。お医者様が患者さんに症状や診断結果なんかについて詳しく説明する時に使うことが多い部屋だ。
 鎮静剤を注射して強引に眠らせた恵美ちゃんを病院備え付けのバスローブに似た診察着に着替えさせ、空いていた病室のベッドに寝かせた後で麻里先生が英子さんをこのカウンセリング室に誘ったんだ。看護婦さんたちが恵美ちゃんの粗相の後片付けをしてるから診察室が使えないっていう理由もあるんだけど、それよりも、誰も聞いてない場所で英子さんに話しておきたいことが麻里先生にはあるみたいだった。



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