もういちど

もういちど(5)

高木かおり



「どうなのかしらね?」
 さすがにちょっと疲れたって顔をした英子さん、椅子に腰かけるなりほっと溜息をついちゃった。
「それなんだけどね……」
 麻里先生、右手に持ったボールペンのお尻で机の上をとんとん。
 あんなことがあった後だけに、少しだけ残ってたよそよそしさなんてきれいになくなって、昔からの友達と会話するみたいな感じで。
「……お小水を調べた結果じゃおかしなところはなかったというのは話したわよね?」
「ええ」
「もう少し詳しく触診とかもしたかったんだけど、ああいうことになってそれもできなくなっちゃったけど。──でもね、およその見当はついたわ」
 今度は麻里先生、ボールペンを唇の下に押し当てて。
「見当っていうと?」
「恵美ちゃんの症状は肉体的なものじゃないわね。たぶん、かなり精神的なものだわ」
「……それ、どういうこと?」
 麻里先生が口にした『精神的』って言葉にちょっと驚いたように英子さんが訊き返す。
「診察室で英子さんが話してくれたことを聞きながらなんとなくそうじゃないかなとは思ってたんだけど、恵美ちゃんの失禁の様子を観察してて確信したの」
 麻里先生、『オモラシを見てて』とは言わずにわざと『失禁の様子を観察してて』って固い表現をする。その方が説明を事務的に進めやすいって判断してのことだし、恵美ちゃんの母親である英子さんにもその方がいいだろうと思ったから(だって、ほら、”オモラシ”なんて言い方をされると妙に照れちゃったりするじゃない?)。
「……」
 英子さんは続きを促すみたいに無言で頷いた。
「どう言えばいいかしらね──子供を二人とか三人とか生んだ人なら経験があるからわかってもらいやすいんだけど……」
 麻里先生、ボールペンを指に挟んでくるくる回す。
「……とりあえず、子供が一人いるとするわね。で、その下に赤ちゃんが生まれたら、 ううん、まだ生まれてなくてお母さんのお腹に赤ちゃんがいるって知ったとしたら、その子、どんな行動をとると思う?」
「え? それって……」
 英子さん、ちょっと戸惑ったみたいな顔になる。
「幼児心理とかじゃよく知られてることだし、そんな大袈裟なこと言わなくても、わりと常識みたいになってるんだけど──その上の子、それまではちゃんとオシッコも言えたし御飯も自分で食べてたのに、それを知った途端にオネショを再発しちゃったりすることがあるの。珍しい事例じゃないわよ」
 麻里先生の目がボールペンのインクの減りを確かめるみたいに細くなる。
「ひょっとして、”赤ちゃん返り”のことを言ってるの?」
 英子さん、ちょっと考えるみたいな仕種をして。
「でも、それって、三歳とか四歳とか──せいぜい幼稚園児くらいのちっちゃな子供のことじゃないの?」
「そう、一般的にはそのくらいの年齢の子がそうなることが多いわね。ただ、小学生とか中学生とかでもそういうふうになることが全く無いわけじゃないのよ。ひどい時には高校生とか、大の大人でもそれに近い症例が報告されてるくらいなんだから」
 麻里先生、机の上に組んだ両手に顎を乗せて、英子さんの反応を確かめるみたいに言った。
「だけど、だって、恵美がそんなふうに……赤ちゃん返りしちゃったって断言はできないんじゃ……」
「ううん、まず間違いないと思うわ。──これまでずっと、恵美ちゃんは優しいママと二人きりで暮らしてきた。それなのに、そのママのお腹の中に自分の妹か弟がいるってことになって、一人きりの大切なママを奪われちゃうって思いこんじゃったのね」
「……ちがう。それはちがうわよ、麻里さん」
「ちがう?」
「そうよ。だって恵美は、ベッドの中でちゃんと言ってくれたもの。最初はそんな気になってママをとられちゃうって思ったけど、でも考え直したって。恵美は自分の口でそう言って謝ってくれたのよ。だから恵美がそんなことになるなんて、それはちがうわ」
「そう、そんなことがあったの。でもね、それは意識の中でもほんの浅いところにある、表面上のことでしかなかったんだと考えた方がいいでしょうね。恵美ちゃん自身も気づいてないかもしれないけど、恵美ちゃんが感じた不安や脅えといった感情は、心のほんとの深いところに深い傷になって残ってると考えた方がいいわ」
 麻里先生はポールペンをカタンと音をたてて机の上に置くと、これまで英子さんが見たこともないような真剣な表情で言った。
「でも……でも例えそれが本当だとしても、何を根拠に麻里さんはそう言いきれるのよ? 精神的な問題だっていっても、それだってきちんと検査したわけでもないのに」
「ねえ、英子さん。検査なんてものはね、観察のうちのちょっとした部分でしかないのよ。精神的な問題は、むしろ何も意識しないで取ってる行動の中にこそ形を表すものなんだから。──わかる?」
「……」
 英子さんは微かに首を振っただけ。
「じゃ、具体的に説明しておくわね。たしか、恵美ちゃんの三度のオネショのうち二度は、恵美ちゃんはとっても幸せそうな顔をしてて、下着とパジャマをぐっしょりにしながら目を醒ます気配もなかったのよね?」
「ええ」
「残る一度については英子さんは直接目撃してなかったみたいだけど、この時もたぶん恵美ちゃんは同じような表情を浮かべてたと私は思うわ。ただ、夜明けが近くなって目を醒ましたっていう点が他の二度の時とはちがうところだけどね」
「……」
「で、さっきの失禁よ。英子さんも見たわよね?──最初の頃こそ恥ずかしさに耐えかねてみたいに顔を伏せてたけど、後の方は、うっとりしたような顔つきになってたのを」
「……ええ」
 英子さんは少しためらって、でも、結局は麻里先生の言葉を認めて微かに頷いた。
「そういったことがつまり、恵美ちゃんの精神状態を表してる行動なのよ。間違いないわ──恵美ちゃんは無意識のうちに、オネショやオモラシに憧れを抱くようになってるのよ。特に、嫌なこと(さっきの場合だと、診察台に上がることね)から逃げるためにオモラシをしちゃうなんて、症状はかなり進んでるかもしれないわ」
 今度は麻里先生、『失禁』じゃなくて『オモラシ』って言った。
「まさか……」
「赤ちゃん返りした子がどんな行動を取るかってことについては、英子さんも少しは知ってるわよね? さっきも言ったけど、ちゃんと一人でトイレへ行けてた子が急にオネショを再発しちゃったり、赤ちゃんみたいにオムツをあててもらいたがったりするのよ。それに、食事も母親の手で食べさせてもらいたがったりするようになったりね。つまり、自分では何もできなくて全てを母親の手に委ねる──そうすることで、新しく生まれた(あるいは生まれてくる)赤ちゃんに向けられる母親の愛情を自分に向けさせようとするの。恵美ちゃんの場合も、そうとしか考えられないケースだわ」
「でも、恵美は中学生なのよ。赤ちゃん返りするようなちっちゃな子じゃないわ」
「そうね、たしかに恵美ちゃんはもう中学生だわ。でも、年齢なんて関係ないのよ。母親と子供とがどんなふうに互いを求めてるかってことだけの問題なのよ。それに、ひょっとしたら恵美ちゃんの場合は高校受験とかお父様の単身赴任とかで次第にストレスを溜めこんでいたかもしれないわね。そして、それが英子さんの妊娠をきっかけにして形をとったとしたら?」
「ん〜」
 英子さんもとうとう真顔になって、まるで睨みつけるみたいに麻里先生の顔をじっと見つめた。


 しばらくの間、二人は互いに顔を見合わせながら押し黙ってた。
「おもしろい♪」
 その沈黙を最初に破ったのは英子さん。
「え? 今なんて言った?」
 英子さんの言葉は麻里先生を驚かすに充分だった。それほどに予想外の言葉だったんだから。
「おもしろい──って言ったのよ。聞こえなかったかしら?」
 英子さん、ほんとに面白そうにクスクス笑って。
「ね、英子さん。自分が何を言ってるのか、わかってる?」
 麻里先生、恵美ちゃんの置かれた状態にショックを受けて英子さんがヘンになっちゃったんじゃないかと心配顔。
「いや〜ね。わかってるわよ、そんなこと。うふふふ、それにしても楽しみだわ」
 英子さん、ねぇちょいととでもいうみたいに掌をお辞儀させてみせると、指先で唇を隠すように悪戯っぽく微笑んだ。
「な、なにがおもしろくて楽しいのよ。ねえ、恵美ちゃんは……」
「だから、わかってるって言ったじゃない。恵美は赤ちゃん返りしちゃったのよね」
「え、ええ。ま、正確に言えば、赤ちゃん返りしかけてるってとこだけど……」
「私も育児書くらい読んだことがあるわよ。その中に、上の子が赤ちゃん返りしちゃった時にどうすればいいかってことも書いてあったわ──たしか、へんに叱ったりせずに、その子が満足するまで赤ちゃん扱いしてあげることが必要だとか書いてあったわよね。そうやって、その子の欲求を満足させてあげるのが一番の対処方法だって」
 英子さんは目を細めると、念を押すみたいに言った。
「そりゃま、それはそうなんだけど。でもそれは……」
「恵美の年齢は関係ないんじゃなかったの? 要は、私と恵美との関係なのよね?」
 英子さんの口調はたたみかけるみたいだった。
「ま、それはそうなんだけど……。ねえ英子さん、あなたいったい何を考えてるの?」
 麻里先生、ちょっぴり心配そうな表情。
「べつに、たいしたことじゃないわよ。ただ、恵美の赤ちゃん返りを治してあげたいだけなんだから。うふふ、中学生の恵美をたっぷり赤ちゃん扱いしてね」
「あの、でも、ねえ、英子さん? 他の方法もないってわけじゃないのよ?」
 麻里先生、あせった口調。どうしてこんな展開になっちゃうのよ?
「いいの、私が決めたんだから。──中学生なのに赤ちゃんみたいに扱われて恵美がどんな恥ずかしそうな顔をするか、今から楽しみだわ」
 英子さん、にっと笑う。
 たしかに、二歳や三歳の子の赤ちゃん返りじゃない。ちっちゃな子なら自分の欲求場合、無意識のうちに赤ちゃん扱いされることを望んでいるにしても、理性や意識の方ではそんなこと絶対に認めようとしないだろう。だから実際に赤ちゃん扱いされたとしたら、(心の奥底じゃそうされることを待っていても)どんなにか恥ずかしがることだろう。
「そんな……英子さん、どうしてそんなことを……」
 麻里先生は戸惑った顔のまま。
「だって恵美ったら、私のことをケダモノって言ったんだもん。その仕返しよ」
 英子さん、ぶすっと言った。
「へ?」
 事情を知らない麻里先生、お医者様にあるまじきすっとぼけた声。
「わからなくてもいいのよ、こっちのことなんだから」
 英子さん、のほほんとした声で応える。
 ま、恵美ちゃんが英子さんのことをケダモノ扱いしたからって、今度は英子さんが恵美ちゃんのことを赤ちゃん扱いしてやるんだっていうのはほんの冗談だと思う。でも、だけど、英子さんがこの状況をすごく楽しんでるってことだけは事実みたいだ。だって、ほら。英子さんの顔、とっても嬉しそう。どういうつもりなのか知らないけど、ほんと困ったお母さんだこと。
「こっちのことって言われても……」
「うふ、麻里さんは心配しなくていいわよ。でも、恵美が赤ちゃん返りだなんて……正直に言っちゃうと、ちょっと便利かもしれない」
 英子さんの両目がきらきらしてる。
「便利?」
「そうよ。だって、私が恵美を生んでからもう十五年も経ってるのよ。だから今度の出産なんて、ほとんど初産みたいなものだわ。育児の要領も忘れちゃったしね。だから、恵美が本当に赤ちゃん返りしてるのなら、ちょうど手頃な練習台になってくれる筈だわ。少しくらい手荒に扱っても平気な丈夫な赤ちゃんなんだものね」
「英子さん、英子さんたら……」
 どこまで本気でどこから冗談なのかわからない顔をしてる英子さんに向かって、麻里先生は弱々しい声で何か言おうとして口を開いた。でも、英子さんの奇妙な笑顔に気圧されるみたいに、麻里先生は言葉を続けることができなかったんだ。




 そんなこんながあって、鎮静剤の効きめが切れて目を醒ました恵美ちゃん、英子さんに連れられてお家に帰ってきた。
 英子さんは麻里先生から教えられて恵美ちゃんの症状を把握したんだけど、それを恵美ちゃん本人に教えることはしなかった。真実を知って恵美ちゃんがショック受けちゃいけないっていう理由をつけて麻里先生にも口止めしちゃったんだけど……ほんとは、そんなことじゃないんだよね。ほんとのことは秘密にしておいて、これからゆっくり恵美ちゃんの赤ちゃん返りを進めていこうって企みだったんだ(ん〜む。いったいぜんたい、このお母さんは何を考えてるんだろ?)
 で、なんとなく気まずい雰囲気の中で夕食をとり(っていっても、気まずく感じていたのは診察室でオモラシしちゃった恵美ちゃんだけで、英子さんの方は完全に面白がってたんだけどね)、ゆっくりお風呂につかった(そうやって体を温めておいた方がオネショの心配が少しは減るような気がして)恵美ちゃん、ベッドに横たわってはみたものの、なかなか寝つけない。
 どうしよう……今夜もしくじっちゃったらどうしよう。
 夕食後のお茶も飲まずに(夕食の時のおすましさえ口にしなかったんだから)、心を落ち着かせようとして深呼吸を何度も繰り返して、でも昨夜の失敗のことが鮮明に頭の中に浮かび上がってきて。恵美ちゃんは今、眠ることが怖くてしかたがない。このまま眠って何もなきゃいいけど、でも……。
 胸の中を騒がせたまま、恵美ちゃんはとっと床におり立った。



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