美奈の夏休み

2〜亜紀の困惑




 まだなにか納得できないようなほけっとした顔つきで自分の部屋に戻ってきた美奈は、ついさっき乱暴に捲くりあげたばかりの布団の中にもぐりこんだ。
 最初はなかなか寝つけなかったけれど、昨日の疲れもあるし、予想外の激しい尿意のために思いがけず早起きしてしまったこともあり、すやすやと安らかな寝息が部屋の空気を優しく震わせ始めるのにさして時間はかからなかった。時おり睫をぴくと動かしながら眠る美奈はどんな夢を見ているのか、あどけない笑みさえ浮かべていた。

 だけど、その心地好い眠りは長くは続かなかった。
 ぬくぬくともぐりこんでいた布団を急に跳ねとばし、美奈はちょっと怒ったような表情を浮かべて上半身を起こした。それから、ベッドの枕元に置いてある(まだベルを鳴らしていない)目覚まし時計を睨みつけた──さっきから一時間も経っていない。
 それでも、再び美奈の眠りを破った尿意は錯覚などではなかった。今にもコットンのショーツの中ほどに恥ずかしい滲みをつくってしまうのではないかと思えるほどに下半身からはぞくぞくするような感覚が伝わってくるし、おヘソのすぐ下からはじんと痺れるような、なんとも表現しようのない(不快といえば不快なんだけど、それだけでもないような……『甘酸っぱい』というのも間違ってはいないようにも感じられるみたいな)不思議な鼓動が湧きあがってくる。
 美奈は思わず鼻の周りに、そうするととても悪戯っぽい顔つきになるシワを寄せ、誰にともなくアッカンベーをしてみせると、いかにもいやいやといった感じでゆっくりとベッドからおり立った。そして、わざとのようにのんびりした動作でスリッパを履く。それが、このイジワルな尿意に対する美奈のささやかな抵抗だった──ふん、だ。そんなにいつもいつも慌ててたまるもんか。さっきトイレへ行ってからまだ一時間も経ってないんだからね。だからいくらオシッコしたくなったって、こんなの気のせいにきまってるんだから。
 一時間前とはうって変わったように落ち着いた態度で美奈は部屋のドアを開け、用心深い猫のような足取りでそろりと廊下を歩き出した。今度は、ミシッとも足音をたてない。ただ、それは、まだ眠っている両親を気遣ってのことじゃない。両親の眠りを破ることに後ろたさを感じるほどには美奈はまだ成長していない。今はまだ自分のことで精一杯の小学生でしかない。それでも廊下を静かに歩いているのは、さっきの騒ぎに続いて二度も慌ててトイレへ駆けこんでいるのが知れたりしたら両親から何か訊かれるかもしれないと少しばかり不安になったからだ。そりゃ、美奈は何も悪いことをしているわけじゃない。ただ予想外の尿意におそわれてトイレへ行くだけだし、その尿意が美奈のせいだってわけでもない。とはいうものの……なぜとはなしに美奈にしてみれば、この妙な尿意のことはなるべくなら両親に知られたくはないと思ってしまうのだった。それにだいいち、幼児でもないのにこんなにトイレが近いなんてこと、たとえ実の親とはいっても誰かに知られるのはとても恥ずかしいことなんだから。
 それでも、美奈がそうして静かに歩いていられたのも僅かの間だけだった。廊下の半ばまでやってきた頃には尿意が耐えられないほどに急激に高まってきていて、知らず知らずのうちに早足になり、それでもまだしくじってしまいそうな気がしてきて、遂にはさきほどと同じ、周囲のことなど全く目に入らないようにドタドタと駆け出してしまう。
 結局、美奈のやっていることは一時間前とちっとも変わらなくなってしまった。左手でおヘソの下の方を押さえるようにしながらトイレのドアをバタンと開き、便座カバーを引き上げるのとズボンをおろすのとを同時にしてしまうというふうに、普段の美奈からは想像もできないほど素早い身のこなしをみせたものだった。そしてショーツをずりおろすのももどかしく、まるで椅子取りゲームの最中みたいにさっと体を翻して便座の上にすわりこむ。美奈がわざわざ膀胱の力を緩める必要はなかった。お尻が便座に触れた瞬間に美奈の下腹部の緊張は失われ、何はばかることなく澄んだ水音をたてながらオシッコが一筋の奔流になって噴き出した。
 美奈は一瞬、うっとりするような顔つきになっていた。すんでのところで粗相してしまいそうになるほどの急な尿意をやっとのことで開放できる安堵感が胸いっぱいの甘い悦び(幼い美奈がそれを”悦び”と感じたものなのか、はなはだ心もとないことではあるのだけれど)となって漂い出し、まだ幼く固い美奈の秘丘が妙なざわめきのような感覚を伝えてくる……だが、その妖しく奇妙な悦びが長く続くことはなかった。
今回も、それまでの激しい尿意が嘘のように、最初に一瞬ほとばしっただけでオシッコは止まってしまった。しかも、残尿感とか、オシッコの道を何かが塞いでいるとかいうような不快感はまるで感じられない。膀胱にはもう一滴も残っていないことを実感できるような、爽やかとさえ言ってもいいような感覚さえある。
 もっとも、それも不思議なことではないかもしれない。つい一時間前にトイレへ来たばかりだし、いくら尿意が強いとはいっても、それだけの時間で膀胱がいっぱいになるほどにオシッコが溜まる筈もないのだから。

 部屋に戻ってきた美奈は、もうベッドへもぐりこむ気にはなれなかった。このままベッドにもぐりこんで眠ったとしても、また一時間もしないうちに尿意に襲われて再び目を醒ます羽目になりそうな気が(ううん。たんに気っていうよりも、予感めいたものだっていった方が正確かもしれない)していたからだ。幼いながら、美奈は自分の体がなにやら妙なことになってしまったらしいということを直観していたようだ。
 そして、そうしているうちにも美奈は四度目の激しい尿意を覚えて廊下へ走り出ることになる。そうして今度こそ、その足音に異常を察した両親が起き出して、トイレから出てきたばかりの美奈にあれこれと尋ね、異常の源を探られることになるのだった。
 で、両親からいろいろ訊かれてる間にも一時間おきくらいに美奈はトイレへ駆けこむことをやめられなかったし、とうとう泣きながら、潮干狩での失敗を打ち明けた。
それを聞いた両親は、美奈がシリモチをついた時に不潔な海水で大事な部分を汚されて病気になったんじゃないかって真っ蒼になって慌てて救急病院へ連れて行ったんだけど、その病院の診察では特におかしなことはみとめられなかったようだ。
 念には念を入れて調べてくれっていう両親の言葉に従って医者は看護婦に命じて美奈の両脚を大きく開かせて隅々まで覗きこみ、恥ずかしがる美奈がもうやめてーって頼んでもそんなこと無視してゴム手袋をした手や奇妙な器具でもって、二枚貝がしっかりと殻を閉じてるのをムリヤリこじ開けて襲ってくる残酷な生き物みたいにこねくりまわした。その羞ずかしく苦痛に充ちた思い出のせいで、美奈は最近まで、医者の白衣を見る度に体を震わせちゃうような癖を持っていたらしい。学校の健康診断でも、校医の白衣を見て泣き出しそうになって、クラスメートにからかわれる(やーい、弱虫〜ってね)ことも少なくなかったようだ。そうやってしつこいくらいにいろいろと調べた医者は、でもやっぱり、身体には異常ありませんよって両親に説明した。そして美奈を抱きかかえるようにして診察室を出ようとした母親の耳元に口を近づけて、わざとのような平静な声で告げるのだった──ひょっとしたら精神的な症状かもしれません。明日にでも精神科で診察を受けた方がいいかもしれませんね。
 その言葉に頭の中が真っ白になるのを感じながら、母親は僅かに頷いた。
 その翌日、学校を休んだ美奈と母親は精神科の診察室の椅子に座っていた。
 精神科の医者は優しそうな中年の女性で、泌尿器科の当直医の診断ですっかり脅えていた美奈も次第に心を開き、女医の問診に応じていろいろと応えたみたい。その女医は美奈がどんなことを話してもずっとにこにこして聞いていた(その顔を忘れることはないと思うよって、いま書いてるような事情をぽつりぽつりと話してくれながら現在の美奈は言ってた──あの女医さんと会ってなきゃ、白衣を見ただけで泣き出すどころか、それこそ一目散に逃げ出すような子になってたんじゃないかしら)。

 結論を言うと──先にも書いたように、潮干狩でシリモチをついたことがきっかけだったんだ。
 でも、泌尿器科のお医者様の診たてじゃ異常はなかったんだろって? うん。それはそうだった。身体には異常なかったし、おかしな病原菌や不純物が美奈の尿道に流れこんだような形跡もなかったらしい。ただ、それはいいんだけど……身体じゃなくて(当直のお医者様が懸念してたように)精神の方に傷ができちゃったらしいんだ。
 どう説明すればいいかな。えーと……美奈は一人っ子でちょっとあまえんぼうなところもあるんだけど、そのぶん逆に、どんなことでも自分の力でやってみようとする独立心の強いしっかりした部分も持ち併せてるのね。そういったところが微妙に混じりあって、潮干狩でどうしようもなくなった時にも大声で誰かに助けを求めることをしなかった(できなかった?)みたい。そして──失敗しちゃったわけだ。
 その失敗が美奈の心を微妙に震わせたとしてもちっとも不思議じゃなかった。特に、美奈の心の中でもしっかりした部分が妙に刺激されちゃったらしい。つまり、美奈は無意識のうちに「もう絶対に失敗なんてするもんか。どんなことがあっても、もうオモラシなんてしちゃいけないんだからね」っていう決心を固めちゃったってことだ。
それも、まだ幼くて融通が利かないぶん、ほんとに思い詰めるみたいにきっぱりと。
 そうして、その”凝り固まった無意識の決心”が自律神経系統にまでちょっとした影響を与える結果になってしまったらしい。で、「オモラシしちゃいけない」っていう異様に強い思いが、膀胱の神経をひどく過敏にしちゃったってことだ。そのせいで、膀胱に少しでもオシッコが溜まると、それが激しい尿意になって脳に伝えられることになるんだって。ただ、実際に膀胱に溜まってるオシッコはちょっとしかないわけだから、いざトイレへ駆けこんだとしても出る量はしれてる。




 ──つまりこれが、ほんの少ししか出ないオシッコのために(少なくとも)一時間に一度はトイレへ行かなきゃガマンできない体質に美奈がなった原因だった。もっとも、眠っている間は六時間ほどは大丈夫らしんだけどね。

 目の前の紅茶はもうすっかり冷えきっていた。せっかくのシフォンケーキにも誰も手をつけないままだ。
 説明を終えた母親は黙ったままだし、母親の説明の合間にちょっとした補足を(あまり自分から進んでじゃないけど)加えていた美奈は、とうとうガマンできなくなって、ちょっと前にトイレへ行っちゃった。
 なんとなく気まずい空気が流れた。
「あの……そういうことなんですか……?」
 なにが『そういうこと』なのか全く考えもせず、私はただその雰囲気を変えようとして口を開いた。なんていうか、美奈と母親の説明が私の想像を超えたところにあるみたいな感じで、まともに応えられなかったんだ。
 母親にしても美奈の体質(うーん。こういうのを”体質”って言っていいのかどうかちょっと迷っちゃうんだけど)のことを説明する時にはまるで何かに憑かれたみたいに能弁だったのに、こうして一段落すると今までの反動が来たみたいに静かになっちゃうし、私としてはちょっと、何からどういうふうに話しかけていいのかわからなくなっていた。もともとは美奈の少しばかり落ち着きのない性格を矯正するために私のマンションに預かるっていう話だったのに、いつのまにこういうことになったんだろ?
「……あなたにはわるいと思ってるわ。こういう事情は一切しらせずに美奈を預かってもらうことだけ先に決めちゃったんだものね。でも……もうあなたしかいないのよ。わかってもらえる?」
 少し顔を伏せ気味にしていた母親が突然、つと顔を上げて、祈るような表情でそう言った。
「そ、そんな大袈裟な……」
 母親の言葉を耳にした私は、思わずちょっと体をひくみたいにして応えていた。だって、そうでしょ? いったいなんだって、『私しかいない』なんて言葉が出てくるのよ?
「ううん、大袈裟でもなんでもないわ──美奈の体を治せるのは中野先生、あなたしかいないのよ」
 母親は、これまで私が見たこともないような真剣な顔つきで繰り返した。私が知ってる彼女はいつも笑顔を絶やさない、中年と呼ぶのもはばかられるような若々しい素敵な女性なんだ。その母親がこんな表情をみせるなんて、よほど思い詰めてるのかもしれない。
「でも、だって……精神科のお医者様が……」
 私は母親の眼差しに気圧されるみたいに口の中でもごもご言った──そうよ。美奈はちゃんと精神科の先生にも診てもらったんだ。で、そのお医者様は美奈の心の傷の正体に気づいたんだったよね。それじゃ、治療だって。
 だけど、母親は弱々しく首を振ってみせてこう言った。
「そう、そうよね。美奈は確かに精神科のお医者様にも診ていただいたわ。でもね……心の傷っていうのは身体の怪我とはちがって、診察したからってじきに治療できるものでもないそうなのよ。身体に付けられた傷なら少しくらい大きな傷でも縫えば治すこともできるけど、心の傷はそう簡単には治療できないの……」
「……」
「……私たちは美奈を民間の大病院へも連れて行ったし、大学の付属病院へも行ってみたわ。でもね、返ってくるのはどこでも同じ返事だったのよ。『お嬢さんが心に受けた傷は意外と深いものです。心苦しいことですが、私どもにできるのはカウンセリング程度しかないようです。根本的に治療するには、お嬢さんの心を奥深くから優しく包みこみ穏やかに和ませてあげられるような──本当に微塵の不安もなく思いきりあまえられるような人の愛情に包みこまれることが必要になると思いますよ』ってね」
「思いきりあまえられる──それって、お母様やお父様のことじゃ……」
 私はちょっと要領を得ない声で尋ねてみた。こんなに素敵な両親が近くにいるんだから、(お医者様の説明を信じるなら)その愛情でもって美奈の心はすぐにでも癒されるんじゃないの? なのにどうして、それから五年も経った今になっても症状が治ってないの?
「ダメなの……私や夫じゃダメなのよ……」
 私の問いかけに母親は寂しげに首を振った。そして、あの祈るみたいな表情を再び浮かべると、穏やかなとも表現できるような声で言葉を続けたんだ。
「お医者様の説明じゃ、夫や私は美奈にとっては愛情の対象であると同時に、管理者でもあるんだって」
「管理者……」
「ええ。親というのは──ううん、家族や身内っていうのはみんな、美奈にとっては自分に愛情を注いでくれると同時に、自分を見張り躾け、管理する役割を持った人達なんだそうなのよ。だから、そんなじゃなくて、もっと単純なっていうか、ほんとにストレートな、ただあまえてだけいられる人が必要なんだって……」
 そう言う母親の視線を受けて、私はぼんやり気づいたんだ。
「それが、私……?」
 私はなんとなく虚を衝かれたみたいな声で呟いてた。
「そう。あなたには是非とも、美奈に限りなく温かな愛情を注いでくれる役割を引き受けてほしいの──あなたが初めてこの家にやってきて美奈と顔を会わせた時に、私はそのことを直観していたのよ」
「そんな……かいかぶりです」
「ううん。かいかぶりだなんて、そんなことは絶対にないわ。私は今でもくっきりと思い出すのよ──新しくやってくる家庭教師の先生がどんな人なのかひどく不安に思っていた美奈が、一目あなたを見るなり私にもこれまで見せたことのないような穏やかな表情を浮かべていたことをね。そして、長い間さがしていた人がやっと目の前に現れたとでもいうようにうっとりした目つきであなたの横顔をみつめていた美奈の顔つきを」
 母親は再び能弁になってきたみたいだった。
「……」
 だけど私には応えようがない。
「もう一度あらためてお願いするわ。夏休みの間、あなたのお部屋で美奈を生活させてあげてちょうだい。そして私の代わりに、あの子の心の傷を優しく包みこんであげてほしいの……お願いできるわね?」
 私は自分が後戻りできないところへ連れてこられたことを実感せざるをえなかった。



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