美奈の夏休み

3〜玲子の企み




 結局、抵抗らしい抵抗もできずに、私は美奈を預かることを承知しちゃった。ただ、母親に強引に頼みこまれたっていうよりも、妹みたいに可愛い(ったって、私には妹なんていないんだけどね)美奈のために一肌ぬいであげようって気になったんだ。だいいち、(母親の言葉を信じるなら)そんなに私のことを頼りにしてる美奈の気持ちを踏みにじるなんてできるわけがないんだから。
 そして、やっとのことでトイレから戻ってきた美奈と日程のことなんかを打ち合わせてから私は自分のマンションに戻ることにした。なにか随分といろんなことがあったような気になっちゃって、とてもじゃないけど勉強の続きを始める元気はなかったんだ。

 美奈の家の立派な正門から歩道へ歩き出した私は、自分のマンションに向かってぽてぽてと脚を進めながらいろんなことを考えていた──さあ、どうしよう? 美奈や母親と話してる時はついつい気軽に引き受けちゃったけど、でも、実際のところはどうすればいいんだろ? 美奈の瀕尿(なのかな?)を治してあげるなんてこと、ほんとに私にできるのかしら?
 美奈の家から私のマンションまではちょっとばかり距離があるから普段はバスに乗るんだけど、どうやら私はほんとに周囲のことには目もくれずにぶつぶつ言いながら歩いてた(ひょっとしたら、周りの人たちからは「あぶないおねーさんが歩いてる」なんて思われたかもしれないな)もんで、いつものバス停にも気がつかなかったようだ。はっとして振り返ると、そのバス停からは随分と離れた歩道の上に私はいたんだから。で、慌てて戻ろうとしたところへバスが来て──あ、もう間に合わないや。ただでさえこの辺はバスの便数が少ないっていうのに……。もう、ついでだ。このまま部屋まで歩いて帰ろ。ちょっとくらい頭を冷やした方がいいかもしれないしさ。
 ってことで、私はマンションまでの短くない道を歩き続けて。
 不意に声をかけられた。
「ねえ、亜紀……亜紀ったらー」
 私は思わずきょろきょろしたよ。確かにどっこで聞き憶えのある声だったし、私の苗字じゃなくて名前の方を呼ぶんだから私のことをよく知ってる人だろうし。その辺りはちょっとした商店街になってて(というか、歩道に沿って何軒かのお店が並んでるってだけのことなんだけどね)、どこかのお店の中から呼んでるのかな?とまでは思いついたんだけど……どこだろ?
「こっちよ、亜紀。いやーね、きょろきょろしちゃって」
 ちょっぴり笑ってでもいるような感じで、その声がもう一度聞こえてきた。
 で、その声のする方に顔を向けた私の目に映ったのは──『ファーマシー鈴木』という文字がガラス戸に書かれた、少し大きめの薬局だった。そして、半分ほど開いたままになっているそのガラス戸の奥、いろんな薬が並べられたガラス製の商品棚の向こうから手を振っている若い女性の姿が見える。
「玲子……玲子なの?」
 夏の眩しい日差しと比べても遜色ないほどに薬局の中は照明で明るかったから、私にはその女性の顔がくっきり見えていた。その女性は、私と同じ大学の(学部は全く違うんだけど、教養過程の外国語とか社会学とかの講義でよく顔を会わせるからいつのまにか友達になっちゃって、妙に気が合う)鈴木玲子だった。
 私も小さく手を振りながら薬局に入って行った。ざっと見渡したところじゃ他のお客さんもいないようで、玲子に話しかけるにもあまり遠慮する必要はなさそうだった。
「こんなところで何してるのよ、玲子。アルバイト?」
 カウンターを兼ねた商品棚の中に立ってる玲子が淡いピンクの白衣を着ていることに気づいた私は、なにか珍しいものでも眺めるみたいにちらちらと視線を走らせて言った。
「あら、亜紀は知らなかったっけ? ここが私の家なのよ」
 私の言葉に、玲子は軽く笑うように応えた。
 それで私も思い出した。そういえば、玲子は薬学部だったっけ。お家が薬局を経営してるとかで、あまり好きでもないんだけど薬剤師の資格を取らなきゃいけないんだって言ってた──あ、この薬局の名前、玲子と同じ『鈴木』だったわね。
「ごめん、いま思い出した」
 私はちょっと肩をすくめてみせた。
「おっけい。……ところで亜紀?」
「うん?」
「何を考えごとしながら歩いてたの? なんだか、とっても難しい顔してたよね? それで気になって呼び止めてみたんだけど」
「う……ん」
 私はこめかみの辺りを軽く掻きながら言葉を濁した。
「どうしたっていうのよ、具合でもわるいんじゃないの?──もしもそうだったら相談に乗るわよ。まだ専門過程に入ったばかりの学生で薬剤師の資格はないけど、でも或る程度の知識はあるんだから。風邪でもひいた?」
「ううん、そういうんじゃないんだけど……」
 私は軽く溜息をついてみせた。それから急にいいことを思いついたみたいに両手をカウンターの上にどんと載せて言った──そうよ、玲子なら何か知恵を貸してくれるかもしれないわ。
「……あのね、瀕尿を治療する薬なんてないの?」
「え? 亜紀、あなた……」
 玲子は気の毒そうな目つきで私の顔を見た。
 私は慌てて掌を振ってみせ、ちょっと早口で弁解がましく応えなきゃいけなかった。
「ちがう、私じゃない……ただ、ちょっと事情があって中学生の女の子を預かることになったんだけど、その子が──なのよ」
「どういうこと?」
 玲子はなんとなく興味を持ったみたいで、つと体を乗り出してきた。
「うん、実はね──」

 私は、美奈と母親から聞いてきたことを微に入り細を穿って説明した。
 時々こまかな質問を浴びせてくる玲子に答えながらの説明はかなり長くなっちゃったけど、そのおかげで、どうやら玲子は何か面白いアイディアを思いついたみたいで、どういうわけかクスクス笑いながら私の目を覗きこむようにして頷いてみせた。
「いいわ。おおよそのことはわかったから」
 その玲子の言葉を耳にした途端、私は顔を輝かせて問い返した。
「ほんと? ほんとに何か方法があるの?」
「あるわよ、とっておきの方法が」
 玲子はもう一度クスッと笑って応えた。
「やっぱり、なにかお薬?」
「ううん。亜紀の説明だと、その子──美奈ちゃんだっけ?──美奈ちゃんの瀕尿は精神的なものよね。だとすると、それを治療するようなお薬なんてないわ。もしもあったとしても、それはひどく強力な向精神薬になっちゃうだろうから病院の薬局でもなかなか処方はしてくれない筈よ」
 そう説明する玲子の顔がすっごく頼もしく見えたのはまぎれもない事実だった。ああ、私ったら、なんていい友達を持ったんだろう♪
「それよりも、そのお母様が言ってたことが重要なのよ。ひたすら温かい愛情で美奈ちゃんを包みこんで心の傷を癒すことが必要だ──たしか、そうだったわよね?」
「うん。で、その私にその役割をしてほしいって」
「おっけい。なら簡単なことよ。美奈ちゃんには思いきり亜紀にあまえてもらうことにしましょう。そのための道具を用意してあげるわ」
 玲子は今度は、まるでチェシャキャットみたいに笑って言った。
「道具?」
「うふふ。そう、とっても素敵な道具──亜紀の説明を聞いてて思ったんだけどね、美奈ちゃんの心に付いたのは、どうやら痛ましい傷だけじゃなかったみたいなのよ。ひょっとしたら自分でも気づいてないかもしれないけど、その潮干狩での失敗っていうのは……」
 玲子は悪戯っぽく目を輝かせると、もったいぶるように言葉を切った。
「なになに──何を言いたいの?」
 いつのまにか玲子の話に引き込まれかけてた私は急かすように続きを促した。
「……甘い思い出として美奈ちゃんの心に焼きついちゃったんじゃないかしら?」
「思い出? 甘い思い出ですって?」
 玲子の意外な言葉に、私はぽかんとして問い返した。
「そうよ。たぶん間違いないわ」
 玲子は左目でかるくウインクしてみせた。
「あ、でも、うう……なんだってそんなこと……」
「なんだってそんな突拍子もないことを思いついたのか?って訊きたいみたいね、亜紀は」
「……」
 私は無言で頷いた。
「私がそんなふうに判断した理由を説明するのは難しいわね……いま亜紀にわかるように説明することは多分できないでしょうね。……ただ、心理学にすごく興味があって、いくつかの講義を特別聴講してる私の判断……というか、直観みたいなものだってことで納得してもらえないかな」
「そんな……」
「うん、そんな曖昧な説明で納得してもらえるなんてことは私も思ってない。でも、今はその説明よりも、美奈ちゃんの体質を変える方法をみつけるってことの方が大事なんじゃないの? で、亜紀がなにも方法を持ってないのなら、私の言うことに賭けてみるのも悪くないと思うんだけどな? それに、近いうちに多分、私が言ってることが本当だって亜紀にもわかる日がくる筈よ。美奈ちゃんとの生活が始まればすぐにでも、ね」
 わかったようなわからないような説明だったけど、でも、玲子の言うことは多分その通りだろうと思う。とりあえず今は、玲子が思いついたその方法(と道具)のことを聞くのが先なんだ。
「……わかった、美奈の本当の心の内を想像することは玲子にまかせるわ。だから続けてちょうだい」
 私は小さく溜息をつくみたいにして玲子を促した。
「いいわよ。つまり私が言いたかったのは──小学校の時に行った潮干狩のせいで、美奈ちゃんはその幼い心の中に二つの異物を抱くことになっちゃったのね。一つは、思いもしなかったしくじりのためにできてしまった根深い傷。それからもう一つは……たぶん本人も気づいてはいないでしょうけど、その失敗に誘発された甘い感覚。その二つの心の動きが相まって、これまで美奈ちゃんの瀕尿が続いてきたんだと思うのよ」
 玲子はそこまで言うと、ゆったりした動作でその場にしゃがみこみ、商品棚の内側の扉を開けて何かを取り出した。微かにガソゴソとビニールの包装が触れ合う音をたてながら、玲子は、手にしたそれを私の目の前にそっと置いた。つられるように、私はそのビニールの透明な包装を通して、中に収められている物に視線を移した。私の目に映ったのは……。
「美奈ちゃんが亜紀に思いきりあまえられるきっかけになるための道具。そして同時に、美奈ちゃんの心に芽生えた(異形の)甘い感覚を満足させるための道具。どうかしら?」
 玲子はすっと目を細め、私の反応を楽しむように話しかけてきた。
「あ……ああ、でもだって……」
 だけど私はそんな、言葉にならない言葉しか口にできなかった。だって、目の前に置かれたのは私が想像もしなかったような物だったんだから。
「ただ、これそのものを美奈ちゃんに使うわけにはいかないわね。どうやら、美奈ちゃんの体格には大きすぎるようだし。それに、どうせならもっと可愛いデザインの方がいいでしょうしね──美奈ちゃんを亜紀のマンションに連れて行くのは三日後だって言ってたわよね? いいわ、その時にまたここへ立ち寄ってちょうだい。その時までに、美奈ちゃんにお似合いのをメーカーから取り寄せておくわ」
 私のうろたえぶりなんか無視するみたいに、玲子は商品棚の上に置いたそれを見つめながらちょっと考えるような顔つきで言った。それからもう一度、ほけっとしたままの私の顔を眺め、つつつと右手の人差指を振ってみせながらこう言ったんだね。
「わかってるの、亜紀? これを美奈ちゃんに使わせるのは亜紀、あなたなんだからね」
「あ、うん……でも、なんだって……」
「なんだってこんな物を?とでも訊きたいわけね、亜紀は。でも(クスッ)そんなの、簡単なことよ。考えてもごらんなさい。これを身に着けてしまえば、美奈ちゃんは亜紀にあまえるしかできなくなるのよ。全てを亜紀、あなたの手に委ねるしかなくなるの。だってこれは、そのための道具なんだから。そして、身を苛むような羞ずかしさをも味わいながら、でも、きっとそのことに美奈ちゃんは満足する筈よ──私の直観を信じることね」
「……」
「じゃ、いいわね? 三日後、必ず美奈ちゃんを連れて寄ってちょうだいよ。その時には、こんな味けないデザインのじゃない、もっともっと可愛らしいのを絶対に用意しておいてあげるから」
 玲子の言葉に、私は知らず知らずのうちに頷いていた。
 ただ、そうしながらも私の目はまるで釘付けになったみたいに、商品棚の上に玲子が置いたその”道具”をじっと見つめたままだった。




 その日から三日後の月曜日、大きなバッグを右の肩に掛けた美奈を従えるようにして私は彼女の家の玄関をあとにした。
 ほんとうは美奈はもう一つばかげて大きなバッグを用意してたんだ。だけど、二つのバッグの中身を確認した私が、不要な衣類を整理タンスに戻して一つにまとめちゃったんだ。その不要な衣類っていうのは、ジーンズとかキュロットとか、つまり、パンツ類のことだった。だから美奈が肩から掛けてるバッグの中には、下着と勉強道具の他にはちょっとした上着とスカートの類しか入っていない(ほんとのことを言えば下着にしたってショーツは必要ないんだけど、今ここでそんなことを言えば訝しまれるだけだから口にはしなかった)。美奈も母親も、パンツの類をバッグから取り出してはタンスの引出しに戻し続ける私を要領をえない目で見てたけど、考えがありますからっていう私の言葉にわざわざ逆らう気にもならなかったようで、最後には、バッグの中身をまとめる私の作業を快く手伝ってもくれたものだった。二人はもう、私のことを全面的に信じきってるようだった。
 母親に見送られながら、私たちは軽い足取りで道路を歩き出した。
 少し行ったところにあるバス停には目もくれず、私はとっとと歩き続けた。
 そこへ、ちょっとばかり不審げな美奈の声が聞こえてきた。
「え? 先生、先生ったら……」
「うん? どうかした?」
 私は、すぐ横にいる美奈の顔を少し見おろす(まだ発育途中の美奈は、私よりも頭ひとつ分くらい小柄なんだね)ようにして応えた。
「だって、バス停……」
 美奈は、空いている左手をバス停の看板の方にちょこんと突き出した。
「あ、いいのよ。バスには乗らないから」
 私は平然とした顔で言ってやった。
「ええ? 先生のマンションまで歩くんですかぁ?」
 途端に美奈のほっぺがぷうっと膨れ、形のいい唇から不満の声が洩れてくる。そりゃ、こんなバッグを肩にかけて私の部屋まで歩くだなんて予想もしてなかったろう。
「ちがうわよ。ちょっと途中で寄りたい処があるの。そこから先はちゃんとバスに乗ってくわ」
 私は美奈のほっぺを薬指の先でちょんとつついて言ってやった。
「ああ、びっくりした。じゃ、早く行ってその用事を済ませちゃいましょ? このままじゃ暑くって。……どこへ行くんですか?」
「すぐそこ──友達のお家がやってる薬局よ」
 私は、玲子が用意してくれている筈の道具を美奈が目にした時にどんな反応をみせるのかを想像してみた。その結果を少しでも早くたしかめてみたくなって、私はつい早足になっていた。



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