美奈の夏休み

4〜美奈の迷い




 しばらくして『ファーマシー鈴木』の前に辿りつくと、店頭に山のように積み上げられて”特価”の札が掛けられた商品に目を向けた美奈がなんとなく納得したように話しかけてきた。
「あ、そうか。トイレットペーパーかティッシュでも買うんですね、先生?」
 たしかに美奈がそう思っても不思議じゃないでしょうね。でも、私がこのお店へやってきたのはそんな物を買うためじゃない。私はなにも応えずに、静かに微笑んでみせてからお店に足を踏み入れた。そのあとを、ちょっと遅れて美奈もついてくる。
 薬局の中はよく冷房が利いていて、炎天下の歩道を歩いてきたせいで流れ出しかけていた汗がすっとひくような気がして私は思わずホッと溜息をついたものだった。
 奥のカウンターの中で玲子がにこにこ笑いながら小さく手を振っているのが見えた。
私は美奈の背中をそっと押すみたいにして、玲子がいる所までさっさっと歩き出した。
その間も、美奈は周りに並べられた商品──健康食品や介護用品、それに、ベビー用品といったものを物珍しそうに見回していた。そしてその目がナプキンやタンポンのコーナーに向けられた時、美奈の顔が心持ち赤く染まるのを私は見逃さなかった。
 そうか、美奈の年齢っていうのは初潮を迎えてまだ間もない頃の筈なんだよね。私にはもう慣れっこになっているそういった商品も、美奈にはまだなんとなく面映ゆい物なのかもしれない──私は何気なくそんなことを考えながら、なにか眩しい物でも見るような目で美奈の横顔をそっと眺めた。
 そんな私の視線に気づいたのか美奈が不意に振り返り、なにか問いたげに私の顔を見上げる。私は優しく首を左右に振ると、ニコッと笑ってみせてから再び歩き始めた。
美奈も、ちょっと恥ずかしそうな顔つきになって慌てて視線を逸らすと、それでも、はにかむみたいな表情を浮かべた顔を正面に向けて私について歩き出した。私は、心の中がなにか温かいもので充たされたように思ったものだった。
 そして、玲子が待っているカウンターの前。
「いらっしゃい、亜紀。それと……美奈ちゃんね? よろしく」
 最後の方は美奈に向かって言いながら、玲子はにこやかに微笑んでみせた。
 だけど、急に自分の名前を呼ばれた美奈はちょっと戸惑ったみたいで、えっ?とでもいうような顔つきで私の方を見た。ま、友達の家が薬局だってことは言ったけど、その本人がカウンターの中にいるってことまでは話してなかったからそれもムリのないことなんだけど。
「ああ、いいのよ。この人が私と同じ大学に行ってる友達だから──この薬局のお嬢様で、鈴木玲子っていうのよ」
 それを聞いた美奈は慌てて頭を下げた。
「あらあら、そんなにあらたまらなくてもいいのよ」
 美奈がペコンとお辞儀する姿を面白そうに眺めてから玲子が言った。
 そうして、美奈が頭を上げるのを待って、背後の商品棚からビニールの包装に包まれた物を取り出してきた。それこそが、「美奈にお似合い」だといって玲子がメーカーから取り寄せた”道具”だった。
 玲子は美奈が見ている前で透明なビニールの袋を開け、中に収められていた物をそっと取り出して両手で広げてみせた──それは一見したところ、ベビーピンクを基調にした色合いの生地で縫製された、少し厚手のズロースのように思えた。
「どう?」
 玲子は一言そう言うと、そのズロースのように見える物を美奈の目の前に突き出した。
「え……?」
 美奈には玲子が何を言おうとしているのかさっぱりわからず、ただぽかんと口を開けて目をぱちぱちさせているだけだった。
 すると、玲子は今度は私の方に向き直り、手にしたズロースを裏表とゆっくり廻してみせ、同意を求めるように言った。
「ほら、見てよ。この色の生地でできたのは本当はないのよ。それに、これ──お尻のところにアップリケが付いてるでしょ? 赤ちゃん用のならともかく、介護用のでこんなに可愛いのはどこを探してもみつからないわよ。メーカーの担当者にムリ言って特別に作ってもらったんだから」
 たしかに玲子の言う通り、そのズロースのような下着らしき物のお尻の辺りには可愛い動物の顔をイラストにしたようなアップリケがあしらわれていた。ただ、そのせいなのか、それはたんに可愛らしというよりも、なぜか妙になまめかしくも思えるようなデザインに仕上がっているように私には思えた。私は顔がカッと熱くなるのを感じた。それは決して気のせいなんかじゃなく、私の頬はその時、ほんとうに真っ赤に染まっていた筈だ。そんな私と美奈の反応を目を細めて眺めていた玲子が、歌うような口調で言葉を続けた。
「これなら──こんなに可愛らしいオムツカバーなら、きっと美奈ちゃんにも気に入ってもらえるわよね?」
 そう。玲子が取り寄せた道具っていうのは──ピンクのズロースのように見えたそれは──まぎれもなくオムツカバーだった。ちっちゃな赤ちゃんのお尻を包みこむオムツカバーそっくりに淡いベビーピンクの生地で縫製してあり、お尻のところにはちゃんとアップリケまであしらってある可愛いオムツカバー。だけど、そのサイズは赤ちゃんが使うには随分と大きく仕上げられているようだった……まるで、美奈のお尻にならぴったりフィットするくらいに大きく。
 美奈がハッと息を飲む音がはっきり聞こえた。
 どうやら、玲子が何を言おうとしているのかがわかったみたいだ。
 美奈は幼児がいやいやをするように無言で大きく首を振ると、その大きなオムツカバーに視線を吸いつけられたまま後ずさりを始めた。だけど私の手が美奈の背中に廻りこんで彼女の動きを止めてしまう。
「あ……」
 私の手が触れた瞬間、美奈は脅えたような目で私の顔を見た。
「ダメよ、美奈ちゃん。これから私の部屋へ行くんだから、一人で勝手に動かないでちょうだいね」
 私はゆっくりした口調で言った。
「でも……」
 美奈の形のいい唇が震えていた。
「どうしたっていうの、美奈ちゃん。いつもはとっても素直ないい子だってことなのに、今日に限ってどうしてそんなに亜紀から離れようとするの?」
 不意に玲子が意地のわるい質問を浴びせた。そんなもの、わざわざ訊かなくてもわかっていることだ。なのに。
「だって、だって……私は赤ちゃんなんかじゃないのに……」
 私と玲子の視線に絡みとられたように体の動きを止め、それでも両脚をぶるぶると小刻みに震わせながら、美奈は絞り出すみたいな声を出した。
「美奈ちゃんが赤ちゃんじゃないってことは私でも知ってるわ。もう中学二年生なんだものね──でも、それがどうかしたの?」
 私が聞いてても随分しつこいぞと思うようなねっとりした口調で、玲子は美奈に質問を浴びせ続ける。
「……赤ちゃんでもないのにオ、オムツなんて、そんな……」
 自分が口にした『オムツ』という言葉に顔を赤くしながら、美奈は聞こえるか聞こえないかの弱々しい声で言った。
「あら、オムツが必要なのは赤ちゃんだけじゃないわよ。寝たきりのお年寄りでも必要だし、病気の人だって」
 玲子がわざと意外そうな口調で言葉を投げ返す。
「そんなこと言っても……私、寝たきりじゃないし病気でも……」
 美奈はおどおどと顔をそむけ、小さな声で抗った。
「病気でもないっていうのかしら? ほんとうに?」
 玲子が冷たく問い詰めた。
「……」
 美奈には返す言葉がなかった。自分の体の異常を痛いほどに知っている美奈にしてみれば、病気なんかじゃないと言い張ることなんて到底できない。
「──あなたは病気なのよ、美奈ちゃん。それも、一時間もトイレをガマンできない病気なの。だったら、オムツをあてることはちっとも不思議じゃないのよ」
 少し間をおいて、玲子が今度はいたわるように優しい声で言った。
「……」
 美奈は更に体を固くした。
「やれやれ、困った子ね。美奈ちゃんの病気にはオムツが一番いいのよ。考えてもごらんなさい──美奈ちゃんは、一時間に一度はトイレへ行きたくなるために勉強にも身が入らないんてしょう? でも、その尿意は本物じゃない。いってみれば、昔の失敗のせいで心が緊張しすぎるために感じる偽の尿意なのよ。だから、いくら激しい尿意を感じてもトイレへ行く必要はないのよ……ううん。むしろ、トイレへ行っちゃダメなの。偽の尿意を感じる度にトイレへ行くようにしてたら、それこそそれが習慣になって心の奥底に焼き付けられちゃうんだから。それよりも、尿意を感じてもそれを無視する練習をしなきゃいけないの。そうして尿意に負けないようになれば、そんな偽の尿意を感じることもなくなってくるんだから」
 玲子は落ち着いた声で、三日前に私にも聞かせた説明を美奈にも話し始めた。
 突然オムツカバーを見せつけられ、羞恥と屈辱にまみれて逃げ出そうとばかりしていた美奈の表情が少しだけ変化した。美奈にしても、自分の病気を治せるかもしれない説明なら、それがいくら想像の外にある方法でもつい聞き耳をたてちゃうのかもしれない。そんな美奈の変化に満足したように、玲子は穏やかに言葉を続けてく。
「でも、いくら偽物だっていっても尿意は確かに感じちゃうわよね。そして、いつオモラシしちゃうかもしれないって不安になる。膀胱にはいくらもオシッコが溜まってないとしても、それが偽の尿意だとしても、トイレをガマンしてる間に遂にはショーツを汚しちゃうこともあるでしょうね。でも、それでもトイレへ行く習慣を一度はおしまいにしなきゃいけないの──そのために、オムツを使うことを薦めてるのよ」
「けど……それじゃ、オムツを汚しちゃうことも……」
 美奈はぽつりと呟いた。
「そう──残念だけど、特に最初にうちはオムツを汚すことになるでしょうね。でも、結局はそのおかげで病気を治すこともできるのよ?」
 玲子の声は穏やかなままだった。
 そしてその穏やかさが、美奈に対して残酷な二者択一を求める冷たさと感じられても仕方ないかもしれない。美奈はビクッと肩を震わせた──このまま瀕尿の体質のままでいるのか、それとも、その体質を変えるために(赤ちゃんでもないのに)オムツを受け入れるのか。それは、十四歳の美奈にとってはあまりにもつらい選択だった。

 どれくらいの時間が流れたんだろう。
 まだ結論を出せずに(あたりまえだ。もしも私が美奈の立場だったら、今ごろは何も考えられずにぴいぴい泣いてるだけだと思うぞ)顔を伏せてしょんぼりしている美奈が急に顔を上げた。美奈の目が、私と玲子をちらちらと見比べる。
「決心、ついたの?」
 玲子が低く囁いた。
「……トイレ……」
「え?」
「だから……トイレ貸してください」
 美奈はもう一度顔を伏せ、上目遣いに玲子の顔を見ながらもじもじして言った。
 私は左手の腕時計に目をやった──カシオのベビーGは、私たちが美奈の家を出てからもうすぐ五十分になることをしめしていた。ここまで歩いてくるのに二十分として、じゃ、三十分間も話したり考えこんだりしてたことになる。あーあ、やれやれだわ。……でも、おっと、のんびりとそんなこと言ってる場合じゃないや。
「だめ」
 玲子はわざとのようにニコッと笑うと、笑顔のままで冷たく応えた。
「え、だって……」
 美奈はおろおろと声を震わせる。
「さっきの説明をもう忘れたの? そんな偽の尿意なんかに惑わされずに、頑張ってトイレをガマンしてごらんなさい」
 玲子の言い方は美奈を突き離すみたいだった。
「でも、でも……そんな急に言われても……お願いだから、今回だけは……」
 美奈はとうとう両手で股間を押さえ、体を丸くしながら額に汗をにじませて言った。
それはちょっと聞いててかわいそうに思えてくるくらいに、まるで懇願するみたいな口調だった。
「今回だけトイレを使わせてあげれば、次はオムツを使うのね?」
 玲子は、美奈の弱点に狙いをつけたような言い方で応えた。ひぇ。友達の私が言うのはナンだけど、怖いよー、玲子。
「そんな……こんな時に、そんな……」
 美奈の声は殆ど泣いていた。うわ、恨めしそうな目だこと。
「……」
 今度は、玲子が無言だった。なにも言わずに、じっと美奈の目を覗きこんでる。
「……あ、わかりました。今度からはトイレへは行きません。だから早く……」
 とうとう、美奈が折れちゃった。これが自分の家なら勝手にトイレでもどこでも行けただろうに、私に誘われるままについてきた薬局でこんなことになるなんて、夢にも思わなかったでしょうね。だいいち、薬局のお店番をしてるのがこんな怖いおねーさんだなんて。
「それでいいのよ。ついてらっしゃい……歩ける?」
 玲子はカウンターの端にある扉を開け、お店の中をぐるっと廻りこんで私たちの方へ近づいてきた。
 美奈はほんとに体を丸めちゃってたけど、それでもやっとトイレへ行けるんだってことで少しは元気が出てきたのか、両手を股間に押し当てた恥ずかしい格好のままで頷いた。
 玲子の後にしたがってそろりそろりと(へんに力を入れたりしたらいつオモラシしちゃうかもしれないって感じで)歩いてく美奈と、彼女の体を支えながらこれもやっぱりゆっくり歩いてく私。三人はやっとのことで、お店の奥の方にあるトイレに辿りついた。もう美奈なんて体をぶるぶるさせるばかりだし、私としても気が気じゃなかった。
 でも、これで一安心……するのはまだ早かった。
 美奈がドアのノブに手をかけた瞬間、何を思ったのか玲子がその手を振り払い、トイレのドアに鍵を差し入れてロックしちゃったんだ。
「え? え……?」
 美奈はまるで信じられない物を見たような顔つきになり、そのまま、その場にへたりこんじゃう。
「な、なに?」
 思わず私も玲子の顔を睨みつけるみたいにして意味もなく呻いちゃった。
「あまいわね、亜紀は。そんなことじゃ、いつまでも美奈ちゃんの病気を治すことはできないわよ」
 でも、玲子の方は平気な顔で鼻を鳴らした。
「いいこと?──今回だけは、今だけは、なんて言ってその度にトイレを許してたら、結局はいつまでもズルズル続いちゃうのよ。決めたことなら、さっさと実行することよ」
「あ、ああ……たしかにそりゃそうかもしれない。玲子の言う通りだわ。でも、こういうのは……せっかくトイレの前まで連れてきておいてドアを閉めちゃうっていうのは……」
 珍しいことだけど、私はついつい玲子に反発してみせた。そうよ、こういうやり方はあまりにも美奈がかわいそうだわ。
「いいのよ、これで」
 だけど玲子は私の言葉なんか無視して、きらきらと輝く目を美奈に向けた。



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