美奈の夏休み

9〜真夏の歩道




 そのオムツカバーの上には、さっきまで美奈が口にしていたオシャブリがころんと転がっていた。さすがにヨダレは拭き取ってしまったのか、飴色のゴムもきれいに乾いてたけど、それは確かに美奈が咥えさせられていたオシャブリだった。そしてその横には、平べったくて丸い缶に入ったベビーパウダーと、たぶんパフが入ってるんだろうプラスチックの丸い箱。
「これは……」
 私は目を丸くして玲子に声をかけた。
「……」
 私の驚いたような気配を察したのか、それまで泣きじゃくっていたいた美奈までが涙の流れを止め、なんとなく不安そうな面持ちで私の方を振り返った。両目の下には、つぶらな涙の雫が伝ったのだろうきらきらと輝く透明の条ができていた。
「あら、泣きやんだみたいね。やっぱり赤ちゃんは、こうしてあやしてあげるのが一番ってことかしら」
 美奈が泣くのをやめた(やめざるを得なかったって言った方がいいかもしれない)理由がそんなじゃないことなんて充分に知っていながら、それでも玲子がからかうように言った。それから、手にしたガラガラをまだなんとなく名残り惜しそうに二度三度と軽く振ってみせながら、私がぽけーっと覗きこんでるリュックの中に戻して、今度は私の顔を見て言葉を続ける。
「このリュックは、だから、美奈ちゃんのお出かけ用の荷物を入れておくための物なのよ。ほら、ハイキングなんかに行くと、二歳や三歳くらいの子がちっちゃなアニマルバッグを背負わされてるじゃない? そのバッグには、その子の替えのオムツとかオモチャなんかが入ってるのよね。美奈ちゃんが背負ってるのは、つまりそういうリュックなのよ」
「あ……ん」
 玲子の説明を聞くなり、美奈は体をよじった。体をよじって、背中に背負わされたリュックのストリングを振り払おうとし始めたんだ。
 美奈が思わずそうしてしまう気持ちは私にも痛いほどわかった。ミニスカートの下には赤ちゃんみたいにオムツ(それも、医療用の純白の布オムツやクリーム色のオムツカバーじゃなくて、ほんとの赤ちゃんが使うみたいな水玉模様のオムツと、仔熊のアップリケが縫い付けられたピンクのオムツカバーなんだよね)をあてられて、その上、背中のリュックには替えのオムツやオムツカバー、それに、オシャブリとかガラガラまで入ってるんだから。そんなふうに、それこそ三歳くらいのちっちゃい子みたいな扱いを受けて平気でいられる筈があるわけはない(いくら美奈が、玲子の指示を待ってでなきゃ何もできないような子になっちゃったとしてもね)。
 でも、美奈の肩と脇にしっかり絡みついたストリングは、そんなことじゃほどけそうにもなかった(やっぱり、ストリングが絞りこんであったのは玲子がわざとそうしていたにちがいない)。そして美奈がもがくように体を動かせば動かすほど……。
「ほらほら。そんなに暴れるから、スカートがまたずり上がってきちゃってるわよ」
 玲子の言う通りだった。
 美奈が体をよじれば、肩にしっかり食いつくみたいに絡んでるストリングに引っ張られてブラウスがどんどんたくし上げられて、それにつれてスカートも。やっとのことでせっかく乱れを整えたっていうのに、結局もとのもくあみになっちゃうんだから。
「へ? ふぇ……や〜」
 玲子の言葉でやっとのことで自分がどんな格好になっているのかを思い出した美奈は、おそるおそるといった感じでカウンターに目を向けた。天井に吊ってある蛍光灯の光を浴びてガラスのカウンターに映し出された美奈は、ついさきほどと同様の、ブラウスをくしゃくしゃにしてスカートの裾からオムツカバーのアップリケをむき出しにしているあられもない姿だった。美奈は咄嗟に両手でぱっとスカートの裾を押さえ、肩を震わせながらゆっくりと引きおろし始める。

 美奈がやっとのことでオムツカバーが隠れるほどにスカートをちゃんとしたのと、ガラス戸が開いて中年女性が店内に入ってくるのとが同時だった。
 たぶん何か薬でも買いにきたんだろうその女性客の目から逃れるように、美奈は慌てて私の背中に廻りこんで身を縮めるようにした。その仕種がとてもあどけない感じで、私は思わずクスッと笑ってしまった。すると美奈は、私が笑ったことで自分がからかわれでもしたように感じたのか、んべって感じで赤い舌を突き出してみせたんだ。
「あ。三村さんの奥様、いらっしゃいませ」
 どうやら顔見知りらしいその女性客に体を向けた玲子は、私と美奈のやりとりなんかてんで知らぬげに(そして、ついさっきまで自分が美奈に対してどんなことをしていたのかさえ全く忘れたように)営業用のスマイルを浮かべ、軽く頭を下げてみせた。
「いつもお店番を感心ね、玲子さん。いつものをもらえるかしら」
 銀縁の眼鏡をかけた女性客は、私と美奈の方にちらと向けた視線を玲子に戻しながら澄ました声で言った。
「はい、承知いたしました。……あれ? えーと……すいません、少しお待ちくださいね」
 早足でカウンターの中に戻り、壁際の棚に目をやって何かを探していた玲子は女性客を振り返って謝るように言った。それから、棚の突き当たりに作りつけになっているドアを開けると(どうやら、その中が倉庫になっているようだ)、少し声を張り上げるようにして呼びかけた。
「パパ、いるの? 三村さんの奥様がいらしてるんだけど、いつものが棚にないのよ。そっちにはまだ在庫あるかしら?」
「──ああ、倉庫にはあるよ。いま持って行ってあげよう」
 倉庫の中を整理していたのか、玲子の父親(つまり、この『ファーマシー鈴木』の経営者ね)の声が奥から返ってきた。
 待つまでもなく倉庫の奥から姿を現した玲子の父親は、錠剤の入った小さな薬壜を右手に持っていた。
「どうもお待たせしてしまいまして。たしか、これでしたな?」
 父親は確認を求めるように女性客に薬壜を手渡し、あらためて気がついたように私たちの方へ視線を走らせた。
「あ、紹介しておくわね。こっちが私と同じ大学の亜紀。それと、亜紀が家庭教師をしている美奈ちゃん」
 父親の目の動きを察したように、玲子が言った。
「ああ、そうか。なるほど、亜紀さんと美奈ちゃんかね。なるほどなるほど」
 軽く頭を下げてみせる私たちになんとなく意味ありげな視線を向けながら、父親は独り言のように呟いた。
 だけど、女性客が壜に貼ってあるラベルの確認を終えると再びにこやかな笑みを浮かべてレジに向き直る。
「じゃ、昨日も話したように私はこれから亜紀のマンションへ行くから、あとはお願いね。一ケ月くらいは帰ってこないけど」
 父親がレジのキーを叩き始めるのを確認した玲子は、ちょっと散歩に出てくるとでもいうような口調で言った。
「ん、わかった。店のことはいいから、せいぜい頑張っておいで」
 父親も、さして心配するふうもなく平然と応える。
 年頃の娘が一ケ月も家を空けるっていうのに、心配じゃないのかしら? 玲子ったら、いったいどういう説明をしたのよ?
「じゃ、行きましょうか」
 だけど玲子ったら、そんな私の呆れ顔なんかぜんぜん無視するみたいに屈託のない顔でカウンターの中から出てくると、床に置いていたバッグを持ち上げて、私と美奈の背中をつんつんして言った。
 美奈はまたまた脅えたような顔になったよ。中学生にもなってオムツをあてられ、替えのオムツを入れたリュックを背負わされた姿で外へ出るんだもの。でも今度は、さっきみたいに抵抗することもできなかった。すぐそこには美奈にとっては見ず知らずの中年女性がいるんだし、何を知っているのか何を知らないのかわからないような玲子の父親だっているんだ。そんなところで、さっきのようにダダをこねるみたく暴れたり身をよじったりできる筈がない。そんなことをしたら、それこそ美奈が今どんな格好をしているのか知られちゃうんだから。
 それでも美奈はまだ決心がつきかねるみたいに私の顔とガラス戸を二度三度と見比べて唇を噛みしめた。
 でも玲子は、そんな美奈の様子になんかわざと気がつかないふうを装って足早に通路を歩いて行く。もちろん、私は玲子に従った。それでおしまい──もう迷う余裕もなくなった美奈は、目を伏せてとぼとぼと私のあとをついて歩き始めた。




「うっわー、暑いわね〜」
 お店を出てしばらく歩き続けた玲子の喘ぎ声だった。語尾なんて、完全にひっくり返ってる。
 もっとも、それは私も同じことだった。冷房の効いた中から出てきたせいで、外の暑さがよけいに感じられるのかもしれない。夏のお日様は遠慮なしで歩道の舗装を焼き焦がしてるし、車道のアスファルトの照り返しや車から吐き出される熱気も容赦なく襲いかかってくる。
 私も玲子も、顔といわず体といわず、どっと汗がふき出していた。ふぇ〜い、お化粧が流れちゃうよぉ。あ、それだけじゃないぞ。汗を吸ったトレーナーはべたって体に貼り付いてくるし、スキャンティだってすぐにぐずぐずに濡れてくるにちがいないんだから。私は思わず犬みたいに舌を突き出した(んーむ。花の女子大生のするこっちゃないな)。
 だけど、それでも、私と玲子はまだマシだったんだ。
 かわいそうな美奈に比べれば。
「あぁん、やだ〜」
 まるで遠い銀河からでも聞こえてくるような弱々しい声を耳にして振り返った私と玲子が目にしたのは、私たちから随分と遅れてぐずるように歩いてくる美奈の姿だった。てっきり私のすぐあとに続いてるもんだとばかり思ってたのに。
「何してるの、早くおいでよ」
 私たちは立ち止まって美奈に呼びかけた。
「……」
 でも美奈は歩くスピードを上げるどころか、私たちに返事もよこさず、いやいやをするように無言で首を振るだけだった。もう両脚の動きも完全に止まっちゃってる。
美奈は私たちから数メートルも離れた場所に立ちすくんだまま、力なく首だけを振ってるんだ。
 結局、私と玲子が戻るしかなかった。
 私たちは互いに目を見合わせ、ちょっと肩をすくめてから引き返した。
「どうかしたの、美奈ちゃん?」
 美奈のすぐ目の前に立った私は、少しだけ首をかしげて声をかけてみた。
「もうヤだぁ。もう歩けないよぉ」
 美奈は恨めしそうな目で私を見上げ、そう言って首を振るばかりだった。
 美奈がどんなことになっちゃったのか、それだけじゃ私にわかるわけがない。
「だから美奈ちゃん、きちんと……」
 きちんと説明してよとちょっとばかり苛立ったような声で私は更に問いかけようとしたんだけど、その途中で玲子に手を引っ張られて言葉が途切れた。
「わかったわよ、美奈ちゃんがいったいどうしちゃったのか」
 そのまま玲子は、私の耳元に唇を寄せてひそひそと囁いた。
「え、ほんと?」
 私の顔のすぐ横にある玲子の目を鋭く横目で覗きこむようにして私は尋ねた。
「ええ。たぶん、オムツが原因だと思うわ。まず間違いないわね」
 玲子の声は自信に充ちていた。
「オムツって──美奈ちゃんが今あててるオムツのこと?」
 私は玲子が何を言おうとしているのかもうひとつピンとこず、曖昧な声で訊き返した。
「そう、美奈ちゃんの可愛いお尻を包みこんでるオムツのことよ。それ以外に何があるっていうのよ。──いいこと? 私が美奈ちゃんにあててあげたオムツはちゃんと乾いたふかふかのオムツじゃなかったわよね?」
「あ? ああ、うん。……玲子にお尻をぶたれながら美奈ちゃんがオモラシしちゃって、それで濡れたオムツをそのままあててた」
 私はその時の光景を、自分のことでもないのに頬を赤らめながら思い出して応えた。
そう。そんなに量は多くないにしても、美奈は今、自分の体から溢れ出たオシッコを吸ったオムツをあてたままここに立っているんだ。
「そうなのよね。美奈ちゃんのオムツは濡れちゃってるのよ。でもまあ、お店の中にいる時はそれもそんなに気にならなかったかもしれないわ。冷房が効いてたしね。でも、今はどうかしら? この暑さの中でムレてるオムツカバーの中の様子、亜紀は想像できる?」
 私はアッと言いそうになった声を飲みこんで美奈に目を向けた。たしかに玲子の言う通りだった。オモラシのせいでじくじくと湿っぽくなってるオムツカバーの内側なのに、それがこの暑さでむんむんと湿気が充満してるにちがいない。しかも、(普通の下着を着けてる)私たちでさえこんなに汗をかいてるんだから、通気性なんか殆ど期待できないオムツカバーに包まれた美奈の下腹部がどんなにムレてひどいことになってるかなんて、私には想像もできなかった。
 じとっと濡れたオムツが肌に貼り付いてくる感触、オムツカバーに覆われたおヘソのすぐ下から太腿へかけての、むっとするような湿っぽい感覚。そして、両脚の間に鋏みこまれた股当てのオムツのせいでムリヤリ押し開かされたような状態になってて、ただでさえ普通には歩きづらいっていうのに。
 玲子が歩道の隅に立ちすくんでいる理由が、それで私にもわかった。
「ねえ、玲子?」
 今度は私が玲子の耳に口を押し当てて(美奈には聞こえないように)言った。
「ん?」
 玲子は、私が何を言おうとしているのか推し量ろうとするように素っ気ない相槌を返してくる。
「美奈ちゃんをもう一度お店に連れて戻ってさ、オムツを外してあげた方がいいんじゃないかしら?」
 美奈がかわいそうになってきた私はおそるおそる言ってみた。
「だーめ。それはできないわね」
 でも玲子は、私の提案なんかちっとも考えるふうもなく、一言で却下した。
「だって、こんなに暑いのにオムツをあてたままなんて……」
「なにを言ってるの、暑い中でオムツがかわいそうだなんて。ほんとの赤ちゃんだってオムツをあてられたままモンクも言わずに──そりゃ、多少は泣くかもしれないけど──ガマンしてるのよ。ちっちゃな赤ちゃんがガマンできて、中学生の美奈ちゃんがオムツをガマンできないなんて、そんなのワガママだわ」
 玲子はきっぱりと断言した。
 その口調に私は言葉を継げなかった。でも、だけど、おーい。玲子の言ってることってちょっと変…じゃないのかなぁ?
「……それにね、ここでガマンできるかどうかが美奈ちゃんにとってもすごく大事なことなのよ。だから、いくらかわいそうに思っても、それを敢えて見過ごすくらいのゆとりを亜紀にも持ってもらいたいんだけどね?」
 それから、ついさっきとはがらっと変わった、なにか教え諭すような口調で玲子は言葉を続けた。
「大事……なの?」
「そりゃそうよ。いい? 私が美奈ちゃんにオムツを使わせるのは、何日か前にも話したように、彼女がトイレを意識せずにすむようにするためなのよ。つまり、尿意を感じてもトイレへ行くのをガマンできるようにオムツをあててあげることにしたの。だから、美奈ちゃんにはこれから、いつもどんな時でもオムツをあてた生活に慣れてもらわなきゃ。……それなのに、ちょっと暑いからってその度にオムツを外してあげたりしちゃ、それこそ却って美奈ちゃんにとってはつらい結果になるのよ。ここでガマンできるかどうか大事なことだっていうのも当然でしょ?」
 玲子はちょっと気取った仕種で右手の人差指を振って言った。
「……」
 その説明に少し困惑しながら、でも反論することもできずに、私は力なく無言で頷くだけだった。



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