美奈の夏休み

10〜偶然の出会い




「さ、こんな所でぐずぐずしていても仕方ないわ。早く、亜紀のマンションへ行きましょ」
 私が頼りなげに頷くのを確認した玲子は、私たちがひそひそ話しこんでいるのを頼りなげな表情で見守っていた美奈に声をかけた。
「ヤだぁ、もう歩けないもん」
 美奈はちょっと拗ねたように応えた。ひょっとしたらこの恥ずかしい姿から開放されるかもしれないなんて少しは期待していたかもしれない美奈にしてみたら、玲子の言葉に素直に頷くなんてことは難しい。
「そう、歩けないの。オムツが濡れて気持ちわるいからかしら?」
 だけど玲子は、美奈のそんな反応なんて前もって予想していたように穏やかに言葉を返した。
 でも、玲子の声は美奈や私にしか聞こえないような小さな声じゃなかった。私たち三人が歩道の片隅に立ったまま何をしているのか気になるように、ちらちらと視線を投げかけながら通り過ぎて行く人も少なくないんだけど、そうして私たちの傍らを歩いてく人達にも、玲子の声は微かに聞こえたようだった。玲子の言葉が耳に届いた人達の何人かはそんなことてんで無視するように何も聞かなかったみたいな顔をして通り過ぎて行くんだけど、玲子の言葉にあからさまに反応する人達も少なくはなかった。
 何人かは美奈の方にちらと視線を走らせて、自分が何か聞き違いでもしたのかと思って(そりゃそうだよね。いくら小柄だっていってもまさか幼児には見えない美奈がオムツをあててるなんて想像もつかないんだから)妙に照れたような表情になってその場を離れ、また別の何人かは(特に中年のオバサマなんかは)おおいに好奇心をくすぐられたように美奈の体を頭の先から脚の爪先までまじまじと眺めまわすんだから。
そうして、美奈のスカートが不自然に膨らんでいることに気がつくと、尚もいっそうの興味をあらわにした視線を美奈の顔と下腹部に交互に注ぎ、なにやら言いたげな意味ありげな顔つきになって、ひどい人なんか、まるで美奈のスカートの中を透かして見るみたいに妙な笑いを浮かべる人もいたりした。
 とはいっても、ま、わざわざ立ち止まってまで美奈の体を眺めまわす人まではいないんだけど、でも却ってそのせいで、何人もの違った視線に美奈はさらされることになっちゃったってことも事実だった。そして玲子は、そんなねっとり絡みつくような視線を浴びせられる度に美奈が身をすくませる様子を満足そうに見守りながら、こんなことまで口にしたんだ。
「そうよね。たしかに、オムツが濡れてちゃ歩きにくいでしょうね。じゃ、今からオムツを取り替えあげましょうか」
 玲子はそう言うと、歩道と車道とを隔てている植え込みに沿って幾つか並んでいる木製のベンチの一つを指差した。そこには、ベンチの上に日傘を立てかけて柔らかな日陰を作り、その日陰の中に二歳くらいの赤ちゃんを横たえさせている若い母親の幸せそうな姿があった。どうやらその母親は赤ちゃんのオムツを取り替えようとしている最中のようで、これもベンチの上に置いていた小振りのバッグから、小さく折りたたまれた紙オムツを取り出そうとしているところだった。赤ちゃんの、スカートと一体になったようなブルマーは股間の部分がぱっくりと開いていて、その中に、ちょっと色が変わってるかなと思えるような紙オムツが見えていた。母親はさかんに赤ちゃんに向かって優しく話しかけながら、慣れた手つきで濡れた紙オムツのテープを剥がし始めた。
 その光景を目にした美奈は、ブルッと肩を震わせた。それから、脅えたような目つきで玲子の顔を見上げ(実際、玲子ったら何をしでかすかわからないもんね。玲子にかぎって、”まさか”という言葉は全っ然ふさわしくないんだから。だって、まさか、中学生の女の子にほんとにオムツをあてちゃって外に連れ出すなんてことするとは思わないよ、ふつう)、逃げ出すみたいに腰をひいた。もっとも、美奈がそうやってその場から逃げ出そうというふうな仕種をしたのは玲子のせいってばかりじゃない。玲子の『オムツを……』という言葉を耳にした人たちの視線が鋭く突き刺さるのを感じて、その場にいたたまれなくなっちゃったのにちがいない。
 美奈はみんなの視線や玲子の目からこそこそと隠れるみたいに、おどおどした様子で歩き始めた(歩き出す以外に、美奈に何ができると思う?)。そんな美奈の後ろ姿にまだ好奇の目を向ける人もいるためにて美奈は振り返ることもできないようで、僅かに顔を伏せ、ただ真っ直ぐにとてとて歩いて行く。
 私と玲子はすぐに美奈を追いかけた。
「すぐ近くにバス停があるわよ。そんなに歩きにくいなら、やっぱりバスに乗った方がいいんじゃないの?」
 オシッコと汗でびっしょり濡れ、じくじくと気味悪く湿気に充ちて下腹部の肌に貼り付くオムツの感触のせいでさっさとは歩けない美奈にすぐ追いついた玲子は、お店を出てすぐに言った言葉を再び口にした。
 実は、玲子のお店を出てほんの少し行った所にもバス停があったんだ。私としては当然、そこからバスに乗って私のマンションのすぐ近くまで行くつもりだった。なのにその時、バスに乗ろうかっていう玲子の言葉に美奈は首を横に振ったんだ。──え、どうしてよ? まさかここから歩いて行くつもりなの? ──そうじゃない、そうじゃないけど……でも、バスはイヤ。──どういうことなの? ──だって……。
 ま、美奈がバスに乗るのをいやがる理由もわからなくもなかった。
 バスに乗る時の状況をちょっと思い起こしてみればわかるんだけど、バスの乗降口のステップって、かなり急なんだよね。お年寄りなんかだと、手すりの棒につかまってエイヤッて感じで脚を持ち上げなきゃいけないくらいに。ミニスカートの下にオムツを着けてる美奈がそんな乗降口からバスに乗り込もうとしたらどうなると思う? 
美奈が脚を上げた途端に、美奈の後ろに並んでる人の目にピンクのオムツカバーがとびこんでくるのは考えなくてもわかるよね。そりゃ、玲子とか私とかが美奈のすぐ後ろに並んでフォローしてやればそんな事態は避けられるかもしれない。でも、玲子がそんなことをすると思う? 玲子がこれまでに美奈にしてきたことを考えると、たぶん逆だと思うよ。自分だけさっさとバスに乗っちゃって、後ろの人の目を気にしながら泣きべそをかきかけてる美奈の表情を楽しむくらいのことはしそうな気がするもの。
 それに、美奈を待ってる羞恥はバスに乗り込む時だけじゃないんだ。バスに乗ったら乗ったで、今度は座席に座るかどうかっていう問題が残ってるんだよね。これも難しい問題だったりするんだぞ。まず、座席に座ることにしてみようか。オムツのせいでただでさえスカートの裾が捲くれ上がりやすくなってるのに、バスの座席に腰をおろしたりしたらどうなるでしょ? しかも、背中に背負ってるリュックが背もたれと体の間に挟まってブラウスも上に引っ張られちゃうんだよ? 美奈のすぐ側に立ってる人がいたりしたら、その人の目に美奈のオムツカバーが丸見えになっちゃう恐れは充分にあるよね。しかも、美奈が目的地につくまでずっとだよ。だからって、座席に座らずに通路に立つことにしても美奈にとってはあまりいいことはない筈だ。だって、通路に立ってようとするとどうしても吊り革につかまってなきゃいけないんだけど、小柄な美奈が吊り革をつかもうとすると、うんと背伸びする必要があるんだ。そうすると、無理して伸ばした腕につれてブラウスとスカートが上の方にもち上がっちゃって、可愛いピンクのオムツカバーがもちろん周囲の人たちの目を集めることになる。
かといって、吊り革を持たずにいて急ブレーキなんかのせいで倒れちゃったりしたら、もっとつらいことになるだろうね。倒れたひょうしにスカートはお腹の上まで捲くれ上がっちゃうだろうし、ひょっとしたらリュックの中に入ってるガラガラやオシャブリとかが飛び出してくるかもしれない。お中まで捲くれ上がったスカートの中からアップリケの付いたまるで赤ちゃん用みたいなオムツカバーを丸見えにして、赤ちゃんのオモチャやベビーパウダーを周囲にばら撒いてバスの通路に倒れている女子中学生──そんなことになったら、美奈にどうすることができるかしらね?
 そんな羞恥と屈辱に充ちた光景を一瞬のうちに想像した美奈は、だからバスに乗ることを頑なに拒んだってわけだ。
 だから、今になって玲子がもう一度バスに乗ろうかって誘っても美奈がうんと言う筈がないと私は思う。
 そして私の予想は見事に的中した(大袈裟かな)。
 美奈は顔を伏せたまま唇を噛みしめ、玲子の言ったことなんかちっとも聞くふうもなくとっとと歩き続けてく。
 玲子は私の方を振り返って、ひょいと肩だけをすくめてみせた。

 どしんっという、何かがぶつかったような音が聞こえてきたのはそのすぐ後のことだった。続いて、誰かが尻餅をつくようなぺちゃという音。
 ハッとして慌てて目を向けた私たちが見たのは、歩道に尻餅をついて倒れ、かろうじて上半身だけを両手で支えて起こしている美奈だった。その美奈の目の前には、たぶん中学生だろうか、美奈と同じような背の高さの丸顔の男の子が立っていた。
「美奈ちゃん!」
 私と玲子は急いで美奈の傍らに駆け寄り、歩道にぺったりお尻をついてる美奈の様子を確認してみた。
 倒れる時に風をはらんでふんわりとたくし上がってしたまったのだと思うけど、美奈のスカートの裾ははだけ、ちょうど傘が裏返しになるような感じでお腹の方へ捲くれ上がってしまっていた。そのせいで、きれいに日焼けした脚が太腿のところまであらわになっちゃってる。ということは、もちろん、美奈がスカートの中に着けているピンクのオムツカバーも丸見えになっちゃってるってことだ。中にあてられた布オムツが、美奈がお尻をじかに歩道に落としているために少しばかり横の方に広がってて、そのせいで、ただでさえ膨れぎみのオムツカバーがますますふっくらして見える。
 私は、歩道を行き交う人たちの目から美奈の下半身を庇うようにしゃがみこんで美奈の顔を覗きこんだ。美奈の両目は何かに驚いたように(そして、なにか脅えたように)大きく見開いたままで、その目は真っ直ぐ、自分のすぐ目の前につっ立っている男の子の顔を見つめていた。
 その美奈の視線につられるみたいに、私もその男の子の方にあらためて目を向けてみた。その子の年齢は、たぶん第一印象の通り、美奈と同い年くらいだと思う。女の子の方が少し早く成長期を迎えるために、その年代の子っていうのはわりあい小柄な男の子が多いんだけど、その子もそんな中の一人のように思えた。だけど、ただ小柄っていうだけじゃない。変声期も迎えてないんだろうその男の子からは、少年というよりも、まだ性が分化していないような中性的な(こういう表現が適切かどうかわからないんだけど)日本人形、それも、おかっぱ頭が似合いそうな女の子の市松人形のような印象を私は受けたものだった。そのくせ、どこか日本人離れした──そう、ゲルマン民族のういういしい少年のような、まるで天使みたいなひどく非現実的な愛らしさといったような印象さえも同時に伝わってくる、なんとも表現しようのない少年だった。私よりも頭一つ背が低くスレンダーで頼りなげな雰囲気も、そんな感じをいや増すのに一役かっていそうにこそ思え、貧相だとか弱々しいとかいう言葉を連想させることは決してなかった。
「あの、ごめんなさい。……ちょっと急いでたものだから」
 まだ声変わりしていない少年は、丸っこい震える声で美奈に謝った。どうやら、よほど急いで走っていたのかして美奈とまともにぶつかってしまったらしい。実際、ひどく慌てたような声だった。
 だけど、そのすぐあとで、あれ?とでもいうような顔つきになると、急に親しげな口調になってこんなふうに続けたんだ。
「あ、美奈ちゃんじゃない。うわー、こんな所で会うなんて偶然だね」
 ということは、この子は美奈の同級生かなにかかしら。それも、かなり親しい仲みたいな感じね。──あ、そうか。美奈が驚いたような顔をしてその子の顔を見つめてたのも、こんな時にその子に会っちゃったからなんだろうね。
 美奈は一言も口をきけなかった。それもそうだよね──同級生の男の子と街で出会うのはいいとしても、それが、スカートをだらしなくはだけて、その中のオムツカバーが丸見えになっちゃってるような格好だったりしたら。
 で、美奈が押し黙ったままなのをちょっと不審に思ったんだろう、男の子は今になってあらためて気がついたように美奈の様子をしげしげと眺めまわして(それまでは、人にぶつかって相手を歩道に倒しちゃったってことで焦りまくってたせいで、美奈がどんな格好をしているのかということにまでは気がまわらなかったのかもしれない)、スカートの中から見えてるオムツカバーを目にしちゃったんだ。それでも最初は、それがオムツカバーだなんて思わなかったにちがいない。ちょっと厚手の生地でできた下着だなくらいにしか思わないのが普通だろう。
 男の子は、スカートの中からのぞく下着にうろたえるように慌てて目を逸らそうとした。だけど、なんとなく惹きつけられるみたいにして彼の目は美奈のスカートの中に注がれてしまい(中学生の男の子なんだもん。親しい女の子のスカートが捲くれ上がってたりしたら、わざとじゃないにしても、その中を無意識に覗きこんじゃったとしてもムリはないと思うよ)、微かに喉を動かして目の動きを止めちゃった。そうして、不自然に膨らんだ様子とか幾つも並んでるホックを目にして、それが普通の下着なんかじゃないことに彼は気がついたんだ。
 彼は美奈に負けないくらい大きく目を見開くと、信じられない物を目にしたように何度も何度もまばたきを繰り返した。そうして、それでも自分の目の前にあるのが間違いなく大きなオムツカバーなんだということを確認すると、今度こそ慌てて目を逸らせた。まるで、見ちゃいけないものを目にしちゃったみたいに。
「あ……衛くん……」
 その時になって、やっと我に返ったみたいに美奈が口を開いた。
 そうして、自分がどんな格好をしているのかをあらためて思い出したみたいだ。美奈は小さな声できゃっと叫ぶと、慌てて上半身だけを今までよりも起こし、それまで体を支えるために歩道についていた両手を体の前の方へもっていってサッとスカートを引きおろして、それまで丸見えになっていたオムツカバーを隠してしまった。それから、まだ尚もスカートの裾を押さえつけたまま、衛と呼んだ男の子の視線から逃れるみたいに顔を伏せ、ふるふると震える体を縮こませる。
「……あのね……」
 美奈は視線を落としたまま、なにか言い訳でもするように意味のない言葉を口にした。
 その呼びかけに衛は視線を美奈の方へおそるおそる戻したんだけど、でも美奈の姿を直視することもできずにいた。
「……美奈ちゃん……」
 なにかためらっていたようだったけど、しばらくして衛は、美奈と同じような口調で彼女に呼びかけた。それから唇をちょっと舌で湿らせ、ぐびっと唾を飲みこむと、「……ごめん」
とだけ言って、慌てて顔をそむけて駆け出しちゃったんだ。
「え、衛くん……?」
 気配を察した美奈は急いで顔を上げ、衛がすごい勢いで走り去ったあとを呆然とみつめていた。でも、それでどうなるってもんでもないんだよね。

 不意に、美奈の目から大粒の涙がこぼれ始めた。
 涙が流れ出すとかそんな感じじゃなくて、それこそ水の粒が転がり出すみたいにぽたぽたと歩道を濡らしてく。今日だけで美奈ったらこれで何回めの泣きべそになるんだろう? でも、ぜったいに私のせいじゃないぞ。みーんな、玲子がわるいんだからね。
 でも、玲子はそんなことちっとも気にする様子はなかった。
 ただちょっとだけ肩をすくめてみせ(玲子が肩をすくめてみせるのも何回めだろ?)ただけで、落ち着いた声でこう言った。
「とうとう本格的に泣き出しちゃったみたいね。仕方ない、タクシーに乗りましょうか」
 実際、もう周囲のことなんかてんで目に入らない様子で子供みたいに泣きじゃくり始めた美奈が自分の足で歩き出すとは思えなかった。ひっくひっくとしゃくり上げ、両手の掌を顔に押し当ててえっえっと嗚咽している美奈を引きずってバス停まで連れて行くことも難しいにちがいない。
「亜紀、ちょっとタクシーを止めてきてよ」
 玲子はちらと車道の方に目を向けて私に言った。
「あ、うん……」
 玲子の言葉に従って私は植え込みを横切った。そして車道との境に立ち、大きく手を振る。
 この時間帯には意外と空車が少ないのか、何台も通り過ぎて行くタクシーを私はただぼんやりと眺めてなきゃいけなかった。泣きじゃくる美奈を側にして玲子が苛立ってるかもしれないっていう心配を抱えながら。



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