美奈の夏休み

11〜タクシーの中で




結局、私がタクシーをつかまえることができたのは、それから十五分くらいも経ってからだった。歩道の側に止まってドアを開けてくれたタクシーの運転手さんに、すぐに人を連れて戻ってくるから待っててほしいと言い、私はもう一度植え込みをかきわけるみたいにして玲子が待ってる場所に戻っていった。
 やだなー、美奈ったらまだ泣きじゃくってるんだろうなぁ。そんな子をどうやってタクシーまで連れてけばいいのよ? 私はふーっと溜息を洩らしていた。
 でも、だけど。
 元の場所に戻った私の目にとびこんできたのは、ちょっとビックリするような光景だった。美奈はちっちゃな子供みたく泣きじゃくっているどころか、大柄な玲子の腕に抱え上げられて穏やかな表情で目を閉じてたんだ。なんとなく信じられないような思いで私が玲子のすぐ近くまで寄ってみると、美奈は安らかな寝息さえたてていた。
へ?──私はぽけっとした表情で玲子の顔を見上げた。
「何をそんなに不思議そうな顔をしてるのよ、亜紀?」
 私の驚きとは全く対照的に、玲子は平然としていた。
「え、だって……ついさっきまであんなに泣いて美奈ちゃんが……」
「うふふふ。泣き疲れて眠っちゃった赤ちゃんてところかしらね。ほんと可愛い子ね、美奈ちゃんて」
 玲子は冗談めかして言うと微かに微笑んだ。
「いったい、どういうふうにしたのよ?」
 私は呆れたように言った。
「知りたい?」
「もちろんよ」
「家が薬局で私自身も薬学部の(まだ専門過程に入ったばかりだけど)学生だとね、いろいろとおもしろい薬を手に入れるチャンスがあるの。例えば、サンプル出荷が始まったばかりの即効性の睡眠誘導剤とかね」
 玲子の目が、謎かけをするようにきらりと光った。
「……」
 私は何も言えなかった。なぜとはなしに、ぞくりとした感触が背筋を駆け抜ける。
「それよりも、タクシーは?」
 私の困惑になんか気がつかないように、今度は玲子が訊いてきた。
「あ、ああ、そうだったわね。──すぐそこ、植え込みの向こうで待ってもらってる」
 私は急に我に返ったように早口で応えた。
「おっけい。じゃ、私はこのまま美奈ちゃんを抱っこしてくから、私のバッグをお願いね」
「あ、うん……」
 私は玲子に言われるまま、軽く頷いた。
 その瞬間、私は何かが心に引っ掛かるような思いを感じていた──美奈を連れて玲子のお店に入ってからずっと、私と美奈は完全に玲子のペースに巻きこまれているような気がする。そりゃ、玲子が初めてオムツカバーを広げてみせた時には私もおもしろがって賛成したわよ。でも、まさかこんなことにまでなるなんて……。しかも、いつのまにか美奈も私も玲子に逆らうことなんて忘れて言われるままに動いちゃってるじゃないの。まるで、母親に抵抗できない幼い姉妹みたいに……。
「何をしてるの、タクシーを待たせてるんでしょ? 早くなさい」
 心に引っ掛かる思いに気をとられてぐずぐずしていた私に、玲子が強い調子で呼びかけた。
「ごめんなさい」
 思わず私は体をビクッと震わせ、慌てて体を動かした。

「すみませんね、すっかりお待たせしちゃって」
 美奈の体を抱いたまま腰をかがめてタクシーに乗りこみながら、玲子が運転手に話しかけた。その口振りがなんとなく幼児を抱えた母親のそれのように聞こえたのは私の気のせいだろうか?
「ああ、いえいえ。かまいませんよ。それよりも、大丈夫ですか?」
 小太りの気の好さそうな運転手は自分が待たされたことよりも、玲子が美奈を抱えたまま無事に車に乗り込めるかどうかを気にするように言った。
「ええ、なんとか」
 玲子はにこっと笑みを浮かべて愛想よく応える。
「それならいいんですがね。──妹さんですか? まさか、お子さんってことはないんでしょうね」
「ええ、まあ……」
 玲子は曖昧に言葉を濁した。本当のことを説明しようにも、どこから話し出していいものかわからないしね。
「それにしても可愛らしいお嬢ちゃんですな。いえね、私にも娘がいまして、よそのお嬢ちゃんを見かけるとついつい気になっちゃって。……何年生です?」
 それまでルームミラーで玲子の様子を見守っていた運転手が、とうとう首を後ろにまわして話し始めた。よほど子供好きなのかもしれない。
「二年生なんですよ」
 やっとのことで座席に座り、そのまま美奈の体を自分の膝の上に座らせるように抱え直した玲子がにこやかに応えた。
「へーえ、二年生ですか。いや、こりゃ発育のいいお嬢ちゃんですね。うちの娘は五年生だけど、そのお嬢ちゃんとあまり背丈はかわりませんよ」
 その運転手の言葉を耳にした玲子と私は顔を見合わせ、目配せをするように軽く笑い合った。ま、運転手さんが美奈のことを小学二年生と間違ってもムリはないかもしれない。中学生にしては小柄だし、まさか、中学二年生にもなった子が誰かに抱っこされたまま眠りこけてるなんてこと、普通じゃ想像もできないんだから。それに、美奈だけってことじゃないんだけど、目を閉じて軽く寝息をたててる時の顔というのは無防備で、それはそれはあどけなく見えるものなんだ。それが童顔の美奈だから、余計に年齢なんてわからなくなっても仕方のないことだろう。
「うふふ、ありがとうございます」
 運転手の方に顔を向け直した玲子はにっと笑ってみせた。
「いえいえ、ほんとうのことでさ。──で、どこまで行きましょうかね?」
 玲子に微笑みかけられてちょっと照れたように、運転手もにまっと笑い返しながら行き先を尋ねてくる。
 これは私が応えなきゃいけない。私も玲子みたいに穏やかな笑いを浮かべて
「M町三丁目の……」
と言いかけた。なのに、急にちょっと慌てたみたいな早口で運転手さんが私の言葉を遮って喋りかけてきたんだ。
「あ、あの、すみません。行き先は後ほど詳しくお聞きするとして……その、ですね……ええ……お嬢ちゃんは御病気かなにかで?」
「どうしてです?」
 玲子は表情を変えずに穏やかな声で問い返した。
「あ、いやあ……見るつもりはなかったんですけどね、えーと、その……お嬢ちゃんのスカートの中がちらと目に入っちゃったもんだから……」
 私はハッとして、玲子の膝に乗っかってる美奈に目を向けた。たしかに、美奈のスカートの裾が僅かだけど捲くれ上がって、中のオムツカバーが顔をのぞかせていた。
さっき、玲子が抱き上げる時にそうなっちゃったんだろう。
「ああ、それで」
 私の視線に気づいた玲子は、自分も美奈のスカートの裾のみだれを確認して言った。
「ええ、まあ。小学校の二年生でまだオムツが外れないっていうのは御病気かなと思った次第で……え、いや、だからどうだって言うんじゃないんですよ。病気の人は乗車をお断りさせていただくとかそういうんじゃないんです。ただね……」
 運転手は悪意のないことを強調するようにさかんに手を振ってみせながら、でも何か言いにくそうに言葉を濁した。それにしても、『小学校の二年生でまだオムツが外れない』って美奈のことを思ってる運転手さん、美奈のほんとの年齢を知ったらなんて思うだろ?
「ただ?」
 玲子は運転手を促すように短く訊いた。
「気をわるくしないでくださいよ、会社の方針なんだから。ええと、ですね──車の中を汚した場合、私ら運転手が会社へちょっとした罰金みたいなものを支払わなきゃいけないんですよ。だから時々酔っぱらいのお客さんなんかを乗せて座席を汚されでもしたら私らも苦しいことになりましてね。だから、なんていうか……」
 運転手は頭をごしごし掻きながら、もう一度ちらと美奈のオムツカバーに目をやってぼそぼそ言った。
「ああ、そういうことですか。なら、心配いりませんわ。目的地につくまで、この子は私がこうして抱いていますから」
「いや、どうも。申し訳ありませんが、それじゃそういうことでお願いします。私としてもお客さんにこんなことをお願いするのは心苦しいんですけどね」
 運転手は尚も玲子にそう言うと、やっとのことでハンドルを握り直して前方に目をやった。そして、いかにもほっとしたような声であらためて行き先を尋ねてきた。
 私はマンションの住所と簡単な道順を告げ、それから、ワケわかんないよって顔を玲子に向けた。
「……どういうことなの?」
「あら、簡単なことよ。わからない?」
 玲子はチェシャキャットみたいな笑みを浮かべて逆に訊いてきた。
「うん……」
 私は小さく首を振ってみせた。
 同時に、タクシーが発進する軽いショックが伝わってきた。そのせいか、抱っこされている美奈の体が微かに揺れ、玲子の膝の上から滑り落ちそうになった。それを玲子が慌てて抱え上げるとスカートの裾の乱れが更に大きくなり、前にもましていっそうオムツカバーがあらわになる。
 それでも玲子は、あらあらと言っただけで美奈のスカートを直そうともせず、そのあどけない姿をいとおしそうに見守っているだけだった。それは、知り合いどうしの女子大生と中学生というよりも、愛らしいちっちゃな娘を膝の上にちょこんと座らせて幸福に浸っている母親のように私には思えた。そう、歩道に置いてあるベンチの上に赤ちゃんを寝かせてオムツを取り替えてあげていたあの母親のように。
「ねえ、玲子?」
 なぜだか胸が苦しくなるような感覚におそわれた私は、ちょっと苛立ったみたいな声で玲子に呼びかけた。
「あ、そうだったわね。運転手さんが何を言おうとしていたのか説明しかけてたんだっけ」
 そう言った玲子は運転手の後頭部と私の顔とをちらちらと見比べ、更に、美奈のスカートからのぞいているオムツカバーに目をやって言葉を続けた。
「赤ちゃんでもないのにオムツをあててるってことは、美奈ちゃんにオモラシの癖があるってことを明言してるのと同じことよね。それに、赤ちゃんよりもずっと大きな体なんだら、オモラシしちゃったらその量だって随分と多いだろうなと思うのが普通なのよ。で、運転手さんは心配になっちゃったの──オムツからオシッコが溢れ出して座席を汚しちゃわないかって。もしもそんなことになったらペナルティだものね」
 玲子の声が聞こえているのかいないのか、運転手は真っ直ぐ前を見て車を走らせ続けている。
「だから……」
 私は確認するように玲子の顔をみつめた。
「そう。だから、美奈ちゃんが粗相しちゃっても大丈夫なように、こうしてお膝の上で抱っこしてるのよ。こうしておけば、たとえオムツがオシッコを吸収できなかったとしても座席は汚れないものね」
「あ、でも。玲子のスカートが……」
「うん、そうね。ひょっとしたら私のスカートが汚れちゃうかもしれないわね。でもそれでもいいのよ。美奈ちゃんのオシッコだったらね」
 玲子は、なんとなく私を挑発してでもいるような口調で言った。
 玲子の言葉に、私の胸の奥底がざわっと騒いだ。でも、それがどうしてなのかなんて、まるでわからない。
 玲子がなんとも表現しようのない顔つきになって美奈の下腹部に目を向けたのはそのすぐ後のことだった。玲子は左手だけで美奈の体を支えると右手をそっと宙に浮かせ、ゆっくりした動きで美奈のスカートの中に差し入れた。そしてそのまま、太腿を軽く締めつけるようにぴっちりと張りつめている幅の広い裾ゴムをかいくぐるみたいにして、右手の掌をオムツカバーの中へ這わせていく。
「ヤだ、美奈ちゃんたら。ほんとにオモラシしちゃってる」
 しばらくの間オムツカバーの中を探った後、イヤでもなんでもなさそうに、むしろ嬉しそうな笑みを浮かべて玲子がぽつりと言った。
「え?」
 私はちょっと驚いて玲子の顔を睨みつけた。だって、美奈の病気っていうのは瀕尿というのも大袈裟なほどの、ちょっとした尿意が気になるためにトイレへ行く間隔が普通の人よりも短いってだけのことなんだよ。そりゃたしかに玲子にお尻をぶたれながらオモラシはしちゃったけど、あれって、どっちかっていうとアクシデントみたいなものだった筈だ。だから、まさか玲子に抱っこされて眠ったままオモラシしちゃうなんてこと……。
「あら、意外そうな顔をしてるわね。私、なにか変なことを言ったかな?」
 私の険しい(というか、ちょっと疑ってるみたいな)視線を撥ね返すみたいに、玲子がわざとらしく笑って言った。
「だって、これまで美奈ちゃんがほんとにオモラシしちゃったことなんて……」
「しちゃったことなんてないって言いたいのね? でも、今はこれまでとは状況がちがうのよ。──なんたって、お薬が効いてるんだもの」
 たぶん私達の(声をひそめた)会話は運転手には聞こえてないと思うけど、でも尚いっそう声を小さくして、玲子は私の耳元で囁いた。
「あ……」
 そうだった、薬のことをすっかり忘れてた。玲子が用意してきた即効性の睡眠誘導剤っていうのを美奈は飲まされて眠ってるんだったんだ。そして、玲子のお店で寝台の上にうつ伏せにされてお尻をぶたれながらオモラシをしちゃってから、そろそろ一時間になる頃だった。美奈は、小学生の頃からずっとそうだったように、ひどく間隔の短い尿意におそわれたにちがいない。それでも普通ならかろうじてガマンできたかもしれないけど、玲子の薬のせいで意識を失っている今はそれもかなわなかったんだろう。
「ほんと、可愛いわ。私のお膝の上でオネショしちゃって、なのにスヤスヤ眠ってる美奈ちゃん。オネショでオムツをじわじわ濡らしながら、それでも安心しきったみたいな顔をして目を閉じてる美奈ちゃん。ね、可愛いわよね?」
 独り言みたいに呟いてたのに最後の方は私に同意を求めるように言った玲子は、それまで美奈のオムツカバーの中で蠢かせていた右手をそっと引き抜くと、両手でぎゅっと美奈の体を抱きしめた。
 その様子をじっと見守っていた私は、胸の奥で真っ赤な炎のような感情が激しく揺らめき始めるのを感じて戸惑っていた。その炎のような感情の正体なんてちっともわからないんだけど、そのまま放っておけば私の理性とか意識とかいうものもその中に呑み込まれ、いつのまにか無残に焼け焦げ、跡形もなく焼き尽くされてしまいそうだっていう恐怖にも近い不安だけは実感される──私の心の中にそんなものが潜んでいることなんて今の今までこれっぽっちも気づかなかったような、それは異形の感情だった。
 私は私の中にそんな感情が隠れていたことを玲子に気づかれないように、自分の心を冷たい地面に抑えつけるような努力を続けながら、無言で頷いてみせた。


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