暖かな日差しの中で



   1 新しい生活の始まり


 どこからか雲雀の鳴き声が聞こえてくる、うららかな三月下旬の昼下がり。
 まだ田園風景が残る郊外の住宅街に建っている河野家の玄関にかろやかな電子音がこだまして、待つほどもなく摩耶がドアを開けると、全身びしょ濡れの島田早苗が立っていた。
「あらあら、どうしたの、早苗ちゃん、その格好!?」
 トレーナーもジーンズもぐっしょり水に濡らして困り果てた様子の早苗の姿を目にした摩耶は、呆れ声で尋ねた。
「……駅からここへ来るまでの途中、道路に大きな水溜まりがあって、ちょうど私が通りかかった時に大型トラックが走ってきて……」
 早苗が事情を説明しかけたが、そこへ
「うちと駅の真ん中あたりにある公園の前でしょう? あそこ、もともと地面が柔らかいのか、いくら舗装し直しても、すぐに凹んじゃうのよね。それで、雨が降ったら大きな水溜まりになっちゃって。私も、通学の途中で何度も水を跳ねられたことがあるのよ」
という声が割って入った。
 声の主は、とっとっとっと足早に階段をおりてきた少女だ。
「あ、真澄ちゃん、久しぶり」
 階段をおりて摩耶の横に立った少女の姿を見るなり、早苗は顔をほころばせて名前を呼んだ。
「いらっしゃい、早苗お姉ちゃん。今日からずっと一緒だね」
 真澄と呼ばれた少女がにこりと微笑えむ。
「うん、お世話になるわね。それにしても、しばらく会わないうちにまた大きくなっちゃって。前に会ったのは去年のお正月だったっけ? あの時と比べても随分背が伸びたんじゃない? びっくりしちゃった」
 最初は弾んでいた早苗の声が、大柄な摩耶と並んで立ってもまるで遜色ないほどの真澄の発育具合に気づいて溜息交じりになった。
「でしょ? 今じゃ、チームの中でも一番背が高いんだよ」
 真澄は屈託のない笑顔で頷き、少し間を置いてから、いくぶん遠慮がちな、それでいてどこか皮肉めいて聞こえる口調でに言った。
「でも、早苗お姉ちゃんは変わらないよね。前に会った時そのまんまなんじゃない?」

 この四月から高校三年生になる早苗と中学二年生になる真澄とは、互いの母親が姉妹どうしの従姉妹関係にあたる。
 早苗の母親・麻美と真澄の母親・摩耶は若い頃、某総合商社のクラブを母体にする実業団バレーホールチームに揃って所属していたのだが、同じ実業団チームの男子部で主将を務めていた男性との結婚を機に摩耶が先に引退した。そうして生まれたのが真澄で、真澄は二人の血をひいて幼い頃から体の成育が並外れて早く、運動神経にも恵まれて、小学四年生になると同時に入部した地元のジュニアバレーボールチームではすぐに小学生の部のレギュラーに指名されたものだし、中学生の部に上がっても、レギュラーの座につくのはあっという間だった。
 それにひきかえ早苗の方は、摩耶よりも一足遅く引退した母親の結婚相手が、同じ商社の社員とはいえバレーボールとはまるで関係のない部門に勤める普通の男性で、お世辞にも運動神経に恵まれているとは言い難い。加えて早苗の父親は同世代の男性の中ではかなり小柄な方で、その血をひいたのか、新学期が始まれば高校三年生だというのに、早苗の身長は百四十五センチしかない。
 そんなわけだから、一年ちょっと前に会ったきりの真澄の背がますます伸び、みるからに引き締まった体の持ち主に成長している様子を目の当たりにした早苗が、背が低いだけでなくバストやヒップの発育も思わしくない上に丸っこい童顔のままの自分の姿と対比して溜息をつくのも無理はないのだった。

「ほんと、真澄ちゃんが羨ましいわ」
 身長がもう優に百七十センチを超えていそうな従妹の顔を見上げ、早苗はやれやれというふうに肩をすくめてもういちど溜息をついた。
 そこへ一陣の風が吹き渡る。
「それにしても、こっちへ着いた早々トラックに水をかけられるなんて大変な目に遭ったわね。今年の春は暖かいっていうけど、それにしてもまだ三月。そのままじゃ風邪をひいちゃうから、立ち話はもうそのくらいにしてシャワーで体を温めてちょうだい」
 突然の風に髪をそよがせ、ぶるっと体を震わせる早苗に向かって、摩耶が気遣わしげな様子で手招きをした。




 少し熱めのシャワーが冷えた体に心地よい。
(元々背の高い子だったけど、まさか、あんなに大きくなってるだなんて。顔つきもしっかりして、すっかり大人びちゃったな、真澄ちゃん。それに比べて私の方は……お父さんを恨むわけじゃないけど、それにしてもねぇ)
 殆どぺったんこと言ってもいい乳房にシャワーの湯をかけながら早苗は胸の中で呟いた。
(これから二年、真澄ちゃんとずっと一緒なのよね。小さい頃は『早苗お姉ちゃん、早苗お姉ちゃん』ってなついてくれたけど、あんなに大人びちゃったらどうだろう。昔みたいになついてくれて仲良しのままだったらいいんだけど)
 早苗はS女子大の附属高校に通っているのだが、商社勤めの父親が急遽二年間の海外勤務を命じられ、その赴任先が、現地の取引先を交えたホームパーティの盛んなお国柄だという事情があって母親も同行せざるを得なくなったため、進学の準備を控えた早苗が一人で日本に残ることになった。ただし、住むのは自分の家ではない。女の子の一人暮らしを心配する母親の計らいで、数駅離れた住宅街に居を構える河野家に同居することになったのだった。
 早苗も真澄も一人っ子だから、早苗の同居によって互いに姉妹ができるような浮き浮きした気分になってはいるものの、かつて知った幼い頃の従姉妹どうしそのままの間柄でいられるものなのかどうか、漠然とした不安を覚えてしまうのも仕方ないところだ。殊更、思いもしなかったほど大人びて成長した真澄の姿を目の当たりにすれば、尚のこと。
(いろいろ考えても仕方ないってことはわかっている。わかっているけど、でも……)

「――ちゃん、大丈夫? あまり遅いから気になって来てみたんだけど、湯あたりとかじゃないの?」
 不意に摩耶の声が聞こえた。
 はっとして早苗がガラス戸の方に振り向く。どうやら、これからの生活にあれこれ思いを巡らせているうちに思わぬ長湯になってしまったらしい。
「あ、ごめんなさい、叔母さん。ちょっと考えごとをしていたから」
 早苗は慌ててガラス戸越しに応じた。
「ううん、それだったらいいのよ。ゆっくりしてもらっていいの。ただ……」
 ほっとしたような摩耶の声が返ってきた。だが、その声が途中で躊躇いがちな様子になる。
「どうかしたんですか?」
「うん、ちょっと困ったことがあってね」
 ゆっくりガラス戸が開いて摩耶が顔をみせた。
「困ったこと?」
 早苗はシャワーの栓を捻り、バスタオルを体に巻き付けて聞き返した。
「前もって貰った連絡じゃ、早苗ちゃんが送った荷物はダンボール箱が四つの筈だったわよね? なのに、昨日届いたのは二つだけだったのよ。配達してくれた宅配の運転手さんの説明だと、仕分けセンターの手違いとかで別の営業所へ行っちゃってるらしいんだけど、それがどこの営業所なのかはっきりしないんだって。それで、今朝も問い合わせてみたんだけど、どこへ行っっちゃったのかまだわからないそうなのよ」
 摩耶は申し訳なさそうに説明した。
 摩耶の言う通り、河野家での生活を始めるにあたって取り敢えず必要になりそうな物を選んで早苗が自分の家から送っておいた荷物は全部で四箱だ。その内の二箱がまだこちらに届いていないという。
「どの箱が届いていないかわかりますか? 開ける時に中身がわかるよう箱にサインペンで@ABCの数字を書いておいたんですけど」
 早苗は思案げな表情で尋ねた。
「それなら、荷物を探してもらうのに役立ちそうだから、宅配の人にも伝えておいたわよ。たしか、@とAが届いていて、BとCが行方不明になっていたんだったかな」
 摩耶が少しだけ考えて言った。
「あ、@とAは届いているんですね。だったら少し安心です。@の箱に入っているのは文房具とか辞書とかなんです。新学期だから教科書は新しくなるんだけど、辞書は一年生の時から使って馴染んでいるのじゃないと困るから、それが届いているんだったら一安心。それに、学校指定の通学鞄や革靴が入っているAの箱も届いているから買い替えの面倒はなさそうです。BとCに入っている着替えや下着がまだ届いてないのはちょっと困るけど、いざとなったら、家にまだ替えが残っているから取りに帰ればいいんだし」
 摩耶の説明に早苗は幾らか安堵の表情を浮かべた。
「あ、やっぱり、着替えは行方不明の箱に入っているのね。早苗ちゃんがシャワーを浴びている間に、水をかけられてびしょ濡れになっちゃったトレーナーやジーンズの代わりを用意しておいてあげようと思って昨日届いた箱を開けてみたんだけど、どっちにも入ってなかったから。――ごめんね、勝手に開けちゃって」
「ううん、そんなの、いいです。 あ、でも…」
 早苗は小さく首を振ったが、すぐに何やら思い至ったようで少し困った顔つきになった。
「そうだ、制服や体操着も着替えと同じ箱だったんだ。とすると、私、浴室から出ても着る物がないってことになるのか。しまった、こんなことになるんだったら、せめてジャージだけでも鞄と同じ箱に入れておけばよかったな」
「そうなのよ。困ったことって言ったのはそういうことなの。水をかぶった洋服は洗濯の途中なんだけど、乾燥機が故障しているからすぐに着てもらうってわけにいかないのよ。まだ三月だから、外に干しても乾くのに時間がかかるし」
 摩耶は僅かに頷いてみせてから、やや遠慮がちに言葉を続けた。
「それでね、取り敢えず真澄のを着ていてもらおうと思うんだけど構わない?」
「あ、そうか、そういう手があったんだ。そんなこと、姉妹がいないから思いつかなかったけど、うん、助かります。洗ってもらっている服が乾くまで真澄ちゃんのを貸してください」
 摩耶の提案に早苗はぱっと顔を輝かせた。
「じゃ、そうしましょう。適当に見繕って用意しておいたから、サイズの確認も兼ねて着てみてちょうだい」
 早苗が頷くのを見て、摩耶は、あらかじめ準備してきた脱衣籠を指差した。
「わかりました。ありがとうございます」
 早苗はガラス戸を大きく押し開いて脱衣場へ移り、棚に置いてある脱衣籠に手を伸ばした。
 が、脱衣籠の中から一着の衣類を取り出して広げると、
「え……?」
と怪訝そうな声をあげたきり言葉を失ってしまう。
「あら、どうかした?」
 唇を僅かに開いたまま手にした衣類をまじまじとみつめている早苗に、摩耶が小首をかしげて問いかけた。
「こ、これ――これって、小さな子供が着るような服じゃないんですか!?」
 困惑の表情で早苗は、自分よりも頭一つ以上背の高い摩耶の顔を振り仰いだ。
「ええ、そうよ。真澄が小学校の三年生だったか四年生だったかの春に買ったものだもの」
 早苗の困惑とは裏腹に摩耶はこともなげに答える。
 摩耶の言う通り、早苗が脱衣籠から取り出した洋服は、明るいパステルカラーの生地で仕立てた、いかにも小学生の女の子が喜んで着そうなレイヤードふうの可愛らしいチュニックだった。
「だって、今の真澄が着ている物なんて、早苗ちゃんには大きすぎてぶかぶかでしょう? 三年生か四年生の頃の真澄がちょうど早苗ちゃんと同じくらいの背丈だったのよ。だから、これを着てもらおうと思って用意したんだけど?」
 それまで早苗が手にしていた女児用のチュニックを今度は自分で広げ持ち、早苗の体に押し当てながら摩耶は教え諭すような口調で言った。
 摩耶の声は優しかった。しかし、なぜか有無を言わさぬ強い調子に感じられてならないのも事実だ。
「で、でも……」
「それに、これは、真澄が一度も袖を通したことのない洋服なのよ。いくら仲良しの従姉妹とはいっても、お古じゃ気分がよくないでしょう? だから、まっさらのチュニックを選んできたの。――私、結婚してもなかなか子供ができなくてね。真澄は、かなり経ってからできた子なのよ。それも、念願の女の子。だから真澄には女の子らしい可愛い格好をさせたかったんだけど、当の本人は小さい頃からちょっと男の子勝りなところがあって、こういう洋服は絶対に着てくれなかったの。私が買ってきた中でも、殆ど飾りっけのない体の動かしやすい服ばかり選んじゃって。だから、せっかく買ってきてあげたのに袋から出さないまま箪笥の肥やしになっているのが沢山あるの。うふふ、でも、こうして早苗ちゃんに着せてあげられるんだから、それも却って都合がよかったかもしれないわね」
 早苗の体とチュニックとを交互に見比べてサイズを確かめた摩耶は満足そうに微笑んだ。
「だ、だからって……」
 どう応じていいのかわからず、早苗は途中で言葉を飲み込んでしまう。
 そこへ突然、真澄の声が飛んできた。
「ごめんね、早苗お姉ちゃん。お母さんたら、昔から、お母さんの買ってきたお洋服を私が着ないからって拗ねちゃうことが多かったのよ。今日ところは私の代わりだと思って、それを着ちゃってくれないかな。ここは仲良しの従妹の私に免じて、お願い。そしたらこれからお母さんにいろいろおねだりもしやすくなるし、早苗お姉ちゃんの欲しい物もおねだりしてあげるから、私を助けると思って――ね、いいでしょ?」
 いかにも年下の少女が目上の従姉に甘えているという情景なのだが、それでもどういうわけか、摩耶と同じく有無を言わさぬ調子が感じられてならない。
「返事がないってことは決まりってことだよね、早苗お姉ちゃん? じゃ、そうと決まったら」
 想像もしていなかった事態に早苗が何も答えられないでいると、真澄が早苗の体にのしかかるようにしてバスタオルを剥ぎ取ってしまった。
「ちょっ、ちょっと待ってってば……」
 早苗はそれだけを言うのが精一杯だ。四つ年下とはいっても体格の差が大きい上に筋力でも遥かに勝る真澄の手から逃れることはできない。

「早苗お姉ちゃんが五年生だったか六年生の時だったかな、おばあちゃんちで一緒にお風呂に入ったことがあったよね。早苗お姉ちゃんのおっぱい、あの時とちっとも変わってないんだね」
 あらわになった早苗の胸元を見おろして真澄がくすっと笑った。
「あら、本当。小柄な早苗ちゃんにお似合いの可愛らしいおっぱいだこと。それじゃ、洋服を着る前に、可愛らしいおっぱいにぴったりのブラを着けてあげましょうね」
 摩耶も早苗のあまり膨らんでいない胸元を無遠慮に眺めまわしてからチュニックを脱衣籠に戻し、代わりにブラジャーをつかみ上げた。ただ、ブラジャーといっても大人用のではなく、左右のカップの間に小花の刺繍をあしらい、ピンクの水玉模様を散らした生地で仕立てた、ようやく乳房が膨らみ始めたばかりの少女が着用するジュニアブラだった。
「これも真澄は一度も着けたことがないのよ。胸が膨らみ始める頃にはもう真澄は私や夫の手ほどきでバレーボールを始めていて、『そんな可愛いだけのブラは邪魔にしかならないからスポーツブラを買ってきてよ』ってせがまれたものだわ。だから、これも新品なのよ。特に下着は誰かが一度でも身に着けたのなんて気分が悪いわよね?」
 そう言いながら摩耶は、ジュニアブラのカップを早苗のバストに押し当てた。
 早苗は抵抗するのだが、真澄に手首をつかまれ、両手を高々と差し上げさせられてしまっては、その一見しただけで子供用というのがわかるブラジャーの着用を拒み続けることなどかなわない。
「よかった、ぴったりね。じゃ、次はパンツよ」
 早苗の背中に手をまわしてジュニアブラのホックを留め、カップの張り具合を確かめた摩耶は、すっとしゃがんで膝立ちになった。
「うふふ、こっちの方も可愛らしいのね、早苗ちゃんたら」
 摩耶は早苗の下腹部をしげしげと眺めて顔をほころばせた。
 早苗の恥毛は決して濃い方ではない。いや、濃くないというよりも、有り体に言って極めて薄い方だ。第二次性徴期を迎えたばかりの少女さながら、まばらな茂みしかない。
「これだったら、パンツもこういうのがお似合いね。これも真澄が一度も穿いたことのない新品だから、早苗ちゃんにプレゼントするわ」
 真澄に手首をつかまれたまま弱々しく身をよじる早苗の目の前に、摩耶は、純白の生地でできた下着を差し出した。
 こちらもジュニアブラと同様、春休みが終わって新学期を迎えれば高校三年生になる早苗の年齢にはまるでそぐわない、アニメキャラのバックプリントがやけに目立つ女児用のショーツだった。
「や、やだ、そんな……そんな子供用のパンツなんて……」
 更に身をよじるものの、ジュニアブラを着けさせられた時と同じ、早苗の抵抗は虚しい。

 真澄の手で体の自由を奪われ、摩耶の手で左右の足を交互に上げさせられて、いとも簡単に女児用のショーツを穿かされてしまった早苗は、真澄が手首を離して体の自由を取り戻した後も、言葉なく立ちすくむばかりだった。
「穿き心地はどう?」
「……」
 摩耶に問われても、股ぐりのゴムに太腿をぴっちり締め付けられ、おヘソまですっぽり隠れるほど股上が深く厚めの木綿でできた幼児用ショーツに下腹部を包み込まれる羞恥のせいで何も答えられない。
「下着のままだと風邪をひいちゃうから、ちゃんとお洋服を着ようね。おばあちゃんちで一緒にお風呂に入った後、早苗お姉ちゃんが私にパジャマを着せてくれたよね。そのお礼に、今度は私が早苗お姉ちゃんにお洋服を着せてあげる」
 早苗が押し黙ったままでいると、摩耶がすっと体を退き、代わりに真澄が正面に立った。見れば、幅の広い丸襟と胸元に飾りレースのフリルをあしらったブラウスを両手で広げ持っている。
 思わず早苗は一歩後ろにさがったが、背後には摩耶が控えていて、それ以上は退くことができない。
 摩耶と真澄の二人にとって、自分の肩くらいしか背丈のない小柄で華奢な早苗にブラウスとチュニックを着せることなど雑作もないことだった。

 そして、最後の仕上げ。
「さ、次は髪の毛よ。せっかくだから、ヘアスタイルもお洋服とお似合いにしておきましょうね」
 さほど時間をかけることもなく女児用の装いで早苗の身を包んだ後、摩耶はヘアブラシを手にすると、早苗の前髪を眉のすぐ上で内巻きにしてボリュームを持たせ、肩より少し下までの後ろ髪を手早く二つの房にまとめてサクランボの飾りが付いたカラーゴムできゅっと結わえた。
 それから摩耶は、脱衣場の壁に嵌め込みになっている大きな鏡の前に早苗を立たせる。
「……!」
 早苗の顔に戸惑いの表情が浮かび、頬が真っ赤に染まった。
 身長が百四十五センチしかない早苗だから、年齢相応の装いを身に着ける機会など皆無だ。体に合うサイズの衣類を選ぶと、どうしても子供用になってしまう。そんな事情があって、いつからか早苗はお洒落に対して無頓着を装うようになっていた。私はお洒落なんかに興味なんてないのよ、そんな浮ついたものに関心なんかあるものですか。そんなふうに自分自身に言い聞かせ、周囲の者たちにも、自分のことをそういう人間なんだと思わせるようにしていた。いつもジーンズとトレーナーというラフな格好で、髪も、周囲に不快感を与えない程度には手入れをしつつも、ヘアスタイルに気をまわすようなことはしなかった。だから、私服で街を歩いていても女子高生だと思われることはまずなく、どうにかすると男の子に間違われることさえあるほどだった。
 それが、目の前の大きな鏡に映っている早苗は、それが自分自身だとはとてものこと思えないほどの変貌ぶりだった。
 丸襟と胸元に飾りレースをふんだんにあしらい、ゆったりした長袖の袖口を蝶々を模したスナップボタンで留めたブラウスの上に、肩の部分が丸く膨らんだパフスリーブになっていて全体を優しくふんわりしたシルエットに仕立てたチュニックを重ね着して、カラーゴムで結わえたツインテールの髪を揺らす姿は、小学校に通う女の子以外の何者でもなかった。それも、五年生や六年生の高学年ではなく、まだ低学年の幼い女の子。
 鏡の中のそんな自分の姿に頬がかっと上気するのを止められないでいる早苗のそばに真澄が歩み寄り、すぐ横に立った。
 鏡に映る真澄の姿は、細面のきりっとした顔つきにショートカットの髪がとても似合っていて、随分と大人びて見えた。翻って早苗の方はまるで低学年の小学生だから、そんな二人が並んでいる姿を目にして本当の年齢を言い当てることができる者など一人もいないだろう。少し年の離れた姉妹か、若い叔母と幼い姪っ子くらいに思う者が大半に違いない。




 インターフォンのコールが鳴ったのは、三人が少し早いお茶の時間を終えてほどなくの頃だった。
 壁に掛かっているハンドセットを取り上げて真澄が
『はい。――あ、京子ちゃん。うん、いいよ、玄関の鍵は外してあるから入ってきてよ』
と応じると、すぐに廊下から小走りの足音が聞こえ、ダイニングルームのドアが押し開いて、一人の少女が姿を現した。
 真澄ほどではないにせよ、やはり目立って背の高い少女だ。
「こんにちは、真澄お姉ちゃん。こんにちは、おば様」
 背は高いものの顔つきにはまだ充分あどけなさが残っているその少女は、二人に向かってぺこりと頭を下げて挨拶をしたが、真澄の横に腰かけている早苗に気づくと、興味深げな顔つきになった。
「いらっしゃい、京子ちゃん。あ、この子は私の姉さんの娘なの。この子のお父さんとお母さんが仕事の都合で二年間ほど外国へ行かなきゃならなくなって、その間うちで預かることになったのよ」
 京子と呼ばれた少女に向かって、摩耶が手短に事情を説明する。
「じゃ、真澄お姉ちゃんの従姉妹ってことね。私、山野京子っていうの。旭が丘小学校の六年生で、真澄お姉ちゃんと同じバレーボールのジュニアチームに入っているの。よろしくね」
 事情を理解した京子は人なつっこい笑顔で早苗に話しかけた。
「わ、私、島田早苗。今度、三年生」
 京子のまるで物怖じしない様子に気圧されるかのように早苗は慌てて椅子からおりると、戸惑いの表情を浮かべながら、おずおずと応じた。
「ふぅん、新学期で三年生なんだ、早苗ちゃん。それにしちゃ、背が高いわね。やっぱり、真澄お姉ちゃんの従姉妹だからかな」
 床におり立った早苗の姿をまじまじ見つめて京子は言った。
「え……?」
 小柄なことが一番の悩みだ。背が高いと言われたことなど、これまで一度もない。ぽかんとした表情で早苗は京子の顔を見上げた。
「だったら、早苗ちゃんも、私たちと同じジュニアチームに入りなさいよ。真澄お姉ちゃんの従姉妹だったら、みんな大歓迎よ」
 早苗の胸の内などまるで知らぬげに京子は言ったが、何かを思い出したのか、すぐに思案顔になる。
「あ、でも、ジュニアチームは四年生にならないと入れないんだっけ。早苗ちゃんは三年生なのよね。惜しいなぁ、たった一年なのに」
 京子のその言葉で、ようやく早苗は理解した。早苗は深く考えることなく自分の学年を(高校)三年生と言ったつもりなのだが、どうやら京子はそれを勘違いして(小学校)三年生という意味に受け取ったらしい。確かに、高校三年生としては小柄な早苗でも、小学三年生としてなら大柄な部類に入るに違いない。
もっとも、勘違いといっても、幼い女の子向けのブラウスとチュニックに身を包み、髪をツインテールに結わえた早苗を目の当たりにして小学生だと思いこむのも無理はない。
「じゃ、仕方ないや。ジュニアチームのことは来年になってからにしようか。でも、しばらくこっちにいるんだったら、仲良しになろうね。こっちにいる間、早苗ちゃんも旭が丘小学校に通うんでしょう? わからないことがあったら私が教えてあげるから安心してね」
 すぐに笑顔を取り戻し、京子はさっきまでにもまして明るい声で言った。
「う、ううん……私、旭が丘小学校じゃないの。こっちにいる間も、元の学校に通うから……」
 早苗は京子の誤解を解こうとするのだが、どこから説明していいかわからず、適当な言葉がみつからなくて、つい口ごもってしまう。
「附属に通っているのよ、早苗ちゃんは」
 今にも笑い出しそうな表情で摩耶が短く付け加えた。
「あ、附属なんだ、早苗ちゃん。せっかく同じ小学校のお友達が増えると思ったのに――でも、いいや。別々の小学校でも、お友達はお友達だもん。仲良くしようね」
「あ……う、うん」
 その場の状況に流されて京子の勘違いを正す機会を得られないまま、早苗は曖昧に頷いてしまう。
 それに勢いを得て、京子は更にこんなふうに言った。
「じゃ、これから一緒に公園へ行こうよ。駅へ行く途中に大きな公園があるんだけど、そこの芝生広場の隅にレンゲやシロツメクサが咲いてるのを昨日みつけたんだ。レンゲとか、普通はまだ咲かないんだけど、今年の春は暖かいから間違って咲いちゃったみたい。真澄お姉ちゃん、二年生なのに中学生の部のキャプテンになりそうだよって噂があって、それで小学生の部のみんなで相談して、レンゲとシロツメクサでお祝いの首飾りを作ってあげることにしたの。――ボランティアでコーチや監督をしてくれている大人の人たちが転勤とかで入れ替わりがあるから、春休みの間は一度も練習がないのよ。それで、好きなように使える時間がたっぷりあるから、私と美咲ちゃんと良美ちゃん、六年生の三人が小学生の部を代表してうんと立派なのを作ることになってるんだけど、三年生の早苗ちゃんも特別に入れてあげる。真澄お姉ちゃんの従姉妹なんだし、あと一年したらチームメイトになってもらわなきゃだもん、美咲ちゃんと良美ちゃんも大歓迎してくれるよ、きっと」
「で、でも……」
「いいじゃない、行ってらっしゃい。新しいお友達をつくるチャンスなんだから。それに、せっかく京子お姉ちゃんが誘ってくれているのに断るなんて失礼よ。附属に行ってる子はお高くとまってるんだとか思われるのは早苗ちゃんも嫌でしょう?」
 言葉を濁して京子の申し出を拒む早苗に向かって、小さな子供をたしなめるような口調で摩耶は言った。それも、京子のことをわざわざ京子『お姉ちゃん』という呼び方をして。
「そうよ。せっかく六年生のお姉ちゃんたちが一緒に遊んでくれるっていうのに、何を尻込みしているのかしら、早苗ちゃんたら。美咲お姉ちゃんと良美お姉ちゃんをいつまでも待たせちゃわるいから、ほら行くわよ、早苗ちゃん」
 言うが早いか、テーブルの上に置いてあった布製の手提げ袋を持ち、早苗の手を引いて真澄が足早に歩き始める。それも、摩耶と同様、小学六年生の女の子たちの名前を『お姉ちゃん』付けで呼び、それまで『早苗お姉ちゃん』と呼んでいたのを『早苗ちゃん』と呼び方を変えて急かしながら。
「行ってらっしゃい。――あ、そうそう。早苗ちゃんがうちへ来た時に履いていた靴は水に濡れてびしょびしょだから、代わりの靴を用意しておいてあげたわよ。それを履いて行くといいわ」
 真澄に引きずられるようにして廊下を玄関へ向かう早苗の耳に摩耶の声が届いた。
 摩耶が用意しておいた代わりの靴というのは、甲の部分が幅の広いゴムベルトになっているピンクの運動靴だった。無論のこと、チュニックやジュニアブラと同様、真澄のお下がりだ。




 何事につけ鷹揚な麻美とは対照的に、摩耶は幼い頃から姉に対するライバル意識が異様に強く、姉である麻美が何か新しい物を手に入れるたび、それを横取りしないと気が済まないといういささか困った性分の持ち主だった。そればかりか、例えば姉が新しい絵本を買ってもらったといってはそれを自分の物にしようとし、それがかなわない時は真新しい絵本をびりびりに破いてしまうという気性の激しさも併せ持っていた。
 しかも摩耶が欲しがるのは品物ばかりではないから、どうしようもない状況を招くこともしばしばで、中学時代や高校時代にも麻美にボーイフレンドができると、摩耶はその交際相手を強引に横取りして揉め事を惹き起こしていた。更に長じて実業団のバレーボールチームに入った後もその性分が影を潜めることはなく、実は、摩耶が結婚した相手、つまり真澄の父親というのも、元はといえば麻美が交際を重ねていた男性なのだった。摩耶は周囲の人間が眉をひそめるような策を弄して二人の仲を裂き、実の姉から強引に交際相手を奪い去ったのだ。
 さすがにこの時は穏やかな麻美もこれ以上はないくらいに立腹し、姉妹の仲がひどく険悪になったことに加え、チームの上層部からの厳しい諫言もあって、それ以後は摩耶もあからさまな行動は控えるようになり、時の流れと共に姉妹仲は次第に元の鞘に収まった。
 そう、海外赴任にあたって麻美が一人娘の早苗を摩耶のもとに預けるくらいには二人の仲は修復していたかに思えた。
 しかし本当のところは、摩耶の悪癖が癒えることなどありはしなかった。心の奥底を蝕む異形に歪んだ部分は、自らの欲望をあらわにする時期を眈々と窺っていたのだ。そして遂に、麻美が早苗を預かってくれないかと言ってきた時、その醜い欲望は、それまで入念に研ぎ澄ましていた牙をいよいよ剥き出しにする機会を得たのだった。
 摩耶の夫は、自分の妻が心の深い所に歪んだ部分を抱えていることにどうしようもない疎ましさを覚えるようになり、現役を退いてコーチに就任すると同時に、指導者としての多忙を口実に出張の回数を増やし、いつしか夫婦仲は寒々としたものに変わっていった。それに対して麻美の方はいつまでも睦まじい夫婦仲のままで、今度は夫の海外赴任にも同行するという。そんなことを聞かされる摩耶の心中が穏やかであろう筈がない。幼い頃の気性そのまま激しい嫉妬に駆られ、姉である麻美が最も大切にしている物を横取りしてやりたいという欲望が再びむくむくと湧き上がるのを摩耶はどうしても止められないでいた。
 その欲望の標的こそが麻美の一人娘である早苗だった。
 摩耶は、姉夫婦が海外に出向いている間に早苗を手なづけ、冷えきってしまった夫婦仲のせいで弟妹に恵まれず一人っ子のまま寂しい思いをしている真澄の幼い妹のような存在に貶めてやろうと思いついたのだ。摩耶は、自らの企みを実行に移すためには自分の娘を協力者に仕立てることさえ厭わず、「仲良しの早苗お姉ちゃんといつまでも一緒にいられるようにできる方法があるわよ」と真澄に囁きかけたのだった。
 摩耶と同じ血をひいているからなのか、或いは思春期の少女特有のいささか残酷な好奇心の発露なのか、摩耶の企みに対して真澄はいとも簡単に協力を申し出た。
 早苗が送った荷物が二つ行方不明になっているのは、宅配会社の手落ちのせいなどではない。実際には他の二箱と共にちゃんと河野家に届いていたのだが、勝手に包装を解き、中に何が入っているのかを確認した摩耶の手で捨て去られてしまっていたのだ。早苗がシャワーを浴びている間に摩耶が用意した女児用の装いにしても、本当のところは真澄が小学生だった時に買い揃えた物ではない。赤ん坊の時から面倒をみている実の娘の好みを母親が知らぬわけがなく、真澄が身に着けないことが明かな衣類をわざわざ購入するなどという無駄なことをする筈もない。丈の短いチュニックも、フリルたっぷりのブラウスも、柔らかな素材のジュニアブラも、アニメキャラの女児用ショーツも、ピンクの運動靴も、そのどれもが、摩耶がわざわざ新たに買い求めたものだった。
 全ては、早苗を真澄の幼く従順な妹に変貌させてしまうために。



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