暖かな日差しの中で



  エピローグ


 附属幼稚園の遊戯室(小学校などでは体育館に相当する場所)に並べられたパイプ椅子に座る保護者の中に、摩耶だけでなく真澄の姿もあった。中学校の春休みが今日まで残っているため摩耶と一緒に附属幼稚園の入園式に出席したのだが、可愛い妹がいよいよ幼稚園に入る日を迎えたのだと思うと、どうしても気分の昂ぶりを抑えられない。
『ただいまより、S女子大学附属幼稚園××年度入園式を執り行います』
 進行を務める副園長の声と共にヴィバルディ作曲の【四季 〜春〜】がスピーカーから流れ始めると、それまであちらこちらで私語が交わされていた保護者席が静まり返った。
『新入園児、入場。どうぞみなさま、可愛いお嬢様方を温かい拍手でお迎えください』
 再び副園長の声があり、後方の扉が開いて、入場曲の音量が高まる。
 そして保護者席で湧き起こる大きな拍手。
「いよいよだね、お母さん」
「そうね。いよいよ、この日が来たのね」
 真澄と摩耶は小声で囁き交わしながら首を巡らせ、大きく開いた扉に目をやった。
 いよいよ、この日。早苗という名の、自由に飛びまわる術を失った哀れな小鳥を附属幼稚園という堅牢な鳥籠に閉じ込める儀式を執り行う、その記念すべき日。
 拍手がいっそう大きくなって、最初の園児の姿が見えた。はにかんだ中にも晴れやかな表情を浮かべてちょこちょこ歩く新入園児と、誇らしげな顔で堂々と胸を張り自分のリトルシスターをエスコートする年長クラスの園児。
「やっぱり、年少さんは可愛いね。それに、二歳しか違わないのに、年長さんは本当にしっかりしてるし」
 正面のステージに向かって通路を歩いて行く二人組の後ろ姿を見送りながら、感心しきりといった口調で真澄が言った。
「そうね。でも、年少さんの中で一番可愛いのは、うちの早苗ちゃんに決まってるわよ。それに、年長さんの中で一番しっかりしているのは遥香ちゃんで間違いないしね。ま、二歳どころか一回りも違っているんだから、遥香ちゃんが早苗ちゃんよりもうんとしっかりしているのも当たり前かしら。――もっとも、反対回りの一回りだけど」
 摩耶が悪戯っぽく応じて、うふふと笑う。

 新入園児は、すみれ組とたんぽぽ組、二十五人ずつの合計五十人。先にすみれ組の園児が入場し、そのあとにたんぽぽ組の園児が続く。
「あ、あの子のことね」
「そうみたい。前もって聞いていたからいいけど、何も知らずにあの子を見たらびっくりしたでしょうね、きっと」
「それにしても、小学校から幼稚園へ転入だなんて、そんなことができるものなのね」
 すみれ組の入場が終わり、いったん列が途切れた後、たんぽぽ組の入場が始まって間もなく、目立って体の大きな新入園児の姿に保護者席がざわめいた。
 けれど、佳子たち教職員や奈美恵たちPTA関係者からの事前の連絡や説明が充分に行われていたのだろう、ざわめいたのは一瞬だけで、すぐに静寂が戻ってきた。
「そりゃびっくりするわよね、あんなに大きな子が自分よりもずっと小さな子に手をつないでもらって新入園児に混じってるんだから」
「でも、大騒ぎにならなくてよかったわ。これも先生方や奈美恵さんたちのおかげね。改めてお礼を言っとかなきゃ」
 摩耶はにんまり笑って真澄にウィンクしてみせた。
 だが、真澄は何やら腑に落ちない様子で小首をかしげ、
「さっき、ちょっと騒がしくなった時、どこかのお母さんが『小学校から幼稚園へ転入だなんて』とか言ってたよね? お母さんたちは誰も、早苗ちゃんが本当は高校生だってこと知らないのかな?」
と摩耶に尋ね、怪訝な表情を浮かべる。
「ああ、それは知らないのも仕方ないわね。小学校低学年の子が心理的な問題を抱えて幼稚園へ転入っていうことなら、ま、ちょっと無理して説明すればなんとかわかってもらえても、高校生が幼稚園に再入園なんて、納得してもらえるわけがないわよ。だから、奈美恵さんの伝手でPTAの会合に顔を出させてもらった時も、早苗ちゃんのことは小学校の三年生になる筈だったってことにしておいたし、幼稚園の先生方にもそのあたりのことは口裏を合わせてもらえるようお願いしておいたのよ。だからお母さんたちは早苗ちゃんの本当の学年は知らないし、自分の子供にも、早苗ちゃんは小学校二年生から幼稚園へ落第しちゃったんだよって説明している筈よ」
 真澄の疑問に、摩耶は澄ました顔で答えた。
 言われて真澄も納得する。考えてみれば、奈美恵と遥香にも初めて会った時にそう説明したきり、早苗の本当の年齢は教えていない。
(ま、そんなことはどうでもいいや。今は可愛い妹の晴れ姿をじっくり楽しませてもらわなきゃ)
 真澄は再び新入園児たちの入場の列に視線を戻した。
 気がつけば、覚束ない足取りながらも、遥香に手を引いてもらって早苗はもうステージのすぐ手前まで歩み寄っていた。

 再び保護者席がざわめいたのは、通路からステージに上がる昇降台に早苗が足をかけた直後のことだった。
「あら、先生がおっしゃっていたこと、本当だったのね」
「そうね、どう見てもパンツじゃないわよね、あの子が穿いてるの」
「それに、体が大きいだけあって、たくさんあてているんでしょうね、おむつカバーがあんなに膨らんじゃって」
 早苗が昇降台に上がったため保護者の視線が僅かながら上向き加減になり、ただでさえ制服のスカート丈が短いことと相まって、通路をゆっくり歩いていた時にはかろうじて隠れていたおむつカバーが三分の一ほど見えてしまったのだ。
 新入園児たちの中にはまだおむつ離れしていない子も少なくないのだが、入園式に臨む園児の中では飛び抜けて体の大きな早苗のおむつ姿に保護者が好奇の目を向けるのは当然のことだろう。
 だが、なんだか自分が悪い夢の中を彷徨っているようにしか感じられない早苗の耳には、そんな保護者の声も届かない。
 ステージの中央に演台が置いてあって、その左右に、新入園児の人数と同じ数の木製の椅子が並んでいる。
 三段の昇降台を昇ってステージに上がった新入園児は各々のシスターペアである年長さんに導かれて自分の椅子まで歩いて行き、入園式が始まる前に担任の教諭から教えられた通り保護者席に向かってぺこりとお辞儀をして席につくのだが、そんな中でただ一人、早苗だけはまだ心ここにあらずといった様子で、自分の席に連れて行かれても茫然と立ちすくみ、遥香に何度か促されてようやくお辞儀をするといった有様なのが、いやでも母親たちの目を惹いてしまう。しかも、用意してあるのが幼児用の椅子だから座面が低くて、早苗が座るとどうしても立て膝ぎみの姿勢を取らざるを得ず、ステージの下から仰ぎ見る保護者の目にスカートの下のおむつカバーが丸見えになってしまうのは避けられない。
「あらあら、あの様子じゃ、たしかに、小学校よりも幼稚園の方がお似合いかもしれないわね」
「ううん、幼稚園もまだ早いくらいよ。他の子はみんなちゃんとご挨拶できているのに、あの子だけ、シスターペアのお姉さんに言われないとお辞儀もできないんだから」
「やれやれ、体は大きいけど、年少さんの中でも一番手がかかりそうね。あれじゃ、おむつも仕方ないかな」
 遥香に促されてようやくお辞儀をして自分の席につく早苗の姿を目にして苦笑交じりにひそひそと言い交わす声は摩耶と真澄の耳にも届いていた。
 けれど、二人はまるで気にするふうもない。
 むしろ、「幼稚園もまだ早いくらいよ」という言葉に、摩耶と真澄はいかにも満足そうな笑みを浮かべて顔を見合わせるばかりだった。

『本日、S女子大学附属幼稚園に入園を許された者、全五十名。ただ今から担任が氏名を読み上げます』
 全ての新入園児がステージ上の席につき、年長クラスの園児がステージ手前の園児席に戻ったのを見届けて、副園長はマイクを通して告げた後、口調を和らげて新入園児の方に向き直って言った。
「今から、担任の先生がみんなの名前を呼びます。呼ばれたら、椅子から立って、元気よく自分の名前を言ってから、簡単なご挨拶をしてください。わかりましたね?」
 言われて、制服の裾をもじもじ引っ張る早苗を除いた新入園児たちが一斉に手を上げて「はーい」と返事をする。
 先ず、スーツの胸元にピンマイクを付けたすみれ組担任の教諭がステージに上がり、出席番号の順に園児の傍らに立って、その子の名前を読み上げ、名前を呼ばれた園児が椅子からさっと立ち上がって改めて自分の名前を名乗り、たとえば「お母さんもお姉ちゃんも附属幼稚園でした。私も同じ幼稚園に入れて嬉しいです」とか「今日からお姉さんだから、妹のお手本になれるよう、お母さんのお手伝いをしっかりします」とかいうような短い挨拶を述べるといったことが二十五人分繰り返され、その後、たんぽぽ組を受け持つ加世子に交替した。
 そして、たんぽぽ組の園児の紹介も順調に進み、
『出席番号五番、河野早苗さん』
と、いよいよ早苗の名前が呼ばれる。
 けれど、早苗は椅子から立とうとしない。
『出席番号五番、河野早苗さん。どうしたの、早苗さん? 次の子が待っているんだから、さっさとしなきゃ駄目ですよ』
 加世子は早苗の傍らで繰り返し名前を呼んだ。
 それでも早苗は立とうとしない。
 いや、正確に言うと、立とうとしないのではなく、立てないのだ。
「どうしたの? さ、椅子から立って、ちゃんと自分の名前を言うのよ」
 加世子は早苗の脇に手を差し入れ、そのまま強引に立たせた。
 けれど早苗は弱々しく首を振り、腰をぶるっと震わせて首をうなだれるだけだ。

「早苗ちゃんを叱らないであげて。お願い先生、早苗ちゃんを叱らないで」
 早苗が腰を震わせるのを見て遥香が自分の席を立ち、そのままステージへ駈け上がって、早苗の手をぎゅっと握った。
 途端に早苗の体がへなへなと崩れ落ち、両脚を左右に開いて後ろに伸ばし、両脚の間にお尻をぺんたと付けた格好でステージにへたり込んでしまう。
「我慢できなかったんだね?」
 遥香は早苗のおむつカバーの股ぐりに指を差し入れて様子を探ると、面談の日と同じように早苗の背中に両手をまわして、自分よりも大きな早苗の体を抱き寄せた。
 すると、こちらも面談の日と同様、早苗が遥香の胸にすがりついて瞳を潤ませる。
「うう……うう、うわ、うわ〜ん」
 瞳にうっすら滲んだ涙はみるみる大粒の雫になってぼろぼろ溢れ出し、早苗は大声をあげて泣きじゃくり始めた。
「そうだったの。名前を呼んでも早苗ちゃんが立てなかったのは、おしっこを我慢していたからなのね。なのに、先生が無理に立たせたものだから失敗しちゃって。――それにしても遥香ちゃん、よくわかったわね。早苗ちゃんがおしっこだってこと、自分の席から見ていてすぐわかったの?」
 遥香の胸に顔を埋めて泣きじゃくる早苗と、早苗の背中を優しく撫でさする遥香の様子を見比べながら加世子は言った。
「うん。遥香、おうちでも早苗ちゃんのお世話してるもん、すぐわかったよ」
「そうなんだ。遥香ちゃん、本当にしっかり者のお姉さんなのね」
 加世子は目を細めて言った。
「うん。遥香、お姉さんだよ。だから、年少さんの早苗ちゃんのお世話してあげるの。おむつにおもらししちゃう年少さんの早苗ちゃんのお世話をしてあげるの。――ほら、いい子いい子。早苗ちゃんは年少さんなんだから、おもらししちゃっても恥ずかしくないんだよ。だから、そんなに泣かなくていいんだよ」
 遥香は早苗の背中をぽんぽんと優しく叩き、自分の制服のポケットからハンカチを取り出して涙を拭いてやった。
「しっかり者のお姉さんの遥香ちゃんに比べたら、先生は駄目ね。入園式が始まる前、トイレは大丈夫?ってみんなに訊いたんだけど、誰も何も言わないから、そのまま遊戯室へ連れて来ちゃった。あの時、念のために何度も訊き直していたら早苗ちゃんも失敗しなかったかもしれないのにね」
 加世子は遥香の自尊心をくすぐるようにして誉めそやす。
 そんなやり取りは、加世子がスーツの胸元に付けているピンマイクを通して会場中に流れていた。
「ま、仕方ないわよね。いくら先生が念入りに注意していても、早苗ちゃん本人がトイレを嫌がるんだから」
 スピーカーから流れる加世子と遥香の会話にくすくす笑いながら耳を傾けて、摩耶と真澄はそっと目配せを交わし合った。




 入園式が終わって正門を出た早苗の目の前に京子たち三人組の少女の姿があった。
「入園おめでとう。はい、私たちからのお祝い」
「私が教えてあげたのよ、早苗ちゃんの入園式が今日だってこと。本当は一緒に出席したかったらしいけど、家族じゃないと会場に入れないよって説明したら、じゃ、式が終わるのを外で待ってるって言って、わざわざ来てくれたのよ」
 真澄が澄ました顔で説明する。
「じゃ、私が代表して付けてあげるね。附属幼稚園へ入園おめでとう、早苗ちゃん」
 良美は、思ってもみなかった三人の出現に戸惑う早苗の胸元に手を伸ばし、公園で摘んだ小花を編み揃えたコサージュを制服の右胸に付けてやった。
「ほら、どうしたの? こんなに綺麗な胸飾りを作ってきてくれたお姉ちゃんたちにお礼を言わなきゃ駄目でしょ?」
 制服の胸元に花飾りを付けられたまま何も言えないでいる早苗を真澄が窘める。
「……あ、ありがとう、良美……お姉ちゃん。それに、美咲お姉ちゃんと京子お姉ちゃんも……素敵なお祝いをありがとう」
 早苗は蚊の鳴くような声で伏し目がちに言った。
 初めて出会った時から強要された『お姉ちゃん』という呼び方。幼稚園の制服を着せられた状態で口にするその呼び方が、これまで以上に屈辱を掻き立てる。
「うふふ。きちんとお礼を言えてお利口さんだこと。さすが、今日から幼稚園のお姉さんね」
 コサージュの角度を細かく調整してやりながら美咲が言った。
「でも、残念だな。来年は四年生になるから私たちと同じチームで一緒に頑張ってもらうつもりだったのに、小学三年じゃなくて幼稚園の年少さんになっちゃうなんて。幼稚園を卒園するまで三年かかって、それから小学三年生に戻るとしても、早苗ちゃんが四年生になる頃は私たち中学校も卒業しちゃってるから、一緒にプレイするのは無理だよね」
 美咲の傍らで京子が溜息をついた。
 それに対して良美が考え考え摩耶に尋ねる。
「でも、幼稚園に通うのは、お父さんやお母さんと離れ離れになって普通じゃ考えられないくらい甘えん坊さんになっちゃった早苗ちゃんを元の早苗ちゃんに戻すためなんですよね? だったら、おもらししなくなって、おむつが外れて、甘えん坊さんじゃなくなったら、早苗ちゃん、途中からでも元の学校へ戻れるんじゃないのかな。どうなんですか、おば様?」
「そうね、良美ちゃんの言う通りね。早苗ちゃんが幼稚園に入ったのは躾け直しっていうか、心の中のちょっと歪んじゃった部分を治すための一時的な措置だから、それが済めば、年中さんや年長さんへの進級を省いて、他の子よりも早く卒園できるかもしれないわね。――夏休みが始まるまでにおむつ離れできるよう努力しますって園長先生がおっしゃってくださったから、ひょっとしたら、今年の二学期から元の学校へ戻ることもできるかもしれないわね」
 摩耶は、胸に内にひめた妖しい欲望の存在とはまるで似つかわしくないにこやかな表情で言った。
「よかったね、早苗ちゃん。ひょっとしたら二学期に元の学校へ戻れるかもしれないんだって。だったら、来年から同じチームだね。そうなるよう、頑張ろうね。頑張って、おしっこを言えるようになろうね。おしっこを言えるようになって、おむつとさよならしようね」
 春のそよ風に揺れるスカートの裾から見え隠れするおむつカバーと早苗の顔とを見比べ、満面の笑みを浮かべて京子が言った。
 けれど、儚い希望を抱き、そのたびに繰り返し深い絶望を味わってきた早苗は虚ろな表情で目を伏せるばかりだった。




「わざわざ入園のお祝いに駆けつけてくれたんだから、三人の帰りの電車賃は私に出させてちょうだい」
 券売機に硬貨を投入しようとする京子の手をやんわり押しとどめて摩耶が言った。
「でも、電車賃はお母さんにお願いして特別に出してもらっているから……」
「いいっていいって。その分、臨時のお小遣いにすればいいじゃない。ただ、定期券を買う手続きをする間、ちょっとだけ待っていてね」
「定期券?」
「そう、早苗ちゃんが通園に使う定期券よ。入園式が終わってすぐ幼稚園で通園証明書を書いてもらったから、ここで買っておこうと思って。ここで買っておけば、早速、帰りの電車で使えるしね」
 摩耶は手短に説明し、京子たちをその場に待たせて窓口に向かった。
 それに、
「ママも定期券を買ってくるから、遥香はここで待っていてちょうだい。みんなと一緒だから待っていられるでしょ?」
と言って遥香を真澄たちに預け、奈美恵が同行する。

「遥香、定期券で電車に乗って、それで幼稚園に通うんだよ。年中さんまでは幼稚園の近くのマンションだったから歩いて通ってたけど、今度は電車なんだよ」
 電車通園というのがよほど大人びた行為に思えるのだろう、誇らしげな表情で遥香は真澄に言った。
「すごいね、電車で幼稚園に通うなんて、年少さんや年中さんにはそんなことできないよ。それに比べて、やっぱり遥香ちゃんはお姉さんだね。じゃ、明日から早苗ちゃんのことよろしくね。早苗ちゃんも今まで電車で通ったことなんてないから胸がどきどきしてると思うんだ。だから、ちゃんと幼稚園まで連れて行ってあげてね」
 真澄は、まわりの目を避けて自分の背後に身を隠す早苗を遥香の目の前に押しやった。
「うん、まかせといて。遥香、新しいお家に引っ越してすぐ、どうやって幼稚園へ行ったらいいのか、ママと一緒に試してみたんだよ。その時はママに切符を買ってもらわなきゃいけなかったけど、定期券を持ったら切符を買わなくていいから、もう大丈夫だよ。だから、早苗ちゃんのこと、ちゃんと幼稚園へ連れて行ってあげる。早苗ちゃんが定期券をどうやって使っていいかわからなかったら、遥香が教えてあげる」
 遥香は胸を張って真澄の顔を仰ぎ見た。

 真澄と遥香がそんなやり取りをしているうちに、購入したばかりの定期券を持って摩耶と奈美恵が戻ってくる。
「はい、早苗ちゃんの定期券。なくさないよう注意しなきゃ駄目よ」
 摩耶は早苗の目の前に真新しい定期券を差し出した。
 定期券の表面には【通学・通園】という文字と、【河野早苗】という名前、そして、子供用を示す【小】という文字がくっきり記されている。
「お揃いだね、早苗ちゃん」
 目の前に差し出された定期券を睨みつけるだけの早苗とは対照的に、奈美恵から手渡された定期券を嬉しそうに振り回して、遥香は声を弾ませる。
「ほらほら、そんなに振り回しちゃ駄目よ。買ったばかりの定期券をなくしたらどうするの」
 奈美恵は遥香を窘めるのだが、愛娘の成長ぶりが嬉しくて、その口調は優しい。
「じゃ、大切な定期券をなくしちゃわないよう、私からのプレゼント。ほら、ここに定期券を入れて――そうそう。それで、これを首にかければ、はい、これで大丈夫」
 遥香のはしゃぎようを微笑ましく眺めていた真澄が、自分の制服のポケットから取り出した新品のパスケースに遥香の定期券を入れ、丈夫な紐で首にかけてやる。
「え!? これ、遥香がもらっていいの!?」
 自分の首にかけられたパスケースをいかにも大事そうに両手で捧げ持ち、まじまじとみつめて遥香は瞳を輝かせた。
「もちろんよ、私から遥香ちゃんへの入園のお祝いだもん。――それで、これが早苗ちゃんの分」
 真澄は遥香に向かって大きく頷いてみせ、同じパスケースをもう一つ取り出すと、早苗が受け取ることを拒んでいる定期券を手早くケースに入れて、遥香と同じように早苗の首にかけた。
「よかったね、早苗ちゃん。お揃いの定期入れだよ」
 顔を輝かせる遥香とは対照的に、唇を噛みしめて拳を振るわせる早苗。
 けれど、それも無理はない。首にかけられた定期券は、附属幼稚園という鳥籠に閉じ込められた早苗という哀れな小鳥の飼い主が誰であるのかを示す鑑札そのものなのだから。




 入園式から二十日ほどが過ぎ、ゴールデンウィークを目前に控えた四月下旬のよく晴れた日の朝。
「お早う、真澄お姉さん。お早う、早苗ちゃん」
 チャイムが鳴ったのを合図に真澄が早苗の手を引いて門扉の外に出ると、いつもと同じ人なつこい笑みを浮かべて遥香が待っていた。
「お早う、遥香ちゃん。毎日ありがとう。でも、いつも言うけど、遥香ちゃんの家の方がうちよりも駅に近いんだから、わざわざ迎えに来てくれなくてもこっちから遥香ちゃんを誘いに行くのに」
「ううん、遥香が早苗ちゃんを迎えに来なきゃいけないんだよ。だって、遥香は年長さんで、早苗ちゃんは年少さんだもん。年長さんのシスターペアが年少さんのシスターペアを迎えに行ってあげてねって先生が言ってたもん」
「うふふ、そうだったわね。遥香ちゃんが年長さんで、早苗が年少さん。だから、迎えに来てくれるんだったわね」
 入園式の翌日から変わらず繰り返される会話だが、遥香にしてみれば、自分が年長クラスに進級したんだということを実感できて誇らしげな気分にさせてくれる気持ちいいやり取りだし、真澄にとっては、自分の置かれた立場を早苗に繰り返し思い知らせるためには絶好のやり取りだから、二人とも、飽き疎むことは決してない。
「ほら、どうしたの? 遥香お姉ちゃんがわざわざお迎えに来てくれているんだから、早苗からもきちんとお礼を言わなきゃ駄目でしょ? それに、朝のご挨拶もまだじゃなかったっけ? 幼稚園に通うようになってもうすぐ三週間になるんだから、少しはしっかりしなきゃ駄目じゃない。そんなだから、いつまでもおむつが外れないのよ、早苗は。――ちゃんとご挨拶できない子はお仕置きよ。それでいいのね?」
 真澄は、『早苗ちゃん』ではなく、実の妹に対するかのように『早苗』と呼び捨てにして早苗を叱責した。そうするのも、早苗に、自分の置かれた立場をこれ以上はないくらい明確に思い知らせるための手段の一つだ。
 もっとも、早苗の名前を呼び捨てにするのには、それとは別の理由があってのことでもあるのだが――。

 それは、先週の日曜日のことだった。
 新学期が始まって、真澄たちが所属しているバレーボールチームの活動も本格的に再開したのだが、週に一度は充分に体を休ませる日を設けるという監督の方針のもと、よほどのことがない限り日曜日は練習がない。
 そこで、春休み中と同じように遥香の希望で朝からおままごとに興じていたのだが、おままごとの最中に真澄が自分の乳首を早苗に咥えさせたところで異変が起きた。
「……!」
 強引に口にふくまされた乳首を渋々ながら吸っていた早苗が、急にはっとした表情になって両目を大きく見開き、口を半分ほど開けて声にならない驚きの声をあげた。
「どうしたの、早苗ちゃん?」
 何が起きたのか、実はわかっている。わかっていながら、その事実を早苗自身の口から聞きたくて、わざと真澄は尋ねた。
 けれど、早苗は何も答えられない。
 答える代わりに、半開きにした唇を震わせるだけだ。
 と、早苗の唇の端から薄白色の細い条がつっと流れ出る。
 その様子を見ていた遥香や京子たちには何が起きたのかわからず、ただきょとんとするばかりだったが、真澄が早苗に
「あらあら、せっかくママのおっぱいからお乳が出るようになったのに、こぼしちゃ駄目じゃない」
と言うのを耳にして、早苗の口から溢れ出したのが『母乳』だと薄々気づく。
「真澄お姉さん、おっぱいからお乳が出るようになったの?」
 怪訝そうな表情を浮かべる京子たちをよそに、遥香は無邪気な笑みを浮かべて真澄に尋ねた。
「そうよ。もともと可愛い早苗ちゃんだけど、おままごとをしているうちにもっともっと可愛く思えてきちゃって、それで神様にお願いしていたの。『早苗ちゃんを私の妹じゃなくて私の娘にしてください。おままごとの間だけじゃなくて、いつもずっと私を早苗ちゃんの本当のママにしてください』って。そしたら、おっぱいからお乳が出るようになったのよ」
 真澄は早苗の頬を人差指の先でつんとつついた。
 その拍子に、まだ口の中に残っていた母乳が半開きになったままの唇から溢れ出して、顎先から胸元に伝い落ちる。
 その日のおままごとで早苗が着せられたのはパジャマではなかった。おままごとを繰り返しているうちに、早苗の部屋に置いてあるベビー用品は、最初はおしゃぶりやガラガラだけだったのが、ヌイグルミや布のボールといった玩具類に加え、歩行器やクーハン、プラスチック製のベビーバスといった大物まで揃うようになっていた。いくら早苗が小柄だといっても赤ん坊用の歩行器に座らせたりクーハンに寝かしたりすることはできないが、どれも、部屋の雰囲気作りを楽しむためといって摩耶が次々に買い求めた物だ。そしてまた、おままごとの際に早苗が着せられる衣類も、うんと種類が増えていた。最初はベビー服じみたパジャマとよだれかけくらいしかなかったのが、摩耶が昼夜を惜しんで手縫いした結果、飾りレースをたっぷりあしらったベビードレスや、股間にボタンが並ぶロンパース、ブルマとセットになったスモックドレスといった、デザインこそ赤ん坊向けだがサイズは早苗の体に合わせて仕立てられた大きなベビーウェアがベビータンスの引出いっぱいに収納されるようになっていた。
 その日、早苗が着せられたのは、やはり摩耶が手作りしたスカート付きロンパースだった。
「すごいね、神様って本当にいるんだね」
「うん、本当にいるのよ。真剣にお願いすれば願い事をかなえてくれる神様が」
 真澄は、ロンパースの胸元を覆う大きなよだれかけの端で早苗の口元を優しく拭ってやりながら頷いた。
 そう。確かに、神様はいる。
 しかし、それが、慈愛に満ちた天上の存在だとは限らない。
 真澄が言う神様とは、摩耶が懇意にしている例の医者のことだった。
 早苗と疑似的な姉妹関係にあるだけでは満足できず、それよりもずっと深く濃く結びついた間柄になりたいと訴えかける愛娘の願いを現実のものとすべく摩耶が医者に相談をもちかけたところ、多少のリスクを承知の上ならという条件付きで医者から手渡されたのは、数種類の錠剤だった。医者の説明によれば、それらの錠剤は、筋肉の柔軟性を増すための薬剤を試作していた過程で偶発的に合成されたホルモン様物質を精製したもので、服用した者の乳腺の機能を活性化させる作用があり、たとえば、妊娠していない女性でも、その合成ホルモンを服用し続ければ短い期間で乳房が発育し、母乳が出るようになるとのことだった。
 多少のリスクを伴うとはいえ、そんな夢のような効き目のある合成ホルモン剤を真澄が拒む筈がなかった。
 早苗が強引に咥えさせられた真澄の乳首から最初はじわじわと滲み出し、遂には勢いよく迸り出た薄白色の液体は、合成ホルモンの効能によって真澄自身の体がつくり出した、紛い物などではない、本物の母乳だった。
「でも、神様なんて本当にいるのかな」
「いるのよ、本当に」
 神様の存在を簡単に信じてしまった遥香とは違って困惑の表情でぽつりと言う京子の言葉をやんわり遮って、真澄は微笑んだ。
 とてものこと中学生が浮かべるとは思えないような、それは、艶然とした笑みだった。

 ――その日以来、真澄は早苗のことを呼び捨てにし、おままごと以外の時間も自分のことを『ママ』と呼ばせている。早苗に自分の母乳を飲ませているのだから、『ママ』と呼ばせることに躊躇いは微塵もない。
 もちろんのこと早苗は真澄を『ママ』と呼ぶのを拒んだ。しかし、それに対する『お仕置き』として哺乳壜のミルクも遥香の乳首から溢れ出る母乳も与えられないまま丸一日も放置されては、とてもではないが、屈辱に満ちたその呼び方を拒み続けることなどできはしなかった。餓えと喉の渇きに耐えかねてとうとう「ママ、お願いだからおっぱいをちょうだい」とおねだりさせられて以降、早苗は、真澄のことを『ママ』と呼ばされている。

「……お早う、遥香お姉ちゃん。……今日もお迎えに来てくれてありがとう」
 真澄の口から出た『お仕置き』という言葉を聞くなり早苗はびくんと体を震わせ、今にも消え入りそうな声で言った。
 お尻をぶたれるようなお仕置きなら、痛みさえ我慢すればやり過ごすことができる。けれど、真澄が言うお仕置きは、母乳を一滴も飲ませないことを意味しているのだ。
 遥香の母乳が出るようになって以後、早苗は、普通の食事はもちろんのこと、牛乳や野菜ジュースといった飲料も口にさせてもらっていない。代わりに口にするのは、真澄に抱きかかえられて口にふくまされる乳首から溢れ出る母乳だけだ。その母乳を絶たれてしまえば、餓えと喉の渇きのせいで、我を張り続けることなどかなわない。
 これまで何度か真澄の言葉に逆らい、そのたびにお仕置きと称して母乳を飲ませてもらえず、暖かいというよりも暑いと表現した方がふさわしい日もあるこの季節、喉の渇きによる塗炭の苦しみを味わった早苗にしてみれば、今や真澄の命令は絶対だ。
「そう、それでいいのよ。明日からは、遥香お姉ちゃんがご挨拶してくれる前に早苗の方から先にご挨拶するようにしようね。早苗はお利口さんだもん、ママの言いつけ、ちゃんと守れるよね?」
「……う……うん。早苗、ママの言いつけ、ちゃんと守れるよ」
 早苗にできるのは、視線を地面に落としてそう答えることだけだった。
「いいわ。じゃ、忘れ物がないかどうか遥香お姉ちゃんに調べてもらってから幼稚園へ行こうね。――毎日のことで大変だけど、お願いね、遥香ちゃん」
 真澄はにんまり笑って言い、早苗が肩にかけている通園鞄のファスナーを手早く引き開けた。
「うん、いいよ。年少さんが忘れ物をしてないかどうか調べてあげるのも年長さんの役目だもん、ちっとも大変なんかじゃないよ」
 遥香はファスナーの開いた通園鞄を覗き込んだ。
「えーと、ハンカチでしょ、ティッシュでしょ、うん、連絡帳も入ってるね。それと――」
 そこまで言って遥香は黄色い通園鞄に更に顔を近づけた。
「ちゃんと、替えのおむつも忘れてないね。替えのおむつを忘れて電車の中でおもらししちゃったら、早苗ちゃん、濡れたおむつのまま幼稚園へ行かなきゃいけなくて可哀想だから、遥香、おむつがちゃんと入ってるかどうか、毎日きちんと調べてあげてるんだ。それと、うん、お昼ご飯の分と、おやつの分で、哺乳壜も二本入ってるね。これも早苗ちゃんにはとっても大切な物だから、調べ忘れがないようにしなくちゃね。――大丈夫、忘れ物はないみたいだよ、真澄お姉さん」
 通園鞄の中をひとしきり調べ終えて、遥香は笑顔で頷いた。
「そう、よかった。これで一安心ね。ありがとう、遥香ちゃん。ほら、忘れ物がないかどうか調べてくれた遥香お姉ちゃんに早苗からもお礼を言いなさい」
「……あ、ありがとう、遥香お姉ちゃん。早苗が忘れ物してないかどうか調べてくれてありがとう。……早苗の大事な哺乳壜とおむつがちゃんと入ってるかどうか調べてくれてありがとう」
 早苗の通園鞄は、哺乳壜や替えのおむつも入れることができるよう、他の園児の鞄に比べて二回りほど大きく仕立ててもらった特注品だ。それを、他の園児に比べて体の大きな早苗が肩にかけるから、まるで違和感がない。たくさんあてたおむつのせいで制服のスカートを丸く膨らませ、黄色の通園鞄を肩にかけて髪をカラーゴムでツインテールに結わえ、頬を上気させて遥香にお礼を言う早苗の姿は、内気で恥ずかしがりな年少さん以外の何者でもなかった。

「はい、よくできました。それじゃ、駅まで送ってあげるわね。――ママに駅まで送ってもらう時、どんなふうにおねだりするんだったっけ?」
 早苗が羞恥に頬を赤く染めて遥香にお礼を言い終えるのを待ち、真澄はその場にしゃがんで言った。
「……お、おんぶ……早苗、おんぶで駅まで送ってほしいの。お願いママ、おんぶして……」
 しゃがんだ真澄の背後におずおずとまわりこみ、早苗は蚊の鳴くような声で『おねだり』した。
「いいわよ。おんぶくらい、お安いご用だわ。それにしても、毎日おんぶをおねだりするなんて、本当に早苗は甘えん坊さんだこと」
 真澄は後ろ向きに手を伸ばすと、立ちすくむ早苗の体を抱き寄せて背中におんぶし、すっと立ち上がった。
 早苗が幼稚園に入園してからこちら、朝は近くの駅まで早苗をおんぶして送り届けてから自分の学校へ向かい、夕方は、下校がてら早苗を駅まで迎えに行ってやはり背中におんぶして家まで連れ帰り、オヤツ代わりの母乳を飲ませてからバレーボールの練習に出かけるのが真澄の日課になっている。
 朝は通勤や通学のため大勢の通行人が行き交い、夕方は買い物帰りの主婦たちが行き交う中を真澄におんぶされて駅へ行き帰りするのを拒んだものの、或いは力尽くで、また、或いはお仕置きに怯えて、結局は、真澄の首筋にしがみついて駅まで送り迎えされるしかない早苗だった。そして、おんぶされている間、誰とも目を合わせまいとして真澄の背中に顔を埋めるのだが、その仕種がいかにも幼児めいて見え、余計に道行く人々の目を惹いてしまう早苗だった。

(真澄ったら、すっかり早苗ちゃんを手懐けちゃったみたいね。これで何年か経って真澄が大学生くらいになったら、もともと大人びて見える子だし、早苗ちゃんの手をつないで街を歩いたりしたら、若いお母さんと可愛い娘の親子連れに見えるかもしれないわね。そうなったら、私は本当に『おばあちゃん』かしら。でも、ま、いいか。男嫌いの真澄が結婚なんてするわけないし、孫もできないんだから、早苗ちゃんのことを本当の孫だと思ってうんと可愛がってあげることにしましょう。実際の孫だったら成長するにつれて生意気にもなるけど、ずっと年少さんのままの早苗ちゃんはいつまでも可愛いさかりだから育児の楽しみをたっぷり味わえるんだし、それもいいわね)
 駅へ向かう三人の後ろ姿を玄関で見送りながら、摩耶は胸の中で呟いた。




 そうして、その日の午後三時半ごろ。
「ただいま〜」
 いつものように真澄が下校の途中で駅に立ち寄って二人の帰りを待っていると、改札口から遥香が元気いっぱい駈けて来た。
 そのあとを、覚束ない足取りの早苗が付き従う。
「お帰りなさい。遥香ちゃんは今日も幼稚園が楽しかったみたいで、よかったね。――それで、早苗はどうだった? 駄々をこねて遥香ちゃんや先生を困らせたりしなかった?」
 真澄は遥香の頭を優しく撫で、僅かに首をかしげて尋ねた。
「いい子にしてたよ、早苗ちゃん。たんぽぽ組のみんなが駈けっこのお稽古をしてる時は芝生に座っておとなしく見学してたし、お昼寝の時もぐずらなかったし、お昼のお乳もこぼさなかったし。とってもお利口さんだったよ、早苗ちゃん」
 遥香は満面の笑みをたたえて答えた。
「よかった、早苗がお利口さんにしてて。それも、いつも面倒をみてくれる遥香ちゃんのおかげね。ありがとう、遥香ちゃん」
 真澄は遥香と目の高さを合わせて言い、遥香の後ろに佇んでいる早苗に視線を転じた。
「でも、遥香お姉ちゃんの目の届かない所ではどうだったかな。鞄から連絡帳を出してママに見せてごらんなさい」
「……は、はい、ママ」
 言われて早苗は、まわりの乗降客に聞こえないよう声をひそめて真澄のことを『ママ』と呼び、通園鞄から取り出した連絡帳をおずおずと手渡した。
「どれどれ、なんて書いてあるかな。ええと、入園してすぐの頃はむずがることも多かった早苗ちゃんですが、最近は少し幼稚園に慣れてきたのか、泣き虫さんになる回数も減っています。ただ、入園当初からおむつ離れできているお友達からおむつのことをからかわれたり、入園当初はおむつだったけど最近になっておしっこを教えられるようになったお友達を見たりすると、悔しくて泣いてしまうことがあります。園の方針として、ゆっくりあせらずにおむつ離れさせるつもりですので、ご家庭でも、おむつのことで早苗ちゃんの心の負担になるような言動は控えていただけますようお願いいたします、か」
 受け取った連絡帳のページをめくり、今日の分をそこまで読み上げて、真澄は胸の中でくすくす笑った。
(ご家庭でも、おむつのことで早苗ちゃんの心の負担になるような言動は控えていただけますようお願いいたします、だって。私もお母さんも、早苗ちゃんにおむつ離れを急かしたことなんて一度もないわよ。逆に、このままずっとおむつ離れできませんようにって色々頑張ってるんだから)
 顔に出さないようくすりと笑いながら胸の中で呟いて、真澄は連絡帳の続きを読み上げる。
「おむつについて、もう一つお願いしたいことがあります。もうすぐ五月ということで、じっとり汗ばむ日も多くなってきます。おむつカバーの中は通気性が悪く、どうしても蒸れやすくなりますので、おしっこで濡れていなくても、おむつをこまめに取り替えてあげることが必要になります。園としてもなるべく気をつけますので、ご家庭でも、その点、くれぐれもご注意ください。早苗ちゃんの場合、他のお友だちよりもおむつの枚数が多いため、おむつカバーの中は余計に蒸れると思われますので、特にご注意ください――ですって。やれやれ、幼稚園の先生も大変ね、なかなかおむつが外れない小っちゃな子を相手にしなきゃいけないんだから」
 まわりの乗降客に聞こえるよう意識して大きな声で連絡帳を読み上げ、おむつでまん丸に膨れた早苗のスカートに目をやって、真澄はわざとらしく溜息をついてみせた。
 それに対して早苗は何も言い返せない。
 担任の教諭である加世子にしてみれば、他の園児の保護者への連絡帳と同様、家庭で留意すべき事柄を書き連ねただけだ。しかし、その、ごくありふれた内容である筈の連絡事項が、早苗の羞恥を限りなく煽りたてるのもまた紛れもない事実だった。

「連絡帳の返事は後でゆっくり書いてあげるから、さ、お家へ帰りましょう」
 周囲の目を避けて早苗が身をすくめる様子を面白そうに眺めながら連絡帳を通園鞄に戻した後、真澄は、駅へ送ってきた時と同じようにその場にしゃがみこんで後ろ手に早苗の体を抱き寄せた。
 途端に、まわりの視線が一斉に早苗に集まる。
 一緒にいる遥香に比べてずっと体の大きな早苗が姉とおぼしき少女におんぶされる姿が人目を惹かないわけがない。しかも、早苗のお尻の下で組んだ真澄の手のせいでスカートがたくれ上がって大きな体に不釣り合いな恥ずかしい下着があらわになるから尚更だった。




「お天気もいいし、ちょっと休憩しようね。はい、ママの背中からおりて、ここにお座りしてちょうだい」
 そう言って真澄が早苗を座らせたのは、駅と家との間にある公園のベンチだった。
 池の周囲に植わっている桜はすっかり散ってしまっているが、ツツジが咲き始め、池を吹き渡る風が心地よい。
「や、やだ。早苗、早くおおうちに帰りたい。早く帰ろうよ、ママ。ね、ママってば」
 まわりに誰もいないことを確かめて、早苗は幼児めいた言葉遣いで真澄に早く連れて帰ってくれるよう早口でせがんだ。
 真澄には、早苗の胸の内などすっかりお見通しだ。なぜ早苗が早く家に連れ帰ってほしがっているのか、その理由も充分に承知している。幼稚園の制服に身を包んだ自分の姿を人目にさらしたくないという理由と、そして、一刻も早く家に帰って真澄の乳房に顔を埋めたいという理由なのに違いない。
 前述した通り、真澄が母乳の出る体になって以来、早苗は真澄の母乳しか口にさせてもらっていない。朝食は、目覚めと共に口にふくまされる乳首から溢れ出る母乳だけだし、帰宅してからのオヤツは、早苗を駅から連れ帰った真澄がバレーホールの練習に出かける直前に口にふくませる乳首から流れ出す母乳だけだし、夕食も、チームの練習から帰宅した真澄の手に抱かれて口にふくまされる乳首から迸り出る母乳だけだ。しかも、幼稚園で昼食として与えられるのも、喉の渇きを訴えた時に与えられるのも、真澄が前日のうちに専用の器具を使って搾乳し、それを夜の間に冷凍した上で通園鞄に入れて幼稚園に持って行っている哺乳壜から飲む母乳だけという具合だ。
 しかし、本物の赤ん坊に比べてずっと体の大きな早苗の餓えと渇きを存分に満たすに足る母乳は出ない。それでも真澄の母乳しか与えられないものだから、早苗は慢性的な餓えと渇きに苛まれていた。殊更、春も盛りで暑い日もある最近は、喉の渇きを覚えない時は一刻もない。
 早苗が少しでも早く真澄の乳房に顔を埋め、心ゆくまで乳首を吸いたくて仕方ないのは当然のことだった。
 そんな早苗の胸の内を見透かしながら、真澄は落ち着き払った様子で言った。
「そんなに急いで帰らなくてもいいのよ。今日は監督とコーチの都合で、チームの練習が急にお休みになったの。だから、ゆっくりしていいのよ。最近あまり早苗と遊んであげられなかったから、たまにはこういう日もないとね」
「やだ。早苗、お家がいい。お家がいいんだったら。だから早く帰ろうよ、ママぁ」
 早苗は繰り返しせがんだ。
 こんな状況になっても幼児めいた言葉遣いを忘れないのは、『お仕置き』によって厳しく『躾け』られた結果なのに他ならない。
「お家がいいの。早苗、お家がいいんだったら……」
 早苗は涙声で重ねてせがんだ。
 その時になってようやく真澄が体を動かす。
 けれど、立ち上がるわけではなかった。
 真澄はベンチに座ったまま自分の制服の裾をさっと捲り上げ、ブラジャーをさらけ出した。早苗と同居するようになるまで愛用していたスポーツブラではなく、カップをマジックテープで開閉できるようになっている授乳用のブラジャーだ。
「さ、おいで。ママのお膝にお座りするのよ」
 真澄は、捲り上げた制服の裾が落ちないよう左手で押さえつつ、授乳用ブラのマジックテープを剥がして早苗の体を抱き寄せ、
「ほら、これでおっぱいをちゅうちゅうできるわね。ママ、わかっているのよ。早苗が早くお家へ帰りたがってる理由、ママにはわかっているのよ。少しでも早くママのおっぱいをちゅぱちゅぱしたいんでしょ? だから、さ、ここで好きなだけちゅうちゅうなさい」
と甘ったるい声で早苗の耳元に囁きかけた。
「で、でも、お外でなんて……」
 早苗は咄嗟にあたりを見まわし、耳朶の先まで赤くして口ごもった。
「そう、お外じゃいやなんだ、早苗は。じゃ、仕方ないわね。おっぱい、ないないしちゃおうか」
 真澄は冗談めかして言い、授乳用ブラのカップに指をかけた。
 早苗の喉がごくりと鳴る。
「いいのね? おっぱい、ないないしちゃうわよ」
 真澄が念を押すように聞き返した。
 その間にも、まだ高い所にある午後の太陽が早苗の体からじわりと水分を奪い去る。
 逡巡している余裕などなかった。
「い、いや! おっぱい、ないないしちゃやだ! 早苗、ママのおっぱいじゃないと駄目なんだから!」
 早苗は真澄の膝の上で金切り声をあげ、目の前にある豊かな乳房にむしゃぶりついた。

「可愛いね。真澄お姉さんのおっぱいを吸ってる早苗ちゃん、赤ちゃんみたいで可愛いね」
 喉の渇きに耐えきれず無心に真澄の乳首を吸う早苗の姿を間近で眺めながら、遥香は顔いっぱいの笑みを浮かべた。
「ううん、『赤ちゃんみたい』じゃなくて、赤ちゃんなのよ、早苗は。ほら、おむつカバーに指を入れてみて」
 真澄はにんまり笑って遥香に言った。
「――しちゃってる。おしっこしちゃってるよ、早苗ちゃん」
 おむつカバーの股ぐりに指を差し入れてすぐ遥香は真澄の顔と早苗の顔を交互に見て言った。
「でしょ? ママのおっぱいをちゅうちゅうしながらおむつにおもらしだなんて、そんなの、赤ちゃんしかしないよね?」
 遥香に同意を求めるというよりも、早苗に言い聞かせるように囁きかけて、真澄はすっと目を細めた。
 幼稚園で昼寝から目が覚め、おねしょで汚してしまったおむつを取り替えられて家に帰ると、ちょうどその頃に新たな尿意を覚えるのだが、それを見計らったかのように真澄が早苗を自分の膝の上に座らせて母乳を与えるのが日課になっている。更に、バレーボールの練習を終えて帰宅した真澄が夕飯代わりの母乳を与えるのも、また、早苗が尿意を覚える頃合いに合わせてという毎日だ。そんなことの繰り返しで、いつしか早苗の体は、真澄の乳首を咥えると決まって尿意を覚えるよう条件付けられてしまっていた。そして、真澄のぴんと勃った乳首を吸って母乳を飲みながらおむつを汚すのが習い性になってしまっていた。
「だけど、早苗ちゃんは幼稚園の年少さんだよ? ちゃんと制服も着てるし、遥香と一緒に幼稚園に通ってるよ? 遥香みたいな年長さんじゃないけど、それでも、赤ちゃんに比べればお姉さんだよ? 赤ちゃんなのにお姉さんなんて変なの」
 遥香が少し困ったように応じる。
「いいのよ、それで。ちょっぴりお姉さんなのに、でも、赤ちゃん。早苗はそういう子なのよ。――だいいち、もともと早苗は小学生で遥香ちゃんよりもずっとお姉さんだった筈よ。それが、今じゃ、遥香ちゃんにお世話をしてもらわないと自分じゃ何もできない年少さん。小学生なのに年少さんで、年少さんなのに赤ちゃん。それが早苗なのよ」
 真澄は謎々を楽しんででもいるかのような口調で言った。
「う〜ん。そうなのかなぁ……小学生で年少さんで赤ちゃんで……ま、いいや。よくわかんないけど、真澄お姉さんのおっぱいを吸いながらおむつを濡らしちゃう早苗ちゃん、とっても可愛いから、それでいいや」
 煙に巻かれたような表情で考え考え呟く遥香だったが、終わりの方は何やらふっきれたような晴れ晴れした顔になって明るい声で言った。
「そう、それでいいのよ。小学生で年少さんで赤ちゃん――そういう子なのよ、早苗って子は」
 胸の中で(本当は高校生で年少さんで赤ちゃんなんだけどね)と赤い舌をぺろりと突き出して、真澄は、ちゅぱちゅぱと音をたてて母乳をむさぼり飲む早苗の頬を優しくつついた。




 からころ。
 からころ。
 新緑の香りがする爽やかな風に乗ってかろやかな音色があたりに鳴り渡る。
 理性では授乳を拒みつつも結局は喉の渇きに耐えかねて年下の従妹の乳房にむしゃぶりついてしまう己の情けなさに涙を流しながら生温かい母乳をむさぼり飲んだ早苗。その頬には、涙の跡がくっきり残っている。
「ちょっとの間だけおとなしくしていてね。幼稚園でおむつを取り替えてもらう間おとなしくしてるお利口さんの早苗ちゃんだもん、できるよね」
 からころ。からころ。遥香が、いつも通園鞄に入れて早苗をあやすために持ち歩いているガラガラを振りながら、早苗の顔に残る涙の跡をハンカチでそっと拭ってやった。
 公園のベンチに横たわった早苗は、遥香や真澄にあやされたらおとなしくなるよう心理的に条件付けられているせいで、とろんとした目をしてガラガラの音色に聞き入っている。
「おむつを取り替える間、早苗が退屈しないようにお話をしてあげる。年少さんで赤ちゃんの早苗には難しいお話かもしれないから、意味がわからなくてもいいのよ。子守唄の代わりに聞いていればいいわ」
 真澄は早苗の制服をお腹の上まで捲り上げた。
「近ごろ、ママ、バレーボールの練習が楽しくて仕方ないの。ううん、これまでも楽しかったんだけど、最近はもっと楽しくて、ついつい練習に身が入っちゃうのよ。どうしてだかわかる?」
 真澄は、あらわになったおむつカバーの腰紐をほどき、前当てを早苗の両脚の間に広げた。
「それはね、早苗がいるからなのよ。早苗っていう、かけがえのない娘ができたからなの。ママ、男の人が嫌いでね。嫌いっていうより、お母さんとお父さんのどろどろした関係をずっと見ていて、男の人が憎たらしくて憎たらしくて仕方ないくらいになっちゃったの。それで、バレーボールの練習でも、男のコーチの指図にはちっとも従わなくて、ぎすぎすしていたのよ」
 真澄はおむつカバーの横当てを左右に開き、早苗の左右の足首を一つにまとめ持って高々と差し上げ、ぐっしょり濡れたおむつを手元にたぐり寄せて、厚手のビニール袋に入れた。
「それに、バレーボールのプレイスタイルも、ぐいぐい力まかせで相手を追い詰めるやり方ばかりで、こっちが有利な時はいいけど、守りにまわったら脆いっていう、そんなプレイばかりしていたの」
 真澄は、遥香が早苗の通園鞄から取り出して手渡す布おむつを受け取り、早苗のお尻の下に敷き込んだ。
「でも、早苗におっぱいを吸ってもらうようになって、プレイスタイルが随分変わったのよ。体の柔軟性が増してきて、守備の時はコートの隅へ飛んでくボールも拾えるようになったし、攻撃の時もフェイントを利かせられるようになって、プレイの幅がうんと広がってきたの」
 真澄は左手で早苗の足首を差し上げたまま、右手に持ったお尻拭きを早苗の下腹部に押し当てた。
「そうなると精神的にもゆとりが持てるようになって、男性コーチのアドバイスも素直に聞けるようになってきたの。ううん、男なんて大っ嫌いのままよ。ママ、たぶん、結婚なんてしないと思う。でも、それまで憎しみの相手でしかなかった男っていう生き物のこと、ちょっとはわかってあげてもいいかなとか思えるようになってきてね」
 真澄は早苗の下腹部に残っているおしっこの雫を綺麗に拭い去った後、早苗の足首をベンチにおろし、両脚を開きぎみにして軽く膝を立てさせた。
「それで、これまでよりもずっとバレーボールが好きになって、もっともっと練習しなきって気持ちが強くなってきて――ママ、スポーツ推薦で大学に入れるようになるくらいバレーボールが上手になりたいの。それで、大学で体育の先生の免許を取って、どこかの学校でバレーボール部の顧問になりたいなとか思ってるの。だって、結婚する気なんてないから、仕事をしなきゃいけないじゃない? だったら、自分の好きなことを活かせる仕事をしたいもん」
 真澄は、股あてのおむつの端を早苗のおへそのすぐ下に押し当て、その上に横あてのおむつを重ねて、おむつカバーの横羽根で押さえた。
「それで、その時、早苗はママの本当の娘になるのよ。今は、いくら『ママ』って呼ばせていても、早苗はお母さんとお父さんの養子で、ママとは義理の姉妹でしょ? でも、ママがお仕事をするようになって生活が安定したら、早苗をママの養女にしてあげる。その時、ママは早苗の本当のママになるのよ」
 真澄は横羽根の上におむつカバーの前当てを重ね、左右に四つずつ並んでいるスナップボタンを手早く留めて腰紐を結わえた。
「その時になっても、早苗はまだおむつが外れてないかもしれないわね。おむつ離れできなくて、年中さんに進級できなくて、年少さんのまま幼稚園に通っているかもしれないわね。でも、心配しなくていいのよ。そんな早苗のこと、ママは大好きだから。だって、そうでしょ? 大学を出て仕事を始めたばかりの頃っていったら二十三歳くらいかな。だったら、子供がいたとしても、せいぜい幼稚園の年少さんくらいじゃない? だから、それでいいのよ。ママの可愛い娘は年少さんのままでいいのよ。いつまでもおむつ離れできなくて、いつまでもママのおっぱいをせがむ甘えん坊の年少さんでいいのよ。――さ、できた。おとなしくしていてお利口さんだったね」
 真澄は、おむつカバーからはみ出しているおむつをおむつカバーの股ぐりにそっと押し込み、早苗のお尻をおむつカバーの上からぽんと優しく叩いた。
「真澄お姉さんが大人になっても、早苗ちゃんは年少さんのままなの? だったら、遥香、幼稚園の先生になろうかな。先生になるの、大学っていう学校に入らなきゃいけないの? でも、遥香、頑張る。頑張ってお勉強して大学に入って幼稚園の先生になって、早苗ちゃんのお世話してあげる。真澄お姉さん、遥香と一緒に頑張ろうね」
 真澄が早苗に話しかける声に耳を傾けていた遥香が、満面の笑みをたたえて言った。
「いい考えね。じゃ、二人で頑張ろうか。二人で一緒に、これから先ずっとずっと早苗を可愛がってあげようか」
 真澄は一瞬の躊躇いもなくそう応じた。
「うん、二人でずっとずっと早苗ちゃんを可愛がってあげようね」
 遥香は真澄の顔を仰ぎ見て声を弾ませた。

 顔を見合わせて微笑み交わす真澄と遥香の瞳には、さんさんと降り注ぐ暖かな日差しとはまるで異質の、摩耶が瞳に宿していたのと同じ妖しい光が揺らめいていた。



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