暖かな日差しの中で



  14 卒園のない幼稚園


 その後も細々したやり取りがあり、それが一段落したところでちょっと休憩ということになった。
「やったぁ。遥香の大好きなオレンジジュースだ」
 紙パック入りのジュースを奈美恵から受け取った遥香が歓声をあげる。
「本当は幼稚園に持って来るのは麦茶しか駄目なんだけど、遥香が最近ずっといい子にしていたから、そのご褒美に、特別に園長先生にお願いしてお許しをいただいたのよ」
 奈美恵は優しく微笑んで言った。
「へーえ。ご褒美をもらえるなんて、遥香ちゃん、そんなにいい子なんだ」
 真澄が茶化すように言う。
「そうだよ。だって、遥香、もう年長さんだもん」
 遥香は鼻先をぴくぴくさせて得意げに応じた。
「そうなのよ。ここ最近というか、早苗ちゃんと知り合ってからこちら、まるで手がかからなくなって。朝も自分で起きるし、言わなくてもご飯の後は自分で歯を磨くし、着替えの時は脱いだ洋服をきちんとたたむし。特に、早苗ちゃんたちとおままごとをするようになってから、その傾向が顕著かな。なんだか、急にお姉さんらしくなったみたいな感じで」
 奈美恵が真澄に向かって軽く頷く。
「年長者としての自覚が出てきたんでしょうね。河野さんから伺った話では、遥香ちゃん、早苗ちゃんのお世話をずっとしているようですね。特に、早苗ちゃんを赤ちゃんに見立ててのおままごとでは、それこそ、本当に妹ができたかのように親身になって。下の子ができると上の子が急にしっかりすると昔から言いますけど、その典型的な例と言えるんじゃないでしょうか」
 お茶の準備をするために給湯室へ行っていた加世子が、湯飲みの載ったお盆を提げて戻って来がてら言った。
「ただ、それは、その子の素養にもよりますね。遥香ちゃんの場合、少しでも早くお姉さんになりたいという成長性向が強いんだと思います。それで、面倒をみてあげなければいけない早苗ちゃんという存在が身近に現れたことがきっかけになって、潜在的に有していた成長性向が顕在化したのでしょう。けれど、現実には、そういうお子さんばかりではありません」
 湯飲みを受け取りつつ佳子が、真澄の隣にぽつねんと座っている早苗の顔に目をやる。
「遥香ちゃんと正反対の典型が早苗ちゃんというわけですね」
 加世子も、試着させられたままのスモックとおむつカバー姿で首をうなだれる早苗に視線を転じた。
 その様子からは、佳子と加世子が偽りの診断書とまやかしの説明をすっかり信じ込んでしまっている様子がありありだ。
「そういうことになりますね。遥香ちゃんとは正反対で、すっかり甘えん坊さんになっちゃった上に、自分より年下の遥香ちゃんにあやしてもらわないとおむつの交換も嫌がるような駄々っ子になっちゃって。せっかく入園させていただけることになった幼稚園だけど、このまま先うまくやってゆけるでしょうか?」
 着々と整えた手筈が目論見通りの成果を収めつつあることに内心ではほくそ笑みながらも、表面にはそんなそぶりを一切出さず、摩耶はいかにも心配そうな様子で言った。
「いえ、ご心配は無用です。さきほども申しました通り、当園には経験豊かな教員が揃っていますし、大学や大学院との連携も緊密です。夏休みまでには早苗ちゃんだって、おむつも外れて、元気いっぱいの素直なお利口さんになっているに決まっています。私がお約束しますからご安心ください」
 何人もの手のかかる園児を見違えるほどしっかりした子に躾け直してきた経験がそうさせるのだろう、佳子は自信に満ちた声で断言した。
「そう言っていただけると心強いですわ。それでは、何卒よろしくお願いいたします。――よかったわね。今はとっても甘えん坊で泣き虫さんでおむつの早苗ちゃんだけど、夏休みまでには元気いっぱいのパンツのお姉ちゃんになれるんですって」
 摩耶はわざとらしい安堵の表情を浮かべ、いかにも所在なげな様子の早苗の横顔を見おろして言いながら、胸の中では赤い舌をぺろっと突き出した。
 摩耶は、スーツのポケットに忍ばせたボイスレコーダーにこれまでのやり取りを全て録音していた。もちろん、ついさっき佳子が口にした『夏休みまでには早苗ちゃん、おむつも外れて、元気いっぱいの素直なお利口さんになっているに決まっています。私がお約束します』という言葉も。
 これで摩耶は、附属幼稚園の最高責任者である佳子から言質を取ることにまんまと成功したというわけだ。
 おそらく佳子はこれまでの経験を基に、幼稚園の教諭と大学の専門家が連携すれば失敗する筈がないという判断の下、さして深く考えることもなく発言したのだろう。事実、これまでは、どんなに手のかかる児童でも、幼稚園に入園して最初の夏休みを迎えるまでには、おむつも外れてすっかり躾の行き届いた子に成長していた。佳子の自信には確かな裏付けがあると言っていい。しかし、それには、保護者が幼稚園に協力を惜しまなかったからという側面があることも否めない。我が子の一日も早い成長を願いつつ、本来なら家庭で済ませておくべき躾を幼稚園で代行してもらっているという負い目もあって、幼稚園からの助言に保護者が積極的に耳を傾け、どんなささいな事柄であっても保護者の側から幼稚園に相談を持ちかけるという信頼関係が築かれていたからこそ、園での躾はめざましい成果をあげることができたのだ。
 だが、早苗の成長を願うどころか、逆に、本当なら高校生である早苗を自分の欲望のまま幼稚園に再入園させ、同年代の子供たちの中では比較的おむつ離れの早かった早苗を再びおむつを手放せない偽りの幼児に仕立ててしまった摩耶は、佳子がこれまでに接してきた母親たちとはまるで異質の『保護者』だ。佳子にとって、附属幼稚園は、我が子の成長を手助けしてくれる保育の場などではなく、掌中に収めた早苗を逃がさぬための檻に他ならない。
 早苗の行動を常に監視し、早苗が自分の家や前学期まで通学していた高校へ逃げ帰るのを阻む、物理的な意味での檻。そしてまた、年端もゆかぬ大勢の幼児たちに囲まれて過ごし、幼児と同じ扱いを受けて、早苗がいずれ周囲の幼児たちと自分を同一視するようになり、自らの意志とはまるで無関係に、そこでの生活に溶け込み、そこを唯一の安住の場所と思い込むようになるであろう、心理的な意味での檻。そんな二つの意味合いを持つ強固な檻から摩耶が早苗を解放するわけがない。
 幼稚園に迎え入れた早苗のおむつが一日でも早く外れるよう加世子たちは尽力することだろう。しかし、摩耶には早苗におむつ離れさせるつもりなど毛頭ない。加世子や大学の専門家の助力を得て早苗がおしっこを教え、トイレへ行けるようになりそうになったら、その時には再び強力な薬剤を服用させ、改めて心理的な誘導を施して、決しておむつ離れできないようにする算段をたてていた。
 入園から数ヶ月が経ち、夏休みを目前に控えた頃、他の園児たちはすっかりおむつ離れしたというのに、ただ一人どうしてもおむつの外れない早苗を前に、これまでの経験則が全く無益なことを思い知らされて、佳子たちはひどい苛立ちを覚えることだろう。それは実は、幼稚園が行う躾を、摩耶が早苗に与える薬剤や心理操作によって無効化しているせいなのだが、真実を知ることなく早苗を幼稚園に向かえ入れた佳子たちにとって、早苗が一向におむつ離れできない理由を知ることは不可能だ。ひょっとしたら佳子たちは医学系の専門家に協力を求めて様々な検査を施すかもしれないが、早苗は膀胱の容量を小さくしたり括約筋を弱めたりというような身体的な処置を施されているわけではないため、検査は無意味に終わるに違いない。或いは薬学系の検査も行われるかもしれないが、厳しいドーピング検査をすり抜ける術を熟知した医者が手配した薬剤が簡易的な検査で検出される筈もない。
 そしていよいよ夏休みを迎える日、摩耶は佳子に向かって
「あら? お約束いただいたのに、早苗ちゃんのおむつが外れる気配はまるでありませんね。これはどういうことなんでしょうか?」
と冷たい声で問い質し、
「おむつ離れも含む基本的な躾を保護者の代わりに夏休みまでに済ませるというのがこちらの謳い文句になっていた筈なのに、その謳い文句通りの結果が得られなかったわけですから、これは大きな問題ですよね? しかも、高校生の娘をわざわざ幼稚園に入園し直させた上でこの有様なわけですから、滅多にない大問題だという他ありません。こういった重大な問題に直面される被害者を一人でも少なくするためには、このことを公にする必要があるとお思いになりませんか? もしもよろしければ、当事者の一人として、私が事の顛末をネットで公表してもよろしいのですよ。幸い、園長先生のお約束を記録したボイスレコーダーも手元にありますし」
と脅して、こちらの要求を飲ませる腹づもりでいた。
 要求の内容は、おむつが外れないことを口実に、来年の四月になっても早苗を年中クラスへ進級させず、いや、来年に限らず、この先ずっと早苗を年少クラスの園児として幼稚園に通わせるのを理事会に認めさせること。
 佳子たちは、まさか摩耶がそのようなことを企てているなどとは思ってもみず、埒外の要求を突きつけられて狼狽えるばかりだろう。しかし、とどまるところを知らない少子化のために学生集めに四苦八苦している只中、ささいな問題であっても、それが公になることだけはなんとしても避けなければならないという判断のもと、結局は摩耶の理不尽な要求を飲まざるを得ないのだ。
 実の姉から恋人を奪い去ることにさえいささかの躊躇いも覚えない摩耶にしてみれば、S女子大学グループを運営する学校法人を相手に、その弱みを握って(というよりも、わざと弱みをこしらえて)足元を見透かし、自分の思い通りに交渉を進めるなど、雑作もないことだ。




「ありがとうございます、遠慮なく頂戴します。でも、早苗ちゃんの分は結構です。遥香ちゃんと同じように、うちも娘の飲み物は家から持って来ましたから」
 摩耶は湯飲みを手渡す加世子に礼を述べつつも早苗の分は丁重に辞し、真澄に向かって目で合図を送った。
 それを受けて真澄は意味ありげな笑みを浮かべ、
「はい、これが早苗ちゃんのよ。大人はみんなお茶で遥香お姉ちゃんはオレンジジュースだけど、早苗ちゃんにはこれがお似合いよ」
と話しかけながら、幼稚園に預けるおむつを入れてきた紙袋とは別の手提げ袋から、早苗のために持って来た飲み物を取り出して机に置く。
 しかし、それは、ジュースの紙パックでも麦茶の水筒でもなかった。
「え? 今日はおままごとはお休みだよ。なのに、どうして哺乳壜なの?」
 真澄が机の置いた丸い壜を目にして、遥香がきょとんとした顔つきになった。
 遥香の言う通り、真澄が手提げ袋から取り出したのは、ミルクを八分目ほど満たした哺乳壜だった。
「ううん、いいのよ、これで。遥香ちゃんにも話してあげた通り、早苗ちゃんたら、誰かに甘えたいっていう気持ちがとても強くなって、それでおもらしやおねしょをしちゃうようになっちゃったでしょ? でも、早苗ちゃん、それだけじゃ満足できなくなっちゃったの。おままごとで遥香お姉ちゃんに甘えているうちに余計にまた甘えん坊さんになって、哺乳壜のお乳しか飲まなくなっちゃったのよ。いくらおいしいご飯を作ってあげても食べてくれなくて、朝もお昼も夜も哺乳壜なのよ。ま、赤ちゃんじゃないからお乳だけじゃ栄養が足りなくて、野菜ジュースとか蛋白質の入った飲み物とかもあげてるんだけど、それだって、ストローも嫌がって、哺乳壜で飲める物しか口にしなくなっちゃったのよ、早苗ちゃんたら。だから、荷物になるけどわざわざ持って来たの」
 不思議そうな顔をする遥香に向かって摩耶がそう説明して、真澄が早苗の目の前でこれみよがしに哺乳壜を振ってみせる。
 むろん、摩耶の説明が事実であるわけがない。早苗が食事を拒むのではなく、摩耶がわざと早苗に食事を与えていないのだ。
 摩耶が早苗に食事を与えなくなったのは、おままごとを始めた日のことだった。あの日、朝も夜も遥香の手で哺乳壜のミルクを飲まされるだけの食事が続き、遥香が自分の家へ帰った後の夕飯時になってようやく普通の食事を口にできると安堵の溜息をついた早苗の目の前に摩耶が置いたのは、朝や昼と同じく、ミルクの入った哺乳壜だった。
 もちろん早苗は哺乳壜を拒んだが、強引にゴムの乳首を咥えさせられ、ミルクに混入した睡眠導入剤のせいで異様な眠気を覚え、真澄にお腹をぽんぽん叩かれながら寝かしつけられてしまって以後、哺乳壜のミルクしか与えない日がずっと続いているのだ。強引に咥えさせられる哺乳壜を払いのけることも時にはあったが、そのたび、そのまま放置され、やがて飢えと喉の渇きに耐えかねて結局はゴムの乳首をおずおずと口にふくむといったことの繰り返しだ。
 そんな日が続くうち、いつしかゴムの乳首を咥えることが習い性になり、哺乳壜のミルクでかりそめの満腹感を得ることが早苗の日常になっていた。

「そういえば、そのことも診断書に書いてありましたね」
 真澄のまやかしの説明に、佳子が何かを思い出したように言ってソファから立ち上がると執務机に歩み寄り、一枚の書類を手に取った。
「ああ、これですね。――確かに、お医者様の所見では『排泄障害と共に、摂食障害が認められる。固形物の摂食を強要した場合、嚥下機能の低下による窒息の恐れがあるため、充分な注意を要する。また、飲料についても、たとえばストローのような、頬と舌と唇と咽頭の連携動作を必要とする吸引方法は困難を伴うものと認められる』となっています。ここに書いてある排泄障害というのはおもらしやおねしょのことで、摂食障害というのが、普通の食事を拒んで哺乳壜のミルクしか飲めなくなってしまったということですね?」
 ソファに戻った佳子は、診断書のコピーとおぼしき書類の一節を読み上げ、摩耶に確認を求めた。
「はい、お医者様からは、哺乳壜のミルクしか飲まないから食道の働きが弱まり、食道の働きが弱まるから哺乳壜のミルクしか飲めなくなるという、あまり望ましくない循環連鎖の状態になっているという説明を受けました。それを解消するには、とにかくじっくり時間をかける必要があるとかで、その間は絶対に固形物を食べさせないようにと強く注意されています。ですから、早苗ちゃんには、お弁当の代わりにミルクを入れた哺乳壜を持たせることになります。もっとも、ミルクだけでは栄養が偏りますから、時々は野菜ジュースとか、いろいろな栄養素を溶かした飲み物とかを哺乳壜に入れて持たせることになりますが、いずれにせよ、うちから持たせた哺乳壜だけでお昼ご飯やおやつを済ませるようにしないといけません。――そのことに関して、お願いがあります。お弁当やおやつの時間に早苗ちゃんが他の子供たちから食べ物や飲み物を分けてもらって口にしたりしないよう、先生方にしっかり見ていていただきたいんです。お手間を取らせて心苦しいのですが、お願いできますでしょうか?」
「承知しました。その件に関しては他の先生方にも重々申し伝えます」
 所見の記された診断書が紛い物だとは思いもせずに加世子が真剣な面持ちで頷く。
「お願いいたします。それと、ついでと言ってはなんですが、もう一つお願いしたいことがございます」
 摩耶は神妙な顔つきを作って頷き返し、診断書のコピーを持っている佳子の手元に視線を移して言った。
「診断書には、『摂食障害に伴う軽度の歩行障害が認められる。身体への負担を抑えるため、過度の運動は厳に慎むものとする』という所見も書いてあるかと思います」
 そこまで言って、摩耶は佳子の顔に目をやった。
「おっしゃる通り、所見欄にはそのような文言も見受けられます」
 佳子が診断書のコピーから顔を上げて答える。
「いくら工夫しても、飲み物だけでは必要最低限の栄養しか摂ることができません。特に、筋肉の元になる蛋白質やアミノ酸がどうしても不足がちになって、手や脚を思うように動かせないものですから、ちょっと歩きまわるにしても、覚束ない足取りになってしまいます。お医者様からは、これは運動不足が原因でそうなっているわけではないから、いくら運動をさせてもよくなることはない、むしろ、無理に体を動かして筋肉の中に老廃物が溜まると却って厄介なことになるから、なるべく運動を控えるようにと言われています。――ですから、駈けっこやお遊戯といった運動をさせるのは見合わせていただきく存じます。こちらもお願いできますでしょうか」
「確かに承りました。そういう事情でしたら、体を動かすカリキュラムの時間は、早苗ちゃんには静かに見学してもらうことにいたしましょう。いえ、お気になさらないでください。これまでにも、呼吸器系の疾患などの事情で運動を控えざるを得ない園児にはたびたび接してきましたから、ご心配にはおよびません」
 加世子は再び、これ以上はないくらい真剣な表情で頷いた。
「では、改めてよろしくお願いいたします」
「私からも、妹のこと、よろしくお願いします」
 加世子の言葉に、摩耶と真澄が深々と頭を下げた。
 二人は頭を下げながらがなんとも言いようのない笑みを浮かべて目配せを交わし合っていたのだが、そのことに気づく者は一人もいなかった。

 摩耶が早苗に食事を与えずに哺乳壜のミルクを飲むことを強要し、体を動かすことを禁じたのには、二つの目的がある。
 一つめの目的は、早苗が自分の手元から逃げ出さぬよう自由を奪い去ること。
 逃亡を防ぐために早苗を幼稚園に再入園させただけでは物足りず、摩耶は、早苗が自由に歩きまわれないよう体中の筋肉を弱体化することを企てた。そのために、生きてゆくのに必要な最低限の栄養しか摂取させないよう、家の中のみならず幼稚園でもきちんとした食事を与えず、哺乳壜のミルクだけを飲ませるという方法を用いることにしたのだ。少しでも早足で歩いたり、摩耶や真澄に抵抗するために手足をばたつかせたりしたらすぐ息切れを起こし、その場にへたり込んでしまうよう早苗の体力をぎりぎりまで削ぎ落としてしまうために。
 言ってみれば、愛玩用の小鳥が籠から逃げ出すのを防ぐために羽先を切り取ってしまうようなものだ。先に、幼稚園のことを、早苗を閉じ込めておくための『檻』になぞらえた。しかし、もう少し正確を期すなら、幼稚園は『鳥籠』になぞらえられるべきかもしれない。羽先を切り取られて自由に飛び回る術を失い、与えられる餌をついばんで弱々しくさえずる早苗という哀れな小鳥を閉じ込めておくための鳥籠に。
 そして二つめの目的は、自分が年少クラスの園児よりも劣った存在だという意識を早苗の心の奥底に植えつけることだ。
 まわりの園児たちが上手にお箸を使ってお弁当を食べている中で加世子や遥香から哺乳壜のミルクを飲まされたり、他の園児たちが元気いっぱいに園庭を駆け回ったり、かろやかなリズムに合わせてお遊戯をしている様子を、体操服やスモックの裾からおむつカバーを半分ほど覗かせた姿で芝生や遊戯室の床にぺたんとお尻をつけて見学させられたりしているうち、哺乳壜の乳首を吸ってミルクを飲み、よちよち歩きしかできないせいで駈けっこの列に加われず、思うように体を動かせないからお遊戯の輪にも混ざれない自分のことを、早苗は、周囲の園児たちよりも劣った存在だと無意識のうちに思い込むようになる筈だ。
 そうなれば、いずれ、周囲の園児たちは早苗のことをあからさまに妹扱いするようになり、逆に早苗は周囲の園児たちのことを自分よりも年長者だと思い込むようになるに違いない。
 そのようにして摩耶が目論む二つの目的が達成された先には、来年の春を迎え、一緒に入園式に臨んだ級友たちが年中クラスに進級する一方で、自分はおむつ離れできないことを口実に年少クラスに留め置かれ、本来なら自分よりもずっと年下の園児たちからますます妹扱いされるという羞恥きわまりない未来が早苗を待ち受けているのだ。
 いや、それは来年のことに限らない。摩耶の企みによって、その次の年も、またその次の年も、更にまた次の年も、周囲の園児たちが次々に年中クラスに進級し、年長クラスに進級し、幼稚園を卒園して小学校に入学してゆく中、早苗はいつまでも、一人だけおむつの外れない年少さんとして生きてゆく定めに身を置くことを余儀なくされてしまうのだった。

 だが、当の早苗は、自分がどれほど恥辱に満ちた将来を生きてゆく宿命にあるのか、まだ知らない。今はただ、高校生でありながら再び幼稚園に入園させられることになった運命の悪戯に、スモックの裾から半分あらわになったおむつカバーを僅かでも覆い隠すために広げた掌をぷるぷる震わせるばかりだ。




「遥香が早苗ちゃんにお乳を飲ませてあげる。遥香、早苗ちゃんに哺乳壜でお乳を飲ませてあげるの、とっても上手なんだよ」
 最初はそれとなく摩耶と佳子たちの会話に耳を傾けていた遥香だが、難しい話しが続くうちに大人どうしのやり取りにすっかり興味を失ってしまったらしく、早苗のそばに歩み寄って哺乳壜を持ち上げた。
 ソファに腰かけた早苗と、その傍らに寄り添い立つ遥香の背とが殆ど同じになり、哺乳壜を持ってゴムの乳首を口にふくませるのは簡単なことだった。しかも、哺乳壜でミルクを飲ませてもらうのがすっかり習い性になってしまった早苗だから、最初の頃と違って乳首を拒むこともない。
「おっきしてすぐのお乳は真澄お姉さんに飲ませてもらったのかな? 本当は遥香が飲ませてあげたかったんだけど、遥香も朝早くからママと一緒に幼稚園へ来なきゃいけなかったから飲ませてあげられなかったんだよ。だから、その分、ここで飲ませてあげる。こぼさないようにゆっくり飲もうね」
 遥香は哺乳壜を両手で支え持ち、早苗の唇が動くたびにミルクの表面にたつ小さな泡をみつめて優しく言った。
 そんな遥香と早苗の様子を眺めながら、真澄は香り高いお茶をふくむ。

 早苗が腰がぶるっと震わせ、それまでゴムの乳首を吸っていた口を半開きにし、ミルクを唇の端からこぼしてしまったのは、哺乳壜が半分ほど空になった頃のことだった。
「どうしたの、早苗ちゃん!?」
 遥香が叫び声をあげながら急いで哺乳壜を早苗の口から引き離した。
「心配しなくても大丈夫よ、遥香ちゃん。ちっとも慌てるようなことじゃないから」
 慌てふためく遥香とは対照的に、真澄が落ち着いた様子でポケットからハンカチを取り出すと、早苗の口元と顎先に付着している小さな雫を拭き取り、スモックの胸元に沁み込んだミルクを拭い清めながら遥香に声をかける。
「でも、でも……」
「大丈夫だってば。病気にかかったわけでもないし怪我をしたわけでもない、いつもと同じ早苗ちゃんなんだから。おうちで遥香ちゃんがお世話をしてあげている、いつもと同じ早苗ちゃんなんだから。ほら、哺乳壜を机に置いて、ちょっと手を貸してごらん」
 真澄は穏やかな声で言い、遥香の手首をつかんで早苗のおむつカバーに掌を押し当てさせた。
「あ……」
 掌に伝わる僅かな温もりと微かなせせらぎめいた感触。
「……しちゃってるの、早苗ちゃん?」
 遥香はしばらくの間おむつカバーの上に掌を這わせてから、おむつカバーの股ぐりに人差指と中指をそっと差し入れた。
「出ちゃったんだね」
 探るまでもなく指先から伝わるぐっしょり濡れた感触に遥香は早苗の顔とおむつカバーを交互に見比べた。
 真澄の言う通り、それは遥香もよく見知っている『いつもと同じ早苗』だった。哺乳壜のミルクを飲むとすぐおしっこをしくじってしまう、いつもと同じ早苗。
 これまでは利尿剤のせいでおもらしをしてしまっていたのが、今日は利尿剤を服用させられていないのにもかかわらず失敗してしまったという相違点はある。しかし、尿意を覚えた瞬間、トイレへ行こうと思う間もなく(もう少し正確に言えば、トイレへ行くことを無意識のうちに拒んで)粗相をしてしまうよう条件付けされ、自分の意志とはまるで裏腹におしっこをしくじってしまう早苗は、『いつもと同じ早苗』以外の何者でもない。
 遥香はおむつカバーの股ぐりに指を差し入れたまま、こちらの様子を窺っている加世子に向かって
「先生、早苗ちゃんのおむつ、取り替えてあげてください。遥香、早苗ちゃんをあやしてあげます。だから、その間に先生、おむつを取り替えてあげてください。濡れたおむつのままじゃお尻が気持ち悪くて早苗ちゃん泣いちゃいます。早苗ちゃん、とっても泣き虫で、おうちでもすぐ泣いちゃうんです」
と、それこそ実の妹の粗相を親身になって気遣う姉さながらの声で言った。
「そう、おむつが濡れちゃったんだ、早苗ちゃん。うん、わかった。すぐに取り替えてあげようね」
 加世子は湯飲みを置いてすっと立ち上がり、足早に早苗のそばへ歩み寄った。
 その間に摩耶が、紙袋から一組分の新しいおむつを取り出して重ね合わせ、床に敷いたままになっているバスタオルの端にそっと置く。
「さ、いらっしゃい。先生がおむつを取り替えてあげるから」
 加世子は早苗の脇の下に手を差し入れてソファから立たせ、手を引いてバスタオルの方に歩き出した。
 一瞬は身をよじる早苗だったが、遥香がガラガラを振ってお腹を優しく叩くと、まるで抵抗の気配もしめさず、手を引かれるまま元いた場所をあとにして加世子につき従い、バスタオルの上に横たわる。
「そうそう、そのままおとなしくしているのよ」
 加世子は優しく話しかけながらスモックと体操服の裾を早苗のお腹の上に捲り上げ、おむつカバーの腰紐に指をかけた。
 その傍らでは遥香が、いったん机の上に置いた哺乳壜を再び手にして膝に床をつき、ゴムの乳首を早苗の唇に押し当てる。
「さ、お乳の続きを飲もうね。哺乳壜は遥香お姉ちゃんが持っててあげるから大丈夫。早苗ちゃんはお乳を飲んでおとなしくしていればいいのよ。その間に先生がおむつを取り替えてくれるからね」
 遥香はそう言って哺乳壜の乳首を早苗の口にふくませた。
 この状態で首を振ったり何かを言ったりすればミルクが口から溢れ出し、頬と顎先とスモックの胸元を濡らしてしまうのは早苗にもわかっていた。もしもそんなことになったら、それを口実に今度はまたどんな目に遭わされるか知れたものではない。
 加世子がおむつカバーの腰紐をほどき、前当てのスナップボタンを手早く外して横羽根のマジックテープを剥がすと、おしっこをたっぷり吸ってじっとり濡れたおむつがあらわになる。幼稚園の年少さんというよりも、まだ離乳食にも早い赤ん坊そのまま、哺乳壜でミルクを飲ませてもらいながらぐっしょり濡れたおむつを取り替えてもらうしかない早苗だった。




 それから少し後、早苗を取り囲むようにして摩耶と真澄、奈美恵と遥香の姿が園庭の一角にあった。
 五人がいる場所は、園庭に植わっている桜の木と園舎を背景に写真を撮ることができ、我が子の晴れ姿をカメラに収めようとして入学式の日には順番待ちの長い行列ができる人気の撮影スポットだ。それが、今日は他の新入園児や保護者が一人もいなくて貸し切り状態だからと摩耶が言い出し、せっかくだからみんなで記念写真を撮ろうということになって、早苗をスモックと体操服からセーラースーツの制服に着替えさせて桜の木の前に集まったのだった。

「それじゃ、最初はご家族三人で撮りますね。そうそう、早苗ちゃんを真ん中にしてください。――じゃ、撮ります。はい、チーズ」
 摩耶から受け取ったカメラを構え、シャッターに指をかける奈美恵。
 だが、その瞬間、春先特有の急な突風が園庭に吹き渡った。
「きゃっ!」
「やだっ!」
 口々に悲鳴をあげてスカートの裾を押さえる真澄たちだったが、その中で早苗だけは、自分の置かれた状況に自失してしまっていて、いたずらな風が制服のスカートをふわっと舞い上がらせるまで、茫然としたままだった。
「……!」
 両脚の間を風が吹き抜ける感触に早苗はようやく我に返り、声にならない悲鳴をあげながら両手でスカートを押さえたが、その時はもう遅かった。
 丈の短い制服が風に煽られて捲れ上がり、それまでかろうじてスカートの下に隠れていたおむつカバーがあらわになる。
 その瞬間、眩い光が早苗の目を射た。
 光の正体はカメラのフラッシュだった。おそらく奈美恵が、片手でスカートを押さえた拍子に、もう一方の手に持つカメラのシャッターを押してしまったのだろう。
 そこへ、こちらもスカートを押さえながら摩耶が
「ナイスショット! いいタイミングだったわよ、プロ顔負けね」
と奈美恵に声をかける。
 すると真澄が奈美恵のそばに駈け寄り、カメラの液晶を覗き込んで
「やだっ、最っ高! とってもいい構図に撮れてる!」
と嬌声をあげ、
「この写真、絶対に削除なんてしないできちんと保存しといてあげなきゃね。恥ずかしそうにしてる早苗ちゃんの顔、可愛いったらないんだから。それに、今は困った顔をしている早苗ちゃんだって、幼稚園を卒園する時には、この写真を見て『私にもこんな頃があったんだ。でも、もう私はパンツのお姉ちゃんだもん。この頃のおむつの私じゃないもん』って昔の自分を思い出して懐かしがるに決まってる。そんな大切な記念の写真なんだから、ちゃんと置いといてあげなきゃいけないよね」
と摩耶に同意を求めた。
「そうね。卒園する時には、いい記念になるでしょうね」
 真澄の言葉に、皮肉めいた表情を浮かべ、『卒園する時』という部分を妙に強調して摩耶は応じた。
 早苗が附属幼稚園を『卒園する時』というのは果たしていつ来るのだろうか。いや、そもそも、早苗は幼稚園を卒園する時を迎えることができるのだろうか。
 それは、幼稚園の園長である佳子にも、たんぽぽ組の担任である加世子にも、そして、当の早苗自身にもわからない。
 それを知っているのは、摩耶と真澄の二人だけなのだ。




 その後も、一人で桜の木に寄り添ってみたり、遥香と手をつないでぎこちない微笑みを浮かべてみたり、摩耶や真澄と並んでみたりと、早苗は様々な構図でカメラに収まることを強要された。それも、制服姿だけでなく、いったん脱いだ体操服をもういちど着せられたり、更にその上に再びスモックを着せられたりと、完全に着せ替え人形扱いで。

 そんなふうにたっぷり時間をかけて写真の撮影が行われているうちにまたもや早苗は尿意を覚え、腰をぶるっと震わせる。
 桜の木のそばに置いてあるベンチに早苗と二人並んで座ってカメラのレンズに微笑みかけていた遥香がそのことに気づき、まるで逡巡するふうもなくおむつカバーの股ぐりに指を差し入れた。
「……あ……」
 大人に比べて体温が高い幼い子供の指が内腿をまさぐる感触に、あえかな喘ぎ声が早苗の口を衝いて出る。
 ほこほこと暖かい春の日差しの下、通気性のよくないおむつカバーにくるまれてうっすら汗ばむ下腹部の湿り気を布おむつが吸ったのだろう、遥香の指先に僅かにじっとりした感触があった。
 そして、しばらくすると、今度は、それとはまるで違う、ぐっしょり濡れた感触を遥香は指先に覚える。
 早苗は自分の腿の上に置いた拳をぶるぶる震わせながら首をうなだれるばかりだ。
 遥香は何も言わずにおむつカバーから指を抜き去るとベンチからおり、早苗の正面に立って、わなわな震えている背中に両手をまわした。
 早苗の肩がぴくんと震えたが、それは一瞬のことだった。
 遥香は心もち背中を丸めるようにして早苗の体を抱き寄せ、自分の胸を早苗の顔に押し当てた。
「……ふ、ふぇ……ふぇ、ふぇ〜ん」
 早苗の口から微かな嗚咽の声が漏れ出し、いつしかそれが、弱々しい泣き声に変わってゆく。
「よしよし、いい子いい子。早苗ちゃんは年少さんなんだよ。年少さんだったらおむつの外れてない子はたくさんいるんだよ。だから泣かなくていいんだよ。先生に助けてもらって、おむつとさよならするお稽古をすればいいんだから」
 遥香は左手で早苗の背中を撫でさすりながら右手を早苗の頭に移し、優しく髪を撫でつけた。
「う、うう……う、うわ〜ん」
 早苗は、それまで自分の腿の上に置いていた手を遥香の背中にまわし、ベンチに座ったまま、遥香の薄い胸に顔をぎゅっと押し付けて泣きじゃくる。
「ちっちが出ちゃったら、遥香お姉ちゃんがおむつを取り替えてあげる。今日は朝から遊んであげられなくてごめんね。寂しかったでしょ? 寂しくて寂しくて堪らなくて、それに、ちっちが出ちゃって、それで泣きたくなっちゃうんだよね。でも、もういいんだよ。おままごとの続き、ここでしてあげる。今日から早苗ちゃんと遥香、本当のシスターペアなんだよ。今日から早苗ちゃんと遥香、年少さんの妹と年長さんのお姉さんなんだよ。だから、早苗ちゃんのおむつは遥香が取り替えてあげる。――ううん、今日だけじゃないよ。明日も、入園式の日も、早苗ちゃんが幼稚園に通うようになってからも、お姉ちゃんがおむつを取り替えてあげる」
 遥香は髪を何度も撫でつけながら早苗の耳元で優しく囁きかけた。




「出ちゃったみたいね」
 早苗の泣き声がおさまるのを待って、遥香の傍らで真澄が言った。
「遥香、早苗ちゃんを園長先生のお部屋へ連れて行ってあげる。園長先生のお部屋で阪口先生と一緒に早苗ちゃんのおむつを取り替えてあげる」
 遥香は真剣な面持ちで真澄の顔を見上げた。
 だが、それに対して真澄は軽く首を横に振って優しく言う。
「ううん、連れて行かなくていいよ。濡れたおむつのまま園長先生のお部屋まで歩かせちゃ早苗ちゃんが可哀想だから、ここで取り替えてあげようね。私が園長先生のお部屋へ行って替えのおむつを取ってくるから、遥香ちゃんはその間、早苗ちゃんがむずがらないようあやしてあげてちょうだい」
「うん、わかった。遥香、真澄お姉さんが戻ってくるの、早苗ちゃんをあやして待ってる」
 遥香は早苗の背中にまわした手に更に力を入れた。
 その途端、遥香の胸に顔を押し付けたまま早苗がくぐもった声で呻く。
「い、いや。こんな所でなんて、そんなのいや」
 敷地は防犯のために高さ二メートルほどのフェンスで囲ってあるから、園内の様子が通行人の目に触れることはない。しかし、周囲に立ち並ぶ民家の二階の窓からなら園庭の様子は手に取るように見渡すことができる。
 園庭でのおむつの交換を早苗が拒むのは当然だ。
 だが、そんな早苗を摩耶が
「ふぅん、ここでおむつを取り替えてもらうのを嫌がるってことは、濡れたおむつのまま園長室まで歩くのも平気なんだ、早苗ちゃん。だったら、このままお家まで帰るのも平気よね? 濡れたおむつのまま駅まで歩いて、濡れたおむつのまま電車に乗って、濡れたおむつのまま駅からお家まで歩くのだって平気よね? ――紙おむつは吸い取ったおしっこをゼリーみたいに固めてくれるけど、布おむつはそうじゃないのよ。今はよくても、ずっと濡れたおむつのままでいると、吸い取ったおしっこが沁み出してきて、おむつカバーから横漏れしちゃうのよ。でも、早苗ちゃんは平気なのよね? おしっこが横漏れしてるおむつカバーで電車に乗っても平気なのよね?」
と、ねっとり絡みつくような口調で追い詰める。
「そんな、そんな……」
 言われて早苗は遥香の胸から顔を離し、涙に潤む恨めしげな目で摩耶の顔を見上げた。
「どっちがいいのか、早苗ちゃんに選ばせてあげる。さ、どうしてほしいのかな、早苗ちゃんは?」
 口調こそ穏やかだが、摩耶は早苗を追い詰めることをやめようとはしない。
「……」
 どうしてほしいのか問われても答えようなどない。早苗は摩耶の顔から目をそらし、唇を噛みしめて、再び遥香の胸に自分の顔を押し当てた。
「あらあら、そんなに遥香お姉ちゃんに甘えたくて仕方ないんだ、早苗ちゃんたら。それじゃ、少しでも早くお家に帰っておままごとをさせてあげなきゃね。いいわ、このまま帰りましょう。このまま、濡れたおむつで帰りましょう」
 摩耶は、小刻みに震える早苗の肩に手を置いた。
 早苗の脳裏に、おむつから沁み出しおむつカバーから漏れ出したおしっこを内腿に伝い滴らせながら吊革をつかんで列車の通路に立つ自分の姿と、それを指差して何やらひそひそと言い交わす乗客たちの姿が浮かび上がる。
 早苗は遥香の胸に顔を押し付けたまま、一度だけ大きく横に首を振った。
「だったら、ここで取り替えてほしいのね? このベンチにころんしておむつを取り替えてほしいのね?」
 有無を言わさぬ口調で摩耶は決めつけた。




「真澄お姉さんにおむつを取り替えてもらう間、おとなしくしてようね。ほら、からころ〜」
 ベンチに腰かけ、膝の上に早苗の頭を載せて、遥香がガラガラを振る。
「よかったね、大好きな遥香お姉ちゃんに膝枕をしてもらって。すぐに済むからお利口さんにしているのよ」
 真澄は早苗が着ている体操服とスモックをお腹の上まで捲り上げておむつカバーの腰紐に指をかけた。
「今のうちに、お外でおむつを取り替えてもらうお稽古をしておいた方がいいわよ。体操の時間や砂場遊びをしている時におもらししちゃった年少さんはこんなふうにお外でおむつを取り替えてもらうんだよって遥香ちゃんが教えてくれたわよ。だから、今のうちに慣れておきましょうね。その時になってむずがって先生を困らせないように」
 自分よりも一回り年下の幼女に膝枕をしてもらい、昔は自分が可愛がってやっていた四つ年下の少女の手でおむつを取り替えてもらっている早苗の顔を見おろして、摩耶は言った。
 そうして摩耶は、すぐそばに寄り添い立つ奈美恵の顔に視線を転じ、
「そろそろお昼だけど、この近くにおいしいランチを食べさせるお店とかあるかしら。もっとも、小さな子供連れだから、本格的なレストランには入れないでしょうけど」
と話しかける。
「それだったら、幼稚園と駅の中ほどの所にいいお店がありますよ。PTA仲間のお母様たちとよく行くんですけど、幼稚園や小学校が近いからでしょうね、小さな子供を連れたお母さんたちのことをよく考えてくれているお店で、たとえば赤ちゃん連れだったら、粉ミルクを溶かすお湯をサービスしてもらえたりもするんです。トイレも広くて、おむつを交換する時に使う台も立派なのが用意してあって、みなさん重宝していますよ」
 にこやかな笑みを浮かべて奈美恵が言った。
「遥香もあのお店大好き。キッズプレートがおいしいんだよ。ハンバーグと唐揚げとポテトが付いてて、それにプリンも付いてて、とってもおいしいんだよ」
 横合いから弾んだ声で遥香が割って入る。
「じゃ、お昼はそこにしましょうか。私たちはランチで、遥香ちゃんはキッズプレートで、早苗ちゃんは、園長室で飲んじゃったのとは別にお昼用の哺乳壜を持って来ているから、それでいいわね。――あ、それと、ベビー用品を売っているお店も近くにあると助かるんだけど。真澄のお下がりのおむつをみんな幼稚園に預けちゃったから、家には遥香ちゃんのお下がりしか残ってないのよ。それじゃ足りないから新しいおむつを買っておきたいんだけど」
 摩耶は遥香に向かって軽く頷いてみせ、もういちど奈美恵の方に向き直って言った。
「それも駅の近くにありますよ。大手のチェーン店で、おむつ用の反物も仕立て上がりのおむつも揃っているから、お昼を食べてから寄ってみましょうか」
「助かるわ。それじゃ、案内、よろしくお願いね。なにせ、一度にたくさんあててあげなきゃいけないから、おむつがいくらあっても足りないのよ」
 摩耶は、柔らかなおむつの上にお尻を載せて横たわっている早苗の無毛の下腹部に目をやり、満足そうに口元をほころばせて言った。
 そこへ再び遥香の弾んだ声が割って入る。
「早苗ちゃんのおむつ、遥香が選んであげる。遥香が、早苗ちゃんにお似合いの可愛い模様のおむつを選んであげる」
「じゃ、お願いね。早苗ちゃんも、大好きな遥香お姉ちゃんに選んでもらったおむつだったら喜ぶわ。おむつを交換してあげるたびにむずがって仕方ない早苗ちゃんだけど、遥香お姉ちゃんに選んでもらったおむつだったら大喜びで取り替えてもらいたがるわよ、きっと」
 摩耶は相好を崩しておおげさに頷いた。
 柔和な笑みをたたえる摩耶の瞳に宿る妖しい光の存在を知っているのは真澄だけだ。

 季節は春。
 暖かな日差しの下、早苗のお尻を包み込んだおむつカバーの上に桜の花びらが舞い落ちる。
 二度と卒園のかなわぬ幼稚園に早苗が迎え入れられる日はすぐ目の前に迫っていた。
 今はまだ七分咲きの桜も、その日には、早苗の入園を祝って全ての蕾が残らず色づき艶やかに咲き誇ることだろう。



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