CETI 〜宇宙鯨の声が聞こえる〜



 説明を聞いたミウは両方の電子アイを大きく見開いてオヤジの顔をみつめた。そうして、どこか信じられないというような声でぼそっと言った。
「おじさんの話だと、そのお客さんが捜してる遠縁の親類っていうのは地球人のことを指してるように思えて仕方ないんだけど……」
「その通りじゃよ。客人が捜しておった遠縁の親類というのは、お嬢ちゃんたち地球人類のことなのじゃ」
 あっけらかんとオヤジは応えた。
「え? でも、どうして?」
 呆然とした表情を浮かべたミウは早口で訊き返した。
「詳しいことはワシが話すより本人から聞いた方がいいじゃろう。客人の言語とお嬢ちゃんたちの言語とを相互翻訳するための辞書を転送するから、それをインストールして客人と話すがええ。――お嬢ちゃんは電子スピン=ビット変換インターフェースを装備しておるかな?」
 オヤジはミウに向かって人差し指を突き出した。
「あ、はい」
 つられてミウも人差し指を突き出した。
 0と1の二進数を表現する方法は幾つもある。最も簡単なのは電流のオンとオフに対応させる方法だし、最も古いフェライトコアメモリーでは、磁性の有無を0と1に対応せていた。電子スピンの方向を0と1に対応させるのもそんな方法の1つだが、電子が1つあれば1ビットを表現できるため、メモリーの小型化やデータ転送速度の向上に最適である。しかも、インターフェースの接触面積を広く取って複数の電子をやり取りすれば、よりデータ転送速度を上げることができる。オヤジとミウの人差し指の先端がそのインターフェースになっていた。にしても、そんなインターフェースを装備した不定形生物、このオヤジ、ただ者ではない。
 二人が人差し指の先を触れ合わせた。
 暖かい光がぽっと灯る。
 自転車で月夜の空に飛び出しそうになるほどの高揚感に包まれる。
 250Gbpsの転送レートで90秒かけて、ようやく、オヤジが内蔵している辞書をミウのメモリーに取り込むことができた。
「用意はいいかの?」
 触れ合わせていた人差し指を戻して、オヤジは気遣わしげに尋ねた。
「はい。辞書再編ユーティリティも問題なく終了しました」
 ミウが応えた。
「それじゃ、客人を呼ぶことにしようかの。――さ、そろそろ出てきなされ」
 オヤジは物陰に向かって手招きをした。
 けれど、実は、客人に対して「さ、そろそろ出てきなされ」と呼びかけた声はヨーコの耳には届いていなかった。それもその筈、呼びかける言葉は、声に出して言ったのではなく、14.4ギガヘルツの電波に載せて伝えたのだった。電波を送受信する機能を備えたミウには聞こえても、生身のヨーコには聞こえない。

 オヤジの呼びかけに応じて姿を現した『客人』は、確かに、地球人とはまるで異なる外見をしていた。銀色に光る外被に覆われたずんぐりした体は、生物というよりもロボットじみて見えた。スペーススーツのヘルメットのように殆ど凹凸のない顔と、どんな光も電磁波も反射してしまいそうにぎらぎら光る身体は、あるいは、宇宙服に身を包んだ20世紀終盤から21世紀初頭にかけてのアストロノーツの姿に見えなくもない。
『初めまして、地球のお嬢さんたち。私はク・マニャンといいます。よろしく』
 突然、ミウの口から男性の声が流れ出した。見ての通り、『客人』の顔には耳も口もない。音波によらず、電波によってコミュニケーションを成立させる種族なのだ。実際、『客人』は、オヤジが呼びかけたのと同じ14.4ギガヘルツの電波でミウに話しかけたのだった。けれど、そのままではヨーコには聞こえない。そこで、ミウが、オヤジから受け取った辞書で地球語に翻訳した『客人』の言葉を音声に変換して出力しているのである。
「おじたんのお名前、ク・マニャンたんっていうの?」
 初めて見る異形の人物の姿に怯える様子もなく、ヨーコが笑顔で話しかけた。
『そうだよ、ヨーコちゃん。おじさんはク・マニャン。遠い遠いお星様からヨーコちゃんたちに会うためにやってきたんだよ』
 音声はミウにまかせて、ク・マニャンと名乗った異星人は親愛の情をしめすかのように両手を振ってみせた。
 ヨーコもそうだが、不思議とミウも、ク・マニャンの仕草に恐怖や不安を感じない。
「遠いお星様?」
 ヨーコは興味深そうに訊き返した。
『ヨーコちゃんたち地球の人たちが《南の熊猫座》と呼んでいる星座の中におじさんの星があるんだ。ベータ・パンダヌスの第4惑星、それがおじさんの故郷なんだよ。――そうして、ヨーコちゃんたち地球人の遠い故郷でもあるんだよ』
 ク・マニャンはふと上の方を見上げる仕草をした。表情のないク・マニャンの顔に哀しみの表情が浮かんだように見えたのはミウの気のせいだろうか。
「お星様がヨーコのふるさと? ヨーコ、わかんない」
 ヨーコは小さくかぶりを振った。
『そうだね、ヨーコちゃんには難しくてわからないかもしれないね。でも、おじさんの話すことは本当のことなんだ。お伽話だと思ってくれてもいいから、おじさんのお話を聞いてくれるかい』
 そう言ってク・マニャンが話し始めた内容は――。

 地球の暦法で今から6万年ほど前、恒星ベータ・パンダヌスに、突如として異常が発生した。ク・マニャンの先祖たちはその時代、ベータ・パンダヌスから注ぐ光や熱を利用するのみならず、ベータ・パンダヌスそのものの地場を変動させることでもっと直接的にエネルギーを入手するための実験を始めており、その実験がベータ・パンダヌスの熱核反応に不安定を生じさせて異常を引き起こしたのではないかとも思われるが、正確なところは不明だった。しかし、原因が特定されないとはいえ、異様に活性化した熱核反応は、第4惑星の生命活動に致命的な結果を及ぼすことは確実だった。摂氏200度を超える熱風の嵐、地表を焼き尽くす赤外線、生きるものの皮膚を残らず焼けただれさせる紫外線、全ての生物の遺伝子を徹底的に傷つける放射線シャワー。当時の科学者のシミュレーションは、第4惑星のみならず、ベータ・パンダヌス恒星系全ての惑星が壊滅的な打撃を被る結果を予測した。
 けれど、高度に発達した科学技術を有していたク・マニャンの先祖たちが座して死を待つわけがなかった。ただちに二つのプロジェクトが立ち上げられた。一つは、壊滅的な環境破壊に耐えられるよう住民の身体を改造し、かつ、改造の結果が子孫にまで受け継がれるよう積極的に遺伝子操作を行うプロジェクト。もう一つは、住民の遺伝子を収納したカプセルを他の星系に向けて飛ばし、その地で直系の子孫を繁栄させるプロジェクト。一つめのプロジェクトは環境変化に対する闘いであり、二つめのプロジェクトは、闘いに敗れた時の保険という性格を帯びていた。
 一つめのプロジェクトによって、住民の身体には徹底的な改造が施された。もともとはヨーコたち地球人とさほど変わらない二足歩行の哺乳類だった住民たちの皮膚は、赤外線と紫外線を効率よく反射する特殊合金に置換され、灼熱の大気を体内に取り込まないようにするため、口といわず鼻といわず、外界に対して解放機構になっている部位は、排泄器官も含めて閉鎖処置を施された。その措置によって食事による栄養補給は不可能になるため、胃や腸などの内臓は摘出され、その代わりに(地球の電気鯰に似た生物の発電器官に遺伝子操作を施して改良・培養した)蓄電器官が移植され、地下深い場所にあるエネルギー供給ステーションでの電磁誘導による蓄電器官へのエネルギー補充が定期的に行われるようになった。音声によるコミュニケーションの代わりに、脳で発生する微弱な電流を増幅して電波を変調することで互いの会話を可能にした。尿や便、汗といった排泄作用も、エントロピーが増大して再利用不能になった熱エネルギーを電磁波として体外に放出するといった仕組みに置換された。男女の性交さえ、遺伝情報を数学的なデータとして電磁波に載せて互いに交換し合う一連のプロトコル(通信手順)として処理するように自らの身体を改造していった住民たちだった。
 それら人工組織への置換を、けれど、いつまでも継続して行う余裕はない。そこで、次世代以後の個体には人工組織と同様の機能を持つ生体組織を発生させるように全ての住民の遺伝子が書き換えられた。その成果として、世代交代が進むにつれて、より過酷な環境に耐えられる機能を生体組織として備え持つ個体が増えていった。だが、それは、なんと物悲しい世代交代だったろう。生まれてきた子供が父親と母親に似ているといって喜びにひたる光景は、そこにはなかった。より高機能の耐環境生体組織を我がものとして生まれ出る子供は、もはや両親とは似ても似つかない姿をしていた。だが、種族保存という大命題の下、両親は、自分とはまるで似ていない我が子の誕生を喜ばなければならなかったのだ。自分と似ていなければ似ていないほど、それだけ、自分たちよりも優れて環境に適応する能力を備えて生まれてきた新しい世代の個体なのだから。
 二つめのプロジェクトも決して順調に経過したとは言い難かった。遺伝情報を書き換える前の住民の遺伝子を集め、それを慎重に結晶化して特殊なカプセルに封入するまではうまくいった。だが、カプセルを積んで飛び立った幾つもの無人宇宙船が、ベータ・パンダヌスの予測不可能な激しい太陽風の直撃を受けて航行不能に陥り、あるいは、あまりに激しい中性子線嵐のために、結晶化して安定している筈の遺伝情報さえもが致命的な損傷を受けてしまっのだった。
 それでも、かろうじて1隻の無人宇宙船だけが、荒れ狂うコロナと行く手を阻むプロミネンスの隙をぬってベータ・パンダヌスの重力圏から脱出したという。けれど、高速で飛びまわる電子雲の直撃を受けたのか、通信装置が機能を停止してしまったため、その無人宇宙船が結局どこの星系を目指して加速していったのかを知る者はなかった。
 そうして、長い長い時を経て、何度も何度も世代交代を重ねて。
 普通の生物なら絶対に生命活動を維持できない環境ながら、一時に比べればベータ・パンダヌス第4惑星の環境もずっと落ち着いてきて、これ以上はないくらいに耐環境特性を自分のものにした住民たちは、大災厄以前と同様の繁栄を取り戻していた。そうして、かろうじて1隻だけ他の星系へと飛び立っていった宇宙船のことを思い出す余裕もうまれた。
 あの船はどこへ行ったのだろう。
 私たちの祖先の遺伝子を封入したカプセルはどの星に届けられたのだろう。
 新しい約束の地で遺伝子は新しい生命としての花を咲かせることができたのだろうか。
「兄弟を捜そう。遠い昔に私たちと離れ離れになってしまった私たちの兄弟を捜そう。あの兄弟たちと再び巡り会うまでは、私たちの真の復活はない」いつしか、それが、住民たちの合い言葉になっていた。
 そして、何人もの住民たちが、祖先の遺伝子を受け継いだ種族を捜し求める、いつ終わるとも知れない旅に出発していった。

 ――そうして旅だった住民の一人が、ヨーコたちの目の前にいるク・マニャンだった。ク・マニャンはラーメン屋のオヤジの助力を受けて、今ようやく、血を分けた兄弟(いや、兄弟と呼ぶには、あまりに生まれも育ちも背負ってきた時間も違う。だから、ク・マニャンは敢えて『遠縁の親類』という表現を使ったのだった)と巡り会うことができたのだ。
「難しくて、ヨーコ、よくわかんない。でも、おじたん、いい人なのよね? ちっとも怖くないもん」
 あどけない笑顔でヨーコはク・マニャンの顔を見上げた。柔らかい肌を持つヨーコと、放射線さえ受け付けない金属質の肌を持つク・マニャンと。姿はまるで違っても、二人は、血のつながった仲間だった。
『そうだよ、おじさんはいい人だよ。ヨーコちゃんもいい子だろう?』
 つるりとしたヘルメットみたいな無表情の顔にそれでもさっきはあんなに悲しそうな表情を浮かべたように思えたク・マニャンの顔に、今は微笑みが浮かんでいるようにミウには見えた。
「うん、ヨーコ、いい子だよ。ミウお姉たまの言いつけをちゃんと聞くいい子だよ」
 ヨーコは両手を元気に振り上げた。
 ヨーコが握り締めているガラガラが鳴って、特殊な閉鎖空間の空気が穏やかに震えた。
『うんうん、そうだね。ヨーコちゃんはとってもいい子なんだね。それじゃ、地球の人もみんな、ヨーコちゃんみたいないい子といい人ばかりなんだろうね。それなら、安心して地球を訪問できるね。おじさん、嬉しいよ』
 ク・マニャンは盛んに頷いた。
「ちきゅうをほうもん……?」
 ク・マニャンの言い方は、幼児退行の進んだヨーコには難しかった。
『うん。おじさんの仲間がみんなでヨーコちゃんの星へ行くってことだよ。おじさんの仲間はみんな、自分たちの親類と会いたくてしかたないんだ。おじさんが地球の場所を教えたら、すぐにやって来ると思うよ。――みんなで地球へ行ってもいいかい?』
 ク・マニャンは腰をかがめ、ヨーコの顔を正面から覗き込むようにして言った。
「うん、いいよ」
 ヨーコはにこっと微笑んだ。
 その言葉に、ク・マニャンがすっくと立ち上がる。そうして、ラーメン屋のオヤジに電波で話しかけた。
「いろいろお手数をかけて申し訳ありませんでした。けれど、私の旅ももうすぐ終わりそうです。あとはベータ・パンダヌス第4惑星に戻ってヨーコちゃんとの会見内容を報告するだけです。もちろん、仲間と一緒に地球を訪れるつもりですが、その時にはオヤジさんの手を煩わせる必要もないでしょう。本当にありがとうございました」
「いいってことよ。あんたのお役に立ててワシも嬉しいんだよ。じゃ、あんたの星まで特急で送ってやろう。それが、ワシのできる最後の手助けってもんだ」
 オヤジは手の甲で鼻の横をぐいっとやって、ク・マニャンの肩をぽんと叩いた。
「なにからなにまでお世話になりっぱなしで。このご恩、一生忘れません」
「いいんだいいんだ。これからもちょくちょくラーメンを食べに寄ってくれればそれでいいんだよ。とは言っても、お前さんの場合は、ラーメンを構成する成分の分子式をデータとして取り込むだけじゃがな」
 オヤジは照れくさそうに言ってから、ヨーコとミウの方に向き直った。
「じゃ、そういうことで、ワシはこのお客人を故郷まで送って行くよ。急かすようでわるいんじゃが、お嬢ちゃんたちも早く自分の船に戻って出発してくれるかね。このままじゃと、閉鎖空間と一緒にベータ・パンダヌス星系まで連れて行っちまうことになるもんじゃから」
「わかりました。――ヨーコちゃん、私たちも急ぎましょう。急いでOMU−1に戻って、この状況をSSDO本部に伝えなきゃ」
 オヤジへの挨拶もそこそこに、ミウはヨーコの体を抱き上げてM2型連絡艇に向かって歩みを急いだ。
 その後ろ姿に、オヤジとク・マニャンが並んで手を振り続ける。

 もうスペーススーツは必要ない。ミウはヨーコの体をロンパース姿のままシートベルトで固定した。
 直後にフルブーストで駐車場を発進するM2型緊急連絡艇。マキシマム5Gの加速が二人の体を耐Gシートに押しつける。
 突然、ディスプレイに映し出される外界の光景がぐにゃりと歪んだ。そうして、無数の星々が、一つの点ではなく、一条の光の筋のように見えたかと思うと、そこにあった筈の屋台が忽然と姿を消していた。
 その後、ディスプレイの光景はすぐに元に戻った。だが……。
「な、何よ、これ」
 航法コンピューターからデータを受け取ったミウが息を飲んだ。
 ディスプレイの上で輝く星々が微妙に位置を変えているのがわかる。
「どうしたの、お姉たま?」
 ミウの声に、ヨーコが不安そうに振り向いた。
「エマージェンシー。それも、ちょっと冗談事じゃすまないほどのエマージェンシーみたいよ、ヨーコちゃん」
 エマージェンシーという言い方が今のヨーコに通じるかどうか、そんなことを気遣う余裕もないミウ。
 確かに、それほどの緊急事態に陥っていた。
 原因は、おそらく、オヤジの屋台が行なった亜空間航法にあるのだろう。ミウたちの連絡艇がまだ閉鎖空間の重力場から充分な距離を取っていないのに、帰還を急ぐ屋台が状況を精査しないまま亜空間航行に入ったため、連絡艇が影響を受けて瞬時の間に位置を移動させられてしまったに違いない。さほど長い距離を移動したわけではないだろうが、元の位置まですぐ近くというわけにはいかないだろう。
 航法コンピューターは、太陽系の外惑星軌道を巡るビーコンから発せられる電波と星座の位置から、瞬くまに自分の位置を割り出した。――M2型連絡艇は、屋台と接触した座標から更に70万キロメートル後方に弾き飛ばされていた。核融合用の燃料ペレットに余裕の無い連絡艇には致命的とも言える距離だった。
「……加速スケジュールを調整してやれば1週間くらいでOMU−1に追いつけるでしょうけど、でも、私の体内の有機タンクには2日分ほどの母乳しか貯蔵してないし、この連絡艇には人工冬眠用のポッドも搭載していない。1週間もの間、ヨーコちゃんの生命活動を保つことなんてできない」
 ミウは胸の中で呟いた。
「それに、ク・マニャンと接触したことを1刻も早くSSDO本部に知らせなきゃ。ク・マニャン一族は少しでも早く地球を訪れようとする筈。それも、もうヨーコちゃんとの会見で地球を訪れる許可を正式に得たと思い込んで行動するに違いない。私たちからの報告も受けないまま何の予備知識もない地球人類とク・マニャンたちとが出会ったら、最悪の場合……」
 ミウは唇を噛みしめた。
 そうして、すぐに意を決したような表情でヨーコに語りかける。
「ヨーコちゃん、これからミウお姉たまが言うことをよく聞いてちょうだい。ヨーコちゃんはいい子だから、ちゃんと聞けるよね?」
「うん。ヨーコ、いい子だよ。何のお話なの、ミウお姉たま?」
 これまで見たことのないミウの真剣な表情に、ヨーコもじっとミウの顔を見つめて応えた。
「OMU−1にはヨーコちゃん一人でお帰りなさい。お姉たまはここに残らなきゃいけないから」
 わざと笑顔を作ってミウは言った。
 途端に、ヨーコが今にも泣き出しそうな顔になる。
「や。ヨーコ、ずっとお姉たまと一緒だもん。お姉たんと一緒に大っきいお船に帰るんだもん」
「でも、ダメなの。この連絡艇――このお船がお腹をすかせちゃって、大きなお船まで帰る力が出ないの。だから、お姉たまがこのお船にごはんをあげるの。ごはんを食べたらこの船は元気になってヨーコちゃんを大きなお船に連れて帰ってくれるのよ」
 なるべくわかりやすそうな言葉を選んでミウは言った。
「でも、このお船が元気になったらミウお姉たんも連れて帰ってもらえるでしょ?」
 泣きそうにしながら、だけどちょっとわけがわからないというふうにヨーコが首をかしげた。
「そうじゃないの、ヨーコちゃん。そうじゃないのよ。このお船にごはんをあげたら、もうお姉たんは帰ることができないの。その時にはもうお姉たんの体が消えちゃってるのよ。だから……」
 だから、わかって。そう言おうとしたミウだが、最後までは言葉にならない。もう、ヨーコにわかるように説明している余裕はなかった。
「……私の動力源は反陽子反応炉なの。本当はまだ制式採用されていないけど、奈緒お兄ちゃまが私だけのために強引に研究室から手に入れてきてくれたのよ。そのおかげで、私はエネルギーの補給を受けずに約300年間に渡って活動を続けることができるの。深海でも宇宙空間でも自由に活動できるパワーを与えてもらったのよ、私は。その膨大なエネルギーを解放すれば、M2型連絡艇くらいの質量なら、10Gを超える加速を与えることができる。エネルギーの解放と言えば聞こえはいいけど要するに爆発みたいなものだから長い時間加速を続けることはできないけど、それでかなりの初速を与えた後に連絡艇の核融合エンジンで加速すれば、5時間くらいでOMU−1に追いつく筈。だから、私はヨーコちゃんと一緒に帰ることができないの。私の体そのものをエネルギーに変えて連絡艇を加速させるんだから」
 そう言って、ミウはシートベルトを外した。
「やだ! 行っちゃやだ、お姉たん。……お姉たんが帰らないならヨーコも帰らない」
 ミウの真似をしてヨーコもシートベルトを外そうとする。けれど、固く締まったバックルは外れない。
「ダメよ、ヨーコちゃん。お姉たんがお船のコンピューターに絶対にヨーコちゃんのベルトを外さないよう言いつけたもの。でも、大きなお船に帰ったら勝手に外れるようになっている心配はいらないわ」
 いつのまにか連絡艇の核融合エンジンは噴射を止めていた。そのために、シートベルトを外したミウが軽く床を踏むと、その勢いでふわっと体が浮いてハッチの方に漂い始める。
「やだ、お姉たん。ヨーコも一緒に行く!」
 シートベルトで固定された体をそれでも力いっぱいよじって、ヨーコは手を伸ばした。けれど、その指先がミウのメイド服の裾に届くことはない。
「我儘を言わずに大きなお船に帰りなさい、ヨーコ」
 わざと厳しい表情で振り返ったミウは、『ヨーコちゃん』ではなく『ヨーコ』と呼んできっぱり言った。
「ク・マニャンたちが地球にやって来ても、私がラーメン屋のおじさんから貰った辞書が無ければ互いの意思疎通は不可能です。ク・マニャンはロボットのような外見をしていても、脳は生体のままだから、膨大なデータ量の辞書を憶えることなどできないでしょう。それに、ク・マニャンの母星の環境はまだまだ過酷だと言っていました。なけなしの資材を使って、住民たちが大挙して地球にやって来るための宇宙船を発進させることはできても、メモリーの殆どは航法プログラムに費やされて、辞書を置いておく余裕があるかどうか怪しいものです。だから、私が受け取った辞書を少しでも早くSSDO本部に転送する必要があるのです。辞書と、ク・マニャンとの会見の様子を録画した動画データを。でも、そんな重いデータをエラー無く月面基地に転送するには連絡艇の通信装置では負荷がかかりすぎます。どうしても、OMU−1の通信装置が必要になるのです。――私が持っているデータは連絡艇の航法コンピューターのメモリーにコピーしました。連絡艇がOMU−1に帰還すると同時に連絡艇のコンピューターからOMU−1の通信装置にリンクする手順も指示しておきました。だから、ヨーコはこの連絡艇でOMU−1に帰りなさい」
「……で、でも、お姉たんがこのお船のコンピューターたんにいろいろ教えてあげたんなら、ヨーコが大っきいお船に帰らなくてもいいんでしょう? みんな、このお船のコンピューターたんがしてくれるんでしょう?」
 ミウの言葉をじっと聞いていたヨーコが、少し考えてから言った。
「ダメなのよ、ヨーコ。OMU−1の通信装置でも、高速大容量伝送を行うには、大口径のパラボラアンテナが必要になるの。非同期通信でエラー無くデータを送るには、とても強いパワーと、とても鋭い指向性が必要になるのよ。でも、加速中のOMU−1が巨大なパラボラアンテナを展開したら、加速による応力でパラボラアンテナはすぐに壊れてしまう。だから、OMU−1の加速を停止して慣性航行に移らなきゃいけないの。だけど、航行スケジュールに従えば、慣性航行に移るのは1週間先のこと。とてもじゃないけど、それじゃ間に合わないの。だから、ヨーコが戻らなきゃいけないのよ。ヨーコが持つ艦長権限で航法コンピューターのプログラムを変更しなきゃいけないの。――私の言ってること、難しいよね。赤ちゃんのヨーコにはわからないかもしれない。でも、わかってちょうだい。あなたは宇宙の子なのよ。私のことはいいから、お行きなさい、ヨーコ。それがあなたの定めなのよ。行きなさい、ヨーコ!」
 ミウは殆ど絶叫していた。
 その剣幕に気圧されたかのように手を止め、それでも諦めきれずにヨーコはぽつりと言った。
「だって、だって、お姉たん言ったんだよ。どんなことがあってもお姉たんがヨーコを守ってあげるって。いつもどんな時も一緒だよって、お姉たんが言ったんだよ……」
 我慢しきれなくなって、とうとうヨーコはしゃくりあげ始めた。
「そう、守ってあげる。どんなことがあっても、私はヨーコを守ってあげる。そのために、私は外へ行くのよ。ロボット工学三原則の第三条は『ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己を守らなければならない』としている。私の新しいOSになったMOTHERは、この第三条を『ロボットは、予測される危険から人間を守る場合に限って、自己の全ての機能を停止することができる』と解釈したの。――地球人とベータ・パンダヌス星系人との出会いが不幸な形に終わって最悪の事態を招く恐れは充分に予測できる。そんな事態を回避するために、私は全ての機能を停止することにしたの。機能を停止して、私が持つエネルギーを連絡艇の推進力に転換するのよ。ヨーコと人類の明日を守るために」
 残像をくっきりと電子アイに焼き付けておこうとするようにヨーコの顔をじっと見つめて、ミウはハッチをくぐってエアロックに姿を消した。
 間を置かずに、外側のハッチが開いたことを示すサインがディスプレイに表示される。そうして、待つほどもなく、そのサインもふっと消えた。
「お姉たん――ミウお姉たん……」
 ヨーコが泣き叫ぶ中、連絡艇の通信装置からミウの声が聞こえた。
『ヨーコ、聞こえる? 私は今、外被を伝ってエンジンに近づいているところよ』
「聞こえる。聞こえるよ、お姉たん」
 ミウは通信装置に向かって大声を出した。
『私はもうすぐ消える。でも、その前にどうしても言っておきたいことがあったの。だけど、ヨーコの前だと私の方が泣いちゃうかもしれないから、こうして外から伝えることにしたの』
「なに? 何なの、お姉たま?」
『私は、ずっとヨーコと一緒にいたかった。ヨーコたち人類と一緒にいたかった。私たち《機械知性》を産み出した人類という種族が太陽系を超えて宇宙の高みにまで進んで行く姿をこの目で見守っていたかった。――ヨーコたち人類は、種族そのものがまだ幼児みたいなもの。太陽系という居心地のいい家からまだ一歩も外の世界へ足を踏み出したことのない、赤ちゃんみたいな種族だわ。でも、いつかは自分の力で外へ出て行かなきゃいけない。その時、先に宇宙へ飛び出した頼り甲斐のあるおじさんが身近にいたら、それはどれほど心強いことでしょう。今回の出会いは、地球人類とベータ・パンダヌス星系人との出会いは、滅多にない幸運な出会いなのよ。行くべき道を指ししめしてくれる存在を得た、こんなにも幸せな形で宇宙へ進出して行った種族は、たぶん他にはいないと思う。ヨーコたち人類は、宇宙から祝福されていると言ってもいいでしょう。だから、絶対に道を踏み外さないでちょうだい。決して驕らず、決して卑屈にならず、宇宙への道を一歩一歩しっかり踏みしめて堂々と進んでほしいの。人類は私を創り出してくれた。だから、私は自分を人類の子だと思っている。人類の子だから、妹を、幼いヨーコを、どんな危険からも守ろうと思った。でも、ク・マニャンたちの後見を得て、もうヨーコは一人で歩いて行ける。私には、その晴れがましい後ろ姿を見送ることしかできない。だけど、後悔はしない。妬みもしない。地球人類という種族と一緒にいられたことを誇らしく思う。――だから、自分の足でお行きなさい、ヨーコ。私がとうとう見られなかった高みを目指して、ゆっくり歩いて行きなさい』
 ミウの声がやんだ。
 その直後、真っ青の光が炸裂した。
 M2型連絡艇のフルブーストも比べ物にならないほどの爆発的な加速がヨーコの体を耐Gシートに押しつけ、そのままシートの中にめり込ませた。
 顔の筋肉が硬直して、お姉たんと叫ぶこともできない。
 溢れ出る涙の雫が耐Gシートの上で1ケ所に集まる。
 とうとう我慢できなくなって失神する直前、ヨーコは再びミウの声を聞いたように思った。
『泣きなさい、ヨーコ。涙が涸れ果てるまで思いきり泣きなさい。そうして泣き疲れたら、今度は眠りなさい。悪い夢をみんな眠りの国に置いてくるまで、思いきり眠りなさい。次に目覚めた時、ヨーコはもう今のヨーコではないでしょう。幼いヨーコちゃんが、今度こそ、宇宙へと羽ばたくキャプテン・ヨーコとして目覚めるのです。そのために、今のうちに思いきり涙を流しておきなさい。今のうちに存分に眠っておきなさい。星の世界を目指して駆け上がる力を蓄えるために』
 それは、対消滅によって純粋なエネルギーと化して姿を消してゆく直前にミウのCPUが発した電波を通信装置が再生した声だった。
 加速のあまりの衝撃に、失神したままヨーコはおしっこでおむつを濡らしてしまった。
 ヨーコの手を離れたガラガラが、キャビンの後壁に叩きつけられて、原型を留めないほどにひしゃげてしまう。
 次に目覚めた時、おむつを取り替えてくれる温かい手の持ち主はいない。ガラガラであやしてくれる優しい手の持ち主はいない。
 だけど、次に目覚めた時、おむつもガラガラも、もうヨーコには必要ではなくなっているだろう。次に目覚めた時、ヨーコは、おむつもガラガラも必要としない存在へと成長している筈だから。

 人類という種族がおむつ離れする時は、もう目の前に迫っていた。

[完]



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