CETI 〜宇宙鯨の声が聞こえる〜



「また、おしっこしたくなっちゃったのね?」
 くすっと笑ってミウはヨーコに言った。
 言われて、こくんと頷くヨーコ。
「いいわよ。ヨーコちゃんはおむつをあててるんだもの、いつでもおしっこしていいのよ。たっぷりおもらししていいのよ」
 ミウは、それまで膝の上に座らせていたヨーコの体を横抱きにして、ヨーコの顔がミウの乳房のあたりにくるように抱き直した。
 ヨーコの顔に、安心しきったような、どこか切なそうな表情が浮かぶ。幼児退行が進んでいるといっても、尿意を感じたからといってすぐにおしっこが出るところまではいっていない。ミウに「おしっこしていいのよ。おむつを汚していいのよ」と言われて、ようやく体の力を抜くことができる。
 ミウは、たくさんのおむつでぷっくり膨れたヨーコのお尻をロンパースの上からぽんぽんと何度も何度も優しく叩き続けた。「ヨーコちゃんはおむつをあててるのよ。だから心配することはないのよ」と無言で知らせるサインだ。
 ミウの胸元に顔を埋めたヨーコの体が小刻みに震えて、ミウの耳に、OMU−1の中で聞いたのと同じ小川のせせらぎのような音が届いた。

 しばらくしてヨーコの体の震えが止まった。
「もういいの?」
 まだヨーコのお尻を叩き続けながら、ミウが囁きかけた。
 ほのかに上気した顔を恥ずかしそうにちらと上げて、ヨーコは小さく頷いた。
「そう、ヨーコちゃんはちゃんとおむつにおしっこできたのね。本当に可愛い子だわ、ヨーコちゃんは」
 ミウも満足げに頷き返してからラーメン屋のオヤジの方を振り向いて言った。
「すみません、この子のおむつを取り替えたいんですけど、どこか人目につかない所がないでしょうか」
「ああ、そんなことかい。お嬢ちゃんたちさえよければ、その長椅子の上で取り替えてあげればいいよ」
 オヤジはこともなげに応えた。
「でも、食べ物商売の店先でそんなことしてる時に他のお客さんがいらしたら迷惑じゃありません?」
「いいってことよ。本当のことを言うとさ、今日はこの店、お嬢ちゃんたちより先に来てたお客さんの貸し切りなんだよ。だから、もう、他の客が来る心配はないんだよ」
 オヤジは大げさに右手を振ってみせた。
「え? このお店、貸し切りだったんですか? 気がつかずにすみません、すぐに帰ります。――あの、お代は幾らですか」
 ここが宇宙空間の屋台だということもすっかり忘れて盛んに恐縮するヨーコだった。
「あ、いいんだ、いいんだ。先のお客さんは、お嬢ちゃんたちをここに招待するために貸し切りになさったんだよ。つまり、先のお客さんとお嬢ちゃんたちの貸し切りってことなんだ。だから、お嬢ちゃんたちには、もっとここにいてもらわなきゃいけねぇんだよ。――ほら、早くおむつを取り替えてやらねぇと、そっちのお嬢ちゃんが風邪をひいちまうよ」
 オヤジが目を細めて微笑んだ。白い歯が眩しい。
「は、はい。それじゃ、お言葉に甘えて」
 なんとなくわけがわからないまま、それでも、ヨーコに風邪をひかせちゃいけないという思いで、ミウはヨーコの体を長椅子の上に横たえさせた。
「おむつを取り替える間、ヨーコちゃんはこれで遊んでてね」
 ミウはヨーコにガラガラを握らせてからロンパースのホックに指をかけた。
 慣れた手つきで、おむつカバーの腰紐をほどいてマジックテープを剥がし、ぐっしょり濡れてヨーコの下腹部のまとわりついている布おむつを手元にたぐり寄せるミウ。
「ほ〜お、お嬢ちゃんたちの星の文明も、なかなか便利な物を作るものじゃな」
 感心したようなオヤジの声が聞こえたのは、汚れたおむつをミウがポリバケツ型リサイクル装置に放り込んだ時だった。オヤジがリサイクル装置のことを言っているのはまず間違いない。
 お嬢ちゃんたちの星――その言葉に、ミウは、はっとしたようにオヤジの顔を見つめた。
「おじさん、地球の人じゃないの?」
 ヨーコのお尻の下に新しい布おむつを敷き込む手を思わず止めて、ミウはオヤジに問い質した。
「おやおや、とっくに気がついているものだとばかり思っておったんじゃがね。考えてみなされ。お嬢ちゃんたちの星の技術では、そういうリサイクル装置は作れても、この屋台を取り囲んでいるようなフィールドを発生させることはできんじゃろ。違うかね?」
 かっかっかと笑ってオヤジが応えた。
 確かにそうだった。屋台の近傍には空気もあるし、地球と同じような重力もある。黄色いロープで囲った駐車場さえある。重力レンズ効果を引き起こしながら重力波センサーでは検出できないような、そんな特殊空間を創り出すような技術は、まだ地球文明には存在しない。
「でも、こうして言葉も通じるのに……」
 それでも信じられない思いでミウは言った。
「それが客商売というものじゃよ、お嬢ちゃん」
「客商売?」
「そうじゃよ。店に来てくださったお客人が何を求めているのか、どんなサービスがふさわしいのか、一目で見抜く眼力。それ無しでは客商売は続けられないというものじゃ。その気構えさえあれば、初めての客人の言葉を操るくらい、たやすいものじゃ。ま、なんじゃな、マニュアルが無いと注文も取れんような近ごろの若いもんには真似もできんじゃろうがね」
 ミウはオヤジの言葉にプロフェッショナルのなんたるかを知ったような気がした。
 けど、とはいっても……。
「ま、あまり小さなことを気にせんことじゃ。広い宇宙には、お嬢ちゃんたちの知らないことがまだまだたくさんあるのじゃよ」
 締めくくるみたいにオヤジは言った。
「あの、それじゃ……」
 どこか不安そうにミウが口を開いた
「……ひょっとして、先のお客さんっていうのも、他の星の人なんですか?」
「もちろん、そうじゃよ。ただ、もともとが不定形生物じゃからお嬢ちゃんたちと同じような姿にもなれるワシとは違って、先のお客さんはお嬢ちゃんたちとはかなり見た目が異なるもんじゃから驚かしちゃいけないってんで、今はちと席を外してらっしゃるのじゃて」
 なんとなく説明ぽい口調でオヤジが応えた(もっときちんと状況を描写できる文章力があれば異星人のラーメン屋にこんな苦労をかけずにすんだのにと反省しきりの作者であった)。
「おじさんと先のお客さんは知り合いなの? そもそも、おじさんはどこの星の人?」
 思いもかけないファーストコンタクトの状況に、いっそ度胸が据わってしまったミウ。宇宙人の生い立ちを尋ねたりし始める。
「お嬢ちゃんたちの母星の人は、ワシの母星がある恒星系を含む星座のことを《鯨座》と呼んでいる筈じゃ。先の客人は、ワシが銀河中央駅前のロータリーで店を開けている時に初めてラーメンを食べに立ち寄ってくれたのじゃが、なにやら人捜しの旅の途中とかで、たいそうお疲れの様子じゃったよ。その後も、アルファ・ケンタウリ第2惑星団地の公園や薔薇星雲で開催された花火大会の会場なんかで何度も出会うての、いつのまにか親しくさせてもらうようになったものじゃ。――そんなことより、そっちのお嬢ちゃんのおむつはいいのかい? なにやら寒そうにしておるようじゃが」
「あ、そうだった。ごめんね、ヨーコちゃん。すぐに新しいおむつをあててあげるからね」
 オヤジに言われて、ようやくミウは、ヨーコのおむつを取り替えている途中だということを思い出した。慌ててヨーコのお尻の下に新しい布おむつを敷き込んで、手早くおむつカバーのマジックテープと腰紐を留める。
 ヨーコの下腹部がようやく新しいおむつに包まれたのを見届けて、安心したようにオヤジは説明を続けた。
「客人の話によると、遠縁の親類を捜す旅を続けているということじゃった。それで、お節介とは思うたんじゃが、その親類の特徴を教えてもらうことにしたんじゃ。こう見えても若い頃は《韋駄天の鯨屋》と呼ばれたこともあるワシじゃ。この銀河はもとより、アンドロメダ銀河まで屋台を引いたこともあるからたいていのことは見聞きしておっての、客人の人捜しのお役に立てるかもしれんと思ったのじゃな」
「それで?」
 いつのまにかオヤジの話に引き込まれてしまったミウは、ヨーコのロンパースのホックを留めると、ヨーコの体を抱き寄せて先を促した。
「幸いなことに、客人から教えてもらった親類の特徴にワシは憶えがあったのじゃ。店を開くのに適当な場所を探して何度か行き来したことのある宙域に、客人から聞いたのと似たような種族が住んでいたのじゃな。客人にそのことを告げたところ、たいそう喜んでの、すぐにでもその場所に連れて行ってくれということじゃった。頼まれて嫌と言えないのがちゃきちゃきの鯨座人というものじゃ。ワシは一つ返事で引き受けると、その客人を屋台の助手席に乗せて馬の首星雲高速道路から銀河オリオン腕周回林道をすっとばしてここまでやって来たのじゃ。見た目はおんぼろ屋台じゃが、エンジンは最新の4バルブ660cc波動エンジンに換装しておるし、足まわりも四次元駆動じゃ。少々の荒れ道も苦にはならん。この星域まで、あっという間じゃったよ。……じゃが、何の挨拶も無しに急にその惑星を訪れるのも失礼にあたるし、何か良い方法が無いものかと思案しておったところに、お嬢ちゃんたちの船が通りかかったのじゃな。そこで慌ててお嬢ちゃんたちの船を追いかけながらチャルメラを吹いて呼び止めたんじゃよ」
 オヤジは自慢のチャルメラを得意げに振ってみせた。



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