「いくらなんでも、悪い駄洒落だわ、これは。よりによって、CETIの相手が《鯨屋》だなんて」
ミウはがくっと肩を落とした。
CETI(Communication for Extraterrestrial Intelligence)をラテン語読みすると『鯨』という意味になる。だから、昔から、CETIのことを「宇宙鯨とのご対面」と言い習わす慣習がアストロノーツの間では一般的になっている。けれど、誰も、まさかそれがこんなふうにど真ん中の表現だとは思いもしなかったろう。あまりのバカバカしさに却ってパニックにも陥らないのが、せめてもの救いだった。
「あ、ラーメン屋さんだぁ。ヨーコ、ラーメンがいい。ね、お姉たま、ヨーコ、ラーメン食べたいのぉ」
一方、ヨーコの方は無邪気なものだ。
なぜラーメンの屋台が宇宙空間に浮かんでいるのか。
宇宙空間に浮かんでいる屋台になぜ初老のオヤジがいるのか。
そもそも本当にラーメンの屋台なのか。
そんなこと、一切気にしない。目の前にあるものが世の中の全て。いっそ、潔い。
「そ、そうね。そうだったわね。直接コンタクトを取ってやるって言い出したのは私の方だったわね。いいわ、行ってみましょう。あの屋台へ」
ある意味落ち着き払ったヨーコの態度に、ミウも平静を取り戻した。航法コンピューターに命じて連絡艇を接近コースに乗せる。目指すは、『駐車場あります』の立て看板だ。それ以外の宙域に駐艇して違反キップを切られたら目もあてられない。
航法コンピューターの滑らかな操縦で連絡艇は黄色のロープで四角に囲んだスペースに駐艇した。咄嗟の時に急発進できるようバックで車庫入れしたのは言うまでもない。
「窒素、酸素、二酸化炭素、燐、etc――全て異常なし。全く地球の大気と同じ成分で同じ含有率です、か……」
艇外に伸ばしたセンサーからの報告を受けたミウは思わず溜め息をついた。こんな所に地球とまるで同じ大気が存在することそのものが異常事態だ。ミウは自分の電子アイに映る光景が信じられなかった。
けれど、屋台の暖簾をかきわけてひょこひょこ近づいてくるオヤジは幻なんじゃない。その証拠に、オヤジの体温を検知した赤外線センサーが反応している。
さて、これからどうしたものか。
ミウは思案顔になった。
突然、連絡艇の通信機のスピーカーから、OMU−1の通信装置が再生してみせたのと同じ音声信号が流れ出した。
ちゃらら〜らら、ちゃららららぁら〜
はっとして、ミウはディスプレイを見つめた。
ディスプレイに映るオヤジがチャルメラを吹いていた。
「お姉たん、早くお船からおりようよぅ。ラーメン屋さんだよぉ」
ヨーコがぐずる。
「でも……」
ミウは言葉を濁した。
『心配いらないよ、お嬢ちゃんたち。ワシは何の変哲もないラーメン屋じゃ。それに、ここにはちゃんと空気もある。安心して出ておいで』
チャルメラの音がやんだかと思うと、一瞬の間も置かず、男性の声がスピーカーから聞こえた。
声は、ディスプレイに映るオヤジの口の動きとぴったり一致していた。
「わかった。じゃ、行くわよ、ヨーコちゃん。でも、スペーススーツはまだ脱いじゃダメ。本当に安全だとわかるまでは脱いじゃダメよ」
意を決したミウはヨーコに言い聞かせると、ヨーコの手を引いてエアロックに足を踏み入れた。
内側のハッチが閉じ、代わりに外側のハッチが開いて、春のお日様みたいな穏やかな光が二人の姿をシルエットに浮かび上がらせた。
先にハッチから出たのはミウだった。
ミウは、自分の体に内蔵してある大気成分分析装置を作動させた。連絡艇のセンサーを疑ったわけではないが、念には念を入れる必要がある。危険を看過することでヨーコを傷つけることだけは何があっても避けなければならない。
ミウの内蔵分析装置も連絡艇のセンサーと同じ結果をしめした。
「大丈夫じゃよ。ほれほれ、重いヘルメットを被らされて、そっちのお嬢ちゃんが窮屈そうにしているようじゃ。心配ないから、早くその窮屈な格好をやめさせてあげるがええ」
今や数メートルしか離れていない位置まで接近してきたオヤジがミウに言った。
ディスプレイを通して見るのではない素顔、スピーカーを通して聞くのではない地声。そのどちらからも、まるで危険の匂いは感じ取れなかった。
妙なことだが、ミウもついつい気を許してしまう、そんな雰囲気を漂わせるオヤジだった。
しばらく迷って、それでもミウはヨーコのヘルメットを外してやった。
ぷはーっと大げさな呼吸をしてみせて、ヨーコはにっとオヤジに微笑みかけた。
「おやおや、想像していたよりも可愛らしいお嬢ちゃんじゃね。うんうん、そうかそうか、ラーメンが大好きかい」
オヤジは相好を崩してヨーコに話しかけた。
そうして、あらためてミウに向かって言葉を続ける。
「お嬢ちゃんは身軽な格好じゃからいいが、そっちのお嬢ちゃんも、もっと身軽にしてあげた方がよくはないかの。ヘルメットだけ取ってやっても、まだ窮屈そうにしておるようじゃて」
オヤジの言う通り、人間ではないミウは最初からスペーススーツも身に着けず、ゴスロリ風のブラウスにメイド服のままだ。その身軽な格好と比べると、いくらミウが仕立て直したとはいえ、スペーススーツ姿のヨーコはいかにも窮屈そうに見える。
「わかりました、そうします」
言われてミウも頷いた。ヘルメットを外してしまった今、スペーススーツだけ身に着けていてもたいした意味がないのも事実だった。
手早く背中のファスナーを引き下げ、上下つなぎになったスペーススーツを脱がせるのに30秒もかからなかった。
スカート付きロンパースに大きな涎掛け、ボンボンの付いたソックスという格好で、ヨーコは大きく伸びをした。
「おやおや、そっちのお嬢ちゃんはまだおむつの取れない小っちゃなお嬢ちゃんだったのかい。それじゃ、まだラーメンは食べられないかもしれないね」
あらためてヨーコの姿を頭のてっぺんから爪先まで見まわして、オヤジは穏やかな笑顔で言った。
「そんなことないもん。ヨーコ、ラーメン食べられるもん。ね、お姉たま?」
助けを求めるみたいにヨーコが言った。
「そうね、赤ちゃんだけど、ラーメンくらいなら食べられるわね。ちゃんと歯も生えてるんだし」
ミウは優しく頷いた。宇宙空間に浮かぶ屋台のラーメン屋に自分がいるんだということが、なんだかどうでもよくなってきたような気がする。
「そうかいそうかい、それはよかった。じゃ、食べていってもらおうか。オイちゃん、お嬢ちゃんのために腕によりをかけて作っちゃうよ」
オヤジがヨーコに向かって右手を伸ばした。
ミウは思わず身構えたが、ヨーコは何の戸惑いもなくオヤジに向かって手を差し延べる。幼児としての本能が、このオヤジが悪い人ではないことを見抜いてでもいるかのようだった。
二人が屋台の前の長椅子に腰をおろしてすぐにラーメンが出てくるわけではなかった。「腕によりをかけて」と言った通り、丁寧にラーメン鉢を温め、存分に麺の油切りをして美味しいラーメンを作ってくれるオヤジだった。かといって、待つ間、客を退屈させることもない。二人を気遣うように、いろいろ話しかけてくれるオヤジだった。その中にはチャルメラの話題も混ざっていたが、この話題になると特にオヤジは
「いやぁ、チャルメラは振幅変調に限りまさぁね。最近の若いヤツらときたら、やれパルス変調だ、やれ位相変調だとか言って目新しい物にとびついてやすが、あっしに言わせりゃ、あんな甲高いばかりのキィキィ音、チャルメラとは呼べませんや。やっぱし、チャルメラっていうのは、振幅変調の味わい深い音色が命ってもんでさぁね。お嬢ちゃんたちもそう思いやせんか」
と特に熱を入れて語ったものだ。どこにでも昔からの職人気質というのはいるものである。
そうして、しばらく待った後、白い湯気を立てるラーメンをオヤジがカウンターの上に置いた。
「へい、お待ち。鯨屋の特製ラーメンだよ」
威勢のいいオヤジの声が響く。
まず手をつけたのはミウだった。かといって、決してミウが空腹だったわけではない。ラーメンに含まれる成分を分析するためだった。
ミウは器用に片手で割り箸を割ると、麺をずずずっとすすり込んだ。
すぐに分析装置が作動を始める。ミウの舌と直結した分析装置が、スープに含まれる成分を瞬時に割り出し、麺が胃に達した時には、それを素早く分解して麺に含まれる成分をリストにしてミウの電子頭脳に送り出す。
体に有害な成分は検出されなかった。
強いて言えば、少し塩辛いかなという程度だ。
ミウはもう一度ラーメンを啜った。
だけど今度は、口の中でくちゃくちゃするばかりで、なかなか飲み込もうとしない。
口の中でラーメンを噛みながら、ミウは、隣に腰かけているヨーコの体をひょいと抱え上げて自分の膝の上に座らせた。そうして、自分の口をヨーコの口に押し当てる。
「ヨーコちゃんは赤ちゃんだから、こうして口移しで食べさせてあげるのよ。それに、こうすれば、塩辛いのも薄まるから」
少しくぐもった声で言って、ミウは柔らかくなったラーメンを舌でヨーコの口の中に押し込んだ。
ぴちゃぴちゃという、ラーメンを咀嚼する音がヨーコの口から聞こえ始める。
食べ終わると、何度も何度もヨーコは雛鳥みたいに大きく口を開いてミウが口移しで食べさせてくれるのを待った。
そのたびに、ミウはラーメンやチャーシューを自分の口で柔らかくしてヨーコの口の中に押し込んでやる。
そんなことが繰り返し続いた後、ヨーコの表情が変わった。
どことなくもじもじするような、なんだかはにかむような表情を浮かべて、さかんに何か言いたそうにするヨーコ。
なのに、せっかく開きかけた口を、恥ずかしそうに閉ざしてしまうヨーコ。
その仕種に、ミウは思い当たる節があった。
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