ママは同級生 〜オープニング〜



 西村美也子が佐野茜の家にやって来たのは3月下旬、春休みが始まった日の穏やかな昼下がりのことだった。
 庭の花に如雨露で水をやっていた茜が車の音に気づいて振り向くと、黒塗りの大きなセダンが玄関に横付けになり、足早におりた運転手が恭しく引き開けたドアから背の高い女性が優雅な身のこなしでおり立って、茜に向かって微笑みかけていた――それが美也子だった。

「こんにちは、茜ちゃん。今日からよろしくね」
 ついさっきまで自分が乗っていた車が走り去るのを見送ってから、美也子はもういちど茜に向かって微笑んでみせた。
「あ……あの、こちらこそよろしくお願いします」
 慌てて如雨露を地面に置いた茜は、どぎまぎした表情でぺこりと頭をさげた。
「あらあら、そんなに緊張しなくてもいいのに」
 美也子は今度は苦笑めいた顔つきになって優しく言い、軽く腰をかがめると、茜の顔を斜め下から覗き込むようにして言った。
「え? で、でも……」
 茜は恥ずかしそうに顔をそむけながら、困ったような口調で小さく言った。
「そうね、緊張しないでっていっても、そんなの無理よね。――急に新しいママができちゃったんだから」
 美也子は悪戯めいた笑みを浮かべて面白そうに言った。
 そう。美也子が自分で言った通り、彼女は茜の父親と再婚することになっている女性だ。茜の父親である佐野勇作は外国航路の豪華客船に乗船勤務する一等航海士で、昨年の12月後半から今年の1月前半にかけては東南アジアの国々を巡る航路に就いていたのだが、その時に乗客として乗船していたのが美也子と彼女の両親だった。美也子の父親は或るアパレル関係のメーカーとその直営流通店を経営している実業家で、年末年始を妻や愛娘と過ごすために船旅をチョイスしたのだという。そうして、その航路でいささかのトラブルが発生した時、トラブルに対して率先して対処に当たり見事に治めたのが勇作で、その凛々しい姿を目の当たりにし、勇作が早くに(茜が幼稚園の年中組の時に)妻と死別していることを知った美也子が一目惚れをして交際が始まったのだった。勇作の行動力には美也子の両親も惚れ込んだようで、ぱっと見には実際の年齢よりもかなり若く見える勇作の容姿にも好印象を受け、父親が経営する会社の方は美也子の兄が将来的に引き継ぐ手筈になっていることもあって、二人の交際には、これといった障害は無いように思われた。……茜が美也子のことを素直に受け容れられるかどうかという、いってみれば最大にして唯一の危惧を除いては。
 そこで茜と美也子を打ち解けさせるために勇作が考え出したのが、結婚までのモラトリアム(猶予期間)だった。正確には猶予期間というよりも『お試し期間』と呼んだ方がいいかもしれないが、要するに、勇作が航海に出ている間に美也子を家に来させて茜と二人で生活させてみるという方法だ。勇作がいない三週間ほどの間、二人きりで生活してみて、それで親しい間柄になれればよし、なれなければ勇作と美也子の結婚も諦めるという、賭けに近いやり方だった。しかし勇作はこの方法を決して無謀な賭けだとは思っていなかった。もしも賭けだとしても、すこぶる勝ち目に恵まれた危険性の低い賭けだと判断していた。勇作にそう直感させた切り札は、美也子の存在が醸し出す雰囲気だった。――容姿だけでなく、全体として、美也子は茜の母親の若い頃にそっくりの雰囲気を漂わせていたのだ。この4月には18才になる茜だが、自分が幼稚園の年中組の時に病死した母親の面影は胸の中に深く刻み込まれている。そんな茜が美也子を目にすれば心惹かれるものがあるに違いないと勇作は直感したのだった。事実、勇作自身が美也子に若い頃の妻の面影をだぶらせたために、最初に行動を起こしたのは美也子の方だったとはいえ、こうして交際を始め、結婚を考えるまでになったと言っても過言ではないのだから。
 そうして茜に二人暮らしを提案し、美也子のことを殆ど全て茜に説明した勇作だが、一つだけ告げなかった事実がある。それは、美也子の年齢だった。勇作は美也子の年齢だけは茜に告げていなかったのだ。それを告げれば茜が勇作の提案を飲むわけがないことは火を見るより明らかだった。だから、勇作は「母親にしてはかなり若いんだけどね」と言葉を濁した説明を繰り返すばかりだった。だから、茜はいざ実際に美也子を目の前にしても、彼女の本当の年齢は知らない。なんとなくその雰囲気から、20才になったばかりくらいかなと思っていた。
(たしかに、ママって呼ぶには若いわね。お姉ちゃんって呼んだ方がしっくりくるもの。でも、なんだか懐かしい感じ)胸がどきどきと高鳴るのを感じ、顔をそむける素振りをしながらも、目の前にいる美也子から目を離せないでいる茜だった。
 そんなふうにして、高校二年生から三年生になる春休みが始まったこの日、茜と美也子の二人暮らしが始まったのだった。



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