ママは同級生



「あ、あの……中でお茶にしませんか?」
 美也子の真っ直ぐな視線に射すくめられるみたいにして、茜が頼りなげな声で言った。「そうね。じゃ、そうしましょうか」
 美也子は軽く頷いた。そうして、くすりと笑って続ける。
「でも、お茶をいれるのは私よ。私がお茶をいれる間、茜ちゃんはおとなしく待っててね。だって、私は茜ちゃんのママなんだもの」
「で、でも、ティーポットがどこにあるかとか、どれが誰のカップだとか……」
 美也子の言葉に、茜はきょとんとした顔で言い募った。
 が、美也子がゆっくり首を横に振って、茜の声を途中で遮ってしまう。
「大丈夫よ。この家で生活するのに必要なことはみんな勇作さんに説明してもらったから。言葉で説明を聞いただけじゃなくて、勇作さんは本当に細かなところまでビデオでお家の中の様子を撮影していて、それを私に見せてくれたのよ。だから、初めてのお家でも大丈夫なの」
「父が、そんなことを……?」
 思わず茜は聞き返した。茜が知っている勇作は、それほどまめではない。船に乗っている時は行動力のある一等航海士かもしれないが、休暇で家にいる時は、小さな棚を作るようなこともしない、どちらかというとグータラな人だ。それが、美也子に対してはそんなに細やかな気遣いをするのかと思うと、それは本当のことなんだろうかという疑念と同時に、僅かながらも腹立たしさを覚えてならない。
「ええ、そうよ。勇作さん、本当に気の利く素敵な男性よね。私、そんな勇作さんをお父さんに持ってる茜ちゃんが羨ましくてたまらないのよ。――もっとも、勇作さんが私の旦那様になってくれるのも、すぐのことなんだけど」
 茜の顔色が微かに変わるのを見ながら、澄ました表情で美也子は言った。その口調がどこか挑発めいて聞こえたのは茜の気のせいばかりではないだろう。




 湯の沸いたケトルをコンロから持ち上げる美也子と、その姿をじっと見つめる茜。
 ダイニングルームには、妙に静かでひややかな空気が満ちていた。
 庭で初めて顔を会わせた時には面映ゆそうな表情を浮かべ、けれど美也子に心惹かれるものを抱いた茜だったが、それからさほど時間が経っていないのに、美也子のことが少なからず疎ましく思える。第一印象こそ記憶の中に淡く残る母の面影にとらわれて心ときめかせたものの、母の死後に面倒をみてくれた祖母を中学生の時に亡くして以後は二人きりで暮らしてきた父親を美也子にとられてしまうことになるのかと改めて思い至ると、心穏やかではいられなくなってくる。しかも美也子は早くも茜の母親気取りで、これまでずっと茜が守ってきたキッチンを我が物顔に歩き回っては、茜が手を入れてきたケトルを無造作にコンロにかけ、勝手に食器棚からティーカップをテーブルに並べたりしているのだ。
 そうして、それはまた、美也子の方も同様だった。兄が一人、姉が一人いる三人兄妹の末っ子として(見た目や仕種の優雅さからは想像もできないのだが)我儘放題に育てられ、一度これと決めたものは絶対に手に入れるまで承知しない美也子が目をつけた勇作。かなり年齢の離れた勇作と結婚すると美也子が言い出した時、両親は溜息をついたものだった。勇作の行動力や咄嗟の決断力といったものには両親も好意を抱き交際を認めはしたものの、美也子の飽きっぽい性格からすぐに別れるものと思っていたのが、いつしか勇作までその気になってしまったのは誤算だった。けれど、会社の跡継ぎではないこともあって(表面上は笑顔で)結婚を承諾した両親。両親が首を縦に振った時は有頂天で、意気揚々と勇作の家にやって来た美也子だったが、いざ実際に勇作の愛娘を目の前にすると、嫉妬の炎がめらめらと燃え上がってくるのを止められないでいた。勇作は私のもの。その勇作とこれまで18年近くも一緒に暮らし、勇作の愛を一心に受けてきたのが茜だと思うと、妬ましくてならないのだった。勇作から茜の外見や性格の説明を受け、写真を眺めているだけの間は、愛する勇作の娘だということで、そこはかとなくいとおしさも覚えていたのだが、いざ実際に会ってみると、どうしても妬ましさが勝ってならない。だからこそ、「私が新しいママよ」と宣言し、勇作は茜のものなんかじゃない、私のものだと言外に匂わせる発言を繰り返したのだった。この家の元々の住人である茜を差し置いて自分がお茶をいれるという行為をとったのも、そんな気持ちの表れであるのはいうまでもないことだ。
 勇作の願いとは裏腹に、互いが互いを疎み、妬み、主導権を奪い合おうとする奇妙な同居生活の本当の姿が、庭での初対面の穏やかさの裏に隠れていられたのは、ほんの短い間のことでしかなかったようだ。

「さ、できたわよ、茜ちゃんの好きなロシアンティー。ジャムは、冷蔵庫に入っていたのでいいのよね? リーフはトワイニングのオレンジペコにしておいたから、冷めないうちに召し上がれ」
 あなたのことはどんなに細かなことも知っているのよと強調するように――つまり、私と勇作とはそれほど親しい間柄なのよと強調するように、美也子はわざと茜の好みを言葉に出して言いながら、いい香りのするティーカップをすっと差し出した。
「へーえ。食器のこととかだけじゃなく、私のこともよく知ってるんですね」
 茜はティーカップをちらと見てから、少し皮肉っぽく驚いてみせた。
「そりゃそうよ。私は茜ちゃんのママになるんだから、茜ちゃんのことならなんでも知っているわよ。ちっとも不思議じゃないわ」
 テーブルの向かい側に座った美也子は、茜の顔を正面から見据えて言った。
「ふぅん。私のことならなんでも? どんなことでも?」
 茜は微かに首をかしげて問い質した。
「そうよ。例えば、4月になったら高校三年生で、誕生日は4月15日で、小さい頃から少し体が弱くて熱が出やすくて、なかなか太れない体質だってこととか」
 美也子はそう言って、軽くウィンクしてみせた。
「はい、正解。だけど、そのくらいのことなら、私も美也子さんのことはなんでも知ってますよ。パパがちゃんと教えてくれたから。――某アパレルメーカーの社長さんの末っ子で、お茶とお華が免許皆伝で、ピアノもコンクール入賞の常連だって」
 初めて会った時のどぎまぎしたような表情が嘘みたいな、少しばかり唇を尖らせた顔つきで茜は言った。
「うん、よくできました。じゃ訊くけど、私の年は知ってる? 私は茜ちゃんの誕生日までちゃんと知っているけど、茜ちゃんは私の年齢を知っているかしら?」
 美也子は右手の甲に顎を載せて、悪戯めいた表情で言った。実は、年齢を告げることは勇作から固く止められている。しかし、我儘で負けず嫌いな性格の持ち主である美也子にとって、今は茜をやりこめることが、他のどんなことよりも優先しているのも仕方ないところかもしれない。
「……」
 はっとしたような顔になって茜は口をつぐんだ。
「あら、私の年齢を教えてもらってないの? 勇作さん、茜ちゃんのことはみんな私に教えてくれたのに、茜ちゃんには私のこと、教えてないことがあったのね」
 美也子はくすりと笑ってみせた。
 それに対して、茜は言葉を返せない。
「じゃ、教えてあげる。私の年はね……」
 自分の優位を誇示し、しかも、それだけではすまないほどの衝撃を茜に与えるに違いない言葉を口にするのが楽しくて仕方ないというふうに、美也子は少し間を置いて言った。
「……今、17才。春休みが終わったら高校三年生なのよ、私も」



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