ママは同級生



「そんな……私と同い年だなんて、そんなの嘘でしょ!?」
 思ってもみなかった美也子の言葉に、茜の顔がこわばった。
「あら、嘘なんかじゃないわよ。ま、茜ちゃんが信じなくても、春休みが終わったらわかることだけどね。4月から茜ちゃんと同じ高校に行けるよう、編入手続きも終わってるから」
 美也子は勝ち誇った表情を浮かべて言った。
「認めない。私と……私と同い年の美也子さんがパパと結婚するだなんて、そんなこと絶対に認めない!」
 両手の掌をバンッとテーブルに叩きつけるようにして茜は椅子から立ち上がった。美也子に対してはもちろんだが、「母親になるにはかなり若いんだけどね」と言ってごまかしていた父親に対しても憤りを覚え、ほんの一瞬でも美也子に心惹かれた自分にも腹が立ってならない。
「出てってよ。さっさとこの家から出て行ってちょうだい!」
 茜は美也子の顔を睨みつけて金切り声をあげた。
「それは無理ね。私は出て行かない。勇作さんが留守の間、この家を守らなきゃいけないし、茜ちゃんのお世話をしなきいけないんだから。だって私、勇作さんの奥さんで、茜ちゃんのママなんだもの」
 しれっとした顔で美也子は応えた。
「美也子さんなんて、私のママなんかじゃないし、パパの奥さんでもない!」
 自分と同い年と告げられた後も、実際の年齢よりも随分と大人びて見えるその雰囲気のせいで美也子のことをついつい『さん』付けで呼んでしまいながら、茜は激しく首を振った。そうして、下唇を噛みしめると、震える声を押し出すようにして言った。
「……いい。美也子さんが出てかないなら私が出て行く」
 そう言うと同時に、茜は、たっと駆け出した。
 直後、玄関のドアを力まかせに閉める音が廊下に響いた。




 そう言って家を飛び出した茜だが、その日のうちに帰ってくる筈だという確信が美也子にはあった。
 事実、日が暮れてしばらく時間が過ぎ、夜の9時ごろになると、玄関のドアが静かに開いて、茜がおずおずと姿をみせた。
「お帰りなさい、茜ちゃん。寒かったでしょう? 夕飯、茜ちゃんの大好きなクリームシチューを用意しておいたから、たくさん食べて温まるといいわ」
 のろのろした動作で玄関口から廊下に上がってきた茜に、美也子はいかにも母親然とした口調で言った。
 それに対して茜は一言も返さず、ぷいと顔をそむけると、二階にある自分の部屋に向かって階段を昇って行った。

 ドアをノックする音が聞こえたのは10時ごろのことだった。
 茜が返事をするのも待たずにノブが廻って、カチャリとドアが開いたかと思うと、トレイを手にした美也子が部屋に入ってきた。
「な、なによ。勝手に入ってこないでよ」
 美也子の姿をみとめた茜は語気を荒げた。けれど、怒気を含んでいる筈の声が妙に弱々しい。
「夕飯を食べたくないなら食べたくないで仕方ないけど、でも、それだと体に良くないから、ミルクだけでも飲んでもらおうと思って持ってきたのよ。温めてハチミツで甘くしてあるから飲みやすい筈よ」
 美也子は、ベッドのすぐそばにあるサイドテーブルにトレイを置くと、ほのかに湯気のあがるカップを茜の顔の前に差し出しかけた。が、ベッドに横たわる茜の顔色が妙に赤くほてっていることに気づいて、慌ててカップをトレイに戻し、手の甲を茜の額に押し当てた。
「あらあら、ひどい熱。これじゃ夕飯を食べないのも無理ないわね。大丈夫? 苦しくない?」
 そう、茜の声が弱々しかったのは熱のせいだった。ダイニングルームで美也子も言っていたように茜は小さい頃から少し体が弱くて、なにかあるとすぐに熱を出していた。そんな茜だから、春とはいえ日が暮れればたちまち寒くなる3月に夜まで家を出ていればたちどころに体調を崩して熱を出すのは火を見るより明らかだった。
 だから美也子は、家を飛び出した茜が今日中には戻ってくると予想していたのだ。いや、正確に言うと、予想というような漠然としたものではなく、日が変わらないうちに戻ってくるに違いないという『確信』さえ抱いていたのだ。美也子がそんなふうに固く確信していたのは、茜が熱を出しやすいということ以外に別のもっとのっぴきならない事情の持ち主だということを知っていたからなのだが、その事情がどんなものなのかについては、もうすぐ読者のみなさんにも知っていただけることになるだろう。
「いいから、部屋から出てってよ。私、熱には慣れてるんだから心配なんて要らないわよ……」
 美也子さんの心配なんて却って邪魔なのよ――本当はそこまで言いたかったのだが、どうやら今回の発熱はこれまで経験してきた以上にひどいようで、思うように唇も動かせずに茜の言葉は途中で弱々しく途切れてしまった。今から思えば、一人で家まで帰ってこられたのが不思議なくらいだ。
「心配いらないっていっても、顔は真っ赤だし、ほら、お洋服も汗でびっしょりよ。このままじゃますますひどくなるから、とにかく、汗を拭いてパジャマに着替えなきゃ」
 美也子は茜の首筋に掌を押し当て、じとっと湿った感触を確認すると、すっと立ち上がって、壁際に二つ並ぶ整理箪笥の方に向かって歩きながら、たしなめるように言った。
「いいってば。自分で着替えるから、勝手に箪笥を開けないでよ」
 弱々しい声ながらどこか切羽詰まったような口調で茜は言い、慌てた様子で体を起こそうとした。けれど、これまでにない高熱を発しているため、思ったように体を動かせない。かろうじて上半身を半分ほど起こしかけたものの、すぐにベッドに横たわってしまう。
「ほら、自分じゃ着替えもできないんだから、遠慮しないでママにまかせておきなさい。ちゃんとしてあげるから。……ええと、これかな。それとも、こっちかな」
 美也子は、それこそ子供に言い聞かせるような口調で茜に声をかけてから、整理箪笥の引出を幾つか無造作に引き開けては閉めるということを繰り返した。
「あ、パジャマが入ってるのはこの引出ね。えーと、なるべく体が冷えないようにしないといけないんだけど……」
 ようやくのこと目的の引出を探り当てた美也子は、きちんとたたんで収納してあるパジャマを一着ずつデザインや素材を確認するために両手で持ち上げ、元に戻したていった。が、やがて
「やれやれ、ベビードールタイプのばかりね。お腹の冷えにくい普通の形のパジャマは持ってないのかしら、茜ちゃんは。ま、仕方ないわね。とりあえず、丈の長そうなのにしておきましょう」
と呟きながら、淡いピンクのベビードールとボトムを引出から取り出した。
 そう呟く美也子の声は茜の耳にも届いていた。途端に、熱に浮かされて真っ赤になっている茜の顔が微かにこわばる。若くして病死した母親は、茜に女の子らしい可愛い格好をさせるのが好きだった。外出着もそうだし部屋着もそうだった。寝る時の格好も例外ではない。小さい子供はお腹を冷やしやすいから、上と下がつながったパジャマを着せることが多いのだが、茜の母親は、そんな実用本位のデザインのパジャマではなく、フリルたっぷりの丈の短いドレスふうのパジャマを好んで着せていたのだ。そして母親が亡くなった後は、面倒をみてくれていた祖母が、母親の意思を継ぐかのように、子供服の専門店へ出かけては、成長する茜の体に合う、やはり可愛らしいベビードールタイプのパジャマを買ってきて着せていた。だから、「やれやれ、ベビードールしかないのかしら」と美也子が呟くのが、母親と祖母の思い出を否定しているかのように聞こえて胸が痛むのだった。しかし、自分ではベッドに上半身を起こすことさえままならない今の状態では、美也子にくってかかることもできない。



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