ママは同級生



 下腹部に余計な力を入れないよう小さな歩幅でゆっくり歩みを進めた茜は、演壇の手前一メートルほどの所でいったん立ち止まった。それに合わせて教頭がマイクで
『新入生、起立』
と号令をかけると、パイプ椅子の鳴る音が微かに響いて、新入生が一斉に立ち上がる。その中でやはり一際目立つのが弥生だ。
 続いて教頭の指示に合わせて新入生が茜に向かって揃ってお辞儀をする。それに対して茜も礼を返してから、演壇のすぐ手前まで歩み寄った。
 演壇の手前に立つと、茜の下半身は演壇に遮られて生徒席からも父兄席からも見えなくなる。本当ならそれで少しは気分が楽になるところかもしれないが、次第に強くなってくる尿意の虜になっている茜にとって、そんなことは気休めにもならない。
『啓明女学院高等部の入学式を迎えられた新入生のみなさん、ご入学おめでとうございます。在校生を代表して歓迎のご挨拶を申し上げます。本校は――』
 新入生たち、とりわけ、こちらを一心に見つめる弥生の視線を痛いほど感じながら、茜は口を開いた。
 いったん喋り出すと、ミスのないよう春休み前から何度も手を入れて練り上げ頭に叩き込んだ文章が自然に口をついて出てくる。その間だけは、気持ちも挨拶に集中して、尿意も気にならない。
 茜が歓迎の挨拶を述べている間、伝統ある啓明女学院高等部の入学式に臨む新入生たちは一様に緊張の面持ちで茜の言葉に耳を傾け、茜の顔を注視していた。新入生たちの目には、茜の姿が(いささか小柄とはいえ)頼もしく優しい先輩として映っているに違いない。新入生たちは例外なく茜の挨拶を一言も聞き逃すまいと真剣な表情を浮かべていた。
 けれど、その中で一人、弥生だけは他の新入生たちとはまるで違った思いを胸に抱いて茜の顔に視線を注いでいた。
(ふぅん、茜ちゃんてば、思ったより上手にご挨拶できてるじゃない。大勢の目の前で緊張して泣き出しちゃうんじゃないかって心配だったけど、この調子だとおしまいまでちゃんとできそうね。お家に帰ったら、お上手だったわよって褒めてあげなきゃね)弥生は胸の中で呟いた。そう、他の新入生たちが憧れの目で茜を見つめているのとは対照的に、弥生は、まるで学芸会でハーモニカを独奏することになった幼い妹を客席から励ますような気持ちで茜の様子を見守っているのだった。
「――これから啓明女学院高等部の新しい歴史をつくってゆくのがみなさんの使命です。在校生一同、期待の気持ちでいっぱいですから、どうか頑張ってください。それでは、以上をもちまして在校生を代表して歓迎の言葉とさせていただきます」
 体育館中の目を一身に浴びながらの挨拶を終えて、茜は深々とお辞儀をした。
 が、その直後、茜の口から
「いやっ、駄目……」
という呻き声が漏れる。挨拶に意識が集中していて尿意を忘れていた茜が、無事に挨拶をすませて知らぬうちに緊張がとけた上、不用意に深々とお辞儀をしたものだから下腹部に力が入ってしまって、いつもなら尿意を覚えてから十分間くらいは我慢できるのが、極度の緊張の反動と、春とはいえ底冷えのする体育館の寒さのせいもあって、とうとうおしっこをこらえきれなくなって粗相してしまったのだ。
 呻き声は、まだスイッチを切っていないマイクを通して体育館中の人々の耳に届いた。
「あの子、どうしちゃったのかしら」
「「茜ったら、どうなっちゃったのよ」
「先輩、どうしたんだろ」
 父兄席でも在校生席でも新入生席でも一斉にざわめきの声が起こって、再び茜に視線が集まった。
 けれど、当の茜は頭を下げたままだ。じわっとおむつの中に広がってゆく生暖かい感触に下腹部を包まれ、内腿を小刻みに震わせながら、顔を上げられないでいる。

 茜の身の上に起きた異変の真相に気づいたのは美也子と弥生と怜子の三人ともが殆ど同時だった。が、美也子にしても弥生にしてもさすがに生徒席から勝手にステージへ上がるのは躊躇われて、茜のもとに駈け寄ったのは、保健室をまかされている養護教諭の怜子だった。
「どうしたの、佐野さん。ひょっとして、しくじっちゃったかな?」
 足早に駈けてきた怜子はマイクのスイッチを切ってから、茜の耳元に囁きかけた。しくじっちゃったかなとは少しぼかした表現だが、それがおもらしを意味しているのは当の茜にはすぐわかった。
 だが、茜は何も応えられない。家の中で美也子や弥生にそう問われたなら渋々ながらも頷くしかないが、中等部の頃からずっと世話になっている顔馴染みの養護教諭に向かっておもらしの事実を告げることなどできるわけがない。
「駄目よ。黙ってちゃわからないでしょう?」
 無言の茜に対して怜子はたしなめるように言うと、さっとスカートを捲り上げておむつカバーの中に右手の指を差し入れた。
 はっとして体を固くする茜。幸い演壇に隠れて怜子が何をしているのか生徒からも教職員からも見えないけれど、大勢の目の前でおむつの具合を確かめられているのだと思うと激しい羞恥が湧き起こる。
「ほら、やっぱりそうだ。しくじっちゃったなら正直にそう言わなきゃ駄目よ。濡れたおむつのままだと風邪をひいちゃうんだから。特に佐野さんは熱が出やすいんだからね」
 おむつカバーの中から引き抜いた指を演壇の陰でハンカチで拭い、茜の肩をそっと抱いて怜子はなんでもないことのように囁きかけた。
 だが、当の茜は、マイクのスイッチは切れているものの、怜子の声が誰かに聞かれるのではないかと気が気ではない。
 そんな茜の様子をちらちら横目で窺いながら、怜子は再びマイクのスイッチを入れ、生徒席を見渡しながら口を開いた。
『三年生の西村美也子さんと新入生の西村弥生さんに連絡します。従姉妹の佐野茜さんが急の発熱で気分がすぐれないようなので、これから保健室に連れて行きます。容態や家庭での様子などについて確認したいこともありますので、入学式の最中ですが、二人も保健室へ同行してください』
 怜子の声が体育館中に響き渡って、在校生席の美也子と新入生席の弥生が同時に立ち上がった。
 二人に向かって、それぞれのクラス担任が無言で大きく頷く。入学式の途中だが、席を離れることを許可するという合図だ。急に様子がおかしくなった生徒のもとに駆けつけた養護教諭が具合を確認した上で発した言葉を、本当の事情など知る由もない教諭たちが疑うわけがない。
 クラス担任の教諭が頷くのを確認した美也子と弥生は、待ちかねたかのように小走りでステージに上がり、演壇のそばに駆け寄った。
「ほら、ママとお姉ちゃまが来てくれたわよ、茜ちゃん。もう安心よ、保健室で優しくおむつを取り替えてもらえるからね」
 美也子と弥生が演壇まで駈け寄ってくる間に改めてマイクのスイッチを切っておいた怜子は、茜がよく知っている面倒見のいい養護教諭としてではなく、美也子の企みに与する不埒な協力者としての顔で言った。
「私たちの名前を呼んでくださってありがとうございました、柳原先生。先生に呼んでもらわなかったら私たち二人とも茜ちゃんのそばに来られなくて困っていたところでした」
 怜子に続いて弥生が演壇の陰で茜のおむつの濡れ具合を確認している間、美也子は怜子にそう言って恭しく頭を下げた。
「あら、お礼にはおよばないわよ。だって、美也子さんは茜ちゃんのママで、弥生さんは茜ちゃんのお姉ちゃまなんでしょう? 茜ちゃんが汚しちゃったおむつのお世話を二人にまかせるのは当然のことよ。私も一応は赤ちゃんのお世話をする実習もこなしてきたけど、こんなに大きな赤ちゃんのおむつを取り替えたことなんてないもの。ちゃんとおむつをあててあげられなくておしっこが横漏れでもしたら茜ちゃんが可哀想だものね」
 怜子はなんでもないことのように言って小さく首を振った。もちろん、そうする間も、周りからは養護教諭として茜を介抱しているように見える演技を続けるのは忘れない。



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