千恵里の返事を聞くなり、桃子は、千恵里の気が変わらないうちにっていうような感じで(まあ、気持ちが変わったんなら変わったで、もういちど変えさせればいいだけのことなんだけど)、買ったばかりの荷物をウサギさんのアニマルリュックにぎゅうぎゅう詰め込み始めた。
 それを見て、倫子も荷物に手を伸ばす。
 だけど、可愛いい子供服をリュックに詰め込もうとした途端、桃子にぴしっと手を叩かれてしまった(もちろん、叩くったって、そっと軽くだけどね)。
「あかんやんか、倫子。洋服をリュックに詰め込んだりしたらシワになってしまう」
「あ、……そうやった」
 やっと気がついたように、倫子が慌てて手を引っ込めた。それから、ちょっと腑に落ちないっていうふうな顔をして、おずおずと尋ねた。
「なぁ、桃子は何をリュックに詰めとん? シワになってもかまわへんような物いうたら何なん?」
「簡単なことやん。ほら、これ」
 桃子は応えて、自分がリュックに詰め込んでいる物を差し出した。
「これやったら、ちょっとくらいシワになってもかまわへんやん。どうせ何回も洗わなあかん物やし、だいいち、これを使う時にはどないしてもシワになってしまうもん」
「あ、そうか」
 倫子は、桃子が差し出した物を一目見て頷いた。
 桃子がせっせとリュックに詰め込んでいるのは、買ったばかりの布おむつだった。キャラクターおむつを店にあるたけ買ったものだから、それだけで大変な荷物だ。
「自分が使うおむつくらいは自分で背負うもんやで。な、サクランボ」
 桃子は手に持っていたおむつの袋をアニマルリュックの中に放り込んで、千恵里ににっと笑いかけた。
「まだおむつの外れへん小っちゃい子が可愛いいリュックを背負ってとことこ歩いてるとこ、公園とかでも目にすることがあるやろ?
 あれ、たいていは、自分のおむつやおむつカバーが入っとるねんで。えらいな、かしこいな、自分のおむつは自分でちゃんと背負うんやもんな」
 桃子がわざわざリュックを買ってきたのは、このためだった。千恵里が両手を自由に動かせるようにとか、そんな理由で買ってくるわけがない。ただただ、少しでも千恵里に幼児の気分を味わわせるため。今のところ、桃子の頭の中にはそれしかない。
「そっか、そうやったんか」
 その時になって倫子もようやくわかったように目を輝かせた。
「そうやな。うん、そうや。小っちゃい子供でも自分のおむつくらいは自分で責任をもって持ち歩いとるんやもん、そら、サクランボもそのくらいのことせなあかんわな。なんせ、サクランボはもう十八歳やもん。子供にできてサクランボにでけへんことなんかあらへんわ。な、サクランボ」
 サクランボサクランボとうるさいほど繰り返す倫子だった。よほど、桃子の企みがお気に召したらしい(にしても、「十八歳なんだから自分のおむつは自分で背負いなさい」という倫子の言葉、どっかヘンに思うのは私だけなんだろうか)。

 それから倫子も改めて桃子を手伝い始めて、布おむつの袋は全部リュックの中に消えてしまった。アニマルリュック、もともとはウサギさんの形だった筈が、ぎゅうぎゅうに詰め込まれたせいで、今は見るも無残な肥満体の子豚ちゃんに変身していた。
「ん、これでええな。それにしても、おむつがなくなるだけでこない荷物が減るやなんて思わへんかったわ」
 半ば本気で感心しながら、桃子は台の上をさっぱりした顔で見まわした。
「ほんま、ほんま。これやったら、まあ、たいしたこともない荷物やな」
 残りの紙袋を余裕の顔つきで眺めて、倫子も目を細めた。
「よっしゃ、ほな――」
 桃子はもう一度頷いてから、あわれ子豚になってしまったアニマルリュックをよいしょと持ち上げて千恵里の背中に押しつけた。
「――ほら、両手を伸ばしなさい。そんな、だらんとしとったら背負われへんで」
「……ほんまに私が背負うん?」
 明るい顔の桃子や倫子と対照的な千恵里の声だった。だいたい、二人が嬉しそうな表情になるのと反比例してどんよりした顔になる千恵里というのがお約束なのだ。
「約束通り両手は自由やで。この期に及んで、まだ何かイチャモンつける気?」
 むっとしたような声になって、桃子はわざと不機嫌に言った。
 そんな言い方をされると、気の弱い、おっとりしたところのある千恵里は言い返すこともできない。
「そんな……イチャモンやなんて……」
「ほな、ええねんな」
 桃子は強引に決めつけた。
 高校時代はずっと一緒だった仲だ。千恵里の操縦方法はよーく心得ている。
 で、千恵里の返事を待つことなく、倫子と一緒に腕をつかんでリュックの肩紐を通してしまう。肩紐はある程度は長さの調節をできるようになっていたけれど、なにせ、ぎゅう詰め状態のリュックだ。おむつでぱんぱんに膨れていて、肩紐を目一杯長くしても窮屈かもしれない。――かもしれないというよりも、間違いなく窮屈だった。肩紐を千恵里の腕を通すのに二人がかりでもわりと大変だったんだから。
 そのせいで、実際にリュックを背負ってみると、千恵里の着ているワンピの生地が脇から背中の方へ引っ張られるみたいな感じになって、ただでさえ短いスカートがちょっとたくし上げられるふうに、いっそうミニモードになってしまう。おむつカバーはかろうじて隠れているけど、少しでも大股で歩いたり、帰りのバスの座席に足を広げて座ったりしたら、かなり恥ずかしいことになってしまうにちがいない。
 千恵里自身もそのことに気がついて、慌ててスカートの裾を引っ張った。少しでもスカートを長くして、その中の恥ずかしい下着が見えないように。
 でも、いくら引っ張ってみても同じこと。盛んに両手を動かすと、そのたびに、窮屈なリュックのせいでワンピの生地がたくし上げられて、せっかく伸ばしたスカートがずり上がってしまう。
「桃子ぉ……」
 とうとう千恵里は情けない声を出して桃子に助けを求めた。
「……こんなんいやや。こんなリュック、背負うんいややぁ」
 だけど、千恵里の返事は簡単明瞭。
「あ、また、そんなこと言うとん? 我儘もええかげんにせなあかんで、サクランボ」
 それだけ言って、桃子は倫子と連れ立って店を出てしまった。
 あとに残された千恵里も、まさかそんな所にいつまでも一人ぽつんといるわけいもいかない。大急ぎで二人を追いかけて(でも、あまり大股にならないよう気をつけて)店を出るしかなかった。



 店を出ると、ショッピングゾーンの広い通路に大勢の人たちがいろいろな方向に行き交っていた。ちょうど昼休みも終わる頃で、駅前にある会社や商店に勤めている人たちがこのあたりの食堂やレストランで昼食を摂った後、勤め先に戻ろうとしているのだろう。
 静かな店内からそんな思いがけない人混みの中に紛れ込んで、千恵里は思わず体を固くしてしまった。なんといっても、ひやひやもののスカートなんだから。
「ほらほら、ジャマになったらあかんで。人混みの真ん中をのんびり歩いとったら危ないんやから」
 短いスカートとおむつのせいであまり速く歩けないでいる千恵里の手をつかんで、桃子が人の流れの端っこの方に連れ出した。
 あのまま放っておいたら、どこかの会社まで流されて行ったかもしれない。傍から見ていると、そんな感じのする頼りなさだった。
 けど、ま、それが可愛いいとこや。うちらがおれへんかったら何もでけへん赤ちゃんやもんな、サクランボは。人混みから少しだけ離れてゆっくり歩きながら、後ろをとぼとぼついてくる千恵里の姿を、満足そうな顔でちらと振り返った。
「……」
 千恵里の方は、何も言わずに力なく頷くだけだった。
 そこへ、予告もなくビル風が吹いてきた。
 さして強い風ではなかったものの、おむつとおむつカバーのせいで膨れ気味になっている短いスカートが風を受けて、いとも簡単に舞い上がりかける。千恵里は慌てて脚を止めると、両手の掌をめいっぱいに広げてスカートの裾を押さえた。
 人混みから少し離れた所といっても、全く人が歩いていないわけじゃない。むしろ、本当に急いでいる人が他の通行人を避けながら体を翻して早足で歩いてくることもあるのだから、そんな所で立ち止まったりしたら余計に危ない。
 そして、案の定。
 エクササイズウォークでもしているみたいな速さで歩いてきた背の高い女性の体が千恵里の肩にどんとぶつかった。
 まともにぶつかったわけじゃないかもしれないけれど、なんといっても身長差も体重差もある。千恵里の体はいとも簡単にはねとばされて、脚を踏ん張る余裕もなく体を半回転させて、その場に仰向けに倒れてしまった。まるで音が聞こえてきそうなほどお尻を通路に打ちつけて、そのまま、背中から頭まで通路の固い舗装にぶつけそうになる。
 桃子が支える暇もなかった。
 千恵里が頭を打ちつけずにすんだのは、皮肉なことに、あれほど千恵里が嫌がったアニマルリュックのおかげだった。お尻は通路にまともに打ちつけたものの、布おむつで膨らんだリュックがクッションみたいになって、背中と頭を守ってくれたのだった。ついでに言っておくと、お尻にしたって、薄いショーツしか穿いてなかったら、それこそ涙の二粒や三粒こぼれてもおかしくないくらい痛かったろうけど、厚めにあてられた布おむつのおかげで意外に痛みは感じていなかった。
 けど、痛みを感じなくてよかったねというだけで全て終わるわけでもない。いっそ、頭を打って気を失っていた方がどれほど幸せだったかというような(あいも変わらず)恥ずかしい目に遇う千恵里だった。
「あ、大丈夫だったかな?」
 ぶつかってきた女性は、自分の方はさして姿勢を崩すこともなくその場に立ち止まると、足元に倒れこんでいる千恵里に向かってさっと右手を差し出した。
「え、ええ、いえ、あの……」
 痛みこそあまり感じていないものの、突然のことに驚いてしまって、まともな返事もできない千恵里だった。
「ほんと、ごめんなさいね。おねえさんが気をつけていればこんなことにはならなかったのに。痛くなぁい?」
 改めて見てみると、その女性は桃子や倫子と同じような年ごろの若い女性だった(ということは、つまり、千恵里とも同じような年ごろだ)。なのに、その女性は、自分の方がうんと年上だと疑わないような口調で千恵里に声をかけている。
 ま、もっとも、子供服を着て幼いヘアスタイルをしてアニマルリュックなんかを背負っている千恵里の本当の歳を言い当てるなんてこと誰にもできないにちがいないから、それも仕方ないんだけど。
「……」
 いったん伸ばしかけた手を思わず引っ込めて、千恵里は力なく首を振った。
「あ、やっぱり、どこか痛いのね? ごめんね、でも泣いちゃダメよ」
 千恵里が思わず首を振った理由もわからず、目の前の女性は、相変わらず子供に対するように話しかけている。
 けれど、どうしても千恵里の返答がないとわかると、傍らに立っている桃子の方に困ったような顔で振り向いた。そうして、
「あの、この子の保護者の方でしょうか? 
申し訳ありません。少し急いでいたもので……」
と言いかけて、驚いたような顔になる。
「……桃子? やだ、桃子じゃない。――え、倫子も?」
 桃子の顔を目にした途端、女性は馴れ馴れしく二人の名前を呼んだ。
 すると、呼ばれた方の桃子も倫子も
「なんや、花奈やったん? 随分お洒落しとるさかい誰かわからへんかったやんか」
と口々に歓声をあげて手を取り合ったりするのだった。
 もろ、お知り合いの三人だった。
「じゃ、どっちかの妹さんなの? それとも、姪っ子ちゃんとか?」
 花奈と呼ばれた女性は少しほっとしたような顔になって言った。
「妹? あ、ちゃうちゃう。この子、千恵里いうてな、高校の時、うちらと一緒やってん。そんで、今年から同じ大学やねん」
 訊かれて、桃子は軽く手を振って応えた。
「同じ大学? この子が?」
 とても信じられないって顔で、花奈は助け起こすのも忘れたように、通路に倒れたままの千恵里をじっと見おろした。
「こんな服を着てて? こんなヘアスタイルをしてて? こんな靴を履いてて? ……これで、桃子たちと同い年だっていうの? つまり、この私とも同い年だって?」
 さっきから、やたらハテナマークの多い花奈のセリフだった。
 花奈には、目の前に倒れている千恵里が十八歳だなんて、どうしても信じられなかった。一方、千恵里の方は、自分にぶつかっといて桃子たちと親しげに喋っている花奈がどういう人なのかわからずに、不安と怯えに包まれて身を固くしているだけだった。
 四人の間になんとなく沈黙が訪れたその時、さっきよりもずっと弱い、むしろ爽やかといってもいいほどの風が吹き渡った。
 通路に倒れながら必死の思いで押さえたために奇跡的に殆ど乱れずにすんだスカートの裾が、ちょっと気を緩めた隙に吹いてきた風になびいて、ふわりと捲れ上がった。
 納得いかない顔で千恵里を見つめていた花奈の目に、スカートの下に着けている下着がとびこんできた。
 ――え?
 信じられない思いで、花奈はもう一度千恵里の下半身に目を向けた。千恵里が慌ててスカートを押さえたのは、そのすぐ後だった。
 それでも、花奈はまだ、自分が目にした物を信じられないでいた。
 嘘でしょ? まさか、だって、(桃子の言う通りなら)私たちと同い年のこの子がおむつだなんて?
 千恵里の方も、花奈にスカートの中をしっかり見られてしまったことには気がついていた。千恵里はのろのろとスカートから手を離すと、両手で体重を支えて、ぐずぐずした動きで体を起こし始めた。
 パサッ。
 聞き慣れない物音が花奈の耳に届いた。
 桃子と倫子が千恵里の方に顔を向けた。もちろん、花奈は千恵里をじっと見つめたままだ。
 三人の目の前で、体をよじって立ち上がろうとする千恵里のリュックから何かがこぼれ落ちた。同時に、さっきも耳にしたパサッという物音。
 はっとしたように、地面に手をついたまま千恵里は後ろを振り返った。
 そこにあったのは、子供服専門店で買ったばかりの布おむつだった。布おむつが袋のまま地面に落ちて、乾いた音をたてていたのだ。花奈とぶつかって倒れた時、ぱんぱんに膨れていたリュックの留め金が外れて蓋が開いてしまったらしい。そのせいで、千恵里が体をよじるたびに、背中の下にあるリュックから布おむつがこぼれ落ちているのだった。
 千恵里は血相を変えて慌てて立ち上がると、通路に落ちた袋を拾い上げようとして急いで腰をかがめた。そこへ、花奈の手がすっと伸びてくる。
「あ……」
 千恵里は、戸惑ったような顔をして花奈の顔を見上げた。
「本当にごめんなさいね。私のせいで……」
 花奈は、拾い上げたおむつの袋をそっと千恵里に手渡した。その顔にどことなく後ろめたそうな表情が浮かんでいるように思ったのは千恵里だけではなかったろう。
 実際、花奈は後悔していた。
 もう少しゆっくり歩いていれば、千恵里にぶつからずにすんだ筈だ。そうすれば、千恵里にしたって、こんな恥ずかしい姿を人目にさらすこともなかったろうに。――花奈は、完全に思い違いをしていた。千恵里のことを、病気のせいでおむつを手放せない気の毒な少女だと思いこんでしまい、本当なら誰にも知られたくないにちがいないおむつのことを、花奈がぶつかったせいで周りの人たちの目にさらす羽目になってしまったのだと思ったわけだ。
 ま、この状況なら、たいていの人はそんなふうに考えるだろう。でも、千恵里のおむつ姿にうろたえたりせずにもう少しきちんと考えてみれば、それだけじゃ説明できないことがあるってことにも思いが及んだ筈だ。
 十八歳の少女(女性と呼んだ方がいいかな)がどうして子供服を着ているんだろうとか、どうしてこんな幼いヘアスタイルをしているんだろうとか、わざわざ自分のおむつを背負って歩くだろうかとか、桃子が千恵里のことを花奈に紹介した時に疑問に思ったことをもう一度思い返してみれば、なんかアヤしいなって感じたにちがいない。それが、予想もしていなかった物を目にしたせいで、きれいさっぱり、すっぽりと頭の中から抜け落ちてしまった花奈だった。
 というわけで、せめてもの罪滅ぼしみたいな感じで、千恵里のリュックからこぼれ落ちたおむつの袋を三つ、ちゃんと拾って千恵里に渡してやったってわけ。そんなことをしたら却って千恵里が恥ずかしがるかもしれないなんて思いもしないで。
 ついさっき会ったばかりの、それこそ文字通り初対面の人におむつを拾ってもらうなんて、それがどれだけ恥ずかしいことだか、考えてもみてよ。そんなこといいから放っといてくれ〜。もう少しでそう叫んでキれそうになっている千恵里だった。でも、まさか、この人混みの中で「おむつは自分で拾います!!」なんてこと口にできるわけもない。……結局のところ、千恵里は顔を伏せ気味にして、おどおどと花奈の手からおむつの袋を受け取るしかできなかった。
 その様子を、桃子と倫子は楽しそうに眺めているだけだった。
 そうして、花奈が千恵里のアニマルリュックの蓋を閉めてやるのを待っている。
「もうええかな?」
 桃子は、やっとのことで立ち上がった千恵里のスカートをさっさと払ってやりながら(スカートに付いた埃を払ってやっているのだろう。だけど、桃子の手がお尻に触れるたびにおむつの感触をよりいっそう強く感じてしまう千恵里にとっては余計なお世話だった)花奈に声をかけた。
 花奈は、横目で千恵里の方をちらちら見ながら微かに頷いた。
「ほな、改めて紹介しとくわな。この子、千恵里。さっきも言いかけたけど、高校の時はうちや倫子と同じ部活やってん。ちょっと事情があって浪人しとってんけど、今度、晴れて同じ絵画科に入ることになったんや。ま、可愛いい後輩やと思てよろしゅうしたって。――さっきみたいに、困ったことがあったら助けたげてな」
 最後の方はちょっと悪戯っぽく言って、桃子が千恵里を花奈に紹介した。
 もじもじしながらちょっと頭を下げる千恵里を見てから、今度は花奈のことを千恵里に紹介する。
「で、こっちは花奈。学年はうちや倫子と一緒やけど、専門は服飾デザインやねん。一年生の後期に選択科目を一緒に受けたんがきっかけになって、それから仲良うなって、遊びに行く時もわりとつるむことが多いねん。サクランボにとっては、頼りになる先輩や。それとも、困った時に助けてくれる優しいおねえちゃんかな」
 そう言って、桃子は改めて花奈の方を見た。
「――そんで、花奈。ほんまにどないしたんよ、そないお洒落して。デートなん?」
「だといいんだけど、ちがうのよね。バイトよ、バイト。駅ビルの三階にあるブティックでバイトしてるの。また寄ってね」
 花奈はまだ少し固い表情で言った。それでも、千恵里におむつを拾ってやった時のような後悔の表情は薄れてきている。千恵里には桃子と倫子がついているんだからと思うと、少しずつでも気が軽くなってくる。
 千恵里がおむつ姿でこんな所をうろうろしているのが実は桃子のせいだと知ることがあったら、その時、花奈はどんな顔をするんだろう。倫子は胸の中で赤い舌をちろりと突き出してみせた。



 その後、花奈とも別れた三人は、お昼も食べずにマンションへ帰ってきた。桃子は食べて帰ろうと言ったんだけど、千恵里が頑として桃子の言うことをきかなかったんだ。で、帰ってくるバスの中でちょっとした騒ぎを引き起こしながら(吊り革につかまろうとして手を伸ばしたせいでスカートがたくし上がっておむつカバーが見えかけたり、ロリコンみたいなおにいさんに痴漢されそうになったり、バスがひどく揺れたせいで倒れそうになってリュックの中のおむつをばら撒きそうになったり。ま、このへんのことはチャンスがあったら稿を改めて紹介できるといいね)、ぐーぐー鳴くお腹を抱えて帰ってきたってわけ。

「は〜あ、やっと帰ってきた」
 おむつを千恵里のリュックに詰め込んだおかげでだいぶ楽になったとはいっても、それでもかなりの荷物を手に提げて(しかも、情けなそうに悲鳴をあげるお腹で)やっとのことマンションの部屋に足を踏み入れた倫子は、紙袋をリビングルームに投げ出すなり、その場にバタンと倒れこんだ。
「こらこら、遊んどる場合ちゃうで。お昼の用意もせなあかんねんかん」
 ごろんと大の字になって転がっている倫子に、こちらも荷物を床におろしたばかりの桃子が言った。
「けど、お昼の用意いうたかて、桃子がしてくれるんやろ? 私は関係ないやん」
 タチとネコの関係そのまま、家事一切は桃子が担当していた。はっきり言って、倫子は、どこにでもある家庭の何もしない亭主同様、家の中の細々したことは桃子にまかせっきりでただひたすらぐーたらしているばかりだった。ま、倫子にも言い分はあるんだけどね(ベッドの中で悦んどるんは桃子ばっかりやんか。それやったら、その代わりに、家事くらいしてくれてもええやん)。
「そうや、そんなんわかってるよ。そやから、うちがお昼の用意をしてる間、サクランボの面倒をみとってほしいんやんか。――なんせ、今日から倫子はパパやねんから」
 最後の方は思わずぞくりとするような流し目で千恵里のことを見ながら桃子が言った。
「ああ、そういうことかいな。うん、そうやったな」
 倫子も、まだリュックを背負ったままリビングルームの入り口に所在なげに立ちすくんでいる千恵里に目をやった。
「倫子が……パパ?」
 千恵里の方は、桃子の言葉を聞き咎めるようにぽつりと呟くだけだった。桃子が何を言いたいのかさっぱりわからずに、妙な顔をしている。
「そういうことや。うふふ、心配せんでも、じきにわかるわ」
 千恵里の困ったような顔を見て桃子は面白そうに応えると、体を起こした倫子の方に向き直った。
「ほな、あとのことは頼むわね」
「うん、まかせといて。――やけど、とりあえず何をしたらええんやろ?」
「うん、最初はリュックやな。いつまでもあんな窮屈なリュック担いどったら可哀相やもん。で、その後はおむつを外したげて」
「え、おむつを外すのん?」
 倫子は少し意外そうに訊き返した。あれほど千恵里が嫌がっても(他人の目の前であろうが)頑としてあてさせたままにしていたおむつを、こともあろうに自分から外してやろうと言い出したのだから。
「そうや、なんもそないびっくるすることあらへんやん。考えてもみ? ここはうちらのマンションやで。外とはちゃうねんから、トイレへ行きたなったらいつでも行けるやんか。なんぼサクランボでも、まさか、トイレがこない近くにあるのにおもらしはせえへんやろ。な、サクランボ?」
「う、うん……」
 入り口に立ったまま、千恵里は顔を赤らめて頷いた。恥ずかしいおむつを外してもらえるのは確かに嬉しい。でも、『なんぼサクランボでも』というのは、いくらなんでも随分な言い方だと思う。
「ほな、ええな。あ、そうそう。おむつを外したあとは、ドラッグストアで買うたショーツを穿かせといたげて。サンプルだけ貰うのもなんやから、店員さんに言うておむつカバーと一緒に買うといてもろてん」
 倫子に言った桃子の声が聞こえた途端、千恵里の顔がますます赤くなった。あのショーツを――吸水性に優れているとかいうのを売り物にしている新製品の、でっかいイラストがプリントしてあるあのお子様パンツをまた穿かされるのかと思うと、飛んで逃げ出したくなる。
「なんや、いやなん?」
 千恵里の胸の内を読み取ったように桃子が訊いた。そうして、ちょっと間を置いて、ねっとりした口調で言う。
「そうか、サンランボはおむつの方がええんかいな。なんや、それやったらそうと早いこと教えてくれたらええのに」
「ちゃう、そんなやない。そんなんやないけど……」
 千恵里は反射的に首を振った。いくら恥ずかしいショーツとはいっても、いくらなんでも、おむつよりはマシに決まっている。
「どっちやのん? お昼の用意もせなあかんねんから、早いこと決めてよ」
「……ショーツ……」
「これでええねんな」
 千恵里のおどおどした返事を聞くなり、桃子は床におろした紙袋から子供用のショーツをつかみ上げると、それを目の前で振ってみせた。
「……うん……」
 ワンピの裾をぎゅっと握りしめて、千恵里は顔を伏せた。
「ん、わかった。――ほな、倫子、そういうことやから、あとは頼むわな」
 言い残して、桃子はさっさとキッチンの方へ歩いて行った。

「さ、始めよか」
 リビングに残った倫子はそう言うと、うつむいたままの千恵里の肘をつかんだ。
「……」
 千恵里の方は一言も応えない。
 べつに、千恵里の返事を待っていたわけじゃない。倫子はそのまま千恵里の肘を肩の後ろの方へ持ってきて、もう片方の手でリュックの肩紐をぐいと引っ張った。相変わらず窮屈な肩紐だったけれど、背負わせる時に比べればまだなんとかなる(だいいち、背負う時は当の千恵里が嫌がってたしね)。
 もう一方の肩紐も肩から外してリュックが体から離れると、微かに、ほんの微かに、千恵里の顔に晴れ晴れした表情が浮かんだみたいだった。
 けれど、そんな千恵里の顔がすぐにまた曇った。倫子が
「次はおむつやな。ほな、ここに横になってちょうだい」
と言うと、紙袋を手早く部屋の隅に片づけて、ちょうど千恵里が横になれるくらいのスペースを作ったからだった。
「……自分で穿き替える」
 倫子が作ったスペースをちらと見た後、すぐに目をそらして千恵里は弱々しく言った。
「え?」
「そやから、自分で穿き替える言うてんねん。こんなこと、自分でする」
 顔を伏せたまま、上目遣いで倫子の顔を盗み見るようにして千恵里は繰り返した。
「なんや、何を言うとんか思たらそんなことかいな。ええねんで、私に遠慮なんかせんでも。桃子も言うとったやろ、これからは私らがサクランボの面倒みたげるて」
 倫子は笑い出しそうな顔で言った。
「遠慮なんかしてへん。そんなことやないねん。……下着くらい自分で穿き替えたいねん。そやないと、なんぼなんでも恥ずかしすぎるやんか」
 千恵里はもう一度スカートの裾を握りしめた。
「恥ずかしがることなんかあらへんやん。私らがそれでええ言うてんねんから、サクランボが恥ずかしがることなんかあらへんねんで。みんな私らにまかせといたらええねん」
「そやかて……」
「ええからええから」
 倫子は千恵里の言葉を遮るように言って、小柄な体を抱き上げた。女性の力でも、これだけ体格に差があると、軽々とはいえないまでも、そのまま千恵里の体を床の上に横たえるくらいのことはできる。
 リビングのカーペットの上にまるで無防備な姿勢で寝かされてしまった千恵里は、それでも、いややいややと喚きながら両脚をばたつかせた。
 その足首を倫子が何も言わずにつかんで、子供服専門店のトイレに置いてあるベッドでそうしたように、強引に高く持ち上げてしまった。
 仰向けに寝転んだまま両脚の足首を高く持ち上げられてしまうと、もう千恵里は抵抗できない。かろうじて両腕をばたつかせることはできるものの、そんなことで倫子の手から逃げ出せるとは思えない。
「さ、おむつを外そうな。お家の中やから、パンツで大丈夫やもんな?」
 右手で足首をつかまえたまま、倫子は左手を千恵里のおむつカバーに伸ばした。
 マジックテープの外れる音がリビングの空気を震わせて、腿のところにあるホックの外れる感覚が厚い布おむつを通して伝わってくる。千恵里の両腕はいつのまにか動きを止めて、体の横にだらんと延びていた。ただ、力なく曲げた指だけが時おり、瀕死の小魚のようにぴくりと動くだけだ。
「そうや、そのままおとなしゅうしとってな、サクランボ。じきにおむつを外したげるから。おむつ、恥ずかしいんやろ?」
 瞼を閉じてしまった千恵里に、おむつ、おむつと何度も何度も口に出して聞かせながら、倫子はわざとゆっくり手を動かす。
 床に大きく広がったおむつカバーの上に、今度は、横当ての布おむつが広がった。大きなリュックを背負ったまま歩きまわったせいでかいた汗が外の空気に触れることもなく、じっとりした湿り気になっておむつに吸い取られていた。
「あれ? なんや、濡れとるみたいやな。ひょっとしてサクランボ、バスの中でおもらししてしもたんとちゃうやろな。――うふふ、冗談や。これは汗やろな。なんぼサクランボでも、そない何回も失敗せえへんわな」
 横当てに続いて、股当てのおむつが千恵里の両脚の間に広がった。やはりじっとり湿っていて、小さなシワがいっぱいできている。
「うん、これでええわ。どない、湿ったおむつを外したら気持ちええやろ?」
 湿ったおむつ――それは決しておもらしのせいなんかじゃない。それでも、千恵里の羞恥をくすぐるには充分な言葉だった。
 ぎゅっと瞼を閉じている千恵里の目の下のあたりが仄かに染まった。
「さ、ほな、パンツやな。おむつが外れてパンツやなんて、なんかサクランボ、ちょっとおねえちゃんになったみたいやんか」
 言われて、ほんのり染まっていただけの千恵里の顔がぱっと赤くなった。倫子が意識して言っているのかどうかは知らないけど、まるで子供扱いだった。
 倫子がそっと右手をおろした。
 少しだけ浮いていたお尻がおむつに触れて、ひんやりした感触が広がる。汗でじとっと湿っていたものの千恵里の体温でまだ温かかったおむつが、ほんの僅かの間に冷えてきたらしい。まだ春先、暖房を入れていないリビングは思った以上に冷え冷えしている。
 倫子の右手が千恵里の脚から離れた。けれど、もう今更、その場から逃げ出すわけにもいかない。がんぜない赤ん坊のように、床の上に広がったおむつにお尻を載せたまま横になっているしかない千恵里だった。
 突然、左脚のふくらはぎをつかまれて、そのまま十センチほど床の上に持ち上げられてしまう。すぐに、ドラッグストアで穿かされたのと同じ、どことなくごわごわした感じの残る柔らかな感触が足首からふくらはぎにかけて伝わってきた。
 左脚がそっとおろされて、今度は、右脚に同じような感触。それから、右脚もおろされたと思ったら、また両方の足首をつかまれて高く持ち上げられてしまう。
 ――千恵里はおそるおそる目を開けた。
 自分の体がエビのように曲げられて、ぴんと真っ直ぐに伸びた脚の膝のあたりにショーツが見えた。純白の生地が目に眩しい。
 倫子の手が動くたびにショーツも小さなシワになって滑り、じわじわと下腹部に近づいてくる。柔らかな感触が妙に羞恥心を刺激する。
 待つほどもなく、僅かに浮いたお尻と布おむつとの隙間を通って、ショーツが股間を覆い隠した。無毛の童女のような下腹部が子供用のショーツに包まれて、よりいっそう幼い雰囲気が漂い出す。
「これでええわ。おむつも可愛いいけど、このパンツもようお似合いやで、サクランボ」
 ショーツと体の間に手を差し入れて、腰まわりのゴムをぴんと伸ばしてから、倫子が笑顔で言った。
「……」
 虚ろな、いくぶん潤んだ瞳で倫子の顔を見上げる千恵里。おむつの時とはまた別の、それでも決して弱まるわけでもない新しい恥ずかしさが体を包みこむ。
「ほらほら、なんちゅう顔してるんよ。せっかくの可愛いいパンツやねんから、もっと嬉しそうにせなあかんやないの。――さ、立っちやで」
 子供に向かって言うように声をかけて、倫子が千恵里の両手を引っ張った。
 千恵里の上半身が浮いて、そのまま床の上に起き上がる。お腹の上に捲れ上がっていたスカートがふわっと滑り落ちてきて、穿かされたばかりのショーツを隠した。倫子がそのまま引っ張り続けると、意外に軽々とお尻も床から浮いて、千恵里は両足で立ち上がった。スカートの裾がふんわり揺れて、いったんは隠れたショーツが僅かに覗く。おむつのせいでスカートが膨らんでいた時に比べれば幾らかはマシかもしれないけれど、スカートは短いままだった。ちょっとしたことで、スカートの中のショーツが見えてしまう。
「うふふ、なかなかのお子ちゃまぶりやんか。その服とショーツ、ほんまお似合いやな。――ほら、あんよはじょうず」
 千恵里が立ち上がっても、倫子は手を引っ張り続けた。まるで、やっと立つことのできた幼児に歩き方を教えるみたいに。
「な、なんやのんよ、それ。恥ずかしいからやめてぇな」
 倫子の手を振りほどこうとして盛んに腕を動かしながら、千恵里は脚を踏ん張った。
 けれど、そうすると却って不自然な足取りになって、本当に歩くのもおぼつかない幼児が母親に助けてもらってよちよちと歩を進めているような光景になってしまう。そのことにも気がつかずに、思いきりお尻を後ろの方に突き出したみっともない格好をしたまま、ゆっくりゆっくり歩いて行く倫子のあとをついて行く千恵里だった。

 そんな千恵里の様子を薄く笑いながら見守っている人影があった。もちろん、桃子だ。いい匂いのするスープの皿を載せたトレイを手に、リビングルームの入り口に立って、桃子は倫子が子供に「あんよ」を教えるように千恵里の手を取って歩いている光景を面白そうに眺めていた。千恵里は、桃子にじっと見られていることには気がついていない。
 倫子がちらと桃子の方を見た。
 桃子が黙って頷く。
 不意に、倫子が千恵里の手を離した。倫子に引っ張られまいとして脚を踏ん張っていた千恵里はたまらない。バランスを取り戻そうとして身をよじるひまもなく、驚いたように大きく目を見開いて、お尻から床に倒れこんだ。
 お尻をしたたか床に打ちつける音が響いて、千恵里の顔が歪んだ。スカートの裾が舞い上がって、一瞬、ショーツが丸見えになる。
「気をつけなあかんやないの、倫子。サクランボが怪我したらどないすんのよ」
 カーペットの上に座りこむみたいな格好で倒れた千恵里の側に桃子が駈け寄って、持っていたトレイを座卓の上に置くと、千恵里の体に両手を巻きつけて倫子に言った。
「おむつが外れてパンツになったばかりやねんで、サクランボは。やっと赤ちゃんからお子ちゃまになったばかりやのに、そない急にあんよを教えてもできるわけあらへんやん。な、サクランボ」
 冗談めかして言って、桃子は軽くウインクしてみせた。
「そんな……」
 お尻の痛みも忘れて、千恵里の顔がかっと熱くなった。
「ほんま、可哀相にな。痛いの痛いの飛んでけ〜や。もう大丈夫かな。――さ、ごはんにしょうな」
 妙な笑いを浮かべて桃子はトレイを引き寄せると、その上に載っているスープ皿を、一枚は倫子の前に、もう一枚は千恵里の目の前に並べた。
「もうじきスパゲティが茹であがるけど、その前にスープな。これでちょっとはお腹の虫もおとなしなるやろ」
「あ、けど、桃子は? スープ、二人分だけやん?」
 座卓の上に並んだスープ皿を少し不思議そうな顔で見つめて倫子が言った。
「ああ、うちはええねん。スパゲティが茹だったらソースも仕上げなあかんし、それに……」
 桃子はすっと目を細めて千恵里の顔を見た。
「……サクランボにスープを飲ませたげなあかんしな。なんせサクランボ、あんよもまだでけへんお子ちゃまやもん、一人でスープ飲むやなんて、とてもやないけどでけへんやろから」
「冗談はそのくらいにしような、桃子。スープくらい、一人で……」
 千恵里は追従笑いのような頼りなげな表情を浮かべると、おどおどした口調で言った。
「冗談? うちが冗談を言うてると思う?」
 千恵里の言葉を遮って、桃子が意味ありげな声で言った。
 ぞくりとするような目で千恵里の目を覗きこんでたりする。
「……」
 千恵里は言葉をなくした。これまでのことを思い出すだけで身震いしてしまう。
「わかったみたいやね。ほな、お口を開けてみよか」
 そう言って桃子は、ふうふうと吹いたスプーンを千恵里の口元に近づけた。
「一人でできる。一人でできるから、スプーンを貸して」
 懇願するような情けない千恵里の声。
「あんよもちゃんとでけへん子が――おむつからパンツになったばかりの子が何を言うてるんよ。さ、お口を開けて」
 スープが半分ほど入ったスプーンを桃子がずいっと突きつけた。
「……」
 千恵里は意地になったように、唇をきゅっと噛んで口を閉ざした。
 それでも、そんなことおかまいなしに、桃子はスプーンを強引に唇に押し当てる。
 スプーンからスープがこぼれた。
 こぼれたスープは千恵里の顎先から喉元へ滴って、ワンピの胸元を華やかに彩る飾りレースにぼんやりしたシミをつけた。
「ほらほら、ちゃんとせえへんから、せっかくの新しい洋服がシミになってしもたやんか。何が、一人で食べられる、よ。うちが食べさせたげてもこんなやのに」
 桃子は呆れたような声で言った。
 けれど、桃子が本心から千恵里を叱ってなんかいないことは倫子には手に取るようにわかっていた。むしろ、スープがこぼれたことを口実にして千恵里をますます恥ずかしい目に遭わせてやろうと舌なめずりしている様子がありあり見える。
「今度こそちゃんと食べてちょうだいよ。ほんま、サクランボがこない手間のかかる子やとは思わへんかったわ」
 桃子は再びスープを掬った。
 だけど千恵里は固く唇を閉ざしたままだ。
「――ふーん、そう。そういうつもりなん。ほな、せっかくの可愛いい服をまだ汚す気やねんな?」
 わざとみたいな意地の悪い言い方をしてから、桃子はにんまり笑った。
「ま、サクランボがそういうつもりやったら、それはそれでええわ。洋服が汚れへんようにしたらそれでええねんから」
 桃子の笑顔に千恵里はびびった。
 びびった千恵里をその場に残して、桃子は一つの紙袋に近づいた。そうして、なにか柔らかそうな布地を取り出した。
「これ、何かわかる?」
 桃子はその布地をさっと千恵里の目の前で広げてみせた。
「ヨダレかけ……?」
 言われて、千恵里は小さな声で応えた。
「そうや、ヨダレかけや。サクランボみたいにじきに食べ物をこぼしてしまう小っちゃい子の服が汚れへんようにするヨダレかけや。これやったらサクランボの可愛いい洋服も汚れへんやろ」
「……」
「倫子、ちょっとだけサクランボの体を押さえとってくれる? サクランボ、意外にやんちゃやからおとなしゅうしてへんかもしれへんし」
「いや!!」
 倫子が返事をする前に千恵里が叫び声をあげて後ずさった。
「ほな、うちが食べさせてあげる間、おとなしゅうしとくねんな?」
 追い討ちをかけるみたいに桃子が言った。
「それもいや……」
 千恵里は弱々しく首を振った。
「あれもいや、これもいや。そない聞き分けのない子やったんか、サクランボは」
 ヨダレかけを手にしたまま、桃子は千恵里に迫った。
「そやかて、そやかて……」
 千恵里にも応えようがない。
 それでも桃子は執拗だった。
「どっちにするんか、ちゃっちゃと決めなあかんで。両方ともいややいうのは、なしや。――大学の入学式まで一週間やったな。どっちか決めへんかったら、一週間後にはサクランボのクラスの子、サクランボがおねしょっ子やいうこと、みんなして知っとるかもしれへんなぁ」
「あ……」
「うちはサクランボを脅しとるんやないよ。ただ、どういうわけかわからへんねんけど、午前中もこんなことを言うたらサクランボがおとなしなったなぁって思い出しただけ。そうやったよね?」
 真綿で首を絞めるというのはこういうことをいう。じわじわと、それでいて確実に桃子は千恵里の逃げ場を奪っていった。そうして、千恵里が桃子の言葉に従えば従うほど、千恵里にとっては弱みが増えてゆく。
「ヨダレかけがええ? それとも、おとなしゅうスープを飲む?」
「……」
「――それとも、クラスの子らにサクランボの秘密を知ってもらうんがええんやろか。そうそう、薬局の更衣室でおむつを汚してしもたっていう秘密もできたんやったよね」
「……スープ……」
「え、なんやて? ちゃんと聞こえへんかってんけどな」
「スープを飲む。おとなしゅうする。そやから、みんなには……」
「スープを飲むんやね。うん、ほな、もうちょっとこっちへおいで。そないテーブルから離れてしもたら飲みにくいやろ」
「みんなには何も言わへんよね?」
「そうや、もうちょっとこっち。うん、そのへんでええわ」
「なぁ、私の秘密、誰にも言わへんて約束して」
「もう冷めてきたみたいやな。ちょっとぬるいけど辛抱しいや。ほら、あーんして」
「そやから、約束……あむ……」
 桃子の持ったスプーンが千恵里の言葉を遮った。恥ずかしい秘密を誰にも喋らずにいてくれるという確約を桃子からもらうこともできないまま、千恵里はごくりとスープを飲みこんだ。手製のクルトンだろうか、妙につるんとした感触が咽喉を通って行ったような気もしたけれど、そんなことに気をわずらわせているゆとりも今の千恵里にはない。
「そうや、それでええねん」
 桃子の瞳がきらりと光った。
「遠慮せんと、なんぼでも飲みや」
 千恵里の口元に二度、三度とスプーンが運ばれた。
 ぴろろぴろろ・ぴろろぴろろ……。
 突然、キッチンの方から軽やかなアラーム音が聞こえてきた。
 自分のスープ皿を殆ど平らげた倫子が、音の正体を探して首を巡らせた。スープを掬いかけていた桃子が、はっとしたように顔を上げた。
「何やのん?」
 台所のことは何も知らない倫子が、きょとんとした顔で桃子に訊いた。
「キッチンタイマー。そろそろスパゲティが茹であがる頃やわ。――サクランボがなかなか食べ始めてくれへんもんやから、いらん時間とってしもたわ」
 ちょっと肩をすくめて桃子が応えた。
「うち、スパゲティの方をしてくるわ。倫子、サクランボのスープお願いね」
「うん、おっけー。もうちょっとだけやな」
 桃子からスプーンを受け取って、倫子が千恵里の横にお尻をおろした。



「――ンボ。こら、サクランボ、聞こえてるん?」
 誰かの声が、どこか遠い所から呼んでいるみたいに途切れ途切れに聞こえてきた。
 はっと意識を取り戻して、千恵里がぶるんと首を振った。まだ焦点の合わない目で座卓の上をぼんやり眺めると、いつのまにかスープ皿がなくなって、ほかほかと湯気をたてるスパゲティの皿が置いてあった。
「え……?」
 わけがわからずに、千恵里はおずおずと顔を上げた。
 目の前に、心配そうな表情を浮かべた桃子と倫子の顔があった。
「やれやれ、目が覚めたみたいやね」
 ほっとしたような顔になって、桃子が柔らかい声で言った。
「目が覚めた……? それ、何のこと?」
 何があったのかまだわからない千恵里は、おどおどした声で訊き返した。
「なんや、自分が何しとったんかわかってへんのかいな。サクランボ、私がスープを飲ませたげよと思てスプーンを口に入れたら、そのスプーンを咥えたまま眠ってしもたんやで。そのせいでスープがこぼれて、また洋服にシミをつけてしまうし。ほんま、びっくりしたんやから」
 倫子は呆れたように言った。
「嘘……」
 倫子の言ったことが信じられずに、千恵里は弱々しく呟いた。
「私が嘘なんかつくわけあらへんやん。――信じられへんのやったら、自分の着てる服の胸元を見てみたらええわ」
 倫子に言われるまま、千恵里はワンピの胸元に視線を落とした。そこには、最初につけたシミよりもくっきりした、汚れの範囲も大きいシミがついていた。飾りレースだけではなく、元の生地まで幾らか汚れてしまっている。
「……」
 大きなシミに目を奪われたまま、千恵里は息を飲んだ。これだけはっきりした証拠を見せつけられると返す言葉もない。
「スープをこぼしてから、あんた、ちょっと目を開けたんやで。そやから、もういっかいスープを飲ませたげようとしたら、今度はうつらうつら体を揺らして私が持ってるスプーンにほっぺをぶつけてまたこぼしてしまうし。ごはん食べながら眠ってしまうやなんて、信じられへんわ」
「まあまあ、ええやんか。そら、うちも、スパゲティのお皿を台所から持ってきたらサクランボがテーブルの前で眠ってしまいそうになってたからびっくりしたわ。けど、サクランボもわざとやないやろし。慣れへん土地のお出かけで気疲れしてしもたんやわ、きっと。――な、そうやろ、サクランボ?」
 桃子が倫子を取りなして、千恵里に同意を求めるみたいに言った。
「そんなこと言うても、なんぼ気疲れしたからいうて、ごはんを食べながらうつらうつらしてしまうなんて、そんなん、赤ちゃんと同じやんか」
 倫子は、は〜あと溜め息をついた。


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