「なんなら、フィッティングルームで試してみてもいいですし。――あ、おむつの試しあてなんてできないか」
 うふふと笑って、桃子は悪戯っぽい目で、どう応えていいかわからずにおどおどしている店員の顔を見た。
「……いえ、あの、と、とにかく、ご案内いたします」
 他の客がいないことを確かめて(もしもいたら、そっちを接客するぞと固く心の中で決めていたのに)、店員はおそるおそる先に立って歩き出した。
 その場から動こうとしない千恵里の手首を無理矢理つかんで、桃子と倫子がそのあとに続く。

「どうぞ、こちらです」
 売り場の一角で立ち止まった店員は目の前の棚を指で差し示すと、そそくさとその場から立ち去りかけた。
「あ、待ってください」
 それを、桃子がやんわりと呼び止める。
「あの、何か?」
 不安そうな、どちらかといえば怯えているようにさえ見える表情を隠そうともしないで、店員はどきりとしたように身を固くした。
「すみませんけど、どれがいいのか選んでいただけません?」
 店員の不安をよそに、桃子は、しれっとした顔で言った。
「え、私が……?」
 店員は可哀相なくらい困った顔になって、私が?と自分の顔を指差すと、ぽかんと口を開けたまま言葉を失った。
「ええ。こういうことは専門の方にお願いした方が間違いないと思いますし」
「で、でも……」
「お願いできませんか?」
「ベビー用品ならまだなんとかなりますけど、でも、こちらのお嬢様がお使いになられるのでしたら、やはり薬局でお買い求めになられた方が……」
 介護用品についてはよく知らないんだからと言外に言い訳している店員だった。
「それはわかっています。わかっているけど、薬局じゃダメな物もあるんですよ」
 桃子は薄く笑った。
「薬局じゃダメな物?」
「はい。たとえば、布おむつなんかそうですね。薬局に置いてある布おむつなんて、そりゃ、大きさは大人用に仕立ててあるけど、見た目は白いだけで可愛らしくもなんともないんですもの。どうせなら、水玉模様とか動物柄とかの可愛いいおむつをあててあげたいと思うのが本当じゃありません?」
「それは……でも、赤ちゃんならそうかもしれませんけど、こんなに大きなお嬢様には……」
「うふふ。大きなお嬢様だからこそ、可愛いい柄のおむつが必要なんです。――十八歳といえば一番お洒落をしたい年ごろなんですから、おむつにしてもそれなりに選んであげないとね」
「十八歳……?」
 店員は絶句した。小学生かせいぜい中学生くらいにしか見えないこの子が十八歳ですって?
「ええ、私たちと同い年です」
 二つに束ねた髪を震わせながら床に目を落とした千恵里の肩に手を置いて、倫子が誇らしげな声で言った。
 実際の年齢よりも幾らか上に見える二人と、それよりも遥かに幼く見える千恵里。店に入ってきた千恵里を見た店員は、姉か若い叔母に連れてこられた少女だと思いこんでいた。なのに……。
「でも、その格好は……」
 店員は、信じられないというふうにぶるんと首を振った。
「いつまでもおむつの外れない子が大人びた格好をしていても却って惨めになるだけです。それよりも、いっそこうして子供じみた格好をさせた方がそれなりに似合っていると思いません?」
 言われてみればそうかもしれない。だけど……。
「でも、ま、それはこっちの話です。それよりも、赤ちゃんのおむつを選ぶのと同じ感覚で選んでもらえればいいんです。たとえば、一番よく売れている物とか。――お願いできますね」
 桃子がさりげない口調で念押しした。
「え? ……ええ、まあ、そういうことでしたら、なんとか」
 考えてもみなかった状況に混乱しかけていた店員は、桃子の念押しに――一番よく売れている物を選んでいただければいいんですよという、この場にあってはひどく場違いとも思える桃子の言葉に、却ってすがりつくような思いで咄嗟に頷いた。桃子のさりげない言葉が、どこかわけのわからない世界へふわふわと漂い出してしまいそうになっていた店員の心を、とにかくは、彼女にとってごく日常のよく慣れ親しんだいつもの仕事に引き戻してくれたのだから。
 この少女が本当は何歳なのか、そんなの私の知ったことじゃない。そんな煩わしいことを気にかけるくらいなら、いつもの慣れた(殆ど飽き飽きしたといってもいい)仕事をしている方が幾らかマシというもんだ。そう思い至った店員は、胸の高鳴りを半ば強引に鎮めながら頷いたのだった。
「うわ、ありがとうございます。本当に助かります」
 桃子は弾んだ声で言って、にこりと笑った。
 そうしてみると、十八という年齢にふさわしい、若い娘らしい表情だった。とてもではないが、自分と同じ年齢の女の子にあてるおむつ選びを店員に依頼するという異様な行動をとるような人には見えない。――もっとも、桃子自身はもともと、自分が異様な行動をとっているとは微塵も思っていない。ただ、可愛いい千恵里を自分になつかせるために素敵な小物をプレゼントしてあげているくらいにしか感じていないのだから。自分がいなければ何もできない赤ん坊みたいな千恵里になったらもっと可愛いいだろうなと思って、ただ、そんなふうにしてみているだけなのだから。
 そう。桃子には、千恵里を苛めたり苦しませたりしている感覚なんて、これっぽっちも有りはしない。だからこそ、一かけらの邪気もないにこやかな微笑みの表情を浮かべることができるのだった。
「ええ、まあ、お仕事ですから」
 桃子のあけっぴろげな笑顔になんとなく照れたような表情で店員は棚の方に向き直ると、目に前に並んでいる布おむつの袋を一つずつ丁寧に手に取って、二つの袋を桃子の方に差し出した。
「お勧めはこの二つです。こちらは、若いお母様方も知っているキャラクターがプリントしてあるから人気があります」
 店員はそう言って、桃子もよく知っているショップキャラクターの模様が可愛いいおむつの袋を少し持ち上げた。それから、そのすぐあとで、もう一方の手に持った、平凡な動物柄のおむつが入った袋も同じ高さに持ち上げて続けた。
「で、こちらのは、お値段が魅力ですね。よくある柄なんですけど、そのぶんお値段が割安だから、おむつをよく汚しちゃってたくさん買っておかなきゃいけない場合にはお得になります」
 両方の袋を見比べて、桃子は、どうする?というふうに倫子の顔を見た。
「迷うことなんかあらへんやん。桃子かて、ほんまはもう決まっとんやろ?」
 倫子は目を細めて桃子の顔を見返した。
 桃子は軽く頷いて、両手におむつの袋を持った店員に言った。
「こっち。このキャラクターの方をお願いします」
「あの……本当にこちらでよろしいんですか?」
 けれど、少し意外そうに訊き返す店員だった。
「どうかしました?」
 こちらも要領を得ない顔で桃子も尋ね返してしまう。
「はい。……こちらのお嬢様がお使いになるおむつをお選びですよね?」
 店員は少し言いにくそうに確認した。
「ええ」
 なんとなくきょとんとした顔で、桃子は短く応えた。
「ですと、どう申しあげればよろしいでしょう……。つまり、それでしたら、お使いになるおむつも少なくはございませんね?」
 言葉を選びながら、店員は千恵里のスカートの膨らみを気にするように言った。
「ああ、そうか。つまり、赤ちゃんに比べるとおしっこの量が多くて、おむつもたくさん必要だっておっしゃりたいんですね?」
 やっと納得したみたいに、桃子も千恵里のスカートをじっと見つめて言った。
「はい。ですから、かなりたくさんお買い求めいただくのでしたら、こちらのお安い方がよろしいかとも思いますけれど?」
 店長に聞かれたら叱られそうな、商売っ気の感じられない店員の言葉だった。親切心からというより、まだ頭の中が混乱しているのかもしれない。
「でも、いいんです。少しくらい高くても、やっぱり可愛いいのを使わせてあげたいと思いますから。――それ、あるだけください」
 店員の言葉に、桃子は軽く目をつぶるような仕種をみせてやんわり言った。
「承知しました。少々お待ちください」
 やっと納得したように言って、店員は、棚に並んでいるキャラクターおむつを買物カゴに詰め始めた。
 だけど、その時。
「あ、ちょっと待ってください。すぐ済むからちょっとだけ」
 急に何か思いついたみたいに店員に言って、桃子はおむつの袋を一つつかみ上げた。
「え? ああ、はい」
 わけがわからないながら、店員は桃子の言葉に従って手を止めた。
「一応、念のためにサイズ合わせをしてみます。まとめて買って使えなかったらイヤだから。――袋を開けた分は間違いなく代金をお支払いします。いいですよね?」
 桃子はそう言うと、店員が迷いながらもおずおずと頷くのを見て、千恵里の手を引っ張ってさっさと歩き出した。
「で、でも、お客様」
 少し遅れて、店員が桃子の後ろ姿に声をかけた。
「はい?」
 桃子が脚を止めて振り返る。
「サイズ合わせといわれましても、あの、試着室はお嬢様が横になられるほどには広くありませんし……」
 店員は戸惑ったような声を出した。
 一歳や二歳の幼児を寝かしておむつを交換するくらいのことなら試着室でもできる。けれど、小柄とはいっても十八歳の千恵里が寝転がるだけのスペースはない。
「できませんか?」
 そう言われてやっと気づいたように桃子は訊き返した。
「はい、ちょっと無理じゃないかと思います。まさか、立ったままというわけにもまいりませんでしょうし」
 店員は少し考えて言った。
「ですよね。紙おむつなら立ったままでもできそうだけど、布おむつとおむつカバーじゃ、横になってもらわないと。――どこか、使えそうな場所はありません?」
「使えそうな場所とおっしゃられましても……」
 おむつのサイズ合わせをするということは、つまり、実際にそのおむつをあててみるということだ。十八歳の女性におむつをあてられそうな場所なんて……。
「ありませんか?」
 諦めきれないような顔で桃子は重ねて訊いた。
「……それは、ないこともありませんけど、でも……」
 店員は言葉を濁した。
「案内してください」
 店員の戸惑いをよそに、桃子は勝手に決めつけた。
「でも……」
 店員はまだ渋っている。
「いいからいいから。さ、早く」
 桃子はひたすら軽いノりだった。まあ、はっきり言って、あまり真面目な性格だったらこんなことする筈もないけど。
 店員は店内の様子をきょろきょろと見わたして、やっぱり他の客がいないことを確認してからおずおずと言った。
「女性用のトイレに、赤ちゃんのおむつを取り替えるための小さなベッドがございます。充分な大きさとは申せませんけれど、更衣室よりは使いやすいかと思います」
「あ、そうか。そういうのがあるんですね」
 桃子は目を輝かせて頷いた。
 くどいかもしれないけど、念のために言っておくと、桃子が千恵里を恥ずかしがらせて喜んでいるというようなことは絶対にない。そりゃ、赤ちゃん用のおむつ交換ベッドに千恵里を寝かせてみようなんてこと、「羞恥責めだ〜」って思う人もいるだろう。でも、桃子も倫子も、そんなつもりは全然ない。ただただ、せっかく買ったおむつがフィットしなかったら千恵里が可哀相だという、『保護者』としての思いがあるだけなんだから。一応そのへんのことをふまえておいてもらわないと、この作品、羞恥SM小説だと思われちゃうかもしれない(充分そうなってるやんかという評判もちらほらってか?)。
「あの、お客様……?」
 おむつ交換用のベッドのことを桃子に教えた店員だったけど、桃子が本気なのを知って言葉に詰まってしまう。
 まさか桃子がそこまでするとは思ってもみず、ちょっとした冗談のつもりで言っただけなのに。
「えーと、トイレはこっちかな」
 店内をさっと見まわして、桃子は改めて足を踏み出した。もちろん、千恵里を連れて行くことも忘れない。
「う、嘘やろ?」
 両手を引っ張られて、千恵里は、聞きようによってはひどくお間抜けな、すっとんきょうともいえる声をあげた。
 これまで桃子と倫子にされてきた以上に恥ずかしいことなんてあるわけがないと思っていた。それなのに、これまでの出来事が随分おとなしいことに思えてしまうくらいに恥ずかしい目に遇わされようとしているのだ。まともな悲鳴さえあげられなくても仕方ない。
「嘘なんか言わへんよ、うちは。これまで生きてきた人生の中で、これ以上にまっとうなことはなかったかもしれへんくらいに正直やで、うちは今」
 もってまわった言い方だが、要するに、「さ、トイレのベッドでおむつをあててあげるわ。もち、ばりマヂやで」と言っている桃子だった。
「やめよ。な、冗談はこれくらいにして、早いとこ買い物を済ませて帰ろ。な、桃子?」
 それに対して、へっぴり腰で抵抗する千恵里。
 はっきし言って、勝負は目に見えていた。
 だいいち、体格がちがう。それに、いざとなれば桃子の方には、倫子という頼もしい恋人が助っ人についてくれる。
 大人が二人がかりで子供をどっかへ連れて行くみたいなもんだ(小っちゃい子をいじめちゃいけないんだぞ〜。そんな言葉、聞く耳もたない二人だった)。
 ぎゃーぎゃー泣き喚く気力もなく、まるで屠殺場に牽かれる子牛のように(やだなー、我ながら陰惨な描写しちゃったなぁ)、千恵里はうなだれたままトイレの方へ引っ張られて行ったとさ。

 防水生地に覆われたそのベッドは、思っていたほどには小さくなかった。少し動かして壁との間に隙間を作れば、千恵里を寝かすにも充分だ。
「うん、こんなもんやろ」
 三人がかりで壁際から少しだけ動かしたベッドと千恵里の体を見比べて桃子が呟いた。
「さ、その上に寝転んで」
「いや」
 もちろん千恵里はお約束のセリフを口にする。
「いや? また駄々をこねるんかいな、サクランボ。けど、早いこと済ませてしもた方がええと思うで。いつまでもぐずぐずしとって他のお客さんが入ってきたら、もっと恥ずかしいことになるねんから」
「それやったら、お、おむつのサイズ合わせなんかやめて、このまま帰ろ……」
「そら、うちらかてそないしたいで。サクランボを恥ずかしい目に遇わせて嬉しいわけないもん。そやけど、おむつのサイズ合わせはちゃんとしとかなあかんねん。さっきのドラッグストアで買うたんは二組分だけやのに、その内の一組はもう汚してしもたやろ。つまり、今スカートの下にあてとるんを濡らしてしもたら、もう替えがないんや。そんなことになって困るんはサクランボ、あんた自身やねんで」
 その内の一組はもう汚してしもたんやろ。桃子の言葉に店員は、自分のことでもないのに顔が赤くなる思いだった。
「も、もうせえへん。もうおむつは汚さへん。そやから、もうやめようよ」
 懇願するように千恵里は言った。
 幼稚園か保育園に通っている幼児が、もうおもらしはしないからおむつはイヤだと涙ながらに母親に訴えているのとさほど変わらない光景だった。私はもう赤ちゃんじゃないよ。だから、おむつなんてヤだ。ねえ、お隣のミッちゃんにおむつのこと知られたら恥ずかしいよ〜。だから、ねぇってば。
「あ・か・ん。そんなこと言うて、あんた、今朝からもう何回も失敗しとるんやで。マンションで紙おむつを汚して、さっきのお店では、せっかくの新しいショーツを濡らしてしもた上におむつも汚してしもたんやから。そんな子の言うことなんか信じられへん」
 ほんとにこの子は、いくつになっても恥ずかしい癖が治らないんだから。おねしょくらいならまだ仕方ないかもしれないけど、おもらしまでしちゃうんだなんて。わかってるの? 妹のミキだって、もうそんなことしないのよ。もう今度こそ許しません。いいわね、ミキの代わりに今日からあなたにおむつをあててあげます。それならいくらおもらししても大丈夫だから。お隣のミッちゃんにもおむつ姿をよーく見てもらうといいわ。
「そんなこと言うても、けど、あれは桃子が……」
 言いかけたけど、言い訳しようにも、本当のことを店員の前でそのまま口にできるわけもない。まさか、桃子に責められたせいで感じちゃっておしっこを洩らしちゃっただなんて。
 でも、あれはママのせいだよ〜。ママか私のあんなところをいじくるから、だから私もガマンできなくなっちゃって……。
「うちが何やて?」
 怖い目をして、桃子が千恵里の顔をじろりと見おろして。
 ママが何をしたっていうの? ほんとにもう、自分の失敗を人のせいにするだなんて、いつからそんな悪い子になっちゃったのかしら。もう決めました、ええ決めましたとも。そんな悪い子には、オシオキとしておむつをあててあげます。
「……」
 千恵里は言葉に詰まった(ぐっ)。
 千恵里が本当のことを話せる筈がないことをわかった上で桃子はああ言ったにちがいない。
「言いたいことはそれだけやな? ほな、そこに寝てもらおかな」
 それ以上は言葉を返せなくなった千恵里に、桃子はずいっと顔を寄せて決めつけるように言った。腰に手を当てて、ちょっと気取ったポーズをとってたりする。
「う……」
 千恵里さん、たじたじ。
「ほれ、早よう横になりよし」
 ずいったら、ずい。
「う、ううう……」
 たじたじの二乗。
「うりうり」
 ええい、あんたはイジメっ子か。
 そんなふうに言い返すこともできなくて、うううう唸りながら、千恵里は何度も何度も目の前の小さなベッドを睨みつけては、許しを請う罪びとみたいに桃子の顔を振り仰ぐのだった。
 もちろん、桃子が「いいわよ」と言うわけがない。
 とうとう千恵里は諦めきれない自分を無理矢理に諦めさせて(これって、とっても惨めなことだ)、というか、ああ、私はいよいよ諦めたんだわと思うようにして、小さなベッドの端にそろりとお尻をおろすことにした。結局はこうするしかないんだって、千恵里にしてもわかってはいたんだ。わかってはいたけど、なんの抵抗もしてみせないでほいほいとそうすることは(そんなものがまだ残っているのかどうか、自分でもかなり自信がないんだけど)プライドが許さなかった。とりあえず、私は抵抗したんだよ、でも桃子の方が強かったんだからという、自分自身に対する言い訳めいた説明が必要だったわけ。
「あ、ちょっと待ち」
 千恵里のお尻がベッドに触れる寸前、桃子の声が飛んできた。
 反射的に千恵里が身を固くするのと、桃子の手が伸びてくるのとが同時だった。
「そのままお尻をおろしてしもたらスカートをたくし上げられへんようになるかもしれへん。そやから、今のうちにちゃんとしとこ」
 そう言って桃子は、千恵里が身に着けているフリルいっぱいのスカートの後ろの方を手早く捲り上げてしまった。
 前の方には触っていないけれど、もともとが短いスカートだ。どこかがちょっと強引に捲り上げられちゃうと、あっという間に全体がたくし上げられるみたいになって、それまでかろうじて隠れていた淡いクリーム色のおむつカバーが、三分の一ほどスカートの裾から覗いてしまう。
 千恵里は慌ててスカートの前の方を両手で押えたけど、もう遅かった。三人を案内してついてきていた店員の目に、これでもかというくらいばっちり鮮明に映りまくってしまう大きなおむつカバーだった。
 レジの前で目にしたとはいっても、スカートの下から覗きこむみたいにしてちらりと見ただけだった。こうして改めて若い女性のおむつ姿を正面から目にしてみると、想像以上の驚きや恥ずかしさに心が震え、どういうわけか、胸がきゅんとなってしまう。これがもし私だったらと思ってみるだけで、その場に竚んでいるのも辛くなってくるほどの、なのに、なぜとはなしに体が疼くみたいな妙な切なさに包まれる感覚がある。
「これでええわ。さ、横になってみ」
 店員のほのかに赤い顔に気がついたのかどうか、桃子はふっと微笑んで、スカートの裾をつかんだまま千恵里に言った。
 桃子に言われるまま、今度こそおそるおそるベッドにお尻をおろした千恵里は、両手で上半身を支えるようにしてゆっくり体を倒していった。
 頭がかろうじてベッドの中に入るような位置に体を置くと膝の下からむこうがはみ出してしまうものの、ここで眠るわけでもないから、それで充分だった。
「じきに済むからおとなしゅうしとくんやで、ええな?」
 膝から下をベッドの側面に沿ってだらりと垂らした格好で横になった千恵里に、今やお約束と化したセリフを言って桃子がクスッと笑った。
 すぐに済むといって、これまで、すぐに済んだことは一度もない。
 だけど、面と向かってそんな憎まれ口をきく勇気もない。
 千恵里はベッドに寝転がったまま、一度だけ弱々しく頷いた。それを見て、桃子はベッドのすぐ前に立つと、まだ少しだけおむつカバーを隠しているスカートをさっとたくし上げた。
 千恵里がきゅっと掌を握りしめて、二つの拳を胸の上に置いた。もう瞼も固く閉じていて、まるで予防注射の針が自分の腕に突き刺さるのを見ていられなくなった子供のように顔をあさっての方に向けている。ベッドの端から力なく垂れ下がった両脚も、まさか寒いわけでもないだろうに、僅かにぶるぶると震えているみたいだ。
 ベリッと恥ずかしい音がして、桃子が、おむつカバーの前当てと横羽根とを留めていたマジックテープを手早く外した。続けて、ぷちっぷちっと、聞こえるか聞こえないかの音と一緒に、太腿のところのスナップボタンを指で挟むようにして外してしまう。桃子の手が前当ての端をそっと持ち上げて、少し開き気味にさせた千恵里の両脚の間に広げると、ドラッグストアの更衣室で取り替えたばかりの純白の布おむつが丸見えになる。
 店員は思わず息を飲んだ。
 初めて千恵里のおむつカバーを目にした時も驚いたけど、それでも、おむつカバーの撥水性の生地はどことなく無機質な感じがあって、少したとえは違うかもしれないけれど、ちょっと奇抜なコスプレみたいに思えなくもなかった。それが、こうしておむつカバーの前当てが開いて、その中の布おむつが――僅かにルーズに千恵里の白い肌に密着している柔らかそうな生地(そう。化学的に合成された素材なんかじゃなくて、天然のコットンを優しく織りこんだ、見るからに柔らかそうな生地だった)でできた布おむつが目に映ると、それが実際に千恵里のおしっこでじわじわと濡れてゆく情景がいやでも思い浮かんできて、それまでどこか別の世界のことのように思えなくもなかった目の前の出来事が鮮やかな彩りに包まれて、突然、まぎれもない重さをもった事実として迫ってきたのだから。
 店員が目を凝らして見守る中、桃子の手がおむつカバーの横羽根をゆっくり開いて、千恵里のお尻の両側に広げた。窮屈な戒めが解かれて、思わず千恵里が、ぎゅっと瞼を閉じたまま小さな溜め息を洩らす。
 桃子は純白の布おむつに静かに手をかけた。ほのかに、じっとり湿っている。まさか、そんなに続けておもらししてしまう筈がない。だいいち千恵里は、おねしょ癖こそあるけれど、本当はおもらしまではしない。これまでのはみんな、桃子が無理矢理させてきたおもらしだ。だから、このじっとりした感じは、おしっこのせいじゃない。まだ四月になったばかりの爽やかな季節にもかかわらず、おむつカバーの中は桃子が思っている以上に蒸れてしまうのだろう。千恵里のかいた汗が、外の空気に触れることもできずに、じくじくとおむつを湿らせているにちがいない。少しくらい通気性がいいような作りになっていても、結局のところはあまり差がないのかもしれない。
 ほんま、これやったら、おむつかぶれになるのも無理ないわ。夜の間だけ紙おむつをあてとるだけでもおむつかぶれの薬を塗らなあかんくらいやのに、これからこないして(サクランボがどない嫌がっても)ずっとおむつをあてられたりしたら、赤ちゃんやのうてもお尻が真っ赤にかぶれてしまうのもしゃあないで。ま、ええか。おむつかぶれになっちゃってとか言うて皮膚科の病院へサクランボを連れて行くんも面白いかもしれへんし(しつこいようだけど、念のために言っておこう。桃子は絶対に千恵里を苛めて喜んでいるのではない。……ないと思う。……ないんじゃないかな。ま、ちと覚悟はしておけ。頭髪に不自由しているフォークシンガーがヒットさせた曲を思わせるようなフレーズが何度もこだまする中、作者の自信が消えそうになっていく)。
 作者がキャラ設定のことをどんよりした顔で考えこんでいる中、桃子の方は自分の性格を思いわずらうこともなく、ほのかに湿った布おむつを一枚ずつ丁寧に広げていた。桃子の手がおむつを広げるたびに、ドラッグストアの更衣室ですりこんだベビーパウダーの甘く懐かしい香りが優しく漂い出る。ふと見れば、難しい顔をしていた店員も、ふんわかした顔で微かに鼻をひくつかせていた。
 その店員がぎくっとしたような表情を浮かべたのは(ドラッグストアの店員もそうだったけど)、千恵里の無毛の股間がおむつの中から現れた時だった。店員は驚いたような顔をした後、耳の先まで赤くして、千恵里のあそこを穴があくほど見つめてしまった(そんなことせんでも、穴やったらもうあいとるやんか――こーゆーネタはみんなから嫌われるから、たとえ思いついても実際に口にはしたらあかんねんで、ほんまは)。
「サクランボの脚を持ち上げてぇな、倫子」
 千恵里の秘部を一瞬まじまじと見つめた後で慌てて横を向いてしまった店員の横顔を悪戯っぽい目つきで眺めながら、桃子が倫子に声をかけた。
「ほいほい」
 千恵里の胸の内も知らぬげにお気楽な返事をして、倫子は両手で千恵里の足首をつかむと、その手を高く差し上げた。
 千恵里のお尻が僅かに浮いて、ベッドとの間に隙間ができる。それまで千恵里のお尻をくるみこんでいた布おむつを手早くどけて、桃子は、そのまま待っとってやと倫子に向かって目で合図を送った。すぐに倫子も軽く頷き返す。
 倫子が千恵里の足首を高く差し上げたままにしている間に、桃子は、棚から持ってきた袋をぴっと開けて中の布おむつを取り出した。その内の一枚を手に持って広げてみると、パステルピンクにプリントされたキャラクターの可愛らしさがいっそう引き立つみたいだった。
 桃子は軽く頷いて、キャラクターが笑顔を浮かべている布おむつを千恵里のお尻の下に敷きこんだ。その後、そのおむつを、千恵里の両脚の間を通してお腹の方へ伸ばしてみる。ドラッグストアで買った大人用の布おむつに比べればいくらか短く仕立ててあるのは確かだったけれど、それでも、おヘソのすぐ下までは充分に届く長さだった。大人用のようにわざわざ折り返さなくてもいいぶん、却ってぴったりフィットかもしれない。
「へーえ、丁度ええやん」
 千恵里の脚を持ち上げたまま様子を見ていた倫子が感心して言った。
「そうやろ? 思てたよりぴったりやわ」
 桃子の方も倫子の顔を見て、にっと笑いかけた。
「横当てには短いけど、それも、二枚をちょっとずらして重ねたらええことやし。これやったらおっけーやわ」
「そういうことやね」
「よーし、ほな、ついでや。もうこのまま、新しいおむつをあててしまお」
 桃子はそう言って、残りのおむつをさっさと広げ始めた。
 千恵里の胸がドキドキ高鳴る。紙おむつから純白の布おむつ、そうしてキャラクターおむつと、いろんなおむつをあてられるごとに、千恵里の羞恥はいっそう激しくなってきた。
 紙おむつは、まあ、仕方ないといえなくもない。恥ずかしい話だけど、千恵里がおねしょをしてしまうのは隠しようのない事実だった。だから、それに対処するために紙おむつをあてていたとしても、それは医療行為みたいなものだ。風邪をひいた時にかけるマスクみたいなもんだと(ちょっと強引かもしれないけど)言えなくもない。
 それに、純白の布おむつにしたって、紙おむつのピンチヒッターみたいなものかもしれない。紙おむつだとお金がかかるから何度も繰り返して使える布おむつに代えたんだって、ただそれだけのもんかもしれない。もっとも、何枚も汚すからお金がかかって布おむつにするとか、昼間もずっとあててなきゃいけないから布おむつの方が少しでもお肌に優しそうだからって事情もあるわけで、そのへんのこと(つまり、何度も何度もおねしょをしちゃうとか、昼間でもおもらししちゃう心配があるんだってこと)を自分自身で認めなきゃいけないんだと思うと、やっぱり紙おむつよりもかなり恥ずいのは恥ずいけど。
 そして、キャラクターおむつ。はっきり言って、こんなのをあてられると、とどめを刺されちゃったということになるかもしれない。おねしょ癖が癒らないにしても、おもらし癖があるにしても、紙おむつで対処すればいいんだよね。ま、事情があるにしても、貸おむつ屋さんが取り扱ってるみたいな純白の布おむつを使えばいい。それが、水玉模様だとかキャラクターイラストとかがプリントされた布おむつなんかになると、見た目を意識してるってことになる。えーと、どういえばいいんだろう――いつもずっと手離せないものだから、どうせなら可愛いいのを選んでるんだと思われても弁解できない、みたいな感じになっちゃうじゃない? つまり、(おむつを選ぶのが)可愛いい下着を選ぶのと同じ感覚になってるよと思われちゃうようなもんなんだよね。ちょっとわかりにくい説明になったけど、これって、めっちゃ恥ずいことだと思うぞ、うん。

 そうして、新しいキャラクターおむつがもう少しで千恵里の下腹部を包みこんでしまうという頃。
 入り口の自動ドアが開く微かな音が聞こえた。
 そのすぐ後、とてとてとこちらへ近づいてくる小さな足音と、それと一緒に、ハイヒールのものらしいこつこつという足音。
「だめよ、ユカ。走っちゃ危ないってば」
 若い母親だろうか、華やいだ中にもどことなく落ち着いた感じのする女性の声が聞こえてきた。
「だって、おしっこもれそうなんだもん。いそがなくっちゃいそがなくっちゃ」
 ユカと呼ばれた小さな女の子の声が母親にそう言って息を切らしていた。
 どうやら、買い物か何かの途中でユカが急におしっこをしたくなって、ここでトイレを借りるつもりで入ってきたらしい。
 とてとていう足音は、確かに小走りに急いでいるみたいだった。
「だめだったら。何かにつまずいて転んだらどうするの」
 子供を追いかけて、母親らしき声もだんだん近づいてくる。
「おもらししたらママおこるもん。だから、いそいでるんだもん」
 三〜四歳くらいの生意気盛りな年ごろの子だろうか、そんなふうに言い返すばかりで、母親の言う通りにゆっくり歩こうという気にはならないみたいだ。
 とてとてとてとて。
 小走りの小さな足音と、落ち着いた足音とが、もうそこまで近づいてきた。
 千恵里が茫然と目を開いて、泣き出しそうな顔をしていた。このまま二人がここまで来たら、この恥ずかしい姿をまともにを見られてしまう。
「早よぉ、早よして、桃子。二人が来るまでに、早いことおむつをあててぇな」
 千恵里は二人に聞かれないように声をひそめて桃子をせっついた。
「あれ、珍しいこともあるねんな。あれほどおむつを嫌がっとったのに、どういう風の吹きまわしやろ?」
 おむつをあてていた手をわざと止めて、桃子はとぼけた声で言った。今にも口笛でも吹き出しそうな顔つきだ。
「そんな意地悪言わんと……」
 ベッドに横になった姿勢で桃子を見上げる千恵里の顔には、迫りくる恐怖に怯えるホラー映画のヒロインみたいな表情が浮かんでいた。
「はいはい。せっかくサクランボが自分から『おむつをあてて〜』ってお願いしてくれてるんやから、リクエストにお応えせなあかんもんな」
 切羽詰まった千恵里の顔とは対照的に、桃子の方は悠々だった。
「……おむつをお願いやなんて……」
 泣き出しそうな表情をしているくせに、千恵里はぷいと横を向いた。そんな余裕ある筈ないのに。
「あ、また拗ねた。あのユカちゃんとかいう子と同じやな。うちらの言うことなんか聞かんと、じきに口ごたえするねんから」
 桃子はおかしそうに笑って、横を向いた千恵里の頬をつんつんしてみる。
 そうしている間にも、親子連れはすぐそこまで来ている。ただ、どうやら母親がやっとのことでユカの手をつかまえたのか、こちらへ近づいてくるスピードが少しゆっくりになっているみたいなのが救いと言えば救いかもしれない。
「おむつあててほしいんとちゃうの? ま、うちはどっちでもええねんで。このままどっか行ってしもても。な、倫子?」
 むうう、完っ全に脅迫口調だ。
 でも、本心はそんなこと思っているわけがない。すぐに拗ねる小っちゃな子供をからかっているのと同じなんだ(……と思う)。
「そやから、早よあてて言うてるやんか」
 おお、逆ギレ千恵里。
 桃子にからかわれた屈辱と恥ずかしい姿を親子連れに見られてしまうかもしれない怯えとで、ついに千恵里がキレてしまった。
「おお、こわ。はいはい、ちゃっちゃとあてたげましょ。サクランボの大好きな可愛いいおむつやもんな」
 桃子は大げさに肩をすくめてから、やっとのこと千恵里の頬をつんつんしていた指をおむつカバーに戻した。
 実のところ、桃子だって千恵里をからかっていたばかりじゃない。親子連れが大体どのあたりにいるのか、声の大きさや足音の聞こえ方からおおよその見当をつけながら手を休めていただけだ。本当にもうすぐそこだとわかったら、素早く手を動かすこともできる(当社比30%以上のスピードアップを達成しております)。
 左右の横羽根を留めて、その上に前当てを重ね、二つのスナップボタンを留めて、おむつカバーの裾からはみ出している布おむつを指で押しこむのに、あまり時間はかからなかった。マンションで説明文を読みながら紙おむつをあてていた時のぎこちない手つきが嘘のようだ。
 腕をあげたな、桃子。
 ふん、これくらい当たり前やで、倫子。
 よっしゃ、この調子で今度は難波グランド花月の客、死ぬほど笑わせたろな。
 はいな、トミーズなんかに負けへんで。
 リンゴ&モモコは今日も行くんやで〜。
 ――二人がポーズをきめて千恵里をベッドから引き起こしたところへ、何も知らない親子連れが入ってきた。
 で、なにげなくお互いに顔を見合わせるユカと千恵里。途端に、二人は驚いたように目を丸くした。
 目を丸くして、嬉しそうに先に叫んだのはユカの方だった。
「ママ〜、このおねえちゃん、ユカとおなじおようふくだよ。すごいねすごいね、ユカ、おなじおようふくきたひととあうの、はじめてだよ」
 ユカの言う通りだった。千恵里がついさっき試着室で着せられたドレスと、ユカが身に着けているドレスとは(そりゃ、サイズこそ違っているものの)まんま同じ物だった。七分袖の先っぽにあしらってあるレースといい、丸くて広い襟といい、三段になったスカートといい、まるでそっくりさんだったのだ。ま、もちろん、こういうのは不思議でもなんでもない。子供服の場合、幼児が着るような100サイズの服から中学生あたりが着られる160サイズくらいの服まで、(細部はいろいろ変えることもあるけど)同じデザインで作ることは珍しくもない。特に、女の子用の可愛いい洋服の場合にこういうことが多いみたいだ。だから、ユカと千恵里みたいに、同じようなドレスを着ている子どうしが顔を会わせるってことも割合よくあることかもしれない。
 しれないんだけど、それが、千恵里にはとても恥ずかしかった。「同じ服を着てる人と初めて会ったぞ」と単純に喜んでる三〜四歳くらいのユカとちがって、千恵里は本当のところ、十八歳の大学生だったりするんだよね。まさか大学生にもなって、「わ〜い、同じドレスの子がいたぞ〜」なんて嬉しがれるわけがない。はっきり言ってこのドレス、もともとはユカくらいの年ごろの子に似合うようなデザインになっている。中学生の女の子でも、着るのをためらうかもしれない(だって、これでもかってくらいフリフリなんだよ)。そんなのを着せられて、でもって、そんなドレスがめちゃくちゃよく似合うユカみたいな子と並んじゃったりしたら、顔が赤くならない方がどうかしている。
 けど、まあ、もっと恥ずかしいところ(つまり、おむつをあてられる現場ね)を目撃されるよりはマシだったかなと思い直した千恵里。軽く会釈をしてトイレの中へ連れて行こうとする母親に背中を押されて歩き出しながら「ばいばい、またね」って感じで小さな手を振るユカに向かって、なんとなく面映ゆい表情でそっと手を振り返してあげるくらいのことはできた。
 でも。
 とてとてとて。……とて?
 通路からすぐの所に立ち止まっていたユカは千恵里のすぐ側を通ってトイレへ入りかけた。入りかけて、何か奇妙なものをみつけたみたいな顔になって、また立ち止まってしまう。そうして、すぐ側に立っている千恵里のスカートをじっと見つめてたりする。
「そんなにじっと見たりしたら失礼でしょ。早く行きなさい、ユカ」
 慌てて母親がせっついた。
「でも、ママ」
 ユカは精いっぱい首を曲げて母親の顔を見上げると、何か面白い物を見つけた時のきらきら光る目で言った。
「このおねえちゃん、おむつあててるんだよ。もうユカだってパンツなのに、おねえちゃんのくせにおむつなんだよ。どうしてかな」
「嘘おっしゃい。おねえちゃんがおむつだなんて、そんなことがあるもんですか。――ごめんなさいね。最近、いろんなことがお喋りできるようになったのが嬉しくて、あることないこと口にするんですよ」
 事情を知らない母親、自分の娘がとんでもないこと言い出したと思いこんで、ユカの頬を軽くぶつフリをして千恵里に謝った。
「だって、ほんとだもん」
 自分の言ったことが信じてもらえなかったユカは、母親の手がちょんと当たると同時に頬をぷっと膨らませた。
「まだ言ってる。嘘ばかりつく子は地獄のエンマ様がひどい目に遭わせるのよ」
 若いくせに古典的な叱り方をする母親だった。
「ぶ〜」
 どうしても信じてもらえないユカ、今度は八つ当たり気味に千恵里の方を睨みつけると、さっと腕を振り上げた。
 はっとして千恵里がスカートを押えた時にはもう手遅れだった。ほんの短い間だったけれど、ユカの手がスカートの裾を持ち上げて、かろうじて隠れていたおむつカバーが母親の目にとびこんだ。
「あ……」
 と言ったきり、母親は唇を掌で覆って言葉をなくしてしまう。
「ほんとだったでしょ?」
 自分がしたことの意味もわからないまま、ユカは勝利のVサインを突き出した。子供というのは、天使というよりも悪魔に近い存在にちがいない。無邪気であどけない、それだから却ってタチのわるい悪魔だ。
 咄嗟にスカートを押さえて体を退いた千恵里のすぐ後ろにベッドがある。
「きゃっ」
 ベッドの端に膝の裏側を打ちつけた千恵里は、小さな悲鳴をあげてベッドの上に仰向けに倒れこんだ。
 スカートがふわっと広がって、さっきは一瞬しか見えなかったおむつカバーがみんなの目に丸見えになった。
「ほんとだったでしょ、ママ」
 なかなか返事をしてくれない母親に、ユカは念を押すみたいに何度も言った。
「え? ええ、ああ……そうね。……ユカは嘘なんてついてなかったわね」
 千恵里のおむつカバーに目を釘付けにしたまま、真っ平らな声でそれだけ応えるのが精いっぱいだった。
 そして母親はぶるんと首を振って我に返ると、
「さ、行くわよ。早くしないと洩れちゃうわよ」
と(どこか別の所に目をやって)言いながら、ユカの背中をちょっぴり乱暴に押してそそくさと歩き出した。
 母親と一緒に歩き出したユカがひょいと振り返って、改めて手を振った。もう千恵里は、それに応えて手を振り返すことはできなかった。
「ねえ、ママ。おねえちゃんでもおむつなの?」
 トイレの中に消えて行くユカの声がタイル張りの壁に反響して意外にはっきり聞こえてくる。
「そうね、おもらしが治らなかったら、おねえちゃんでもおむつをあてることもあるかもしれないわね」
 そのすぐあとに、少しエコーがかかった母親の声も耳に届く。
「でも、ユカはパンツだよね」
 どことなく自慢げなユカの声だった。
「そうよ、ユカはパンツよ。でも、もしもおもらししちゃったら、おむつに逆戻りかもしれないよ」
 母親の声が優しく響く。
「やだよ、ユカはあかちゃんじゃないもんね。ぜったいにおむつなんかしないもん。さっきのおねえちゃんとはちがうんだもんね」
 ユカの声が何度も何度も千恵里の胸の中にこだました。



 そんなこんながあった後でやっとのことでレジを済ませた三人だった。ほんと、ご苦労様って感じなんだけど、本当のところ一番ご苦労様だったのは、ここの店員さんだったかもしれない。
 で、いざレジを済ませて、出口の近くにあるちょっとした台の上に荷物を積み上げてみると。
「ちょっと、桃子。これ、えらい荷物やで。こんなん、どないして持って帰るんよ」
 倫子は、げんなりした顔で言った。
 さっきドラッグストアで買った荷物と合わせると、確かに、これからバスに乗って持って帰るのがうんざりしてしまうほどの量だった。
「こらこら。可愛いいサクランボのためやで、そんな弱音吐いてどないするねんな。サクランボ本人にも持ってもらうから、ほら、倫子も頑張って」
 自分もちょっとげんなりしながら、けれどじきに思い直したように、うんと頷いて桃子が応える。ぎゅっと握った拳が頼もしい。
 なのに、その決心を打ち砕くような力のない千恵里の声がすぐ横から聞こえた。
「私、いややで」
「いや? 何がいややのん。これ全部、あんたのやねんで」
 思わず、怒ったような声で桃子が訊き返した。
「……そやかて、両手に荷物持っとったら、風が吹いてスカートが捲れ上がってしまいそうになっても押さえられへんやん」
 千恵里は顔を伏せてぼそぼそ応えた。
「あ、そういうことなん? たしかに、それはサクランボの言う通りやわね」
 ついさっきの怒った声が嘘みたいな、今度は今にも笑い出しそうな桃子の声だった。で、本当ににまあと笑って千恵里に言った。
「けど、それやったら、両手が自由に動くようにしてあげたらそれでええねんね?」
「え? ……うん、まあ……」
 千恵里は不安そうに応えた。桃子が笑顔になってロクなことがあったためしがない。
「ほな、ちょっと待っとき。じきに戻ってくるからな」
 そう言うなり、呆気にとられている千恵里と倫子をその場に残して桃子は店をとび出した。

 で、しばらくして戻ってきた桃子が手に提げていたのは大きなリュックサックだった。よく見ると、何か動物(ウサギか何かだろうか)を形どったリュックサックみたいだ。長い耳から肩紐が伸びていて、顔の部分が蓋になっている。
「なんやのん、それ?」
 桃子が持っているリュックサックを目にするなり、ちょっと呆れたような声で倫子が言った。まるで、ひやかすみたいな声だった。
「見てわからへんの? リュックサックやんか」
 桃子はどういうわけかクスクス笑いながら応えた。
「そんなんわかってるって。ちゃうやん、それ、どこでどないしたんよ?」
「二軒隣に手芸屋さんがあるん、倫子も知っとぉやろ? このまえちょっと買い物に行った時、そのお店の軒先にこんなリュックサック(アニマルリュックいうんやったかな)がぎょうさん並んどってん。キリンさんとかカバさんとかもあるし、大きさも、ほんま小っちゃいのんから本格的なもんまで揃とったんや。ちょっとそれを思い出して買うてきてん。――サクランボに似合いそうやろ?」
「サクランボに?」
「あったりまえやんか。こんな可愛いいアニマルリュック、サクランボ以外の誰に似合ういうのん。――ほら、これに荷物を詰めこんで背負わせたらええねん。それやったら両手は自由やもん」
「ああ、そうやったんかいな。そんで納得したわ」
「ん。――これでええな、サクランボ?」
 有無を言わさない口調で桃子は千恵里に言った。
「……まあ、それやったら……」
 そんな応え方しかできない千恵里だった。本当はこんな荷物、一つも持ちたくはない(だって、どれも千恵里にしてみればめっちゃくちゃ恥ずかしい品物ばかりなんだよ?)。持ちたくはないけど、もう断る口実も思いつかない。


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