だから千恵里は、誰に助けてもらうこともできずに、自分だけでその困難に立ち向かわなければならなかった。くじけそうになり、もうどうでもいいやと諦めそうになり、自分がとても惨めに思えてならなくなっても、そこには自分しかいなかった。誰に甘えることもできずに(そう、千恵里は、実の肉親に囲まれながらも、「甘える」というのがどういうことなのかさえ知らずに生きてきたかもしれない)、ただ黙々と机やイーゼルに向かう日々。そして、朝を迎えるたびに、ぐっしょり濡れた紙おむつの不快感と共に目覚める屈辱の日々。
 ところが不思議なことに、いつしか千恵里は、自分が汚してしまった紙おむつの感触がさほど嫌悪感に充ちたものではないような気がしてきて少なからず戸惑うことになる。
 大きなシミになって下腹部の肌に触れる紙おむつの感触が、まるで、おしっこ以外の物も何もかも吸い取ってくれているように思えてならなくなってくる千恵里だった。時おり寂しさや情けなさに耐えられなくなってこっそりこぼす涙も、二十時間ほどもぶっ続けで絵筆を走らせながら流す汗も、そうして、机に向かって問題集と取り組む時に洩らす愚痴といったものさえ、下腹部を優しく包みこむ紙おむつがひっそり吸い取って決して外へは滲み出させないでいてくれる。そんな気がしてならない。
 決して叱りもせず、お節介な助言めいた口出しもせずに、千恵里がどんなことをしてもそれを無条件に許してくれるような、とてつもなく懐の深い愛情。なんでもかでもおかまいなしに許すようなものは本当の愛情ではないと言う人もいるだろう。けれど、幼い子供にまず必要なのは、自分という存在を無条件に受け入れてくれる大きな心だ。何をしても許してもらえるという信頼を実感できるようになった後にこそ、相手からの助言や叱責を素直に受けとめられるようになるものなのだから。
 おろおろするばかりの母親に代わって、千恵里の体や心から流れ出る総ての物を吸収し、千恵里の体そのものをそっと包みこんでくれる紙おむつ。千恵里がそんな紙おむつに心を惹かれたとして、誰がそれを責めることができるだろう。初めて経験する挫折の只中で千恵里が心から信頼し、ほっと心休める対象に紙おむつを選んだとして、それは本当に異常な心の動きでしかないだろうか。幼い頃から「いい子」だった千恵里が初めて見つけた本当の安息。どんな我儘も許して優しく包みこんでくれるもの。心おきなく何かに甘えられるというのがどんなに甘美なことなのか、千恵里はこの時になって初めてわかったような気がした。
 ――千恵里がM芸大に受かった後もおねしょ癖が癒らないままなのは、実のところ、それが本当の原因だった。おねしょが癒ってしまえば紙おむつを使い続ける理由がなくなってしまう。つまり、紙おむつを手離さなければならなくなるわけだ。もちろん、そんなことを千恵里が意識して考えたわけじゃない。自分が紙おむつのとりこになりかけているかもしれないなんてこと、本当はそのせいでおねしょが癒らない(というか、わざとおねしょしているのかもしれない)なんてこと、思いつきもしない。けれど、千恵里自身の意識さえ届かない深い所(あの脆弱な部分がひっそりと芽吹いているすぐ側)には、そんな心の動きが盲目の白蛇のようにうねうねと蠢めいていたのだ。
 そうでなければ、たとえ桃子に脅された(おねしょのことをクラスのみんなに知られたらどないなるかなぁ)としても、紙おむつをあてて外出なんてするわけがない。桃子がおむつかぶれの薬を塗ろうとしても、千恵里が本気で抵抗すればそう易々とそんなことができる筈もない。それなのに、いくら嫌がるそぶりを見せながらとはいえ、結局はスカートの下に紙おむつをあてて外出し、ドラッグストアや子供服の店中でおむつを取替えられもしたのは、千恵里の心の中に、そうされることを望む無意識の思いがあったからにほかならない。そのことには倫子も薄々ながら気づいていたし、人の心の中を見透かすことに長けている桃子だったら、千恵里が本当は何を望んでいるのか手に取るようにわかっていたにちがいない。だからこそ、千恵里をあんな恥ずかしい目に遇わせても、にこやかな顔をしていられたのだ。さもなければ、いくら千恵里を二人の赤ん坊に仕立てあげようとは思っても、再会したその日からあれだけのことはできないだろう。
 そう。桃子の企みは、実は、千恵里の願望と奇妙なくらいに同じものだったと言って間違いない。
 そして、それをよりいっそう確かなものにするために、桃子は昼食のスープに睡眠薬を混ぜて千恵里に飲ませた。睡眠薬とはいっても、向精神薬などは医師の処方箋がないと買えないため、介護用のおむつカバーを買ったドラッグストアですぐに入手できる効き目の弱い、殆ど鎮静剤程度の薬だったけれど、朝からのことでかなり気疲れもしていた千恵里にはそれで充分だった。スープと一緒に飲みこんだ小さなカプセルが胃の中で溶けるとすぐに、昼食の最中だというのに千恵里はうつらうつらし始めたのだから。そうして、千恵里が眠りこけている間に、二人は薄い麦茶をぬるめに温めてワンピースの上からゆっくりこぼしたのだった。だから、昼寝から覚めて千恵里が慌てたのは、本当はおねしょではない。けれど千恵里が事実に気づかないのなら、それは千恵里にとっては本当のおねしょと同じだった。千恵里は自分のおねしょ癖を改めて思い知らされ、おむつを手離せない体だとますます強く思いこむことになる。それもまた、実は千恵里が無意識のうちに望んだことでもあるのだけれど。

「独りやない。もう独りぽっちやないんやで、サクランボ」
 改めて千恵里の体をぎゅっと抱きしめて、倫子はいたわるように言った。
 倫子の胸に顔を埋めたまま、千恵里はもう一度こくりと頷いた。そうして恥ずかしそうに顔を上げると、可哀相なくらいうっとりした表情で言った。
「おしっこ……」
「出てしまいそうなん?」
 少しも驚くような様子もなく、倫子は優しい声で訊いた。
「うん」
 あどけない子供のように、千恵里は短く応えた。
 同時に、生温かい液体の迸る感触が倫子の下腹部に伝わってくる。
 慌てることなくそっと見おろす倫子の目に映ったのは、千恵里の股間から溢れ出して、そのまま千恵里の下腹部をしとどに濡らした後、二人の腿から脚を伝ってバスマットの上に滴り落ちるおしっこの流れだった。無色のお湯とはちがい、微かに色づいた温かいおしっこが、細かな白い泡をたてながら、細い条になって排水口の方へゆっくりゆっくり流れて行く。
 倫子は自分の下腹部で千恵里のおしっこを受け止めながら、赤い柔らかな頬に優しくキスをした。



 胸の上からタオルを体に巻きつけた桃子と、こちらは丸裸の千恵里がガラス戸を開けると、脱衣場には、二人のお風呂あがりの支度をすっかり整えた桃子が待っていた。
 脱衣カゴに入れておいた洋服の代りにブルーのパジャマが入っていて、倫子が脱衣場に姿をみせると、そのパジャマを手早く持ち上げて桃子がそっと差し出した。確かにその光景を見る限りでは、まるで桃子と倫子がどこにでもいそうな『新婚の夫婦』みたいに見えなくもない。倫子は体に巻きつけていたタオルを床の上に落として、清潔そうな純白のショーツを穿いてからパジャマに袖を通した。どうやら男物らしいシルクのパジャマが、倫子のきゅっと締まったスレンダーな体にとてもよく似合っている。
 少し離れた所に立った千恵里は、なんとなく眩しい物でも見るような目つきで、目の前の倫子を見つめていた。その様子に気づいた桃子は、冗談めかした口調で
「どや、サクランボのパパ、男前やろ?」
と言ってころころ笑った。
「パパ?」
 バスルームで倫子から事情を説明されたおかげで桃子が何を言っているのかわかっている千恵里だが、その説明を倫子に抱きすくめられたまま聞いていたことを思い出して恥ずかしくなり、つい、意味がわからないというふうに訊き返してしまう。
「とぼけることあらへんやん。あんたらがお風呂場から出てきた様子を見とったら、中で何かあったんやなっていうくらいのことはじきにわかるで。――倫子が話してくれたんやろ?」
 笑い声のまま桃子は言った。
 途端に千恵里の頬がほてった。ほてった赤い頬で、弱々しく頷く。
 たしかに、バスルームから脱衣場へ出てきた二人の様子は、バスルームへ姿を消した時のことが嘘のように仲睦まじく見えた。桃子と倫子との間柄とはまた別の、千恵里が脱衣場の床で足を滑らさないかと心配そうに見守る倫子と、そんな倫子の視線を浴びることで安心したようにガラス戸のレールを踏み越える千恵里との、なぜとはなしに背中がむずむずしてくるようにさえ思える、和やかなとかほのぼのしたとかいう表現が似合ってそうな二人の仲。それを目にすれば、桃子でなくても、バスルームで何かがあったらしいとピンとくる。
「それやったら、うちがわざわざ説明することもないな。ほな、サクランボはこっちへおいで。パパが着替えてる間にサクランボもちゃんとしょう。裸のままやったら風邪ひいてしまうもんな」
 桃子は、恥ずかしそうに頷く千恵里に向かって手招きをした。
 千恵里が膝をついて座っている目の前には、子供服専門店で買ってきた布おむつと新しいおむつカバーが用意してあった。
 それを見た千恵里は、ボタンを留め終えたばかりの倫子のパジャマの裾をきゅっとつかんで、助けを求めるみたいな表情で倫子の顔を見上げた。けれど倫子はクスッと笑って
「ほら、ママが待っとぉやん。いつまでもパパにくっついてんと、早いことママの所へ行っておむつをあててもらいなさい」
と言うと、パジャマのパンツを持ち上げて右脚に通すだけ。
 そうして、それでもまだ千恵里がパジャマの裾にしがみついているとわかると、左手の掌でとんと背中を突いて千恵里の体を桃子の方へ押しやった。
「サクランボはさっき、お風呂の中でもおもらししてしもたやろ? いつまでもぐずぐずしとったら、またいつ失敗してしまうかわからへんねんから」
 それを聞き逃す桃子ではなかった。
「え、サクランボ、お風呂場でおもらししてしもたん? そら、小っちゃい子供いうのんはお風呂場でおもらししてまうことも多いらしいで。けど、あんた、お昼寝でおねしょしてしもたばっかりやんか。そやのに、よぉまぁ、そない続けて失敗してまうもんやな。ほんま、そんな子には早いとこおむつをあてとかな、安心して室の中で遊ばされへんやないの」
 妙に嬉しそうな声でそう言って、桃子は床の上に広げたおむつを掌でぽんと軽く叩いてから、倫子の手で押しやられた弾みにとっと足を踏み出してこちらへ近づいてくる千恵里の手をつかまえてぐいと引いた。
 強引に手を引っ張られてあやうく倒れそうになりながら、それでもかろうじてバランスを取り戻したものの、気がつくと、千恵里はいつのまにかおむつの上にお尻を載せた格好で床に坐りこんでいた。
「うん、これでええわ。ほな、そのまま体を後ろに倒して横になってみ」
 桃子は千恵里の手首をつかまえている手をそっと伸ばした。
 千恵里の体がゆっくり傾いて仰向けに倒れてゆく。倫子が、足元に落ちていたタオルを折りたたんで千恵里の頭の下に置いた。さすが高級マンション、脱衣場だけでも三畳くらいの広さがあって、千恵里がすっかり横になってもあまり窮屈な感じがしない。
 桃子は千恵里の手首から手を離すと、ベビーパウダーの容器を持ち上げた。
 甘い香りが脱衣場いっぱいにたちこめて、なぜとはなしに三人の表情が穏やかになる。中でも千恵里は、幾らかうっとりしたような顔つきにさえなっていた。ドラッグストアの更衣室とはちがって、ここには見ず知らずの人間はいない。それに、バスルームでのことがあった後で、千恵里が桃子や倫子に対して抱く感情は微妙に変化してもいる。そんな中で匂うベビーパウダーは、羞恥よりはむしろ、郷愁を誘う甘酸っぱい香りに充ちていた。
 パジャマを着た倫子が静かに近づいてきて、仰向けに寝転がった千恵里の右手にそっと人差指を押し当てた。一瞬、ぴくんと右手を引っ込めた千恵里だったけれど、すぐに思い直したようにもう一度おずおずと手を伸ばしてきたかと思うと、倫子の人差指をきゅっと握りしめた。それは確かに、幼い赤ん坊が手当たり次第に周囲の物をつかんで離さない仕種――まだ本能だけで生きていて感情というものさえ芽生えていない赤ん坊が、それでも自分の身を守ってくれそうな物をなりふりかまわずに探し求める行為そのものだった。紙おむつがあったからこそかろうじて苦しい一年間を乗り切ることができた千恵里が、新しい環境に身を置いてこれまでよりもずっと孤独かもしれない生活を始めようとしている今、自分を無条件に庇護してくれる人間を求めて無意識のうちにそんな行動を取ったのかもしれない。
 ともあれ、お風呂からあがったばかりのしっとり湿った温かい千恵里の手は、幼児の掌そのままの感触だった。指を握られて、面映ゆそうな表情で倫子はそっと目を細めてしまった。
「そうや、そないしてパパのお手々を持っとったらええわ。その間におむつをあてたげるから」
 桃子はにっと微笑んで、ベビーパウダーのパフを静かに動かした。ドラッグストアでの時とは違って、今度はパフで秘部を責めるようなこともない。目の前に横たわっているのが本当の赤ん坊だといわんばかりの、気遣わしげで丁寧な手つきだった。
 そのせいか、千恵里の方もおとなしいものだった。大声で泣き喚くこともなく、手足をばたつかせることもなく、ただ、桃子がパフを滑らせるたびに僅かに唇を開けたり閉めたりしているだけだ。そうして気がつくと、きゅっと握りしめた倫子の人差指を顔の方に引き寄せて口にふくもうとしている。
 倫子は千恵里の好きなようにさせていた。少しくすぐったそうな顔をして、指を吸われても千恵里の手を振り払おうともしない。
「いつのまにか、えらい仲良しさんになってしもてんな。どんな魔法をかけたん?」
 ベビーパウダーの容器とパフを小物入れのバスケットに戻した桃子の目が笑っていた。
「おかしいな、たいしたことはしてへんねんのに……」
 倫子は曖昧にすっとぼけた。バスルームで倫子が千恵里に何をしたか知ったら、桃子がヤキモチを妬いて拗ねてしまうのは目に見えている。
「ほんま?」
 桃子は疑わしそうな目で倫子の顔をちらと見たが、それ以上は何も言わずに布おむつの端を持ち上げた。理由はどうあれ千恵里がおとなしくしているのだから、とりあえず今はそれでいい。
「ま、ええわ。ほら、サクランボ、あんよを上げるで」
 桃子は千恵里の足首をつかんで、右手を高く持ち上げた。
 これが本当の赤ん坊なら、足首をつかんで高く持ち上げるのもあまり難しいことではない。だけど、実際に目の前にいるのは十八歳の千恵里だ。両脚を持ち上げるのだけでも本当はかなりな腕力が必要だし、千恵里が少しでも暴れれば、足首をつかんでいるのさえ困難で、あっという間に桃子は手を振りほどかれてしまうだろう。なのに桃子の腕力でも本当の赤ん坊みたく足首を持ち上げることができたのは、つまり、千恵里自身が自分の意志でそうしたからにほかならない。千恵里は、嫌々ながらなんかではなく、自分がそうしてほしいからこそ、おむつの上におとなしく横たわっているのだ(付け加えておくなら、午前中に紙おむつをあてられた時だって、外出先でおむつを取り替えられた時だって、本当のところは――嫌がってみせたりはしたけれど――無意識のうちに、そうされることを望んでいたにちがいない。でなければ、いくら小柄な千恵里だって、本気で逃げようと思えばいくらでも逃げ出せた筈なんだから)。
 とはいっても、それで恥ずかしさも何もかもがきれいになくなってしまったわけでもない。現に、布おむつが両脚の間を通っておヘソのすぐ下へ伸びてくる感触に、千恵里はかっと体中を赤くして、腰のあたりをぶるっと震わせてしまったのだから。
「あ、まだやで。まだ、ちゃんとでけてへんねんから、おしっこはまだやで」
 千恵里の体が震えたのを見て桃子が言った。なんとなく面白がっているような声だった。
「……ちゃう、そんなやない」
 しゃぶっていた倫子の指を口から離して、千恵里がますます顔を赤くした。
「何がちゃうのん?」
 横当てのおむつで千恵里の腰を包みこみながら桃子が訊き返した。
「いじわる……」
 拗ねたように、千恵里はぷいと横を向いた。頭の下に置いてあるタオルに頬をそっと撫でられているみたいだ。
 柔らかな布の恥ずかしい感触が、千恵里に、下腹部をおむつでくるまれていることを実感させる。紙おむつの優しさとはまた別の、温かくて穏やかな春の風に包まれるみたいな柔らかさが、もう千恵里は独りじゃないんだよと聶いているみたいだ。けれど、それを口に出して言うだけの勇気はない。
 何もかもお見通しやでというみたいにクスッと笑って、桃子がおむつカバーの横羽根を持ち上げた。右と左、両側から横羽根を千恵里のおヘソのすぐ下まで伸ばして、お互いにマジックテープで留めてしまう。それから、前当てを横羽根に留めて、腿のスナップボタンをぷちっと留めればできあがり。
「ええよ、サクランボ。自分で見てみ、可愛いいやろ?」
 おむつカバーの裾からはみ出た布おむつを指で押しこんで、桃子が笑顔で言った。
 その笑顔につられて、一度は横に向けた顔をそっと持ち上げると、千恵里は自分の下腹部に目をやった。
 千恵里の下腹部を包みこんだおむつカバーは、ドラッグストアの店員が買物カゴに入れて更衣室へ持ってきた物とはまるでちがっていた。桃子がそこで買ったのは淡いクリーム色の介護用のおむつカバーだった筈なのに、今、千恵里のお尻にあてられているのは、色こそ介護用と同じものだけれど、前当てに大きなアップリケが付いた、ちょっと見ただけでは赤ん坊用のものと見間違ってしまいそうなおむつカバーだった。腰まわりのバイアステープの色はベビーピンクになっているし、腿まわりのゴムのところは小さなフリルになった白いレースになっていたりする。
「え……?」
 きょとんとした顔で、千恵里は大きな目をぱちくりさせた。
「うふふ、びっくりしたやろ? けど、こう見えても、うちもお裁縫くらいできるねんで。パッチワークで作品を作ってみることもあるくらいやもん。それに、だいいち、うちはサクランボのママなんやから。サクランボのためやったら、こんなん、もんちょろいもんや。――リュックを買うた手芸屋さんでアップリケとバイアステープも買うたんや。けど、いろんな種類があるねんな。どれがええか、ちょっと迷うてしもたわ」
 桃子は、おむつカバーのアップリケと裾レースをそっと撫でた。たっぷれあてられた布おむつを通して、桃子の掌の感触が千恵里の下腹部に伝わってくる。
「それと、これ。ちゃんと採寸してへんから、サイズが合うかどうか、ちょっと心配なんやけど」
 恥ずかしさのせいで千恵里がおむつカバーをまともに見ることもできずに瞳をきょときょとさせているのにもおかまいなしに、桃子は脱衣カゴを手元に引き寄せて、鮮やかなレモン色の生地をつかみ上げた。どうやら、倫子のパジャマの下になっていたらしい。
「サクランボが気に入ってくれたら嬉しいんやけどな」
 桃子は千恵里に悪戯っぽくウインクしてみせると、脱衣カゴから取り出した生地を広げ始めた。
 思わせぶりなゆっくりした手つきで桃子が千恵里の目の前に広げてみせたのは、ベビードールふうの可愛いいパジャマだった。三分袖がふわっとしたパフスリーブになっていて、背中の方に丸っこいボタンが並んでいる。
「へ〜え、めっちゃ可愛いいパジャマやん。いつのまに買うたん?」
 感心したような声を出したのは、千恵里に指をつかまれたままの倫子だった。
「なに言うとん。倫子が――パパが買うたパジャマやんか。うちとサクランボがフィッティングルームに入ってる間にパパがあれこれ選んだ中に入ってたん。覚えてない?」
 呆れ声で桃子が応えた。
「あ? ……ああ、そない言われたら買うたような気もする。けど、私が買うたんは、袖はもっとストレートやったし、裾かて、そないふりふりやなかったんちゃうかなぁ」
 あまり自信なさそうに、倫子は少し考えて言った。
「うん。確かに、買うた時はこれとはちょっと違うデザインやった筈やわ。なんせ、二人がお風呂に入ってる間にリフォームしてしもたんやもん」
 桃子はちょっとだけ自慢げに言った。
「サクランボが着られるサイズいうたら、150サイズとか160サイズとかやん? けど、そういうんは、中学生とか、小学校でも高学年の子向けになってるんやわ。そのへんの学年やと、子供向けやいうても、わりと大人っぽい仕立てになってしまうねん。せっかくサクランボに着せるたげるんやもん、そんなんあかんやん。そやから、ちょっとリフォーム」
「ふうん。ほな、わざわざ袖を丸うして、裾をふりふりに変えたん? すごいやん、桃子。あんた、ほんまにええお母ちゃんになれるわ、うん」
「うふふ、変えたんはそれだけやないで」
 もう少し自慢げに桃子は言って、ベビードールふうパジャマの裾をそっと捲り上げた。
「ほらほら、これ。市販のパジャマに細工してここまでリフォームできる人、なかなか、ざらにいてへんで」
 桃子がパジャマの裾をたくし上げると、パジャマよりも少しだけ薄い色のブルマーが出てきた。桃子が手で押さえていなくてもブルマーが落ちてこないところをみると、ふんわりしたスカートになっているパジャマの内側に縫い付けてあるらしい。
「あ、それ……」
 倫子の目が輝いた。
 桃子が手にしているのは、ただの可愛いいパジャマなんかじゃなくなっていた。子供服の専門店でハンガーにかかってずらりと並んだベビー服の中にも、これと同じようなものがあった筈。たしか、ブルマードレスとかブルマーワンピースとかいうんやったかな。
「こないしといたら、寝てる間にパジャマが捲れ上がってまうこともないやろ?」
 クスクス笑いながら桃子は言った。
「それに、ほら、ここを見てみ。こんなとこにボタンが並んでるやろ。何のためか、わかる?」
 桃子はブルマーを少し持ち上げるようにして、千恵里の顔にすっと近づけた。
「……」
 そのボタンが何のためなのか、一目見た時から千恵里にもわかっていた。わかっていたけれど、口に出せないでいる。
「あれ、だんまりかいな。けど、わかっとんやろ、ほんまは?」
「し、知らん。そんなボタン何に使うんか、わからへん……」
 桃子に迫られて、千恵里は顔を赤らめた。
「ほんまにわからへん? ま、ええわ。わからへんねんやったら教えたげる。ほら、このボタンを五つとも外してまうと、ブルマーのお尻のところが開くようになっとぉねん。――どない、そろそろわかってきたんとちゃう?」
 桃子は千恵里の目の前でブルマーのボタンを一つずつ外していった。
「わからへん言うたらわからへんの」
 千恵里は甲高い声を出した。
「そう? 簡単なことなんやけどなぁ。――ほら、こないしてブルマーを広げてしもたら、わざわざパジャマを脱がへんかっても、簡単におむつの交換ができるやん。どない、サクランボにぴったりのパジャマやろ」
 『いつおむつを汚してしまうかわからへんサクランボにぴったりのパジャマやろ』。桃子が言いたいことは千恵里にも痛いほどわかっていた。
 だけど、千恵里は力なく首を振る。そんなこと、いくらなんでも認めたくない。
「ま、ええわ。実際に着てみたらわかるやろし」
 ブルマーのボタンを五つとも外してしまって、今度は背中のボタンを手早く外し始める桃子。
 そうして背中のボタンも外し終えると、倫子に目配せをする。
 倫子は、おむつ姿で脱衣場の床に横たわっている千恵里の背中に手をまわして力を入れた。華奢な千恵里の体が軽々と起き上がってしまう。
「はい、あんよを上げて」
 糸の切れた操り人形みたいなもので、千恵里は倫子のなすがままだった。床に坐りこんだ姿勢のまま両脚をぴんと延ばしたところへ桃子がパジャマを近づけて、大きく開いた背中からブルマーへ爪先を通していく。
 両脚がブルマーを通ってにゅっと出てくると、倫子は千恵里の腰に手をかけて、よいしょと持ち上げた。その隙に、桃子がパジャマを背中の方へ引っ張り上げる。
 あっと思った時には、もう桃子が背中のボタンを留め始めていた。桃子の細い指が木の実を形どった丸っこいボタンを次々に、千恵里が背中に手をまわしても勝手には外せないように堅くしっかり留めていく。
 それから、ブルマーのボタン。おむつカバーを包みこんだせいでふっくら膨れたブルマーの、横一列に並んだボタンを、これまた桃子は素早く留めていった。
「うん、これでええわ。ほな、立っちしてみよか」
 ボタンの留め忘れがないことを確認して、桃子は、うんうんと頷いた。
 と、千恵里の腰に手をまわしたままだった倫子が、自分も膝を立てて立ち上がるのと一緒に千恵里の体を引き上げた。体ごと抱き上げるんじゃないから、さほど力が要るわけでもない。
 大きなベビー服そのままの可愛いいパジャマに身を包まれた千恵里が、桃子の目の前でおどおどと顔を伏せ、ぶるぶる両脚を震わせて立ちすくんでいる。桃子が手に持っていた時にはパジャマの中に隠れていたブルマーが、おむつで膨らんだせいで、パジャマの裾から三分の一ほど見えている。幼稚園児くらいの女の子が水遊びの時に着るような、ちょっとしたスカートと一緒になったワンピースの水着みたいに見えなくもない。水着とちがうのは、お尻の下に、おむつを取り替えやすいように恥ずかしいボタンが並んでいるところだろうか。
「へ〜え、ぴったりやんか」
 いつのまにこちらへ来ていたのか、桃子のすぐ横に立った倫子が、千恵里の姿を正面から見つめて感心したように言った。
 倫子の言う通り、市販のパジャマを桃子がリフォームして縫いあげたベビー服は千恵里にぴったりフィットだった。それもサイズだけでなく、色合いからデザインまで、一時もおむつを手離せない千恵里にお似合いの、本当に赤ん坊が着ていてもおかしくないほど可愛らしいベビー服に仕上がっていた。
 脱衣場の壁に、姿見の大きな鏡が掛かっている。バスルームから流れこんできた湯気のせいで微かに曇った鏡に、セミロングの髪を二つに束ね、おむつのためにふっくら膨れたブルマードレスを着た千恵里の姿が少しぼんやり映っていた。
 まだおむつも外れない、自分では何もできない無力な赤ん坊そのままの千恵里の姿だった。



 リビングルームの座卓の前に胡坐を組んで座った倫子の膝の上に、千恵里がちょこんとお尻を載せて座っている。そのすぐ側に桃子が腰をおろして、手に持った白いプラスチックのスプーンを静かに持ち上げた。スプーンには、もとの材料が何だったのかわからないほど軟らかく煮込んですりつぶしたペーストのような離乳食が入っている。
「はい、あーんして。ほら、お口をつぐんだままやったら食べられへんやろ」
 桃子は、手にしたスプーンを千恵里の口に近づけた。
 けれど、千恵里は口を閉ざしたまま。
 それでも桃子は、そんなことにはおかまいなしに、ペーストの入ったスプーンを千恵里の唇に押しつけた。行き場をなくした離乳食が、千恵里の唇を少しだけ汚して顎先の方へこぼれ、そこから、ぽたぽたと胸元へ滴り落ちる。
 ペーストがこぼれ落ちた先の胸元には吸水性の良さそうな白い生地が広がっていて、滴り落ちてくるペーストをしっかり受け止めていた。注意してよく見れば、その白い生地にはもうたくさんのシミがついているみたいだった。
「あかんなぁ、サクランボ。お昼も食べてへんねんから、夕ごはんはちゃんと食べとかな。そやないと、大きなられへんで」
 桃子は、やれやれとでもいうように僅かに首を振ってスプーンをお皿に戻した。
 もう幾度となく同じことを繰り返しているのに、そのたびに千恵里は離乳食のスプーンを嫌がって口をつぐんでしまう。そのせいで、せっかくの新しいベビー服を汚さないようにと首に巻きつけられた白い大きなヨダレかけはシミだらけになってしまったし、ナプキンの代わりにベビー服の裾のあたりに置いたタオルもすっかりべとべとになってしまっている。
 無意識のうちにおむつのぬくもりを求め、バスルームでは自分から進んで倫子の目の前で(どころか、倫子と体を触れ合わせたまま)おもらしまでしてしまった千恵里だけれど、もさか、こんなにあからさまに赤ん坊扱いされるなんてことは思ってもみなかった。確かに、一人ぽっちだった長い一年間をやっとのことで乗り切って懐かしい二人に再会してみると、桃子や倫子にべったり甘えてみたくもなった。それも、寂しい一年間のうちに覚えたおむつを使って。無意識とはいえ、それが千恵里の望みだった。でも、だけど、だからといって、こんなふうに一人では何もできない赤ん坊みたいに扱われるのは、千恵里が願ったことなんかじゃない。千恵里はただ、おむつのぬくぬくした感触を求め、それと同時に、素晴らしい才能を持つ桃子や倫子といつまでも一緒にいられることを望んだだけだ。バスルームでは倫子に抱きすくめられ、それまで味わったことのない生の肉体の悦びに責められて、思わず倫子の胸に顔を埋めておしっこまで溢れさせてしまった。だけど、それは、倫子の心と触れ合ってみたかったからだ。自分の中にひそむ恥ずかしい部分を倫子にさらして、それでも倫子が自分を求めてくれるのかどうかを確かめたかった、そして、ひょっとしたらそうすることで倫子も心のずっと内側まで覗かせてくれるかもしれないと思ったからそうしただけだ。
 なのに、大きなベビー服を着せられ、ヨダレかけまで着けられて、赤ん坊が使うプラスチックの食器で離乳食を口に運ばれるなんて、そんなこと……。
「な、桃子」
 もう一度スプーンを千恵里の口に持っていこうとする桃子に向かって、千恵里が逃げ出さないように腰のまわりに両腕をまわした倫子が言った。
「何回やってもあかんのとちゃう? サクランボは小っちゃな赤ちゃんやもん、離乳食はまだ早いんとちゃうやろか」
「うん、そうやなぁ。うちもそれを考えてたとこ。――離乳食は諦めて、やっぱり、おっぱいの方がええみたいやね」
 やけに素直にスプーンを引っ込めて、桃子は、プラスチックのお皿の横に置いておいた哺乳壜を手に取った。もちろん倫子の言葉は、桃子と無言でしめしあわせてのこと。
「いやや。……哺乳壜なんかいややぁ」
 それまでぎゅっと口を閉ざしていたのに、桃子が哺乳壜を持ち上げるのを目にした途端、千恵里は怯えたような顔で喚いた。
「あらあら、パパとお風呂に入ってええ子になったと思とってんけど、まだ、そんな我儘言うような悪い子やったんかいな、サクランボは」
 わざとらしく困ったような顔をして桃子が言った。
「けど、離乳食があかんねんやったら、これでおっぱい飲むしかないやん。それとも、やっぱり離乳食を食べさせてほしいんかな?」
「……いやや。どっちもいや……」
 倫子の手につかまえられて逃げ出すこともできず、千恵里は弱々しく首を振るだけ。
「あかんで、我儘は」
 ふるふると首を振る千恵里の頬を両手の掌で挟みこむみたいにして、桃子は哺乳壜の乳首を千恵里の唇に押し当てた。
 少し開き気味になっていた唇を慌てて閉ざそうとする千恵里。だけど、強引にゴムの乳首を押しこもうとする桃子の力に逆らえきれずに唇がじわじわ開いて、とうとう乳首を咥えさせられてしまう。
 本当なら力を入れて吸わなければミルクが出てこないようになっている筈なのに、飲ませやすいように桃子が乳首の穴を大きくしていたらしく、千恵里が口にふくむとすぐ、妙な甘さのする液体が流れてきて舌の上に広がった。
「……?」
 牛乳でもないし、たぶん粉ミルクでもなさそうな味と香りに、千恵里は左右の瞳を寄り目にして哺乳壜を見つめた。そういえば、うっすらとフルーツ牛乳みたいな色もついているみたいだ。
「心配せんでもええよ。まさか、毒なんか入れたりせえへんから。――ほんまの赤ちゃんとちごて牛乳だけやったら足れへんやろから、栄養添加してあるねん。ま、カロリーメイトみたいなもんや」
 哺乳壜を押しつけながら、桃子が澄ました顔で言った。
「満腹感は感じひんかもしれへんけど、とりあえずの栄養は摂れるわ。いざとなったら、一ケ月くらいはこれだけで充分やで」
 桃子の言葉に千恵里の顔色が代わった。まさかこれから一ケ月、本当にこれしか飲ませてもらえないわけじゃ……。
 千恵里はゴムの乳首を吐き出そうとした。けれど、桃子が哺乳壜を押さえているため、それもできない。その間も、哺乳壜の乳首からは甘ったるい味のミルクが次々に溢れ出してきて千恵里の咽喉へ流れこんでいく。時々むせかえりそうになりながら、千恵里は否応なしに哺乳壜のミルクを飲みこんだ。時おり、唇の端からこぼれたミルクが頬から顎先を伝って滴り、白いヨダレかけにぼんやりしたシミを作っていく。
 突然、頭の中が白く濁ってきた。
 スープを飲んでいる間に意識が遠くなった時のあの感じだ。
 ゴムの乳首を舌の先で押しのけようとする気力もなくなって、桃子にされるがまま、千恵里は、途切れがちになる意識のために自分が何をしているのかもわからない中、いつのまにか哺乳壜を空にしていた。
 急に眠くなってきて、千恵里は自分でも気がつかないまま体を後ろに傾けて倫子にもたれかかった。だらしなく開いた唇の端から、まだ口の中に残っていたミルクが細い条になって、つっと頬を流れ落ちる。
「あ、またおねむかいな、サクランボ。んまに、ごはんになったらおねむやねんから気楽なもんやわ」
 空っぽになった哺乳壜を千恵里の口から離しながら、(自分でミルクに睡眠薬を混ぜたくせに)桃子は呆れたように言った。
「ま、ええやん。サクランボは赤ちゃんやねんから」
 とりなすような倫子の声がぼんやり聞こえてきた。私、赤ちゃんなんかやない。思わず言い返そうとして、なのに、むにゃむにゃというような寝ぼけ声しか出せない千恵里だった。



 すっかり眠りこんでしまった千恵里を寝室のベッドに運んで、二人は顔を見合わせた。これで、第四ステージもクリア。
「ゲームオーバーも目の前やな」
 にまぁと笑って桃子が言った。
「けど……こんなことしとって、ええんやろか?」
 こちらはなんとなく心配そうな表情で、倫子はぽつりと言った。
「何が?」
 桃子が訊き返した。
「そやかて……桃子が思った通り、サクランボは一年の間におむつが好きになってしもたんかもしれへん。けど、そやからいうて、私らと同い年のサクランボを私らの赤ちゃんにしてしまうやなんて、そんなん、やっぱり普通やないんちゃう?」
 倫子は、桃子が機嫌を損ねないかとびくびくしながら言葉を探し探し言った。
「びびっとん?」
 桃子は両手を腰に当てると、ずいっと顔を近づけるようにして言った。
「ちょっとな……」
 倫子の正直な感想だった。確かに、桃子が初めてこの企みを口にした時には倫子も賛成した。久しぶりに会う千恵里を巻きこんだ、なんとなく面白そうな、どちらかというとちょっとした悪戯だというふうな思いもあってのことだった。だけど、あまり効き目が強くないとはいっても、桃子が睡眠薬を二度も使うのを目にして、さすがに、ちょっとどんなもんかと考えてしまう。
「今さら何言うとんよ、倫子。うちが赤ちゃんほしい言うた時、あんた言うた筈やで。犯罪やなかったら協力するって。約束はちゃんと守ってもらわんとあかんやん。――あんた、今はもうサクランボのパパやねんで。うちみたいな優しい奥さんと可愛いい娘を残して逃げる気なん?」
 絡みつくみたいな桃子の声だった。
「そんなこと言うても……」
 倫子、たじたじ。
 ドラッグストアや子供服専門店で桃子に迫られた千恵里が抵抗らしい抵抗もできずに言いなりになってしまった気持ちがわかるような気がする。
「ふん。サクランボかて、うちらの新しい家族になれてほんまは喜んどるに決まっとぉやん。そんなこともわからへんのん? んま、困ったパパやねんから」
「そうかなぁ……」
 迫力に圧倒されて、倫子は力なく呟いた。
 けれど、桃子の方は自信満々。
「そうや。そうに決まってる。――証拠を見せたげよか?」
 そう言って、悪戯っぽく微笑んだ。
「証拠?」
「そや。よぉ見ときや」
 桃子は、千恵里が安らかな寝息をたてているベッドの上にお尻をおろした。
 ふかふかのマットの上に正座するみたいに座って、まるで目を醒ます気配のない千恵里の顔を覗きこみながら、自分が着ているブラウスのボタンを外し始める。
 ほどなく、ボタンをみんな外してしまったシルクのブラウスの胸をはだけた後、純白の生地に小さな花の刺繍があしらわれたブラのホックを、背中に手をまわして素早く外した。ストリングのないワイヤーストラップのブラは、それだけで簡単に外れてしまう。
 胸から外したばかりのブラを枕の上に置いて、桃子は、いつくしむような手つきで千恵里の頭を抱え上げた。
 言葉をなくして桃子のすることをただ見守る倫子の目の前で、髪の二つの房がだらりと垂れ下がって、千恵里の上半身がゆっくり持ち上がる。
 桃子は、抱き上げた千恵里の顔に、はだけたブラウスからあらわになった乳房を押し当てた。
 最初のうちは何も起きなかった。
 だけど、そのまましばらくすると。
 千恵里の唇が僅かに動き始めた。ちょっとだけ開いては、すぐにゆっくり閉じる。少し乾き気味の千恵里の唇が、まるで命を宿した一つの生き物のように規則的に動き出す。
 そうして桃子の乳房の上を、何かを求めてじわじわと滑っていく。
 やがて千恵里の唇は目的の場所に辿りついたらしく、その場にとどまって、ますます頻繁に開いたり閉じたりを繰り返すようになる。その先にあるのは、桃子の桜貝色の乳首だった。
 千恵里はごく自然に桃子の乳首を咥え、いつしか、ちゅぱちゅぱという音さえたてながら吸い始めた。それでも、目を醒ます気配は微塵もない。
 頬を微かにへこませて唇を突き出しては、ふっと力を抜いて頬を膨らませる。幾度も幾度も、いつまでもいつまでも飽くことなく続く本能めいた行為。
 しんと静まった寝室に、ただ千恵里が桃子の乳首を吸う音だけが波紋する。耳をそばだてていないと聞こえないような音なのに、少しでも離れれば耳に届かない音なのに、決して響くような音ではないのに、倫子の耳はその優しい音に塞がれて、他の音があるなんてことも忘れそうになる。
 いとおしげに千恵里の顔を覗きこむ桃子の目。
 周りのことにはまるで無関心に、ただすたすら乳首を吸う千恵里の唇。
 桃子のもう片方の乳首が堅くぴんと勃っているのがわかる。バスルームで千恵里に吸われ、随分と久しぶりに勃った倫子の乳首よりも堅く激しく。
 倫子にできるのは、その場に立ちすくんで二人を見守ることだけ。
 倫子が見守る中、千恵里の左手がそろそろと動いて、空いている方の乳房に伸びた。宙をつかみ、何もないところを握りしめながら、頼りなげに伸びてゆく腕。
 やがて乳房に触れると、安心したように動きを止めて、乳首の下あたりをそっとつかんで離さない。
「サクランボ……?」
 乾いた唇を舌で湿らせ、ごくんと唾を飲みこんで、ようやくのこと倫子は糸のような声を絞り出した。
 倫子の声に応えたのは桃子だった。
 桃子はすっと顔をあげると、
「わかったやろ?」
と言って、ぞくりとするような流し目をくれた。
「見てみ、サクランボのこの顔。うちのおっぱい吸いながら、なんの心配もないみたいな顔してるやろ。うちのおっぱいを触りながら、天使みたいな顔になってるやろ。――これがサクランボや。うちらの可愛いいサクランボやねんで」
「けど……」
「けど、なんや?」
「……サクランボ、お昼からちゃんとごはん食べてへんやん。なんぼ栄養添加したミルクを飲んだからいうても、満腹感はないんやろ? それで、つい桃子のおっぱいに吸いついただけなんちゃうん?」
「そうや。そやけど、それがどないしたいうのん?」
 悪びれた様子もなく、しれっとした顔で桃子が言った。
「お腹が空いたままやからサクランボがうちのおっぱいに吸いついただけ。うん、たぶん、そういうことやろ。けど、それやったらそれでええやん。これから毎晩、ベッドに入るたびにサクランボはうちのおっぱいを吸うことになるんや。そしたら、そない時間が経たへんうちに、それが癖になってしまう。たぶん、間違いなくな。そら、サクランボも今は恥ずかしがっとうかもしれへん。そやけど、そないなった時にはサクランボ、うちがおっぱいをあげへんかったらめそめそ泣くようになるかもしれへん。――わかるやろ? いずれはサクランボの方から進んでうちらを求めるようになるんや。そやから、今のうちに倫子もサクランボのパパとしての自覚を持たなあかんねんで。それがサクランボのためや」
「そんな、都合のええ説明……」
 なんとなく納得できないような、どこか不安な気分で、倫子は尚も言いかけた。
 それを遮るみたいに、桃子がぴしゃりと言った。
「ええかげんにしいや、倫子。サクランボはうちらの赤ちゃんやねんで。理屈とか普通やないとか、そんなこと、うちは知らん。そんなことより、うちのおっぱいを幸せそうに吸うてくれるサクランボがうちらの赤ちゃんやのうて、なんやゆうんよ。都合のええ説明のどこが悪いんよ。だいいち、『都合がええ』て、誰が決めるんよ。絵や彫刻、頭で考えて描いたり彫ったりするもんやないやろ。常識とか普通とかいうのんを無視して描くから、倫子やうちの作品が評価してもらえるんやなかった? サクランボの作品もそうや。あない底抜けに伸び伸びした明るい色使い、普通の神経やったら出されへんで。そやから、この子はうちらの子やねん。――ま、こんなこと関係ないゆうたら関係ないけどな」
 理屈になっているのかいないのか、ただ思いついたことを口にしただけかもしれない。だからこそ、却って迫力があった。それは、子供を奪おうとして近づいてくる侵入者に対して捨て身で立ち向かう雌ライオンと共通する迫力かもしれない。
 最初のうちは、桃子にしたって、ちょっとした冗談のつもりだったろう。倫子をちょっと困らせてやろうと思ってプレゼントをねだっている間にふと思いついた悪戯。二人ともがお気に入りの高校時代の友人を巻きこんでの、少しエッチでちょっとだけ倒錯的なお遊び。
 それがいつのまにか(ひょっとしたら、こうして千恵里におっぱいをあげている間にかもしれない)、桃子は本気になってしまっているようだ。
 あ、ううん。ひょっとしたら……。倫子は思い直した。ひょっとしたら桃子は最初から本気やったんかもしれへん。それどころか、高校に入って初めてサクランボに会うた時から、こないなることを……。
「わかった」
 ゆっくり動く千恵里の頬をじっと見つめて、倫子は迷いを吹っ切るみたいにきっぱり言った。
「サクランボは桃子と私の赤ちゃんや。私らが愛し合うて生まれた子や。その証拠に、私らに負けへんくらいの才能を持ってるし、桃子のおっぱいに幸せそうにむしゃぶりついてる。――そういうことやな?」
「ぴんぽ〜ん」
 桃子は嬉しそうに応えた。
 その声に、千恵里がもぞもぞと体を動かした。桃子の乳首を吸っていた唇の動きが止まって、瞼がぴくぴく震えている。
「あ、ごめんごめん。ママが大声出したもんやから目が醒めてしまいそうになってんな。もう大丈夫やで。大丈夫やから、ママのおっぱい吸いながらおねむやで」
 千恵里の背中をぽんぽんと叩いて体を揺する桃子の声は、とても幸せそうだった。
 安心しきったような顔で、千恵里は再び唇を動かし始めた。
 しばらくすると、乳房をしっかりつかまえていた手から力が抜けて、体の横にだらりと垂れ下がった。その頃には唇も乳首から離して、千恵里はすやすやと寝息をたて始める。
 僅かに開いた唇から流れ落ちるヨダレを、まだ千恵里の首に巻きつけたままだったヨダレかけの端でそっと拭きとって、桃子は千恵里の体をベッドに戻した。
「うちのおっぱい見てムラムラしてきたやろ、倫子。サクランボはおねむやし、こっちへ来てもええねんで」
 もう千恵里が目を醒ますような気配がないのを確認すると、桃子はきらきらと瞳を輝かせて、おいでおいでと手招きしてみせた。
「けど、いつまた目を醒ますかわからへんし……」
 倫子は戸惑ったような声で応えた。
「大丈夫やて、こないぐっすり眠っとんやもん。――それに、途中で目を醒ましたとしても、それはそれで刺激やんか。ちゃう?」
 昼ごはんの途中に(その時も桃子が用意した睡眠薬のせいだったんだけど)眠ってしまい、そのすぐ側で倫子と桃子が愛し合っていると急に目を醒まして寝ぼけまなこで二人の様子をきょとんと見ていた千恵里の顔を思い出して、クスクス笑いながら桃子は言った。
「うーん……」
 それでもまだ考えこむ倫子。
 と、桃子が倫子の顔をキッと睨みつけて、棘だらけの声で言った。
「ふ〜ん。サクランボとはできても、うちとはでけへんわけか。へ〜え。倫子、そおゆう人やってんな。ほ〜お」
 倫子、ぎくっ。
「ひょっとして……聞こえとったん?」
 バスルームでのあれやこれやを桃子に聞かれていたとしたら、もう今さら言い訳もできない。


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