十二年前のあの日、自分が目にしてしまった光景に耐えかねて、千恵里はそのことを忘れよう忘れようと努めた。両親の行為を受け入れられるほどに心が成育していなかった千恵里は、その事実を見なかった――つまり、そんな事実がなかったと思いこむことで精神の平静を取り戻そうとしたのだ。むろん、そんなことを意識して行なったわけではない。幼い千恵里の精神が自らを護るために無意識のうちに選んだ方法だった。けれど、あまりに衝撃的だった光景の残像は心の奥深いところにくっきりと焼き付き、いうほど簡単に消えてしまうようなことはなかった。それでも千恵里の精神は、まるで体の中に紛れ込んだ異物を自らの分泌物で厚く包みこんで棘のない軟らかな珠に変貌させてしまう真珠貝のように、決して消えない重苦しく棘々した光景の残像を、心のひだで何重にも包みこみ、痛みを感じさせない、その正体が何だったのかさえ定かではない物に変えて心の最も奥まったところにそっとしまいこむことにしたのだった。そうしなければ、棘だらけの残像が心をずたずたに傷つけ、ぼろぼろにしてしまう恐れさえあった。
 ところが、そうして、悪夢じみた光景の残像がやっとのことで意識の上に上がってこなくなった頃から、千恵里の心の一部が奇妙な具合に変わり始めていた。
 あまりに痛みを伴う光景の残骸を封印するために、千恵里は知らず知らずのうちに自分の精神の一部を犠牲にしたといっていいかもしれない。実際に目にした光景を見なかったと思いこみ、ある程度のことまでは知っていた筈の性に対する知識を全く知らないことと信じこむために、千恵里は物心ついてからゆっくり育ててきた自分の心の一部をも強引に封印してしまったのだ。
 それは、いってみれば、大人への階段を上ることを自ら拒否するに等しいことだった。周りの大人の庇護から抜け出て全てのことを自分の意志でもって選択し、決断する勇気を持つことを拒否した千恵里の心は、それ以来、成長することを忘れてしまったといっていいだろう。醜い獣じみた大人になることを拒んで、けがれをしらない幼い子供のままいることを選んだといっていいかもしれない。
 だからこそ千恵里は、本当の歳よりも幼く見え、どことなく線の細い雰囲気があり、引っ込み思案で頼りなげな印象を漂わせてもいるのだった。絵画に対する希有な才能にしても、その底抜けに明るい色使いや、透明感溢れる構成といったものは、心の中にひそむ幼さに負うところが大きいのかもしれない。実際の年齢に応じて蓄えてきた知識や技術と、年齢にそぐわない幼い子供の感性とが渾然と溶け合って、常人には描き出すことのできない絵の世界を生み出してきたのだ。
 倫子にのしかかかれ、まがい物のペニスによって処女を奪われそうになって、千恵里は十二年前のことをありありと思い出した。その時、自分が幼い心のままとどまるんだと無意識のうちに決心したことも。
 そして今。
 千恵里は、大人への階段を上ることを再び拒んだ。
 それを『自分で選んだことや』と言われて、否定できる千恵里ではなかった。あの時も、目にした光景をありのままに受け入れ、苦しみながらも納得していれば、千恵里の心は成長の階段を一つ上ることができたにちがいない。それを拒否したのは千恵里自身だったと言われても否定はできない。
 これで千恵里は二度、大人への扉を自らの手で閉ざしてしまったことになる。

 倫子の体がもぞもぞ動いて、それまで千恵里が股間に感じていた違和感がすっと消えた。まだどことなくジンジンするような感覚は残っているものの、ごりごりした異物感や痛みはなくなっていて、却ってなんとなく頼りない感じさえする。
「ほな、もうこれは外してしもてもええんやな」
 がばっと起き上がった倫子は、お尻の後ろの方に付いている留め金具を外しながら、ちょっと残念そうに言った。
「ごくろうさん、パパ。夜になったら、うちがお相手したげるから待っとってな」
 倫子が外したペニスバンドをいとおしげな手つきで受け取って、桃子は挑発するみたいに体をくねらせた。
「ん。残念やけど、しゃあないな。夜になったら桃子を相手に頑張りましょ」
 身軽になった体を確かめるように、倫子はひょいひょいと腰を振ってみせる。
 そこへ、これ以上はないってくらいマジな桃子の声が飛んできた。
「あかんやんか、パパ。うちのことを桃子って呼んで、サクランボが真似をしたらどないするのん。サクランボの前では、ちゃんとパパ、ママって呼び合わなあかんねんで。小っちゃい子は、じきに大人の言うことを真似するねんから」
 そう言って、桃子は面白そうにウインクしてよこした。
「あ、ごめん。そやったな、言葉を憶えかけの赤ちゃんの前で迂闊やったわ。かんにんかんにん」
 もちろん、倫子も桃子に調子を合わせてみせる。
 心おきなく千恵里を赤ちゃん扱いして、完っ全に面白がっている二人だった。
 それでも千恵里の方は、桃子の手が肩から離れたというのに、その場から逃げ出す気力も失ってしまったのか、おむつの上にお尻を載せて、ぐったりしたように横たわったままだった。
「それはそうと、ママ。早いとこサクランボにおむつをあてたげな、このままやったら風邪ひいてしまうんとちゃう?」
 床に脱ぎ捨てたショーツとコットンパンツを手早く身に着けて、床の上に横たわったままの千恵里の方をちらと見ながら倫子は言った。
「うん、そうやな。けど、パパとサクランボが暴れまわったから、おむつもおむつカバーもシワだらけになってしもてるんやわ」
 桃子も千恵里の方に向き直った。
「ま、おむつもちょっと濡れてるみたいやし、新しいのに取り替えたげよかな」
 おむつの湿りが汗のためばかりじゃないことを知っている桃子は、僅かに湿ったおむつに掌を触れると、千恵里の顔を覗きこんでクスッと笑った。
 それでも千恵里は一言も言い返せず、おずおずと顔をそむけるだけだ。
「パパ、ちょっと手伝うてちょうだい」
 千恵里が力なく横を向いてしまうと、桃子は千恵里の両脚の間に膝をついて床に坐りこんだ。
「ん、どないするのん?」
 言われて、倫子も桃子のすぐ横に腰をおろした。パパと呼ばれるのが少し板についてきたのか、どーどーと落ち着いた物腰になっているように見えなくもない。
「サクランボの両脚を持ち上げといてほしいねん。その間にうちが、サクランボのお尻の下からおむつをどけてしまうから」
 倫子が千恵里の正面に坐れるように少し場所を空けて桃子が応えた。
「お安い御用や。――ほい」
 改めて坐り直した倫子は、千恵里に声をかけることもなく、さっと足首をつかんで持ち上げた。千恵里に遠慮したり気を遣ったりするつもりは、もう完全にないらしい。
「あん……」
 不意に足首を高く持ち上げられて、千恵里は拗ねたような目つきで二人の顔を見た。
 けれど、二人にじっと見つめ返されて、慌てて目をそむけてしまう。
「ちょっとの間、そのままにしとってよ」
 両脚が持ち上がって、千恵里のお尻が僅かにおむつから浮いた。その隙に、桃子が手早くおむつを、おむつカバーと一緒に手元へ引き寄せるようにどけてしまう。
「ん、ええよ。さんきゅ、パパ」
 ハートマークでも飛んできそうな甘い声で桃子が言った。
「え、けど、新しいおむつは?」
 終わったよと言われて、倫子の方はちょっと不思議がってしまう。
「あ、それはええねん」
 桃子は簡単に応えて、千恵里のお腹の上に捲り上げていたブルマーの前の方の生地を元に戻した。
「ええのん?」
 倫子はまだ訳がわからない。
「うん、ええの。新しいおむつを用意してる間に日光浴させたげてほしいねん。春の優しい日差しをサクランボにたっぷり浴びさせたげて。――目を醒ますちょっと前におねしょしたとこやから、まだおむつをあてとかへんかっても大丈夫やろし」
「ああ、そういうことか。そうやな、一日中おむつのお世話になっとるんやから、ちょっとの間くらいは身軽な格好で遊ばせたげることも必要やもんな。わかった、ベランダで日光浴させたげるわ」
 桃子が千恵里のブルマーのボタンを五つとも留めてしまうと、倫子は千恵里の手を引っ張って強引に体を起こさせた。ショーツもおむつも着けていない肌に直接ブルマーが触れるものだから、いくら柔らかい生地だといっても、微かにちくちくするような、妙な感じだった。
「そないして。ゆっくり、たっぷりとな」
 無理矢理倫子に両手を引かれて仕方なくベランダの方へ歩いて行く千恵里の後ろ姿に、桃子は、にっと笑いかけた。



 もう昼前だというのに、ベランダに続くガラス戸にはカーテンがかかっていた。それも、レースの薄いカーテンではなく、色こそパステルブルーの明るい感じだけどかなり厚いらしく、目をこらしてみても外の景色は全く見えないし、外から差し込んでくる太陽の光もかなり弱い。
 そのカーテンを倫子がさっと引いた。
 途端に、まだ春とはいえ昼が近い太陽の眩い光がきらきら入ってきて、それまでの蛍光灯の光がまるで輝きを失ってしまう。室の中に置いてあるベビータンスやオモチャ箱が光と影にくっきり彩られて、いやがおうにもその存在を千恵里に向かって主張する。
 室内の淡い光の中にいた千恵里は思わず手をかざして日光を避けた。
 そのまましばらくすると、眩しい光に徐々に慣れてきた両目に、ガラス戸の外でゆらゆらと風に揺れている洗濯物が映る。
「あ……」
 千恵里は息を飲んで、そのまま押し黙ってしまった。
 ベランダに細いロープが渡してあって、そこに洗濯物が掛かっているのだけど、その洗濯物というのが、キャラクターおむつが十数枚と無地の布おむつが何枚か、それに、おむつカバーが一枚だった。キャラおむつの内の半分は、昨夜、脱衣場であてられたおむつにちがいない。だとすると、もう半分は、夜中に桃子が取り替えてやって、けれどすぐにまた千恵里が汚してしまったおむつだろうか。
 それに、夕食の時に首に巻き付けられた大きなヨダレかけもきれいに洗濯して、おむつカバーのすぐ横に干してあった。そしてその横には、大きなキャラクターがプリントしてあるお子様パンツ。
 暖かい日差しの中で風に揺れるおむつは、それはそれで郷愁を誘う穏やかな光景かもしれない。だけど、そんな中で、大きなおむつカバーだけが異様に目立っている。
「みんな、昨日サクランボが汚してしもたんやで。大人とちごて、赤ちゃんは一日のうちにぎょうさん洗濯物を作ってくれるもんやねんな。あらためてびっくりしたわ」
 いつのまにか千恵里のすぐ後ろに立っていた桃子が、わざとらしく感心してみせた。
「あんなとこに干したら……」
 すぐ後ろにいる桃子の言葉も聞こえていないのか、千恵里はベランダの様子を見るなり、引きつったような表情になってその場に立ちすくんだ。
「……外から見えてまうやんか」
「それがどないかした?」
「どないかした――って……」
 千恵里の顔が赤らむ。
「赤ちゃんの着るもんは、お日様の光に当てたらなあかんねんで。それが一番の消毒やし、おむつかてふんわりするねんから」
 言葉を濁す千恵里に、桃子は言い聞かせるように説明した。
「それに、ここは七階やで。もしも下の道路から見られても、まさか、サクランボみたいな大きな赤ちゃんのおむつやなんて気がつく人はいてへんわ」
 そう言われても、千恵里はとても不安だった。たしかに、七階のベランダに干してある洗濯物のことだ、ちょっと見上げたくらいでは赤ちゃんのものにしか見えないかもしれない。だけど、この大きなおむつカバーのことに気づく人が本当にいないと言いきれるだろうか。
 千恵里がガラス戸越しにベランダのおむつを恥ずかしそうに見つめている間に、桃子が倫子にそっと目配せをした。そうして、
「そない心配やったら自分で確かめてみたらどない」
と言うと、千恵里の背中をとんと突いた。
 それに合わせて、倫子がさっとガラス戸を引き開ける。
 おむつにばかり気をとられていた千恵里は、あっと思うまもなく、暖かい日差しに充ちたベランダに押し出されてしまった。
 しかも、慌てて振り返った時にはもう、倫子がガラス戸をぴしゃりと閉めて、ご丁寧にクレセント型の鍵をおろしてしまっている。
「そこでゆっくり自分の目で確かめてみたらええわ。日光浴も兼て、ゆっくりとな」
 ガラス戸の向こうから、桃子の声が微かに聞こえた。サッシ類もしっかりした作りになっているのだろう、防音効果もなかなかのもので、ガラス戸を一枚隔てただけなのに、よほど耳を澄ませていないと聞こえないような、殆ど囁き声といってもいいくらいの細い声だった。
「開けて、ここを開けてぇ」
 一瞬ぼう然としたものの、じきにガラス戸に掌を押しつけて、千恵里は、室の中にいる二人に向かって叫んだ。――叫んだといっても、隣の部屋のベランダに人がいるかもしれないと思うと大声を出すわけにもいかず、口だけは大きく開けながら、実際に出したのは力ない弱々しい声だった。
 室の中で桃子が耳に手を当てて、え、な〜に?というふうなポーズでにんまり笑っている。
 千恵里は本気で叫び出しそうになった。
 けれど、ちらと振り返った時にベランダの手すりが目に入って、慌てて口をつぐむと、その場にへなへなと座りこんでしまう。
 マンションのお洒落な外観に合わせて、ベランダの手すりも、頑丈なだけが取り柄の武骨な鉄柵などではなく、白塗りの大きくカーブしたアルミ材を使った上品なデザインになっていた。アルミ材の一本一本も華奢といっていいほどに細く、間隔も広く取ってあるために、わざわざ手すりの上から覗きこむようにしなくても手すり越しにでも下の景色がよく見えるから、ベランダにテーブルを置いてティータイムを楽しむにはもってこいだ。ただ、それはつまり、下からもこちらの様子が丸見えだということになる。幸いこの時刻、高級住宅街のこのあたりの道路をうろうろ歩いている人影は少ない。だけど、へたに大声を出して注目を集めたりしたら、ううん、そんなことをしなくても、ただでさえ目につきやすい鮮やかなレモン色のパジャマ姿で(それも、ちょっと見れば、それが普通のパジャマなんかじゃないことがすぐにわかってしまうような恥ずかしいパジャマ姿で)ベランダに立っていたりしたら……。
 突然ベランダに追い出されてパニクりかけていたのに、咄嗟にそんなふうに気がついた千恵里は、なるべく目立たないようにベランダの隅にへたりこんだまま、すがるような目を二人に向けた。
 なのに室の中の二人の方は、わざとみたいに千恵里を無視して、てんでに動きまわっていた。桃子は壁際に置いてあるベビータンスの引出を開けて新しいおむつの用意をしているし、倫子は、室の中の細々した物を片づけているみたいだ。
 どっちも、ベランダにいる千恵里のことなんて、ちっとも気にかけていないみたいだった。
 もちろん二人とも、千恵里が訴えかけるような目で自分たちを見つめていることには気がついている。気がついているくせに、わざと千恵里と目を会わさないようにしているだけだ。
 しゅんとした表情で、千恵里は未練がましく首を振った。そうして、ベランダの隙間から伏し目がちに、ずっと下の方を見おろしてみる。――南向きのベランダの斜め下がマンションの玄関になっていて、車寄せの丸い屋根が春の太陽の光を浴びて穏やかな陰影を地面に投げかけていた。
 玄関から続く幅の広い通路は車寄せから少し奥まった所で二つに分かれて、一方は専用の駐車場の方に向かい、そしてもう一方は、緩やかなループを描いてマンション前の道路につながっている。
 周りの風景をぼんやり見おろしている千恵里の目に、片側一車線の道路の両側に設けてある歩道のあまり背の高くない植え込みの向こう側を歩いて来る人影が映った。この辺りの住宅に住む人妻だろうか、いかにも優雅なゆったりした足取りで、昼食前の軽い散歩を楽しんでいるような風情だ。きょろきょろと頭を巡らせたりはしないけれど、長かった冬の後にようやく訪れた春の光景を満喫するみたいに、緑がかってきた潅木や植え込みの方に顔を向けては、何度も脚を止めながら、ゆっくりゆっくり歩を進めている。
 その女性の優雅な仕種に惹き込まれるみたいに、千恵里は自分の置かれた状況なんていうものをすっかり忘れてしまったように、彼女と一緒になって歩道の周りの植え込みを覗きこんだ。気がつけば、ベランダの手すりに頭を押しつけてさえいる。
 と、植え込みの中から、何かがふわりと飛び上がった。
 アスファルトの車道から立ち昇る陽炎に煽られるように右に左に揺れながら、青い空を目指してのんびり羽ばきを続ける真っ白い蝶々だった。
 純白の蝶を追いかけて女性が顔を上げた。
 その目が、ベランダからこちらを見おろしている千恵里の姿をつかまえる。
 その時になって、ようやく千恵里は自分の姿を思い出した。
 ベランダの手すりの隙間から乗り出すような格好で植え込みを見おろしている千恵里は、いつのまにか軽く膝を曲げ、いくらか立ち上がり気味にさえなっていた。そこへ、それまで植え込みの中の小さな花を揺らしていたそよ風が、今度は千恵里の周りに吹き渡ってくる。
 斜め下の方から吹き上がってきた春風に、短いスカートがふわっと舞い上がった。
 それでなくても、無防備な姿を下から覗き込まれているようなものだ。ただでさえ隠しようのないブルマーが、まるで遮る物もなく、蝶々を追いかけて振り仰いだ女性の目にとびこむ。レモン色の恥ずかしいブルマーが、千恵里が思っていたよりもずっと若そうな女性の目にまともに映った。
 千恵里がいるのは七階のベランダだ。距離はかなりある。それでも、その女性は、桃子がブルマーの股間に縫い付けた大きな白いボタンも目にしたにちがいない。歩道に立ちすくんだままの女性が、どう見ても幼児には見えない千恵里がそんな物を身に着けている理由がわからないというふうに不思議そうな表情を浮かべる様子が、体をこわばらせた千恵里の目に、まるで望遠鏡で覗きこむみたいにくっきり映った。
 千恵里がぎこちなく後ずさりした。
 その動きにつられるように、女性の目が微かに動く。
 千恵里が身をすくめている所から少しだけ離れた場所に、千恵里が汚したおむつとおむつカバーが干してある。女性はしばらくきょとんとした顔つきのままだったけれど、ロープにかかっている大きなおむつカバーと千恵里の姿を目を凝らすみたいにして何度も交互に見比べると、急に何かを思いついたような驚いた表情で半分ほど唇を開いてしまって、でも、すぐにその口を慌てて両方の掌で押さえたのだった。
 たちまち赤くなっていく女性の顔が、顔を伏せて視線を落とした千恵里にも手に取るようにはっきり見えた。春風に揺れるおむつとおむつカバーが誰の物なのか、そうして、どうして千恵里が幼児めいた格好をしているのか、その女性が気づいたにちがいない。
 いやいやをするように力なく首を振って、千恵里は女性の目から逃げようと後ずさった。けれど、すぐに背中がガラス戸にぶつかってしまう。千恵里には、もう今さら遅いとわかっていても、風に舞い上がった短いスカートがもう二度と煽られないようにと両手で押さえつけることくらいしかできなかった。そんなことをしても、女性の目に焼き付いた恥ずかしいブルマーの残像を消すことなんてできないと知りながら。それに、すぐそこでゆらゆらと優しく揺れているおむつやおむつカバーをもう今更どこに隠すこともできないのを知りながら。
 その時になって、ようやく我に返ったように、眼下の女性が軽く首を振った。それから、二度三度と瞼をしばたかせ、肩で息をつぐと、慌てて体の向きを変えた。
 心なし急ぎ脚で遠ざかって行く後ろ姿をぼんやり眺めながら、千恵里はガラス戸に背中を押しつけたまま、ベランダの上にぺたんと坐りこんだ。力なく半開きにしたままの両脚の間で、ブルマーのボタンが春の日の光を浴びて鈍く光っていた。



 首をうなだれて、どこを見るともなくただ虚ろな目を時おり力なくしばたかせていただけの千恵里の表情が僅かに動いた。
 気がつけば、千恵里は両方の腕を体にまわして、まるで自分で自分を抱きしめるような格好をしていた。穏やかな日差しがあるとはいっても、まだ春先。ベビー服のようなパジャマしか着ていないのだから、体が冷えてくるのも当たり前だった。
 その冷気が千恵里をぞくっと震わせる。それも、寒さだけのせいでなく。
 ベランダに放り出されて、かれこれ一時間くらいになるだろう。ベランダの肌触りも、冷え冷えしているほどではないけれど、決して暖かいとはいえない。そんな所にこんな薄着でへたりこんでいれば、普段ならさほどおしっこが近くなくても、知らず知らずのうちにトイレへ行きたくなってくるのも仕方ない。しかも、桃子や倫子と再会してからは自分の意志に反しておもらしを強要されてきた(それも、ちゃんとトイレへ行かせてもらったことは一度もない。どれも、まるで赤ちゃんみたいにおむつを汚してのおもらしだった)千恵里だ。尿意に対して妙に過敏になってしまい、一旦おしっこをしたくなると、その気持ちを忘れることができなくなってしまっているのが実際のところだ。何かで気をまぎらわせるなんて器用なこと、とてもじゃないけどできそうにない。
 千恵里はおずおずと首を巡らせてガラス戸越しに室の中を覗きこんだ。
 桃子も倫子も、今はカーペットの上に腰をおろして、おもしろそうな顔をして千恵里の様子を窺っていた。で、力なく振り向いた千恵里と目が会うと、すっと立ち上がってゆっくり近づいてくる。
「どないしたん?」
 ロックを外してほんの少しだけ開けたガラス戸の隙間から桃子が言った。その隣には、もちろん倫子が仲良く寄り添っている。
「あ、桃子……」
 ベランダにへたりこんだまま、すがるように千恵里が言った。
「桃子やないやろ? ちゃんと、ママって呼んでちょうだい」
 あくまでもしつこい桃子だった。
「……ママ」
 少しだけ迷って、けれど、すぐに観念したように千恵里が言い直した。おしっこをいつまでも我慢できそうにないことは自分でもわかっている。そんな余計なことで時間を無駄にすることはできなかった。
「ん、それでええわ。で、どないしたん?」
 満足そうにに頷いて、桃子がもういちど訊いた。
「お、おしっこ……」
 ガラス戸の細い隙間に唇を押し当てるようにして、千恵里が弱々しい声で言った。
「え、何やて? 声が小っちゃいから聞こえへんかったわ。もっぺん、ちゃんと言うてみ?」
 桃子はわざとらしく腰をかがめて、耳たぶの後ろで掌をひらひらさせた。もちろん、聞こえていないわけがない。聞こえているのに、その恥ずかしい言葉を繰り返させて千恵里が顔を真っ赤に染めるのを見て楽しもうという魂胆だった。隣の倫子には、桃子がそうやって意地悪を楽しんでいる様子が手に取るように伝わってくる。
「そやから……おしっこ……」
 たしかに、繰り返して口にするたびに恥ずかしくなる言葉だった。だいたい、もともとが、人前で口にするような言葉じゃないんだ、これは。トイレへ行きたくなれば、なるべく誰にも気づかれないように一人でそっと行くものだし、誰かに尋ねられたとしても、「うん、ちょっとトイレ」というだけで、「おしっこやねん」とまでは言わないのが普通だ。それを、何度も何度も口にさせられるんだからたまらない。
「あ、おしっこやったん?」
 三度ばかり繰り返してから、やっとのことで桃子が納得する(ふりをした)。でもって、にまぁと笑うと、すぐ側に立っている倫子に話しかけた。
「な、聞いた? おしっこやて。サクランボ、ちゃんとおしっこを言えたんやで。今まではおむつを汚してばっかりやったのに、今度はちゃんと口で教えてくれたんやで。ちょっとはおねえちゃんになったんやろか」
 そうして、うんうんと二人して笑顔で頷き合ったりしている。
 まるきりの子供扱いに、千恵里の顔がますます赤くなった。とはいっても実際、ベランダにぺたんとお尻をつけてスカートをひらひらさせ、今はおむつをあてていないためにだぶだぶのブルマーを春風にさらして桃子の顔を振り仰いでいる姿は、ひとりでは何もできない幼児そのままだった。
「ここを開けて。トイレへ行くから、この戸を開けてぇな」
 ガラス戸の隙間を右手でつかんで、千恵里は懇願するような声を出した。
「そやな……」
 千恵里が勝手に開けてしまわないようにガラス戸を押さえながら、桃子は考えこむような顔つきになった。
「……ま、ええか。せっかくサクランボがちゃんとおしっこを言えたんやもん、そんな時にはトイレを使わせたげるのも躾やもんな」
「ほんま? ほんまにトイレを使わせてくれるのん?」
 千恵里の顔が輝いた。
 こんなことで喜ぶなんてとっても惨めなことなんだけど、でも、これまでトイレへ行かせてもらえなかったんだから、桃子の予想外の返事に、つい声を弾ませてしまう。
「可愛いいサクランボにママが嘘なんかつくかいな。ちゃんとトイレを使わせたげるて」
 桃子は唇の端を軽く吊り上げるみたいな笑い方をしてから、倫子の方に目配せをしてみせた。
「ほな、パパ。サクランボのトイレを持ってきてあげて」
 トイレを……持ってくる?
 きょとんとした顔をして、千恵里は、きゅっと細めた両目で桃子の笑い顔を見上げた。――どういうことやのん、それ?
 だけど、千恵里が不思議そうな表情をしていられたのも少しの間だけ。すぐに、ひくひくと引きつった顔になってしまう。倫子が
「これでええねんやろ?」
と言って室の隅から持ってきた物が両目にどーんととびこんできたからだ。
「あ、そうそう。それでええねん。さすが、パパ。ちゃんとわかっとぉやん」
 桃子は倫子に向かってにっと微笑むと、すぐに千恵里の方に向き直った。
「さ、これがサクランボのトイレやで。せっかくこない天気もええねんから、ベランダでしてしまおな」
「けど、それ……」
 千恵里の方は、そう言ったきり言葉を失ってしまう。だって、倫子が両手で抱えているのは。
「そや、オマルや。可愛いいサクランボにお似合いのトイレやんか」
 にこにこ笑顔でそう言いきる桃子。
 そうしてガラス戸の隙間に手をかけて、ぐいっと横に引き開けようとする。
 今度は、千恵里が押しとどめる番だった。二人がオマルを持ってベランダに出てきたりしたらどんなことになるか、千恵里はこの二日間でたっぷり教わったのだから。
 でも、非力な千恵里がガラス戸を押さえていられたのはほんの僅かの間。あっという間に、桃子と(オマルを手にした)倫子がベランダに足を踏み入れてきた。
 思わずベランダの隅の方へ逃げ出そうとする千恵里の肩をつかんで、桃子は
「おむつ離れの練習にはまだちょっと早いかもしれへんけど、どうせ今はブルマーだけやもん。サクランボが自分で言い出したことやし、トイレトレーニングを始めてみてもええな。もちろん、最初はオマルを使う練習からやけど」
と言うと、倫子に向かって、ベランダの真ん中あたりを指差した。もちろん、そこへオマルを置いてちょうだいという意味だ。
 倫子がオマルを置くとすぐ、桃子は千恵里の背中の方にまわりこんで、太腿の下に掌を差し入れた。そうして、そのまま千恵里の体を抱え上げようとする。
「やめて。いやや、やめてぇな」
 千恵里が慌てて手足をばたつかせた。
「こら、おとなしゅうしなさい。そない暴れたら抱っこでけへんやんか」
 叱るように言って、桃子は力を入れた。
「いやや〜」
 千恵里の方も負けじとじたばたする。
「あん、もう。んまに困った子やな」
 諦めてしまったのか、千恵里の体からそっと手を離して、桃子は腰を伸ばした。そうして、ちらと倫子の顔を見る。
「こない暴れるような子、うちの手にあわへんわ。しゃあない、サクランボの大好きなパパと交代しよか。パパ、あとはお願いな」
 ぱ〜んと手を合わせて、それまで桃子が立っていた場所に倫子がやって来た。
 桃子よりもいくぶん引き締まった体をしているぶん、力も少し強い倫子だった。まだばたついている千恵里の両脚をぐいっと広げるみたいにして、そのまま軽々とはいかないまでも、小柄な千恵里の体を右脚の膝に載せるような感じでどうにかこうにか抱え上げてしまう。
「ん、それでええわ。ええと、サクランボのお尻がこのへんやから……オマルはこのあたりに置いといたらええかな」
 倫子に抱え上げられて宙に浮いた千恵里のお尻の真下あたりになるように、桃子がオマルの位置を少し変えた。
 千恵里の目からだと、ぐいと広げられた自分の両脚の間に白いオマルが見えている。
 その恥ずかしい便器から目をそらして、千恵里はガラス戸の方に顔を向けた。
 すぐそこにあるガラス戸に、春の光を浴びた千恵里の姿がはっきり映りこんでいた。
 ガラス戸に映る自分の姿に、千恵里は倫子の膝の上で体を固くしてしまう。
「そうや、赤ちゃんは、こんなふうに抱っこしてもろておしっこするんやで。――さ、ブルマーのボタンを外そうな」
 鏡のように自分の体を映すガラス戸の前で身をすくめている千恵里の股間に桃子の指が伸びてきた。
 股間に触れる桃子の指先の感覚に、思わず千恵里が身をよじった。けれど、太腿のあたりをつかまれ、倫子の膝の上に載せられてしまっていては、そんなに簡単に逃げ出すことはできない。
「いやや、いやや、こんな所で……オマルでおしっこやなんて、絶対にいやや〜」
 しゃくりあげるように千恵里は声を震わせた。隣の室に声が聞こえてしまうかもしれないという不安を覚えるゆとりさえなくなっている。
「こないして可愛いいトイレを用意したげたのに、なんででけへんのん? やっぱり、まだおむつの外れへん赤ちゃんなんかな、サクランボは?」
 ボタンを外しかけていた手を止めて、桃子はわざとらしく不思議そうな顔をしてみせた。それから、一旦は動きを止めた指を、今度は千恵里の秘部に向かってそろそろと滑らせ始める。
「けど、せっかく用意したんやから一回くらいは使てほしいもんやな。――どない、こないしたらできるんとちゃう?」
 桃子の二本の指がブルマーの生地の上から、千恵里のいちばん感じやすいところと、そのすぐ側にあるおしっこの出てくるところとを同時にまさぐり始めた。
 柔らかい生地が千恵里の恥ずかしい部分をくすぐるように刺激して、敏感な肉襞がざわめく。
 千恵里の下腹部がびくっと震えた。
「どない、もうそろそろなんとちゃう? 無理して我慢することないんやで。おしっこしたいんやろ? ええねんで、そのまましてしもて。ちゃんとオマルを用意したげてるんやから」
 千恵里の耳のすぐ側で、熱い息を吐きかけるようにして桃子は囁いた。
「あかん、そんなことしたら……桃子、お願いやから……」
 ぎゅっと目を閉じ、言いようのない表情を浮かべて、千恵里は途切れ途切れに言った。
「ママ、お願い――やろ?」
 すっと目を細くして、桃子は中指を突き立てた。
「お願いやから、マ……あ、ああん……」
 千恵里の声が細くなって、小さな涙の雫が一つ、赤く上気した頬を伝って落ちた。
 桃子が千恵里の股間から指を離した。
 倫子の膝の上に載せたブルマーのお尻のあたりがほんの少しだけ妙な具合に膨らむような感じになって、そのすぐ後、小さなぼんやりしたシミができた。
 倫子の膝頭のすぐ先くらいの所にシミができたかと思うと、今度は、そのシミの真ん中あたりから透明な雫が二つ三つ、どこか遠慮がちにブルマーの生地から滲み出して、しばらくそこでぶるぶると震えてから、真下にあるオマルに向かって滴り落ちて行く。
 よほど耳を澄ましていないと聞こえないほどの、殆ど重さを持たない雫がオマルの底に跳ね散るぴちゃーんという音が早春の空気を微かに震わせた。その微かな水音に、目を閉じたままの千恵里の顔が羞恥に歪む。
 一つ一つの雫が次第次第に連なって、いつしか細い条になって流れるように落ち始める。レモン色のブルマーにできたシミが大きくなって、そこからほとばしり落ちる条が倫子の膝頭に堰き止められるように二つの流れに分かれてゆく。
 一つは、ぴちゃんぴちゃんという音がいつのまにかぴちゃちゃちゃという音に変わってオマルの底を叩く流れに。そして一つは、僅かな音をたてることもなく倫子のコットンパンツを濡らして、その真っ白なパンツの膝のあたりを中心に大きなシミを作り始める流れに。
「あかん。あかんて、倫子。このままやったら、あんたのズボンがひどいことになってまう」
 驚いたように両目を開けた千恵里は、すぐ後ろにある倫子の顔を振り仰ぐと、弱々しい声を絞り出した。自分のブルマーが濡れていくのに合わせて、ブルマーから滲み出したおしっこが倫子のコットンパンツにじわじわと滲みこんでいく様子が不思議なくらいはっきり伝わってくる。ただでさえびっしょり濡れたブルマーを通して倫子のコットンパンツがどんなことになっているのかわかるなんておかしな話かもしれないけど、でも、それまでさらさらだったのが段々とべったりした肌触りになってくる様子が、どういうわけか伝わってくるんだから仕方ない。
「離して。うちの体、そこいらに放り出して。そしたら、倫子のズボン、それ以上は濡れへんねんから」
 そして、不思議なことがもう一つ。それは、千恵里のこの言葉だった。
 春の穏やかな日差しの中、あけっぴろげのベランダで幼児のように抱きかかえられた姿でおもらしをさせられているというのに、ひどい屈辱に見舞われている筈なのに、耐えようのない羞恥に包まれていて当然なのに、なのに、倫子のことを気遣うようなそんな言葉がどこから出てくるのだろう。恨みがましい言葉さえ似つかわしい状況だというのに。バスルームで倫子におしっこをかけてしまったことを気にしているでもない筈なのに。
 そうして、倫子から返ってきたのはこんな言葉だった。
「何を言うとんのん。千恵里のおしっこやで、汚いことも嫌なこともある筈ないやん」
 そう言った倫子は、ますます力を入れて千恵里の体を抱き寄せた。
 びしょびしょのブルマーが倫子の腿のあたりに引き寄せられて、溢れ出すおしっこがまともにコットンパンツを濡らし始めた。普段なら、いったん緊張が解けてしまえば、あとはもうおしっこが流れ出すままにしてしまうだろう。けれどこの時は、ブルマーを脱いでいないし、しかも倫子の膝の上だという意識もあって、(できないこととわかってはいても)千恵里はまだ下腹部の緊張を緩めることができなかった。そのせいで、千恵里の体から溢れ出したおしっこは細い条のまま、いつ止まるともなく、いつまでもいつまでも滴り落ちては、倫子のコットンパンツを濡らしてからオマルに落ちて、小さな雫に跳び散っていくのだった。そのたびに、雨垂れにも似た、だけどもっともっと恥ずかしい水音が際限なく繰り返されてゆく。
「あかん。倫子、ほんまにあかん……」
「ええねん。かまわへんねんで、サクランボ。赤ちゃんのおしっこを嫌がるパパなんか、どこにもおらへんねんから」
 ほんの少し笑いを含んだ、けれど、それまで千恵里が一度も聞いた憶えのないような、まるで全身を包みこんでくれるような倫子の声だった。
 なぜだかわからないけれど、まるで自分でも気がつかないままに千恵里の目から涙がもうひとつぶ、春の日差しを浴びてきらきら輝きながらぽろりとこぼれた。
 そこへ、桃子の穏やかな声がかぶさってくる。
「そうやで、サクランボ。パパだけやない、ママも――ほら」
 言うが早いか、桃子も倫子の隣に膝を突き出すような姿勢で腰をおろすと、千恵里の体を倫子の手から受け取った。
 倫子と比べると少しばかり力のない桃子だけれど、横から倫子が手伝ってくれるおかげで千恵里を両膝に載せて抱きかかえることくらいはできる。だけどそのせいで、せっかくのエプロンとスカートが見る間にぐっしょり濡れてしまう。
「あかん、あかんやんか、桃子。スカートが汚れてまうのに……」
 今度は桃子の膝にお尻を載せて、それでもまだおもらしを止めることができずに、千恵里は口をぱくぱくさせて言った。
「まだ言うとん? 自分の娘のおしっこを汚いやなんて思うパパやママがおると思う?」
 桃子の声は穏やかだった。知らないうちに体の中まで滲みこんできそうな、透明で静かな声。
 一瞬、千恵里は黙りこんでしまった。
 しゃあらっぷと命令されたわけじゃない。そうじゃなくて、千恵里の中に滲みこんでいった桃子の声がなんだか心地良く思えて、体中をぞくぞく震わせるみたいで……。
 でも、やっぱり言わずにもいられない。
「そやかて、そやかて……」
「ええかげんにしいや、サクランボ。うちらがこれだけ言うてもわからへんのん?」
 決して叱りつけるような口調ではない、どちらかというと、たしなめるような、むしろ、あやすようなとでも言った方がいいような口調で桃子が言った。そうして、千恵里の上半身を倫子に支えてもらうようにして、やおらエプロンの肩紐を外し始める。
 そのまま、ブラウスのボタンを外してブラのカップを片方、形のいい乳房からずらしてしまうのに、さほど時間はかからなかった。
「な、何する気なん?」
 すぐ目の前で揺れる倫子の乳房から慌てて目をそらしながら、千恵里は咳こむみたいにして言った。
「サクランボがいつまでもうるさいから、その可愛いいお口を塞ぐだけや。――夕飯を食べながら眠ってしもた後も、こないしてうちのおっぱいをあげたんやで。憶えてへん?」
 桃子はくすっと笑うと、言い終わる前に千恵里の顔を両手で包みこむようにして、ぶるぶる震える唇に自分の乳首に押し当てた。少し汗ばんでいるのだろうか、僅かにじっとりした肌触りの乳房が千恵里の頬に触れた。
「さ、なんぼでも吸うてええねんで。うちのおっぱい、今はサクランボのもんやねんから。――夜になったらパパのもんになるかもしれへんけどな」
 桃子は悪戯っぽい顔つきでそう言うと、千恵里の顔を包みこんでいる両手にますます力を入れて言葉を続けた。
「寂しかったんやろ? 今まで一人ぽっちで寂しかったんやな?」
 それは、バスルームで倫子が言ったのと同じ言葉だった。  桃子がそう言うのを耳にした瞬間、千恵里の中で何かがぽきりと折れた。
 寂しかったんやな? そう、千恵里はずっとずっと寂しかった。両親の獣じみた絡み合いを目にしてしまった時から、そうして、それを忘れるために大人になることを拒否した時から、千恵里はいつも独りだった。
 桃子がそのことを知っているわけはない。だけど、桃子は千恵里の孤独をひしひしと感じていた。それは、高校の美術部の部室で初めて顔を会わせた時に嗅ぎ取った、底抜けに明るい笑顔の裏にひそむ限りない寂しさだった。
「けどな、サクランボ。もうええねんで。ここにはサクランボのパパもママもおるんやから。うちら二人、あんたのこれまでの寂しさを忘れさせたげる。これからずっと、サクランボの隣にはうちらがおるんやで」
 桃子はぐっと胸を張った。
 つんと上を向いている桜貝色の乳首が、千恵里の唇をこじ開けるようにして口の中に入っていった。
「さ、吸うてみ?」
 少しだけ迷ってから千恵里がおずおずと舌を伸ばして桃子の乳首に触れる感触が伝わってくる。
 桃子は千恵里の頬から両手を離した。
 だけど、もう千恵里は桃子の乳房から逃げようとはしなかった。
 はにかんだような顔になって、少しおどおどした様子で、千恵里は唇を動かし始めた。
 同時に、ブルマーから滴り落ちる雫が、それまでの遠慮がちな細い条から、もっと勢いのある、それまでがまるで嘘のような激しい流れになって桃子のスカートとエプロンを濡らし始める。
「そうや、それでええねんで。うちのおっぱいを吸いながら、思いきりおしっこしたらええねん。サクランボは赤ちゃんやもん、なにも恥ずかしがることなんかあらへん。パパとママに甘えとったらええねん。どんなことでもみんな、サクランボのことやったら、うちらが何でもしたげるから」
 千恵里の横顔をうっとりした目で見守りながら、桃子は甘く囁いた。
「おしっこが終わったら、ちゃんとおむつをあてて着替えよな。やっぱり、スカートの方がええかな? 短いスカートの方がおむつを取替えやすいもんな。――サクランボもどこかで見たことあるやろ? スカートの下からちょっとだけおむつカバーを見せてよちよち歩く小っちゃな女の子。サクランボもそんなんがお似合いやで。うふふ、花奈に頼んで、サクランボ用の可愛いい洋服を作ってもらうのもええかもしれへんな」
 千恵里は何も応えずに、とろんと瞼を閉じて桃子の胸をむさぼっている。

 千恵里の体からそっと手を離した倫子がふとベランダの外に目をやると、真っ白な蝶々が飛んでいた。向かってくる春風に負けまいとしているのか小さな羽根を盛んに振って、微かな花の香りを求めてひらひら飛んでいた。


 春風薫るメゾン美咲台七〇五号室。
 ここはフルーツパラダイス。
 まだまだ固い、だけどようやく色づき始めた、ちょっぴり奇妙なフルーツたちの、ここは秘密のパラダイス。
 もぎたてサクランボがやっと熟し始める、ここはフルーツパラダイス。
 黄色いチェリーがどうやって赤く熟れてゆくのか、それはこれからのお楽しみ。
 だから、ここはフルーツパラダイス。


(とりあえずの) ふぃなぁれ♪


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