偽りの幼稚園児





               【五五】

 やがてフラワーシャワーも終わり、ざわめきが静まる頃合いを見計らって、皐月が神妙な面持ちで
「ここで、みなさんに話しておきたいことがあります。本来のご挨拶は披露宴の後で行いますが、その前にどうしてもお聞きいただきたいことがあります。お暑い中、申し訳ありませんが、少し私たちに時間をいただけないでしょうか」
と、参列客の顔を一人一人見渡しながら言った。
 それに合わせて、少し離れた場所から紗江子がぱんぱんと手を打ち鳴らし、
「子供たちは私についてらっしゃい。これから先生たちは少し難しいお話をしなきゃいけないから、子供たちは先にパーティーの会場へ行って、冷たいジュースを飲んで待ってましょう」
と、園児たちに手招きをした。
 少し迷いながらも園児たちは参列客の列を抜け出て、紗江子の側に集まってゆく。
「葉月ちゃんも、こちらへいらっしゃい」
 一通り園児たちに手招きをしてから、紗江子は最後に、葉月に向かっていっそう大きな身振りで手招きする。
 それと同時に、いち早く紗江子の側に駆け寄っていた雅美と伸也が揃って
「葉月ちゃんも早くおいでよ。一緒にジュース飲みに行こうよ」
と邪気のない声で呼びかける。
「うん!」
 大好きなお兄ちゃんとお姉ちゃんに呼ばれ、おぼつかない足取りで葉月が皐月と薫のもとを離れた。
 だが、はやる気持ちが災いしたのか、生い茂る芝生に足を滑らせて、すてんと尻餅をついてしまう。
「……ぅ、ぅわーん、うわーん」
 豊かな芝生のおかげで痛みはさほどでもない筈だが、びっくりしてしまったのか、葉月は大声で泣き出した。
 倒れる際にドレスが捲れ上がっておむつカバーが丸見えになり、おしゃぶりを胸元で揺らしながら手放しで泣きじゃくる葉月の姿は、頑是ない赤ん坊そのままだ。
「葉月ちゃん、大丈夫!?」
 雅美と伸也が葉月の傍らに駆け寄り、二人で手を引いてその場に立たせた。
 だが、葉月が泣きやむ様子はない。
「いたいのいたいの、とんでけ−」
 雅美がおまじないをかけても、一向に泣きやもうとしない。
 困ってしまって顔を見合わせる伸也と雅美だったが、ふと伸也が妙案を思いついたようで、
「葉月ちゃんのフラワーガールを見て、雅美ちゃん、私もやってみたいって言ってたよね? だったら、今、ここでフラワーガールをやってみてよ」
と雅美に言った。
「……?」
 わけがわからず、雅美はきょとんとした顔になる。
「葉月ちゃん、結婚式の時、楽しそうだったでしょ? だから、ここで結婚式の真似っこをしたら、葉月ちゃん、楽しくなって泣きやむんじゃないかな」
 伸也は、幼いながらに言葉を探しながら説明した。
「あ、わかった。そうだった、葉月ちゃん、結婚式でパパとママとお手々つないで嬉しそうだった」
 伸也の説明が言葉としてではなく、幼児どうし直感的に伝わったのか、雅美の顔がぱっと輝いた。
「うん。雅美、お花を撒く。伸也お兄ちゃん、葉月ちゃんと手をつないで、雅美の後を歩いて」
 言うが早いか、雅美はフラワーシャワーで使った籠いっぱいに花びらを拾い集め、紗江子の方に向き直ってゆっくり歩き始めた。
 拾い集めた花びらを籠からつかみ出してぱっぱっと撒きながら歩く雅美に続いて、伸也が葉月の手を引いて歩き出す。
「あらあら、可愛らしい結婚式だこと」
「今度は葉月ちゃんが花嫁さんなのね」
「花婿さんがしっかりエスコートしなきゃ駄目よ、伸也君」
 まわりから応援の声が飛び、拍手の音が鳴り響く。
 歩みを進めるたびに葉月の泣き声が小さくなり、いつしか、面映ゆそうな笑みを浮かべる。
「ママに負けないくらい綺麗よ、葉月ちゃん」
 ひときわ大きな声援に葉月は顔を真っ赤に染め、伸也の手をぎゅっと握った。
 伸也の顔も葉月に負けないくらい真っ赤に染まる。

「あらあら、可愛いお嬢ちゃんをボーイフレンドに横取りされちゃったわよ。どうするの、パパ」
 紗江子に付き従って披露宴会場に向かう園児たちを見送る皐月を、真由美がみんなに聞こえる声でからかう。
「ま、ここは若い人は若い人どうしで楽しんでいただきましょう」
 皐月は冗談めかして言い、にっと笑ってみせた。
 しかしすぐに神妙な面持ちに戻り、園児たちが披露宴会場に入って行くのを見届けてから言葉を続ける。
「お暑い中、私たちにおつきあいいただいて恐縮です。これからの話は、子供たちには退屈ですし、できることなら葉月には聞かせたくない内容を含んでいますので、園長先生にお願いして、葉月と子供たちを先に披露宴会場に連れて行っていただきました。その点、ご承知おきください」
 皐月は再び参列客の顔を見渡した。
「ここ一週間ほど、新聞や雑誌に厚生労働省や文部科学省に関連する醜聞が掲載されることが少なくありませんが、これは既にみなさんご存じの通り、私たちの計画の一環として、薫が集めた情報をマスコミにリークした結果です。醜聞が掲載されるようになって、当事者たちは気が気でなくなったことでしょう。厚生労働省の方は今から三十年ほど前、文部科学省の方は十数年前という昔の事件、それも、どちらも揉み消した筈の事件がなぜか蒸し返されそうになっているのですから。どちらも、法律上は時効を迎えていますし、事件性を窺わせる確たる証拠もない筈です。しかし、官僚や公務員は、経歴に汚点を残すことを極度に忌避します。焦りを感じた当事者たちは利害を共有する者と連絡を取り合い、対応を協議せざるを得なくなります。その動きが薫の更なるターゲットとなって情報の確度が上がり、その結果、身をひそめている真の当事者を炙り出すことが可能になります。そして私たちは、真の当事者に関する情報を切り札として、厚生労働省や文部科学省との交渉に臨むことが可能になる。当初の予定通り、計画は着々と進行しています。ところで……」
 そこまでは饒舌だったが、その先を続けるのは躊躇われるのか、皐月は言い淀んだ。
「大丈夫なの? 代わりに私が話した方がいい?」
 薫が心配そうに尋ねる。
「ありがとう、気を遣ってくれて。でも、いいよ、自分で話す。葉月のためにも、これは自分で話さなきゃいけないことだから」
 皐月は小さくかぶりを振り、改めて参列客に向き直った。
「ところで、これまでの新聞や雑誌の記事では、当事者の名前はぼかした表現になっていました。しかし、来月早々に掲載される記事では、悪質性が高いと判断した当事者たちの実名を明らかにすることになっています。――そして、実名報道される人物の中には、私の両親も含まれています」
 その場がしんと静まり返る。
 皐月は大きく息を吸い込んだ。
「私は子供の頃、両親のことを誇りに思っていました。忙しい両親に構ってもらえず、けれど、教え子たちのために忙しく働いている両親のことをとても誇りに思っていました。私が寂しい思いをした分、両親の教え子たちが勉学に励むことができる。そう考えて寂しさに耐えてきました。弟、つまり、葉月が生まれた後は、私が葉月の面倒をみて、教え子たちのために精一杯頑張っている両親のことを誇りに思うよう葉月にも言い聞かせてきました」
 皐月は感情を押し殺し、わざと抑揚のない声で話し続けた。
「しかし、ある時、父が家に持ち帰った資料をたまたま目にした私は、知ってしまいました。両親が忙しそうにしていたのは、教え子たちのためなどではなく、或る虐め事件の隠蔽を図るためだということを。地元の有力者の子息が関与した虐め事件を揉み消すために、両親は奔走していたのです。両親にも、私と弟の生活を守るためという言い分はあるでしょう。けれど、子供を持ち、教育の現場に身を置く者として、それは言い逃れでしかないと私は判断しました。私たち姉弟の将来を案ずるなら、そもそも、将来に悔恨を残すようなことに手を染めるべきではないのですから。それまでの積年の想いも重なり合って、私は両親と御坂の家と血統を恨みました。同時に、葉月のことが不憫に思えてなりませんでした。だから私は、葉月を御坂の家から救い出し、御坂の血統を途絶えさせる覚悟を固めました。それを私は、葉月および私に対する『救済』と呼ぶことにしました」
 おそらく自分では気づいていないのだろうが、皐月の目は真っ赤に充血していた。
「ただ、『救済』を実行に移すには幾つか問題がありました。有力者の子息が虐め事件に関与していること及び私の両親がその隠蔽に関わっていることを、どのようにして明らかにすればいいのか。両親の関与を明らかにした後、私と葉月の生活基盤をどうするのか。そして、私にとってこれが最大の難問だったのですが、両親の関与を明らかにしながらも、その事実を葉月に知られずにすむ方法はあるのかといった問題です。法事など親類が集まる席で御坂家の歴史や血統を誇らしげに語る祖父の話を幼い頃から何度も聞かされて育った葉月は、御崎家の血統を盲信し、かつての私のように両親を誇りに思っていました。そんな葉月が事実を知ったら、おそらく、生きる目標を失ってしまうでしょう。もともと肉体的にも精神的にも線の細い子だから、下手をしたら心を病んでしまう。それは絶対に避けなければならない。こういった問題の解決策に思い悩みつつ、年月は過ぎて行きました」
 真っ赤に充血した皐月の目から、涙が一粒こぼれ出る。
「そんな中、私は園長先生と巡り会うことができました。私はその出会いを偶然の結果だと思っていましたが、今になって考えれば、薫がそうだったように、園長先生がそれとなく私のことを気にかけてくださり、偶然を装って呼び寄せてくださったのかもしれません。経緯はどうあれ、私は園長先生の勧めでひばり幼稚園に職を得、問わず語りのうちに、私が胸の中に抱え込んでいたことを全て話しました」
 皐月は拳をぎゅっと握りしめた。
「それから更に時間が経過して、学生時代の事件が元凶で笹野先生が少しばかりお困りのご様子だというお話を伺いました。そこで、みなさんもご存じの計画と、それに付随するプロジェクトを実行する運びになったわけです」
 皐月は、固く握りしめた拳で涙をぐいっと拭った。
「プロジェクトの本当の目的は二つあります。一つは『初対面の人物との心理的融和を容易に実現する田坂薫の能力を高い段階で維持するため、薫と精神的共鳴を起こしやすい御崎葉月を心理的な触媒として活用すること』です。もう一つは『本人に気取られぬよう葉月を肉体的にも精神的にも軟禁状態に置き、外界からの一切の情報を遮断すること』です。計画の進行に伴って、虐め事件を隠蔽することに両親が積極的にかかわっていたという事実が公になることは避けられません。しかし、その事実を、精神に変調をきたす恐れのある葉月に知られることはなんとしても避けなければならない。そのために、外界からの情報が葉月に届かないようにすることが二つ目の目的の意味するところです。みなさんご存じの通り、『ひばり幼稚園への男性求職者に与える特別な課題の作成』というプロジェクトの名目上の目的は実のところ、葉月をプロジェクトに招き入れるための建前でしかありませんでした」
 皐月は、傍らに立っている薫の腰に手をまわして引き寄せた。
「とはいえ、外界の情報が届かない状況に葉月を置くことは極めて困難です。新聞、雑誌、テレビ、ラジオ、スマホ等々、情報の発信源は身近に幾らでも存在します。物理的に情報を遮断することは、おそらく不可能でしょう。そこで、笹野先生と園長先生と薫と私は協議を重ね、葉月を強引に『幼児化退行』させることにしました。ごく身近な両親や家族としか意思の疎通をせず、テレビを視るにしてもニュースには興味をしめさず、新聞に書かれた文章の意味を理解できず、勝手に外出することなどかなわない、自分では何もできない幼児に葉月を変貌させることで、外界からの情報を遮断することにしたのです。葉月が勝手に外出することを防ぐにあたっては、笹野先生から提供していただいた様々な薬剤が効果をしめしてくれました。葉月の心を幼児化退行させるにあたっては、薫が持つ少しばかり強引な精神共鳴能力が効果的に作用しました。――薫の能力を高める触媒として葉月は是非とも必要な存在であり、葉月と外界からの情報を断ち切るためには薫の能力が必須だったわけで、薫と葉月は、期せずして、プロジェクトの成否に関わる鍵として、互いに互いが、なくてはならない関係だったのです。幸いにも、両親の実名が記事になる前に葉月の幼児化退行は完了しました。これで心おきなく、来月からも新聞や雑誌に目を通すことができそうです」
 皐月は薫の腰に腕をまわしたまま、葉月が雅美の手で哺乳壜からジュースを飲ませてもらっているであろう披露宴会場に目をやった。
「しかし、今になって私は迷っています。葉月を御坂の血から救い出す『救済』は、こうするしかなかったのかと。私の両親は、保身という随分と身勝手な行いをしました。けれど、結果として私もまた、葉月の人格をまるで無視した身勝手な行動をしてしまったわけです。これからの私の生涯は葉月に対する贖罪の生涯になるでしょう。ただ、幸いなことに、孤独の中で贖罪の生涯を送ることだけは免れることができました。贖罪の生涯を送る私に、薫が寄り添ってくれることになったからです。そして、そのことに関連して、この場でみなさんに重大な報告をいたします」
 皐月は再び薫の方に向き直り、空いている方の手を薫のお腹にそっと押し当てた。
「園長先生には先に報告を済ませているのですが、実は、薫のお腹には新しい生命が宿っています」
 参列客がどよめいた。
「もちろん、私の子ではありません。薫のお腹に宿る新しい生命の父親は、葉月です」
 今度は、水を打ったようにその場が静まり返る。
「薫は私の妻になる途を選んでくれました。同時に、幼児化退行をした葉月の母親になる途も選んでくれました。しかし、やはりそれだけでは満たされないと正直に話してくれました。できることなら、自分のお腹を痛めて生んだ子供がほしいと。長らく家族というものを死にものぐるいで求め生きてきた薫にしてみれば当然のことです。そして、私もまた身勝手な願いを胸に抱いてしまいました。御坂の血を絶滅させる覚悟を固めたつもりでいたくせに、その覚悟は上辺だけのものだったようで、私もまた自分と血が繋がった子をこの手に抱くことを望んでしまったのです。しかし、どう考えても、二人の望みをかなえる方法などありません。そんな中、笹野先生から提案がありました。葉月の精子を使った人工授精を試してみてはどうかという提案でした」
 皐月は薫のお腹をいとおしげに優しく撫でた。
「笹野先生から提供していただいた合成女性ホルモン様化合物の影響で、葉月の男性としての機能は今も低下し続けています。それに加え、ペニスタックを続けていることで、精子をつくる能力はあと数ヶ月で完全に失われるだろうと笹野先生は見立てていらっしゃいます。ご存じの方もおられると思いますが、精子をつくる精嚢という器官は熱に弱いため、睾丸を包む皮膚の表面積をできる限り大きくすることで放熱性を高めるような仕組みになっています。そのような器官をペニスタックによって常に体内に押し込み体温によって熱せられているのですから、化合物の影響と相まって、いずれその機能を喪失してしまうことは避けられません。せっかく男性として生を受けながら、私が幼児化退行させてしまったせいでその役割を果たすことなく失われてしまう葉月の男性としての機能を、どんな形にせよ発露させてやることも贖罪につながるかもしれないという思いと、血の繋がった我が子がほしいという願いが重なり合って、私たちは笹野先生の提案を受け入れることにしました。薫のDNAと弟のDNAを半分ずつ受け継ぐ新しい生命は私とも幾らか血が繋がっているのですから、私たちにはそれで充分です。そして、葉月の誕生日の夜、葉月が眠るのを待って、笹野先生の手で葉月の精子を採取していただき、その翌週に薫の卵子への受精に至りました。ちなみに、薫と私の希望もあって、性別は女の子です。性別を選択しての人工授精というのはこれまで臨床例がないそうですが、慈恵会の研究施設が確立しつつある手法を用いて笹野先生に施術していただくことで希望がかないました」
 もういちど皐月は披露宴会場の方に目を転じた。
「薫のお腹に宿っている女の子が葉月にとって『妹』なのか『娘』なのかは、判断に苦しむところです。ただ、私も薫も、お腹の子のことを葉月の『姉』だと考えています。お腹の子が生まれた後、このまま葉月がおむつ離れのできない幼女でいるなら、いずれ葉月は、その子の手でおむつを取り替えてもらい、その子の手で哺乳壜からミルクを飲ませてもらうことになるでしょう。そうなれば、葉月の方がいつまでも手のかかる『永遠の妹』ということになります。また、いったん幼児化退行をしてしまった葉月が一時的な赤ちゃん返りを経た後に改めて女の子として成育することになったとしても、元は男の子ですから、女の子としての仕草や振る舞い、女の子としての感受性など、新しく生まれた子を手本として成長し直すことになります。その場合は、葉月の方が妹になる擬似的な双生児と見なすことになります。いずれにせよ、男の子としての再成育が不可能な葉月は、新しく生まれてくる(生物学的には自分の娘である)子の妹として生涯を送ることを余儀なくされているわけです」
 そう言う皐月の瞳は、もう涙で潤んでなどいなかった。
 その瞳に宿っているのは、二人の娘を持つ父親としての覚悟の輝きだった。

「暑い中だというのに長々と話してしまって申し訳ありませんでした。しかし、新しい人生を四人で手を携えて歩いて行くにあたって、どうしてもみなさんに聞いておいてほしかったものですから、いささか強引にお時間を頂戴してしまいました。――そろそろ、アイスペールの中でスパークリングワインも飲み頃に冷えていることでしょう。夏の日曜日の昼に口にする冷たいスパークリングワインやビールは格別です。子供たちが待っている披露宴会場へご案内いたしますので、どうぞご一緒ください」
 皐月と薫は改めて参列客に向かって深々と頭を下げた後、互いに目を見合わせ、どちらともなく腕を組んで颯爽と歩き出した。


               【エピローグ】

 披露宴が始まり、来賓の挨拶や皐月と薫によるウェディングケーキへの入刀が済み、会場が賑やかになるのを待って、二人だけで話したいことがあるからと、紗江子が美雪をロビーへ連れ出した。

「先に喧嘩を吹っかけたのは美雪、あなたの方でしょ」
 会場から持ってきたスパークリングワインのグラスを僅かに傾けて、紗栄子は美雪に言った。
「何を言っているのよ、紗栄子ってば。済んだ筈の昔の話を蒸し返していちゃもんをつけてきたのは、あいつらの方よ。それも、医師会のお偉いさんを味方につけてさ」
 澄ました顔で美雪が応じる。
「そりゃ、たしかに、経緯だけを見ればそうなるわよ。でも、相手がいちゃもんをつけてくるように仕向けたんでしょ、美雪が」
 紗栄子は探るような目で言った。
「あら、何のことかしら」
 美雪はすっとぼけてみせる。
「じゃ、わかるように言ってあげる。プロジェクトのために美雪が提供してくれたのは、生体のみに有効な特殊な接着剤と合成女性ホルモン様化合物と選択性筋弛緩剤だったわね? その三つの薬は、慈恵会の研究施設で試作して、その有用性を業界紙とかで大々的に広報していたものだった筈。確かに、それぞれ一つ一つを見ただけじゃ、怪我や病気の治療に役立ちそうな薬ばかりだわ。一見しただけじゃ、ね」
 紗栄子は意味ありげな笑みを浮かべて続けた。
「でも、この三種類の薬の組み合わせには意味がある。そんなふうに感じる人がいるんじゃないかしら?」
「いるかしら、わざわざそんなひねくれた見方をする人が」
 美雪は面白そうに訊き返した。
「それが、いるのよ。たとえば、三十年ほど前に優秀な女子医学生に嫉妬して乱暴をはたらいたレイプ犯とかね」
 紗栄子はすっと目を細めて言い、スパークリングワインのグラスを照明に透かし見て続けた。
「かつてのレイプ犯にしてみれば、生体用の接着剤は、性的な暴行による裂傷を負った女性性器の治療に極めて有用だし、合成女性ホルモン様化合物は、性犯罪に走るような男どもの性欲を減退させるのに有効だし、選択性筋弛緩剤は、暴行常習犯をおとなしくさせるのに有効な薬剤だというふうに思えて、それを派手に広報するなんて、昔のレイプ事件を忘れちゃいないよというメッセージを送りつけられたように感じちゃうんじゃないかしらね。もう少し踏み込んで解釈すれば、これから復讐してやるから首を洗って待ってなさいと脅されたように感じちゃっても仕方ないわよね」
「やれやれ、紗栄子には敵わないわね、すっかりお見通しだこと」
 美雪は大げさに肩をすくめてみせ、くすっと笑って続けた。
「そうよ。そんなふうにしてメッセージを送りつけてやったのよ、昔のレイプ犯に。そうしたら、あいつら、おかしいくらいあたふたして、お偉いさんに泣きついて慈恵会を医学会から追い出そうとしちゃってさ。屑は矜持なんてものを欠片ほども持ち合わせていなことがよくわかったわ。紗栄子のいう通り、あいつらが先に手を出すように仕組んだのよ、私が」
「でも、わざわざ何のためにそんなことを?」
 紗江子はグラス越しに美雪の目を見て尋ねた。
 尋ねたが、美雪がどう答えるか予め察している様子がありありだ。
「紗江子がなかなか踏ん切りをつけないからよ。私の目には、紗江子が厚労省や文科省に喧嘩を吹っかける準備は充分に整っているように見えた。なのにちっとも腰を上げないからいらっとしちゃってね、それで、向こうから手を出してくるように仕向けたのよ。紗栄子がさっさと踏ん切りをつけてくれていたら私だってこんな面倒なことしなくてすんだのに、全く、学生の頃からちっとも性格が変わってないんだから、紗栄子ってば」
 美雪はグラス越しにウインクしてみせた。
「よく言うわよ。性格が変わってないのは美雪の方よ。その向こう見ずなところ、はらはらし通しだったのよ、昔から私は。ま、いいわ。そのおかげで機先を制することができて、厚労省にも文科省にも顔が効くようになりそうだしね。ここは、素直にありがとうを言っておくわ」
「あらあら、殊勝な心がけだこと。ま、厚労省と文科省に対する影響力を確保したら大抵のことはできちゃうから、いろいろ捗りそうね。葉月ちゃんが新しい人生をおくる上で必要な手助けにもなるでしょうし。正直なことを言えば法務省あたりにもちょっかい出せたら最高なんだけど、それは欲張り過ぎってものかしら」
 美雪は凄みのある笑みを浮かべて言った。
「取り敢えず、法務省に手を伸ばすのはお預けにしておきましょう。大人の女性は節度というものを重んじなきゃ。――ところで、今夜はどっちの家でする?」
「せっかくの特別な日なんだから、家なんかじゃなくて豪華なホテルのベッドがいいと思わない? Tホテルの部屋を押さえているんだけど、どう?」
「やれやれ、手回しがいいこと。さすが高名な女医先生は万全に抜かりがなくていらっしゃる」
「明日が仕事だってことも忘れて存分に楽しみましょ、今夜は」
 二人はグラスをちんと触れ合わせ、互いに自分のグラスを相手の口に向けて傾けた。

 その頃、会場では、ジュースを飲み過ぎてしくじってしまった葉月が急遽用意された簡易ベッドに寝かされ、参列客が見守る中、ぐっしょり濡れたおむつを取り替えてもらっていた。
 プロジェクト要員としての葉月の雇用期間は、あと数日で終了する。
 しかし、その日を過ぎた後も、葉月が幼稚園に登園する日はいつまでも続く。
 ただ、職員名簿に記載されている葉月の名前を園児名簿に移すという一手間が加わるだけだ。

               〜 fin.〜




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