偽りの幼稚園児





               【五四】

 一見したところでは平穏そうな日々が巡って、迎えたのは八月最後の日曜日。
 隣の街との境を流れる川沿いに、純白の外壁が目を惹く結婚式場が建っている。
 せっかくの日曜日だというのに、暦の巡りがよくないせいだろう、その日に執り行われる結婚式は一組だけだった。

 オルガンの音色がつつましやかに流れる中、チャペルの扉が開いて、純白のタキシードに身を包んだ新郎が姿を現し、一歩一歩を思い出に刻み込もうとするかのようにゆっくりとバージンロードを歩み進む。
「やだ、想像してたより素敵なんだけど」
「うん、思ってたより似合ってるよね」
 新郎が傍らを通り過ぎるたび、参列者席でひそひそと囁き合う声が飛び交う。
 やがて新郎は祭壇の前に達し、背筋をびんと伸ばしたまま踵を返して、参列者席の方に向き直った。
 少し間があって、純白のドレスを着た少女が扉の向こうに現れ、新郎に向かってバージンロードを歩み出す。
 少女が身に着けているドレスの丈は短く、その下から、なにやら厚ぼったいドロワースのような下着を三分の一ほど覗かせていた。
 少女がバージンロードを進み、全身が天井からの照明に照らし出されると、ドロワースのような下着の二重になった股ぐりやスナップボタンがはっきり見えるようになって、それが普通の下着などではなく、おむつカバーだということがわかる。
 そう思って改めて見れば、少女の歩き方は頼りなくて、中にたっぷりおむつをあてているのだろうぷっくり膨れたおむつカバーと相まって、よちよち歩きと表現するのがふさわしいような覚束ない足取りだ。背は高く見えるものの、実はまだ年端もゆかぬ幼い女の子なのかもしれない。
 少女はよちよちと歩み進みつつ、左手に提げた籠から色とりどりの花びらを右手でつかみ出し、その手を左右に振りながら花びらを撒く。少女の手を離れた花びらは、あるいはくるくると身をよじり、あるいは空気をふくんでふわりと舞いおり、バージンロードを彩り豊かに清め飾りたてる。
「まぁ、可愛らしいこと」
「まるで、お花の妖精ね」
 可憐な花びらを巻き歩む清純で邪気のないフラワーガールの姿に、参列客たちは誰もが目を細め、互いに微笑み合った。
 そして、少女からやや間を置いて、いよいよ新婦が登場する。
 フラワーガールを務める少女が着ているドレスと同じ生地から仕立てたのだろう、チャペルの照明を淡く透かし通して綺麗な肌の色を浮かび上がらせつつ、同時に照明を仄かに反射して、まるで光の繭をまとったかのようなウェディングドレスを身に着けた新婦は僅かに視線を落とし、先を行くフラワーガールが撒いた花びらを感慨深げに見やりながら、覚束ない少女の足取りに合わせてしずしずと足を運んだ。
「とても綺麗ね、見違えちゃうわ」
「本当にお似合いの二人だこと」
 参列客の囁き交わす声が耳に届き、ベールの下で新婦の頬がうっすらとピンクに染まる。
 祭壇の前で新婦がフラワーガールに追いついて、二人が揃って踵を返した。
 新郎、少女、新婦の順に並んだ三人を祝福してオルガンの音色が高鳴り、絶頂に達した瞬間、ぴたりと鳴りやむ。

「式を執り行う前に、ご参列の皆さんにご説明しておくべきことがあります。あまりお時間は取らせませんので、どうぞお聞きください」
 オルガンが鳴りやむのを待って、司祭が静かな口調で話し始めた。
「キリスト教において、本日のような新郎と新婦に対してどのような祝福を与えることが適切なのか、あるいは、祝福を与えることが神の教えに背くことにならないのかといった議論は今も続いていて、残念ながらまだ結論を得ていません。宗派によって基本的な考え方が異なるだけでなく、一つの宗派の中においても、教会ごとに、また、神父や牧師ごとに信じるところが異なってしまっています。さて、私はプロテスタントの牧師ですが、ここで私の意見を述べることは控えさせていただきます。ただ、無用な混乱を招かないよう、本日の式の主役であるお二人および式を企画された鈴本さんと相談した結果、私は牧師としてではなく一人の個人として本日の式を執り行うことにいたしました。つまり、本日の式は、キリスト教における式の流れを踏襲するものの、その本質は、いわゆる『人前結婚式』であるというふうにご理解いただきたく存じます。式に先立って私から申し上げるべき事柄は以上です。事情を察していただき、ご理解いただけますようお願い申し上げます」
 そこまで言って司祭は参列客の顔を見渡し、おごそかな声で
「ただいまより、御崎皐月と田坂薫の結婚式を、御崎葉月を交えて執り行います」
と告げた。
 そう、その日に一組だけの結婚式を挙げるのは、皐月と薫のカップルだった。いや、もう少し正確に表現するなら、皐月と薫と葉月の三人家族ということになるだろうか。かりそめの家族ごっこの間柄に過ぎなかった三人が正式な家族になるために皐月と薫が真由美に相談を持ちかけて実現した結婚式こそが、この晴れやかな舞台なのだった。

「本来はここでみなさんで賛美歌を斉唱するのですが、本日は、ひばり幼稚園の園歌を斉唱することにいたします」
 司祭が告げて、参列客が全員、椅子から立ち上がる、
 特別保育の四人に加え、PTAの役員を務める母親の子供たちが参列者席の前方にいて、後方には、葉月の特別入園式に列席した来賓たちの姿があり、その後ろにPTA役員、そして教職員が並んでいた。
 司祭の合図でオルガン奏者が園歌の演奏を始め、出席者の歌声が重なる。
 斉唱の途中、最前列の雅美が手を振ってみせると、いかにも嬉しそうに、そしてまるで無邪気に葉月が手を振り返した。その光景が参列客の胸を暖かくする。
 その後、司祭は三人を祭壇の上に招き、皐月と薫に向かって順に
「病めるときも、健やかなるときも、愛をもって互いに支えあうことを誓いますか?」
と問いかけ、二人が各々
「誓います」
と答えると、今度は葉月に向かって
「いつまでもパパとママと一緒に、仲のいい家族でいますか?」
と尋ねた。
 もう殆ど思考力の残っていない葉月にとって司祭の問いかけは難しいのだろう、しばらくは無言のままだった葉月だが、参列者席から
「葉月ちゃん、パパとママのこと、大好きだよね?」
という美鈴の声が聞こえた途端、ぱっと顔を輝かせて
「はじゅき、パパとママ、しゅき。パパとママ、だぁいしゅき!」
と、たどたどしいながらも大きな声で答えた。
 おごそかな雰囲気が一転、和やかで柔らかな空気に満たされる。
 続いて、指輪の交換。
 二人が互いに手を重ね合わせ、先ず皐月が司祭から指輪を受け取って薫の左手の薬指につけ、その後、薫が皐月の左手につけた。普通ならこれだけでいいのだが、その日の結婚式ではそれだけで終わらず、皐月と薫が一緒に司祭から新しいおしゃぶりを受け取り、それを皐月が葉月に咥えさせ、薫がおしゃぶりホルダーのクリップを葉月のドレスの胸に留めた。
 参列者席から大きな拍手がわき起こる。
 拍手が鳴りやんだ後は、ベールアップ。
 二人が互いに顔を見合わせ、少し間があって、薫の顔を隠しているベールを皐月が持ち上げた。
 二人はしばらくそのままでいたが、皐月がにこっと微笑んで
「今日の薫はこれまでで一番きれいだよ」
と言うと、薫の目から涙が一粒こぼれ落ちる。
 二人は互いにそっと顔を寄せ合い、くちづけを交わした。
 それから、皐月が葉月の額に、薫が葉月の頬に、優しくキスをする。
 その後、皐月がすっと右手を伸ばし、その甲に薫が掌を重ね、更にその甲に葉月が掌を置き、一番上に司祭が手を重ねて祈りを捧げ、結婚宣言がなされる。
 思考力が極度に低下している葉月にも、一連の行為が自分の将来を決定づけるものだということが伝わるのだろう、フラワーガールとして入場した時と比べると、緊張している様子がありありだ。
 その後は、結婚証明書への署名。
 一字一字をしっかり書き記して署名する皐月に続いて、流れるような書体で薫が署名をし、細身のボールペンを葉月に手渡した。
 だが、何をすればいいのかわからず、葉月はすがるような目で薫の顔を見上げる。
 薫は頼りなげにボールペンを握る葉月の手に自分の手を重ね、幼い我が子に文字を教える母親そのまま、証明書に大きく「はづき」と平仮名で署名をした。
「はじゅき? はじゅきのおなまえ!? パパのおなまえとママのおなまえとはじゅきのおなまえ!」
 薫に助けられて証明書に記した自分の名前と、その上の欄に記された皐月と薫の名を何度も見比べて、それまでの緊張した面持ちから一転、葉月は興奮した様子で大きな声をあげてはしゃいだ。そのせいでおしゃぶりが口から落ち、ホルダーに引っ張られて純白のドレスの胸元にぶらさがる。
 そのおしゃぶりを改めて葉月に咥えさせた薫の瞳は、更に涙で潤んでいた。
 葉月の名前の下に司祭が自分の名前を書き入れて結婚証明書は形を整えた。
 それから司祭は、結婚証明書を胸の高さに掲げ持って、皐月と薫が夫婦に、そして葉月が二人の娘になったことを、低いながらもよく通る声で参列客に報告した。
 参列者席から再度の拍手がわき起こる。
 拍手の邪魔にならないようにオルガンの音色が背景音として低く流れ始め、波がひくように拍手の音が鳴りやむと、その場にいる全ての者の心を一つにまとめるかのように、オルガンは最大音量で鳴り響いた。

 やがてオルガンの音色は徐々に低くなり、穏やかな中にも心からの歓びを表すメロディーを奏で始める。
 皐月と薫は静かに頷き合い、葉月の手を引いて祭壇をおり、参列客に対して恭しくお辞儀をしてから、バージンロードを扉に向かって歩き始めた。
 その姿に、緊張や迷いや気負いはない。
 二人に手を引かれ、『両親』の間をよちよちと歩く葉月の顔は、とても嬉しそうで、とてもあどけなくて、ちょっぴり誇らしげだった。おしゃぶりを咥えているせいで唇の端からよだれが溢れ出し、せっかくのドレスの胸元に滲みをつくるのだが、そんなこと気にかけるふうもない。むしろ、よだれで汚してしまったドレスを優しく綺麗にしてくれる『母親』との固い絆を得た喜びに有頂天になっているようにさえ見える。

               *

 扉を出た三人は、参列客が退場するのを待つ間、チャペルに併設された控え室に招き入れられたのだが、控え室に入った途端、葉月が
「ぅ、うぇーん、ふ、ふぇーん」
と泣き出し、咥えていたおしゃぶりを口から離してしまった。
「急にどうしちゃっだんだい、葉月?」
 慌てて皐月が声をかけるが、葉月は泣きじゃくるばかりだ。
「おむつが濡れちゃったのよ。多分、祭壇からおりてバージンロードを歩き始めてすぐの頃でしょうね。それに、喉も渇いているみたい。そんなこともわからないなんて、本当に男親は駄目ね」
 皐月の慌てぶりをおかしそうに眺めながら、薫がわざと溜息交じりに言った。
 自分の欲求を泣き声で知らせるよう葉月を『躾け』てからこちら、薫は、泣き方の微妙な違いから(精神的な強共鳴の効果もあって)葉月が何をしてほしがっているのかを瞬時に察することができるようになっていた。
「え? じゃ、その時に失敗しちゃっていたのに、泣くのを今まで我慢していたのかい、葉月は?」
 確かに『パパ』の役割を受け持ってはいるけど『男親』なんかじゃないんだけどなと胸の中で苦笑しながら、皐月は薫に訊いた。
「そうよ。歩いている途中で葉月が私の手を握る力が急に強くなって、その後すぐに弱くなったからぴんときたのよ。あ、しくじっちゃったんだなって。でも葉月は、もう殆ど物事をきちんと考えられなくなっている筈なのに、直感的に、今日の式がとっても大切なものだってことがわかっていたんでしょうね、せめてチャペルを出るまではって泣くのを我慢していたんだと思う。ぐっしょり濡れたおむつのせいでお尻が気持ちわるかったでしょうに、大好きなパパとママのために大切な結婚式の邪魔にならないよう我慢してくれたのよ、葉月は。本当に、なんて健気で、なんて優しい子なのかしら、私の葉月は」
 薫はいかにもいとおしそうに葉月に頬ばりをしながら、おむつカバーの股ぐりに指を差し入れて様子を探った。
「思った通りだわ。おしっこでびしょびしょ」
 しばらくしておむつカバーから抜いた指をウェットティッシュで拭き清めながら、薫は呟いた。
 そこへ、式場スタッフの女性が遠慮がちに
「差し出がましいようですが、奥様、鈴本様から指示された通り、この控え室には簡易ベッドや哺乳壜もご用意いたしておりますので、どうぞご自由にお使いください。参列されたお客様の退出が済みましたらお声をおかけいたしますので、それまでの間、親子水入らずのお時間をごゆっくりお過ごしください」
と話しかけ、恭しく一礼をして控え室を出て行った。
「え、あ、ああ……そうさせていただきます。ありがとう、気を遣っていただいて」
 薫は慌てて女性スタッフの後ろ姿に声をかけた。
 不意に『奥様』と呼ばれて一瞬は戸惑ったものの、すぐにそれが自分のことだと気づいた薫の頬にさっと朱が差す。
 そうだ、たった今から私は『奥様』。皐月の『妻』で、葉月の『母親』なんだ。そう思うと、目頭が熱くなる。ようやく、この私にも家族ができた。到底かなわぬ夢と諦めかけていた望みがこうして現実のものになったんだと思うと、知らぬ間に涙がこぼれる。
「ママ、ママ……?」
 薫の目からこぼれる涙を、心配そうな顔をした葉月が人差指の先で拭う。
「ごめんね、葉月。小っちゃな娘に心配をかけるなんて、母親失格ね。でも、もう大丈夫よ。ママ、葉月のためにしっかり者のお母さんになるから心配いないで。それよりも、お尻が気持ちわるいでしょう? おむつを取り替えてあげるから、ここにごろんしてちょうだい」
 女性スタッフが前もって準備しておいてくれたのだろう、簡易ベッドには予めおねしょシーツが敷いてあって、新しい布おむつも用意してあった。
 チャペルにいた司祭もオルガン奏者も、式場係の女性も全員が、真由美がその広い人脈を活かして特別に手配した、三人の事情を熟知した上で結婚式やそれに続くイベントが滞りなく進むよう完璧に、それでいて決して押しつけがましくもなく手筈を整えてくれる優秀なスタッフだった。
 薫は心の中で真由美に礼を言い、簡易ベッドの上に敷いてあるおねしょシーツをぽんぽんと優しく叩いた。
「はじゅきのおむちゅ、ママ?」
 ちょっと聞いただけでは何を言っているのかわからない葉月の幼児言葉。
 けれど、葉月が何を言っているのか、薫にはすぐにわかった。
「そうよ。ママが葉月のおむつを取り替えてあげるのよ。幼稚園じゃ特別保育を担当する先生におむつを取り替えてもらっていたから、寂しかったよね。でも、もう葉月に寂しい思いはさせないわよ。葉月のおむつは、今日からずっとママが取り替えてあげる」
 葉月のおむつ、ママが取り替えてくれるの? たどたどしい幼児言葉で少し心配そうに尋ねる葉月に向かって、ことさら『今日からずっと』という部分を強調して、薫は優しく言い聞かせた。それは、もう二度と葉月を幼稚園に残して薫が園外へ出ることはない、つまり、薫が担当すべき情報収集はほぼ全て完了したということを意味していた。
「うん。はじゅき、おむつ、ごろん」
 葉月は嬉しそうに言い、自ら進んで、おねしょシーツの上に横たわった。
 その拍子に、おしゃぶりホルダーのカールゴムの弾力で、葉月の胸元でぴょんぴょん撥ねた。
「本当にお利口さんね、葉月は」
 薫は穏やかな顔でそう言って、ウェディングドレスと同じ生地で仕立てた葉月のドレスの裾を捲り上げた。
 と同時に、控え室に備え付けの冷蔵庫に入っていたジュースを注ぎ入れた哺乳壜の乳首を皐月が葉月の口に押し当てる。
「気の利かない『男親』でもこのくらいのことはできるから、少しは育児を手伝ってあげられると思うよ。それにしても、結婚式の後の夫婦がする最初の共同作業って、普通はウェディングケーキへの入刀だと思うんだけど、まさかそれが、おむつの交換になるなんて思いもしなかったよ」
 皐月は片手で哺乳壜を支え持ち、おしゃぶりホルダーに繋がって葉月の胸元で揺れているおしゃぶりを、もう片方の手の指でぴんと弾いた。
「もう、パパったら」
 皐月の悪戯っぽい仕草に、薫がころころと笑った。

               *

 それからしばらく間があって戻ってきた女性スタッフが、参列客の退出が終わったことを知らせた。
 三人は、女性スタッフの手で服装の乱れを整えてもらってから、チャペルの正門を出た。
「おめでとう!」
 一斉に声があがって、参列客が三人をフラワーシャワーで迎える。
「とっても可愛いよ、葉月ちゃん」
 美鈴たちが投げる花びらに、葉月がきゃっきゃと歓声をあげる。
「宝塚みたいで、とっても素敵よ」
 幼稚園の職員が投げる花びらに、皐月がおどけて胸を張ってみせる。
「おめでとう、葉月ちゃんママ。私も来月からママだから、ママ友どうし、よろしくね」
 香奈が投げる花びらに、薫の顔がぱっと輝く。




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