偽りの幼稚園児





               【五三】

 そこへ、いったん部屋から出て行った皐月が、お盆を持って戻ってきた。
「ご馳走はお昼まで待ってもらわなきゃいけないけど、その前にジュースでも飲もうか。今日も暑いし、みんな、喉が渇いたんじゃない?」
 お盆の上には、氷の入った幼児用のマグカップが四つと、ジュースのペットボトルが載っている。
 皐月は幼児用のマグをジュースで満たした後、美鈴がプレゼントとして持ってきた哺乳壜のビニール包装を手早く破り取って、ジュースを半分ほど注ぎ入れた。
「せっかくだから、葉月は、雅美お姉ちゃんがプレゼントしてくれた哺乳壜で飲ませてもらおうね」
 皐月は、ジュースを入れた哺乳壜を雅美に手渡した。
「うん、葉月ちゃんは雅美が飲ませてあげる。雅美のミルク飲み人形とお揃いの哺乳壜で雅美が飲ませてあげるね」
 雅美は哺乳壜を、いかにも大切な物を受け取ったかのように両手で胸元に抱え込んだ。
 その様子に、皐月が優しく目を細めて大きく頷く。
 すると、いかにも面白いことを思いついたというふうに
「だったら、どうせだから、ジュースを飲む前に、みんなのプレゼントで葉月を可愛らしくしちゃうっていうのはどうかしら。大好きなお姉ちゃんやお兄ちゃんが持ってきてくれたプレゼントだから、葉月も早く身に着けたいでしょうし」
と薫が言い、葉月の髪を結わえているサクランボのキャラゴムを外して、伸也が持ってきた猫のキャラゴムで結わえ直した。
 それから薫は、愛子が持ってきたホルダーの端にベッドの枕元に転がっていたおしゃぶりを取付けて、もう片方の端に付いているクリップを、よだれかけで覆われたロンパースの胸元に留めた。
「葉月ちゃん、かわいーい!」
 猫のキャラゴムで髪をツインテールに結わえ、ロンパースの胸元でおしゃぶりが揺れる葉月の姿に、雅美が歓声をあげた。
 自分たちがプレゼントした物を身に着けて可愛らしく装う葉月に、愛子と伸也も揃って瞳を輝かせて大きく頷く。
「あとは美鈴ちゃんが持ってきてくれた新しいおむつだけど、これはちょっと後回しにしようね。後回しって言っても本当にちょっとだけのことで、すぐに使うことになると思うから、用意は今のうちにしとかなきゃいけないけど」
 薫は新しいおむつの包装を解き、股あてのおむつを八枚と横あてのおむつを「T」の字の形に敷き重ねてから四つにたたんで、おねしょシーツの隅に置いた。
「さ、これでいいわ。ごめんね、待たせちゃって。それじゃ、氷が溶けないうちにジュースを召し上がれ」
 薫が、園児たちの顔を見渡して言った。
「いつもみたいにお姉ちゃんのお膝に頭を載せてごろんしてちょうだい。今日は葉月ちゃんのお誕生日だから、葉月ちゃんが飲まないと他のお姉ちゃんやお兄ちゃんも飲めないのよ。みんなを待たせちゃいけないから、早くしなさい」
 雅美は改めてきちんと正座をし、自分の腿を掌でぽんと叩いて、葉月に向かって哺乳壜を振ってみせながら言った。声は優しいが、もうすっかり自分の方が年長者だという誇りを持っているのだろう、何をするにしてもきちんと言い聞かせなければいけない妹に指図するしっかり者の姉さながらの雅美だ。
 一方の葉月は、一週間のうちにそれがもう当たり前になってしまったかのように、言われるまま、雅美の腿に頭を載せて横になった。
「聞き分けがよくて本当にいい子ね、葉月ちゃんは」
 雅美は、自分の腿の上に頭を載せて仰向けに床に横たわる葉月の前髪を優しく撫でつけた。
「じゃ、葉月ちゃん、いただきまーすしようね」
 雅美が葉月にそう言うのに合わせ、他の園児たちからいただきまーすの声が一斉にあがって、朗らかな笑い声が部屋中に響き渡る。
 雅美は自分のマグは後回しにして、先に哺乳壜の乳首を葉月の口に押し当てた。
 そういったことも、妹を気遣うしっかり者のお姉ちゃんだ。
 先週の土曜日に初めて薫の母乳を飲んでからこちら、薫の乳首や哺乳壜のゴムの乳首を何度も口にふくまされて今となってはそれが習い性になってしまっている葉月は、雅美が手にする哺乳壜の乳首が口に触れるやいなや、ちゅうちゅうと音を立ててジュースを飲み始めた。
「やっぱり、哺乳壜はスモックよりもベビー服の方が似合うね。幼稚園で哺乳壜のミルクを飲んでる葉月ちゃんも可愛いけど、こんなふうにロンパースとよだれかけで哺乳壜のジュースを飲んでる葉月ちゃんの方がずっと可愛いもん」
 雅美のすぐ隣に座った愛子が、幼児用マグのストローから口を離し、哺乳壜でジュースを飲む葉月を『いないいないばあ』であやしながら言った。
 葉月が横たわった場所からは、お日様の光がさんさんとふり注ぐベランダで風にゆれる洗濯物がよく見える。
 自分が汚してしまった水玉模様や動物柄のおむつが風に揺れる様子を目にしながら幼稚園児の女の子の手で哺乳壜からジュースを飲ませてもらっている自分が何者なのか、葉月にはわからなくなっていた。
 どこか気怠い夏の休日。
 お昼にはまだ少し早い、穏やかな時間。
 蝉の鳴声が眠りに誘う、何もない時間。
 葉月は、自分がとんでもなく恥ずかしい格好をさせられていることも忘れて、小さなあくびをした。
 唇からこぼる出るジュースをよだれかけの端で拭ってもらう感触さえ妙に心地いい。
 葉月はとろんとした顔でもういちど小さなあくびをした。

 だが、静かな時間は長くは続かない。
 不意に葉月は哺乳壜の乳首をぎゅっと噛みしめ、腰をびくんと震わせた。
 しばらくすると、ゴムの乳首を噛みしめた唇がだらしなく開いて、口の中のジュースが頬を濡らして顎先から胸元に伝い落ち、よだれかけに黄色い滲みをつくる。
「ちっち。はじゅき、おむちゅ、ちっちなの。……う、ぅえーん、ふぇ、ふぇーん」
 頬がジュースで濡れるのを気に留める様子もなく葉月は幼児言葉で訴えかけ、泣き声をあげた。
 最初は弱々しく泣いていたのが、いつしか手放しで泣きじゃくる。
 朝の授乳時にしくじってしまってから、まださほど時間は経っていない。なのに葉月が失敗してしまったのは、朝のミルクに薫が混入した利尿剤のせいだった。薫は、葉月たちと一緒に暮らし始めてすぐの頃、葉月におむつを強要する口実をつくるために利尿剤を用いたことがあるが、それ以後は使っていない。それを今日になって再び使ったのは、葉月が園児たちの目の前で恥ずかしい失敗をする回数を増やすためだった。入園の日以来、葉月は特別保育の園児たちから特別年少クラスの手のかかる妹のような存在として扱われ、数日前からは、薫による『躾け』のせいで、ますます手のかかる赤ん坊のような存在に変貌しつつある。薫は、園児たちに取り囲まれて葉月が何度もおむつを汚し、そのぐっしょり濡れたおむつを園児たちの目にさらす行為を繰り返すことで、園児たちに葉月のことを「自分たちが面倒をみてやらないと何もできない赤ん坊」と強く思わせ、自分たちが葉月の絶対的な庇護者であるという意識を抗い難いほど深く刷り込むという手段を講じることにした。
 絶対的な庇護者としての意識を植え付けられた園児たちは、自分で気づかぬうちに、葉月の行動を束縛し、葉月という雛鳥に給餌し、ひばり幼稚園という鳥籠から雛鳥が飛びたってしまわぬよう見張る任務を担うようになる。薫は園児たちを、本人たちに気づかれぬまま(あくまでも『善意』に基づいて行動する)『協力者』に仕立てるために、利尿剤を葉月に服用させたのだった。
 だが薫は自分が画策したそんな目論見などまるで知らぬげにしれっとした顔で
「こんなに泣いてちゃジュースは無理ね。でも口が寂しいと余計に泣いちゃうから、ほら、おむつを取り替えてあげる間、これを咥えているといいわ」
と言って、哺乳壜を葉月の口から離すよう雅美に指示し、代わりに、ホルダーでロンパースの胸元にぶらさがっているおしゃぶりを咥えさせて、葉月のお尻の下におねしょシーツを敷き広げた。
「ママにおむつを取り替えてもらう間、お姉ちゃんがよしよししてあげる。だから、いい子でおとなしくしてなきゃ駄目よ」
 雅美は、よだれかけに覆われた葉月の胸をぽんぽんと優しく叩いてあやす。
 その間に薫が葉月のロンパースのスカートをおへその上まで捲り上げ、おむつカバーを開いて、薄黄色に染まった布おむつを手元にたぐり寄せ、美鈴が持ってきた新しいおむつを葉月のお尻の下に敷き込んだ。
 園児たちが葉月の身を飾り立てるために持ち寄った誕生日プレゼントは、その可愛らしい見た目とは裏腹に、葉月の自由を奪う枷へと、あるいは、葉月という哀れな雛鳥の飼い主が誰かを示す鑑札へと、その役割を変えていた。

               *

 薫の目論見通り、その日の内に葉月は何度も粗相をしてしまい、そのたび、園児たちにあやしてもらいながら繰り返しおむつを取り替えられた。
 そうしているうちに、これもやはり薫の目論見通り、園児たちは葉月のことを自分では何もできない赤ん坊として扱うようになり、葉月が幼児語で意思を伝えようとしても取り合わず、ただ、泣き声で欲求を伝える時のみ耳を傾けるといった状態になっていった。本当ならずっと年上の男子大学生だったのが、いつしか葉月は、雅美たちと同じ幼稚園児でさえなくなり、幼稚園児たちの世話がなければ何もできない生まれたての赤ん坊に変貌させられていた。
 十九歳を迎える筈の誕生日は、女の子の赤ん坊として初めて迎える、恥辱の誕生日として葉月の新たな人生に深く刻み込まることになったのだ。

 そして、その日の夜。
 葉月が薫の胸に顔を埋めたまま眠りについてしばらくした頃、マンションを訪れる人物がいた。
 皐月の案内で『はづきのおへや』に通された人物の顔を見た薫は、葉月に添い寝をしていたベッドから床におり立ち、恭しくお辞儀をし、葉月が目をさまさぬよう声をひそめて
「お待ちしていました。ただ、先生がご自身でいらっしゃるとは思っていませんでしたので、正直、少し驚いていますけれど」
と話しかけた。
 それに対して
「紗江子が目にかけている二人と葉月ちゃんの将来にかかわることだから若い者に任せる気にはなれなくて、私が自分で施術することにしたの。それに、せっかくの滅多にない状況を他の者に譲るのは性に合わないしね」
と笑いを含んだ声で応じ、乳首の代わりにおしゃぶりを咥えさせられて眠っている葉月の顔をしげしげと眺めながら
「それにしても、本当に可愛らしい寝顔だこと。この子から提供してもらうなら、二人の望み通りの結果が得られそうだわ」
と、怪しい光を瞳に宿して続けたその人物は、医療法人慈恵会を率いる女医・笹野美雪だった。

               *

 翌週以後、園児たちや特別保育担当の教諭に葉月を託し、薫と皐月は殆ど毎日のように園の外に出る生活を続けた。厚生労働省や文部科学省、或いはその関係機関に出向き、初対面の人物とも精神的な繋がりを容易に構築する薫の能力を活かして、幅広い情報収集を行うためだ。
 皐月と薫が幼稚園を不在にしている間、葉月は園児たちの言いなりで、とても『お利口さん』の『いい子』だった。それに伴って葉月は、ごく近くの物事にしか関心を抱かなくなり、外界への興味を次第に失っていった。
 そんな葉月が、八月の後半から新聞や週刊誌、あるいはテレビで散見されるようになった医学界や教育界の醜聞に関する記事に気づくことはなかった。

               *




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