偽りの幼稚園児





               【五二】

 そんな葉月がその日の初めての言葉を発したのは、積み木で遊んでいる時のことだった。
 神経の機能低下による頼りない手つきのせいでせっかく何段か積み上げた積み木を崩してしまい、雅美にお手本を見せてもらっている最中にしくじってしまったのだが、その際、葉月は
「おむちゅ、ちっち。まぁみおねえたん、はじゅき、おむちゅ、ちっちなの」
と、いかにも恥ずかしそうに顔を赤く染めて訴えかけたのだった。
 それが、これまでよりもずっとたどたどしい赤ん坊めいた幼児言葉だったため、まわりにいた園児たちも不思議そうな顔できょとんとするばかりだったが、さほど時間が経たないうちに葉月が今度は
「おむちゅ、ちっちなの。……ふ、ふぇーん、ぅえーん」
と、それこそ本当の赤ん坊のように泣き出してしまった。
 ひばり幼稚園に入園してからこちら、葉月は園児たちの前で何度もおむつを汚していたが、こんなふうに泣き出すようなことは一度もなかっものだから、初めての事態に、園児たちは困ってしまって互いに顔を見合わせることしかできなかった。
 その後も葉月の赤ん坊めいた言動は治らず、昼のチャイムが鳴る前に薫の母乳を求めて泣き出し、プールの前のシャワーが冷たいと泣きわめき、お昼寝から目がさめた途端にぐっしょり濡れたおむつの感触に泣きじゃくるといったことの連続だった。
 そんなことが続いて、とうとう、様子を見守っている薫に向かって園児たちは口々に説明を求めた。
 そして、求めに応じて、葉月がそんな状態になってしまった事情を薫が
「葉月はね、赤ちゃん返りしちゃったの。もともと葉月はとっても甘えん坊さんで、パパとママにべったりな子だったんだけど、いつまでもそんなじゃお友達もできないでしょ? だから、パパやママがいなくてもお友達と遊べるよう練習するために幼稚園に入れることにしたのよ。それで、ひばり幼稚園に入園してみたら、みんなが仲良くしてくれるから葉月もとっても喜んで、幼稚園へ行くのが楽しみになっていたの。ただ、幼稚園じゃちょっぴりお姉さんらしくしなきゃいけないって思って、どきどきした気持ちになっちゃうのね。それが、お家に帰ったらほっとして安心しちゃって、これまでよりもずっと甘えん坊さんになっちゃったのよ。これまでは何かあったら自分からちゃんと話して教えてくれていたのに、きちんと話さずに泣いてばかりになったり、話すのも赤ちゃんみたいな喋り方しかできなくなっちゃって。そんなわけだから、赤ちゃん返りが治るまで当分の間、葉月のこと、特別年少さんじゃなく、赤ちゃんだと思って面倒をみてもらえると嬉しいんだけどな」
と説明すると、謎が解けた安堵もあって、自分よりも年下の子供を相手に年長者ぶりたくて仕方のない年頃の園児たちは葉月のことを必要以上に赤ちゃん扱いして悦に入るようになり、その日を境にして、園児たちにとって葉月は、体こそ大きいものの、自分では何もできず自分のしてほしいことを泣き声でしか伝えられない無力な赤ん坊に変貌してしまったのだった。

 ―― そんなわけで、皐月たちのマンションを訪れた園児たちは、葉月がロンパースを着ていることにも、入園当初よりもずっとたどたどしい幼児語を口にすることにも不思議そうにせず、ごく自然に接していた。
 だが、園児たちに向けた薫の説明は事実ではない。
 葉月がたどたどしい幼児語しか口にせず、欲求を泣き声で伝えるようになった本当の理由は、葉月が甘えん坊だからなどではなく、そうするよう薫によって強要され、『躾け』られたからだった。
 入園の翌日から薫は葉月が口にしてもいい言葉を制限し、その言葉を口にする際にも、できる限り赤ん坊めいた口調を真似るよう葉月を躾け、従わせていた。当然のこと葉月は反発したものの、強共鳴状態にある薫の心理操作に抗うことはできず、今から三日前の夜には精神的にすっかり屈服してしまい、薫から許された言葉しか口にせず、弱々しい泣き声をあげることで自分の欲求をまわりに伝えることしかできない、赤ん坊そのままの無力な存在に堕ちていた。その結果として葉月は、「ちっち」「おむつ」「まんま」「ありがとう」「パパ」「ママ」といった簡単な単語と、特別保育のために登園している園児の名前、それに、園児に対する「お姉ちゃん」や「お兄ちゃん」といった呼称しか口にすることができなくなっていた。それも、「おむつ」は「おむちゅ」、「ありがとう」は「あいあと」、「雅美ちゃんお姉ちゃん」は「まぁみぉねえたん」、「美鈴お姉ちゃん」は「みちゃじゅおねえたん」というふうに、お喋りができるようになったばかりの赤ん坊を真似た口調に『躾け』られて。
 薫が葉月に対してそのような『躾け』を施したのには、ある特別な目的があった。
 先ずの目的は、ひばり幼稚園という鳥籠に、まだ飛び方を知らない哀れな雛鳥である葉月を閉じ込めておくことだった。自分の意思を他人に伝える手段を厳しく制限することで、幼稚園という狭い鳥籠の中でさえ羽ばたき飛ぶことを禁じ、誰かの手を煩わせなければ餌をついばむこともできない生まれたての雛鳥のような存在に葉月を変貌させ、鳥籠の外に広く自由な世界があることを忘れさせること。
 そして、それに続く目的は、葉月から論理的思考を奪い去ることだった。きちんと意味をなす言葉を発することを厳しく制限され、幼児言葉しか口にできない状態が続くと、人は、頭の中で物事を考える際にも幼児言葉に拠る思考をするようになってゆく。ところが、論理よりも感情や感覚を優先する幼児言葉では論理的な思考を行うことは困難で、いつしか、『きちんと道筋を立てて物事を考える』という習慣そのものを無意識のうちに放棄するようになってしまうのだが、そこへ更に、泣き声による言語外の意思伝達を強要されることで、人は、ごく身近な人間に対して感情的な欲求をぶつけることしかできなくなると同時に、自分の手の届く範囲の物事にしか興味を抱かなくなり、知らず知らずのうちに、外界からの情報を遮断してしまうようになる。
 薫の『躾け』の目的は、まさしくこのようにして、葉月の知覚と外界の出来事を徹底的に切り離すことだった。
 ただし、このような目的は、それ自体が最終的な目的というわけではなく、葉月の『救済』に(そして同時に、皐月の『救済』にも)至るための手段でしかなかった。つまり薫は、『救済』を実行するためにこそ、外界からの一切の情報を遮断した状況に葉月を置こうとしているのだった。
 だが今は、『救済』という言葉が意味するものを明らかにすることは控え、その機会を後段に譲ることにして、ひとまず、『はづきのおへや』の情景を追うことにしよう。

「あ、雅美ちゃん、先に渡しちゃってずるいんだ。じゃ僕も愛ちゃんより先に、はい、お誕生日のプレゼント」
 葉月の頭を撫でる雅美に向かってぷっと頬を膨らませてみせ、伸也が紙袋を差し出した。
 これも薫が受け取って封を開けると、可愛らしい猫の飾りが付いたキャラゴムが入っていた。
「葉月ちゃんが頭に付けてるゴム、ヒマワリとかサクランボとかのばかりだったけど、こんなのも似合うかなと思って」
 伸也は照れくさそうにうっすらと頬を染めて言った。
 それに対して雅美の時と同様、薫が葉月に
「ありがとう、伸也君。ほら、葉月もお礼を言いなさい」
と促す。
「……あ、あいあと、のぶやおにいたん」
 しばらく逡巡した後、ようやく葉月は小さな声で言った。
 伸也の頬が更に赤くなる。
「それにしても、キャラゴムの飾りなんて小さな物なのに、葉月がどんなのを付けてるのか毎日ちゃんと見ていてくれるなんて、よく気がつく子なのね、伸也君は」
 葉月がありがとうを言い終わるのを待って薫がそう言うと、伸也の頬がますます赤くなった。
「気がつくんじゃなくて、気になってるんでしょ、伸也君は葉月ちゃんのことが。なんたって、年上のオトナの魅力がわからないお子ちゃまだから、伸也君は。今だって、ベビー服を着た葉月ちゃんのこと、可愛いって思ってるんだよね、うんと年下の女の子が好きな『ろりこん』の伸也君は?」
 辛辣な言葉を並べながらも、それが決して本心などではないことがよくわかる親愛の笑みを浮かべて伸也をひやかし、
「私も、これ、葉月ちゃんにプレゼント」
と、愛子が、先の二人と同じ店名が入った紙袋を差し出した。
 薫が封を開けると、入っていたのは、カールゴムの片方の端にクリップが取付けてあり、もう片方の端におしゃぶりを取付けるようになっていて、クリップを衣服の胸元に留めておくことで、おしゃぶりを口から離しても落ちないようにするためのホルダーだった。
「一昨日から葉月ちゃん、おっぱいを飲んでない時はおしゃぶりを吸ってるでしょ? だから、おしゃぶりをなくさないように」
 伸也をひやかす時の様子とは打って変わって、いかにも気遣いのできる年長さんらしく、愛子はにこりと笑って言った。
「あら、これは助かるわ。葉月ったらまだおしゃぶりを吸うのが上手じゃないみたいで、口からよく落としちゃうのよ。でも、これがあれば大丈夫ね。さ、葉月、愛子おねえちゃんにもお礼でしょ?」
 先の二人からの分にも増して恥ずかしいプレゼント。
 しかし葉月には、薫に促されるまま
「あ、あいこおねえたん、あいあと」
と、愛子の顔から目をそらして言うことしかできない。
 雅美、伸也、愛子への順にたどたどしくありがとうを言うたびに、羞恥のせいでその声が小さく弱々しくなってゆくのを薫は聞き逃さなかった。
「私のプレゼントは、これよ。葉月ちゃんに要りそうな物っていったら絶対にこれだもん」
 そう言って最後に美鈴が差し出したのは、他の三人とは違い、鈴本服飾商店のロゴが入った大きな紙袋だった。
「って言っても、本当はママから預かってきたものだから、私からのプレゼントじゃないんだけどね」
 大きな紙袋を薫に手渡して、美鈴は、えへへと笑って、悪戯っぽく舌を突き出してみせ、
「本屋さんで葉月ちゃんと初めて会って、葉月ちゃん、私とママの目の前から急に逃げ出しちゃったんだけど、その時、葉月ちゃんのドレスが捲れておむつカバーが見えて、おむつカバーがぷっくり膨らんでて、ママ、葉月ちゃんがおむつをたくさんあててるんだと思って、そのあと、葉月ちゃんパパとお話をして、葉月ちゃんが私と同じ幼稚園に入ることがわかって、それから、よく行く洋服屋さんに行って葉月ちゃんのことをお話してて、葉月ちゃん、おむつが足りなくなって困るかもしれないねってママとお店の人が相談して、それで、ママ、葉月ちゃんのためにおむつをたくさん用意してくれるようにお店の人に言って、昨日お店の人がお家におむつを持ってきてくれて、それで、今日、私が持ってきたの」
と、考え考えして息を継ぎながら説明した。
「あ、そうなんだ。美鈴ちゃんのママがお店の人にお願いしてこんなにたくさんおむつを用意してくれたんだ。あのね、今朝も葉月と、もっとたくさん新しいおむつを買わなきゃいけないねって話してたところなのよ。ほら、これを見てちょうだい」
 薫は、廊下に出るドアと反対側にかかっているカーテンを開け、ガラスの引き戸を大きく開け放った。
 引き戸の外はベランダになっていて、たくさんの洗濯物がお日様の光を浴びて風に揺れている。
「すごい、おむつばっかりだ」
 園児たちの目が一斉にベランダに向き、美鈴が驚きの声をあげた。
 美鈴の言う通り、ベランダに干してある洗濯物は、皐月と薫の物も幾らかはあるものの、大半が、葉月の汚してしまった布おむつやおむつカバーだった。
「ほら、一日でこんなにたくさんおむつを汚しちゃうから、いくらあっても足りないくらいなのよ。それを美鈴ちゃんが葉月の誕生日プレゼントに持ってきてくれるなんて大助かりだわ」
 細いロープに掛けたパラソルハンガーで風に揺れるおむつと、美鈴が持ってきた新しいおむつを見比べながら薫は言ったが、その後、もちろん、
「ほら、美鈴お姉ちゃんになんて言えばいいんだっけ?」
と、美鈴への礼を葉月に言わせるのを忘れない。
「み、みすじゅおねえたん、あいあと」
 これまでのどのプレゼントよりも恥ずかしい贈り物に、葉月は美鈴と顔を合わせることができなくて、おどおどと顔を伏せながら、ぽつりと呟くように言うのが精一杯だった。
 けれど、それだけでは終わらない。薫は
「それだけじゃ駄目でしょ? 美鈴お姉ちゃんは、こんなに重い荷物を葉月のために持ってきてくれたのよ」
と、容赦なく更に葉月に促す。
「……お、おむちゅ、はじゅきにおむちゅ、あ、あいあと、みすじゅおねえたん」
 顔を伏せたまま、葉月は今にも消え入りそうな声で言った。
「本当にお利口さんだね、葉月ちゃんは。まだおむつも外れない赤ちゃんなのに、本当にお利口さんだよ」
 雅美に続いて美鈴も葉月の頭を何度か撫でてやってから、たくさんのおむつでぷっくり膨らんだロンパースの股間をぽんぽんと優しく叩いた。




戻る 目次に戻る 本棚に戻る ホームに戻る 続き