偽りの幼稚園児





               【五一】

「さ、おっぱいの後はミルクよ。ママはおむつを取り替えてあげるから、自分で哺乳瓶を持って飲んでちょうだいね」
 薫はゴムの乳首を葉月に咥えさせ、両手で哺乳瓶を持たせた。
 選択性筋弛緩剤のせいで神経の機能が更に衰えてしまった葉月には、滑りやすい素材でできた哺乳瓶を支え持ことが難しくなってきていた。それでも、葉月にとって薫の言葉は絶対だ。葉月は仰向けに寝た状態で哺乳瓶を落とすまいとして両手に力を入れ、ゴムの乳首をちゅうちゅう吸う。
 その間に薫は、葉月に着せたロンパースのスカートをおへその上に捲り上げ、股間に四つ並ぶボタンを手早く外して、ブルマー部分の布地もおへその上に捲り上げた。
 続いて薫は、丸見えになったおむつカバーの腰紐をほどき、股ぐりのスナップボタンを外して、前当てと横羽根のマジックテープを外した。
「おねむの間に汚しちゃったおむつを取り替えてあげてすぐ、おっぱいを飲みながらこんなにぐっしょり濡らしちゃうなんて、本当に困った子だこと。でも、葉月は体の大きな赤ちゃんだから、おしっこの量も多いから仕方ないのよね」
 おむつカバーを広げてあらわになった水玉模様の布おむつを目にするなり、薫はわざとらしい溜息をついて言った。しかしその実、ちっとも困ってなどいない様子がありありだ。
 薫は葉月の両脚を軽く広げさせ、横あてのおむつと股あてのおむつを、おむつカバーの横羽根と前当ての内側に広げてから、左右の足首をひと掴みにしてそのまま高々と差し上げ、お尻を僅かに浮かせて、ぐっしりょ濡れたおむつを手元にたぐり寄せた。
 それから、おしっこでじっとり湿っている下腹部をお尻拭きで綺麗にする。
「ん、んん……」
 ひんやりした不織布に下腹部を隅々まで撫でまわされる感触に、葉月は呻き声を漏らして下半身を細かく震わせた。
 その後、薫は、ベビーパウダーのパフで葉月の下腹部にうっすらと白化粧を施す。
「や、やだ……」
 身を包む赤ん坊の衣装にはまるで似つかわしくない、皮から先端部分が出たペニスをパフを撫でさすられるたび、幼児がいやいやをするように、おねしょシーツの上で葉月は弱々しく首を振る。
「さ、新しいおむつはふかふかで気持ちいいわよ」
 薫は、新たらしい布おむつをおむつカバーの上に敷き入れた。
「あ……」
 ドビー織の布おむつの想像以上の柔らかな肌触りは、何度経験しても慣れることがない。
 ぞくぞくするような感触がお尻の下から下腹部へじわじわ広がってゆき、頭の中が真っ白になってしまいそうになる。
「もうすぐ終わるから、おとなしくしていてね。だけどその前に、お顔を綺麗にしとかなきゃいけないわね」
 高々と差し上げていた葉月の足首をおねしょシーツの上に戻した薫だったが、哺乳瓶の乳首を咥えたまま呻き声を漏らすせいで唇の端からあふれ出るミルクを、ロンパースの胸元を覆っているよだれかけの端で優しく拭ってやってから、股あてのおむつと横あてのおむつをあて、おむつカバーの横羽根と前当てをマジックテープで留めて、股ぐりのスナップボタンをぷつっと留めた。
「おむつを取り替えてあげる間、自分で哺乳瓶を持ってミルクをちゅぱちゅぱできるなんて、本当に葉月はお利口さんの赤ちゃんだこと。パパが帰ってきたら葉月がお利口さんにしていたことを教えて、うんと褒めてもらおうね」
 おむつカバーから出ているおむつを股ぐりの中に押し込み、おむつカバーの腰紐をきゅっと結わえて、薫はにこやかな笑顔で言った。
 その時になって、皐月の姿が見当たらないことに葉月は気がついた。

「パパは……?」
 なぜとはなしに気がかりになって哺乳瓶の乳首を咥えたまま呟いた葉月は再び頬をミルクで濡らしてしまい、よだれかけの端で拭ってもらう。
「パパがいなくて寂しい? でも、もうすぐ帰ってくるから大丈夫よ」
 薫は、殆ど空になった哺乳瓶を葉月の口から離して言い、意味ありげな微笑みを浮かべて続けた。
「パパは車でお出かけしているのよ。美鈴お姉ちゃんと愛子お姉ちゃんと伸也お兄ちゃんと雅美お姉ちゃんを迎えに行っているの」
「……?」
 もう少しだけミルクが残っている哺乳瓶を薫が片付けようとするのを名残惜しそうに目で追いかけながら、葉月はきょとんとした顔つきになる。
「あらあら、今日が何の日か、葉月は忘れちゃったのかしら?」
 おかしそうに笑いながら、薫が訊き返した。
 葉月は相変わらずきょとんとしたままだ。
「やだ、今日は葉月の誕生日でしょ? 八月、つまり、葉月にあやかって名前をつけてもらったあなたの誕生日なのよ、今日は」
 薫は少し呆れたような口調で言った。
 言われて、ようやく葉月は確かに今日が自分の誕生日だということを思い出した。
 しかし、まるで感慨は湧かない。
 生まれてこのかた、誕生日を祝ってもらったおぼえなど葉月にはない。ひょっとしたら、記憶に残らないほど幼い頃には祝ってもらったことがあるのかもしれないが、物心ついてからは一切ない。いや、正確に言えば、小学生の頃には姉である皐月が手軽につくれるホットケーキを焼くなどして祝ってくれた記憶はうっすらとあるのだが、忙しい両親に祝ってもらった記憶はまるでない。ことさら、皐月が家を出てマンションでの独り暮らしを始めてからは、葉月は自分の誕生日というものを意識することさえなくなっていた。
「葉月、あなた……」
 今日が自分の誕生日だということを葉月が忘れているかもしれないということは、皐月から事情を聞かされて薫も漠然と予感していた。それでも、誕生日というものに何の興味もしめさない葉月の様子を実際に目の当たりにして、薫の胸はやるせない気持ちで押し潰されそうになってしまう。
 地震のせいで家族を失い、誕生日を祝ってもらえずに生きてきた自分。寂しくて仕方ないにせよ、それはまだ、諦めもつく。
 しかし、実の両親がいるにもかかわらず誕生日を祝ってもらうことなく生きてきた葉月の胸の内を思うと、言葉に詰まってしまう。
「……あなたの誕生日は今日なのよ。いい、葉月? 元のあなたは十九年前の今日、生まれた。でも、今のあなたは元のあなたじゃない。十九年前に生まれた葉月君は、もういない。今ここにいるのは、今日、新しく生まれた葉月ちゃんなの。いいわね? あなたは、パパと私の可愛い娘、まだおむつの外れない赤ちゃんの葉月なのよ。だから、お友達も呼んで盛大にお祝いすることにしたの。幼稚園で仲良く遊んでくれるお姉ちゃんやお兄ちゃんに来てもらって、葉月の誕生日をお祝いしてもらうのよ。それでパパは今、車でお友達を迎えに行っているの」
 僅かながら瞳を涙に潤ませつつも一語一語をに力を入れて言い聞かせた薫は、葉月の上半身を抱き起こし、いかにもしとおしそうに頬ずりをしながら囁きかけた。
「ああ、葉月。ママの可愛い、そして、可哀想な葉月。今年からは毎年、お誕生日のお祝いをしようね。これまでの分も合わせて、みんなで楽しくお祝いをするのよ。ママは絶対に葉月のお誕生日を忘れたりしないからね」

               *

 それからしばらくして、玄関のドアが開く気配があった。
 続けて、賑やかな子供の声と足音。
「お誕生日おめでとう、葉月ちゃん」
 元気のいい声と共にドアが開いて、皐月が連れて帰ってきた園児たちが部屋になだれ込んできたかと思うと、ロンパース姿でおねしょシーツの上にぺたんと座っている葉月を見るなり
「葉月ちゃん、赤ちゃんみたい」
「ほんとだ。赤ちゃんみたいで、かっわいーい」
「幼稚園のスモックより、こっちの方が似合ってるかも」
と嬌声をあげて、葉月のまわりを取り囲んだ。

「せっかくのお誕生日だからみんなにお祝いしてもらいたくて呼んじゃったけど、お休みの日なのに、来てもらってごめんね」
 膝立ちで葉月を取り囲んでいる園児たちの様子をぐるりと見渡しながら、薫がにこやかに笑って言った。
 すると、薫の顔を振り仰いで雅美が
「雅美、葉月ちゃんのお誕生日、呼んでもらって、とっても嬉しいの。それでね、それでね……」
と応じ、ちょっぴりもじもじしながら、ベビー用品のチェーン店の名前が入った紙袋を差し出し、
「葉月ちゃんにプレゼント持ってきたの。葉月ちゃん、喜んでくれるかな」
と、少し不安そうに言って、葉月の顔に視線を移した。
「あら、ありがとう。本当は直接渡してもらった方が葉月も喜ぶんだけど、上手に袋を開けられなかったら困るから、私が代わりに袋を開けてから葉月に渡すわね」
 薫は床に膝をついて雅美と目の高さを合わせ、雅美が手にしている紙袋を受け取って封を開けた。
「うふふ、可愛い哺乳瓶だこと。これ、雅美ちゃんが選んでくれたの?」
 そう言って薫が紙袋から取り出したのは、可愛らしいアニメキャラが描かれた小振りの哺乳瓶だった。
「お昼のおっぱいの時、雅美、葉月ちゃんに哺乳瓶でミルクを飲ませてあげて、お家では人形に哺乳瓶でミルクを飲ませてあげてるでしょ? それで、お揃いの哺乳瓶があったらいいなって思って、お店に入って探してみたら、雅美のミルク飲み人形のと同じ模様のの哺乳瓶があったの。だから、買ってきたの」
 雅美は懸命に言葉を探しながら説明した。
 そこへ、皐月が顔を近づけて薫に
「四人を車に乗せて帰ってくる途中、国道沿いにベビー用品の店があったんだけど、そこの看板を見た子供たちが葉月の誕生日プレゼントを買いたいって言い出してね、それで寄ってきたんだよ。ただし、代金はこちらで支払って、子供たちにはお金を使わせてないから、心配することはないよ」
と耳打ちする。
「わかった。いろいろ気を遣ってくれてありがとう、パパ」
 薫は小声で皐月に囁き返してから、
「雅美お姉ちゃんがわざわざ選んでくれたプレゼントだもん、葉月も喜ぶに決まっているわよ。本当にありがとう」
と、優しい声で雅美に言い、葉月の顔を覗き込むようにして
「さ、葉月もお礼を言っておこうね。ミルク飲み人形とお揃いの哺乳瓶をわざわざ探してプレゼントに持ってきてくれた雅美お姉ちゃんに」
と促した。
「ま、まぁみおねえたん、あ、あいあと」
 薫に促され、しばらく迷ってから、葉月は雅美の顔と薫の顔をちらちら窺い見て、口を開いた。
 葉月の口をついて出たのは、ようやくおしゃべりができるようになったばかりの赤ん坊そのままのたどたどしい幼児語だった。
 だが、雅美を始め、園児たちがそのことを不思議がる様子はない。園児たちは、注意深く聞いていないと意味がわからないようなたどたどしい幼児言葉を葉月が口にするのを、さも当り前のことのように受け入れていた。いや、むしろ、葉月のたどたどしい幼児言葉を耳にして相好を崩し、
「きちんとありがとうを言えて、とってもお利口さんだね、葉月ちゃんは。うん、いい子いい子」
と褒めそやして、頭を優しく撫でてやったりする。
 それまでも幼児言葉で会話していた葉月が、それよりもたどたどしい幼児言葉を発するようになったのは、二日ほど前のことだった――。

 その日の朝、始まりのチャイムと共に特別年少クラスの教室にやって来た園児たちは揃っておはようございますの挨拶をしたのだが、葉月からの返事はなかった。その後、ボール遊びや本の読み聞かせで時間を過ごしている間も葉月が口から発したのは、ボールを上手に受け止められなかった時の少し悔しそうな声だったり、絵本を読んでもらう時の嬉しそうな笑い声だったりだけで、言葉を発することは一切なかった。




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