偽りの幼稚園児





               【五十】

 無意識のまま葉月は乳首を咥え、ちゅぱちゅぱといやらしい音をたてて母乳を貪り飲む。
「おっぱいを飲むのが本当に上手になったわね、葉月は。いいのよ、このままいつまでもママの赤ちゃんでいていいのよ」
 薫はうっとりした表情で葉月に囁きかけた。
「幼稚園での葉月の様子はママから車の中で聞かせてもらったから、代わりに、園長室でどんな話があったか簡単に説明しておくね。葉月におっぱいをあげながらでいいから聞いておいて」
 ベッドの上に上半身を起こした皐月が、いかにも仲睦まじそうな薫と葉月の様子を微笑ましく眺めながら話し始めた。
「と言っても、計画やプロジェクトについてはママも知っての通りで、大きな変更はなかったから気にしなくていいよ。今回の顔合わせは、これからもいろいろ協力してもらうに当たっての、打合せというよりも、特別入園式に来賓として参加してもらった人たちへのお礼を兼ねた昼食会がメインみたいなものだったんだよ。ただ、プロジェクトの件とは別に面白いことが一つあってね」
 皐月は話すのを途中でやめ、謎々を楽しむかのような顔で悪戯っぽく笑ってみせた。
「面白いことって何? 勿体ぶらないで早く教えてよ、パパったら」
 葉月の唇の端からこぼれ出た母乳をよだれかけの端で拭いながら、薫が先を促す。
「いつもの打合せに教職員の他に参加しているのはPTA会長の上山美里さんと笹野先生、それに真由美さんなんだけど、今日はその三人に加えてもう一人、真由美さんの事務所の上野香奈さんが参加していたのは、入園式にも出席していたからママも知っているよね? で、どうして上野さんが参加していたかというと、笹野先生に直々にお願いしたいことがあるからだそうでね。そのお願いというのは、葉月みたいな子を引き取りたいんだけど、笹野先生ならそんな子に心当たりが有りそうだから、なんとかしてもらえないだろうかという事だったんだよ」
 葉月の頬をよだれかけの端で拭ってやる薫の手の動きを目で追いながら皐月は言った。
「葉月みたいな子を、上野さんが?」
「うん、そうなんだ。真由美さんと上野さんの仲は、ママも薄々は感づいているよね? それで、二人の愛の結晶として葉月みたいな子がどうしても欲しくなったんだそうだよ。そこで、笹野先生のところの研究所にいる患者さんのことを真由美さんが思い出して、お願いすることにしたんだって」
「へーえ、そうなんだ」
 薫は納得顔で軽く頷いた。
 公にはしていないが、美雪が率いる医療法人・慈恵会では、将来の医療に向けた布石として、人造臓器を用いた臓器移植を含む、肉体改造の研究を進めている(このあたりの詳しい事情については、拙作『青い記憶』をご参照ください)。その対象に選ばれた患者の中には、薫が家族を失った地震よりも前の震災によって両親と幼い妹の命を奪われた男子高校生がいるのだが、その男子高校生は、倒壊した自宅の下敷きになった両親と幼い妹を助け出すことができず、地震で発生した火災によって両親と妹が絶命する様をただ見ていることしかできなかったらしい。そして、愛する家族を助け出せなかった高校生は自分の非力を嘆くあまり、自分のことを幼い妹だと思い込むという精神的な転化現象を惹き起こし、幼い女の子である自分が家族を助けられなくても仕方がなかったんだと正当化する心理的な補正を無意識のうちに行って現実から目をそむけることで心の崩壊をかろうじて防いで生きてきた。しかし、やがて、幼い女の子としての自己意識と肉体との乖離を意識するようになり、精神的にひどく不安定でいつ自ら命を絶ってもおかしくないような状態に陥った状態で慈恵会の研究施設に収容され、自己意識と実際の肉体との齟齬を除去するための適合措置、つまり、自己意識を優先して、本当は男子高校生である身体を幼い女の子さながらの身体に変貌させる肉体改造手術が行われた。手術によっても身長や体重などの基本諸元を大きく変えることはできないが、それでも、童女らしい丸っこい輪郭に顔を整形し、少しお腹の出た幼児体型に体をつくり換え、声帯を薄く削ることによって声を高くし、膀胱の機能を抑制することでおむつが必要な体にする等の措置を施された結果、自己意識と肉体との少なからぬ融和を得た男子高校生は心の平穏を取り戻し、今は慈恵会の研究施設の居住区画で、肉体改造手術を施された他の患者たちと共にひっそり生活しているらしい。
 時を経て、その男子高校生と同じような境遇の患者も増えてきたことを聞き及んだ真由美が、上野香奈に求められるまま、患者の一人を引き取りたいと美雪に願い出たのだった。美雪としても、患者の社会適合性を詳細に観察する機会を窺っていたところで、否はなかった。
 こうして真由美と香奈のカップルも、(実は男の子の)愛くるしい娘を授かることになったという。
「ただ、そういう子はどうしても精神的に不安定で人見知りが激しいことが多いそうだから、園長先生の提案もあって、ひばり幼稚園でいろいろ教育を施した方がいいだろうということになってね、正式な養子縁組が済むのを待たずに、葉月と同じ特別年少クラスのひよこ組に迎え入れる手筈になったんだよ」
「へーえ。それじゃ私、上野さんとはママ友になるわけね。同じ年頃の娘を持つ母親どうし、何かと相談し合えるし、葉月にしても、今は上のクラスの子しかお友達がいないけど、同級生ができて幼稚園がもっと楽しくなるわね」
 薫は、母乳を貪り飲むために盛んに動く葉月の頬をいとおしそうに撫でながら言ってから、奇妙な光を宿す瞳を皐月の顔に向けて続けた。
「そういうことだったら尚更、車の中でも話していた『救済』の件、真由美さんと上野さんのお嬢ちゃんが幼稚園に入る前に、目途を立てておいた方がいいと思うの。今週の土曜日が葉月の誕生日だから、その日を目安に、今週いっぱいで葉月の心の問題を片付けて、来週からは関係者との面談をこなしたいんだけど、どうかしら」
「ああ、それでいいと思うよ。例の件は真由美さんと話を詰めてみたんだけど、今月の最後の日曜日なら、式場もスタッフも都合がつくそうなんだ。それまでにある程度の見込みを立てておきたいところだから、今ママが言ったスケジュールで進めていいんじゃないかな」
 皐月は少し考えて答えた。
「例の件、今月の最後の日曜日に決まったの? そう。やっと決まったのね。やっと、私たちの……」
 薫の瞳が涙に潤んで、ますます妖しく煌めく。
「そうだよ、いよいよだよ。ただ、そのスケジュールで準備しようとすると、笹野先生にお願いしていた件も日程を決めておかなきゃいけないね。――じゃ、その件も、葉月の誕生日に合わせて今週の土曜日ということにしようか。先生には電話でお願いしてみるよ」
 こちらも少し感慨深そうな顔つきになって、皐月が優しく言った。

               *

 そんなふうにして葉月の入園の日を終えて一週間近くが過ぎ、迎えたのは土曜日の朝。
 幼稚園がお休みということで誰に起こされることもなくぐっすり眠っていた葉月が目をさましたのは、もうすぐ朝の十時という頃だった。
 誰かの手が下腹部に触れる感触にはっとして目を開けた葉月の瞳に映ったのは、それまで葉月の股間を包み込んでいたおむつを手元にたぐり寄せている薫の姿だった。
「あら、やっと目がさめたみたいね。入園から一週間、いろんなことがあった気疲れでもっとねんねしていたいでしょうけど、そろそろおっきしようね。それにしても、相変わらず一晩の内に何度もおむつを汚しちゃうのね、葉月は。真由美さんにお願いして、もっとたくさんおむつを用意してもらわなきゃいけないかしら」
 目をさました葉月に向かって薫は、穏やかな笑顔で言った。
 薫が手元に引き寄せている水玉模様の布おむつは、目がさめたばかりでまだ焦点の定まらない葉月の目にもはっきりわかるくらい、ぐっしょり濡れている。
 葉月の顔が羞恥で赤く染まった。しかし、言い訳や反論の言葉を口にする様子はない。ただ恥ずかしそうに、自分が汚してしまったおむつから目をそむけるだけだ。
 その後、ペニスタックを解いてもらう時も、皐月に手を引かれてトイレへ連れて行ってもらう時も、薫の手で再びタックを施される時も、葉月は、時おり何か言いたそうにしつつも、無言のままだった。
 そうして、床に広げたおねしょシーツに横たわり、新しいおむつをあてられる時になって、ようやく
「おむちゅ、葉月、おむちゅなの」
と口にしたのだが、「おむつ」ではなく、これまで以上にたどたどしい「おむちゅ」という幼児語だった。「そうね、おむつね。葉月は赤ちゃんだから、これからもずっとおむつなのよ」
 薫はいかにも満足そうに目を細めて葉月に新しいおむつをあてた後、両手を引いてその場に立たせ、ショート丈のネグリジェを脱がせた。
「さ、パジャマを脱いで、ロンパースに着替えようね。いつまでもおむつの外れない葉月にお似合いのベビー服に」
 薫は、ナイティを脱がせた葉月にスカート付きロンパースを着せ、肩口のボタンを留めた。
 おそらく一週間ほど前の葉月なら、幼児めいた口調ながらも
「葉月、ロンパース恥ずかしい。赤ちゃんのお洋服、恥ずかしい」
というくらいの抗弁はしただろう。しかし今の葉月は、ロンパースを着せられている間も、子供用の鏡台に映る自分の姿から恥ずかしそうに目をそむけるだけで、その恥ずかしさを口にする様子はまるでなかった。
 薫は葉月にスカート付きロンパースを着せた後、ソックスを履かせ、髪をツインテールに結ってから、ロンパースの胸元をよだれかけで覆って床に膝をついて座り、葉月の体を横抱きにした。
 すると、葉月が物欲しそうに唇を動かし、
「まんま、まんま」
と言葉に出して言って、薫の胸元をじっとみつめる。
「お目々がさめてすぐおっぱいをねだるなんて、よほどお腹が空いているのね。いいわよ、ママのおっぱいをたっぷり飲んでちょうだい」
 薫はブラウスの前ボタンを外し、授乳ブラをあらわにして、横抱きにした葉月の唇に自分の乳首を押し当てた。

 そんなふうにして授乳を行い、両方の乳房の母乳を飲み干してしまいそうになった頃、葉月の腰がぶるっと震えた。
 同時に、葉月が舌と上唇で薫の乳首をぎゅっと噛む。
 何があったのか、薫にはすぐわかった。けれど、何も言わずに薫は待った。
「ちっち。おむちゅ、ちっちなの」
 しばらくすると、葉月が薫の顔をおそるおそる見上げ、よく耳を覚ましていないと聞き取れないほど小さな声で言った。
 薫は葉月のおむつカバーの中にセンサーを仕込んでおいておむつが濡れたことをスマホで知らせるようにしていたのだが、ひばり幼稚園に入園させてからはセンサーを使わずに、おしっこでおむつを汚してしまったことを葉月が自ら知らせるよう『躾け』ており、その『躾け』の成果が昨日から現れるようになっていた。ただ、葉月が口にするのは、さきほどの『おむちゅ』と同様、ちょっと聞いただけでは意味がわからないほどたどたどしい幼児言葉だった。
「そう、おむつが濡れちゃったの。ちゃんと教えてくれて葉月はお利口さんね」
 乳首を咥えたまま口を開いたせいで唇からこぼれ出た母乳をよだれかけの端で拭って薫は言い、葉月の目をじっと覗き込んで、有無を言わさぬ口調で続けた。
「でも、それだけじゃ駄目よ。おしっこでおむつがで濡れちゃった時はどうするんだったっけ? ママはちゃんと教えてあげた筈よ」
 そう言って薫は、乳首を葉月の口から遠ざけた。
「あ、ぁう、うう、うぇーん……」
 待つほどもなく、泣き声が葉月の無口をついて出る。
「ぅえ、ぅえーん、ひっ、ひっく、ふぇーん」
 最初は躊躇いがちだった泣き声が次第に大きくなり、いつしか葉月は目に涙を溜めて泣きじゃくる。
「そうよ、それでいいのよ。葉月は赤ちゃんだから、どんなことでも泣いて知らせればいいのよ。おむつが濡れちゃった時も、お腹が空いた時も、寂しくて誰かによしよししてほしくなった時も、泣き声で教えるの。そしたら、パパやママや周りの人たちがどうすれば葉月が泣きやむのか考えて、葉月のしてほしいようにしてあげるから」
 薫はそう言い聞かせて、それまで横抱きにしていた葉月の体をおねしょシーツの上に横たわらせ、あらかじめ用意しておいた哺乳瓶を持ち上げた。




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