偽りの保育園児



    第一章 〜園長室〜

               【一】

 そして迎えた、七月最後の日曜日。時刻は午前十時。
 ひばり保育園の園長室では、大きな執務机を挟んで園長と葉月が向かい合って座っていた。
 園長は、豊かな髪をアップに束ねて上品なクリーム色のスーツに身を包んだ四十歳くらいの理知的な女性。柔和な笑みに時おり垣間見せる鋭い眼光が印象的だ。
 対して葉月は、皐月が洗濯してくれた清潔そうな白の綿シャツに、これまた皐月が丁寧にアイロンをかけてくれた、きちんと折り目のついたスラックス。まだビジネススーツなど持っていない学生の身分としては充分によそ行きの身なりと言っていい。

「初めまして。お姉様とご一緒に住んでらっしゃると聞いていますから、当園の先生方とは何度かお会いになっておられるとは思います。けれど、私とはこれが初めてですね。よろしくお願いします、御崎葉月さん」
 落ち着いた口調でそう切り出す園長に対して、まるで世間慣れしていない葉月の方はしどろもどろだ。
「あ、あの、姉さんが……あ、いえ、姉がお世話になっています。そ、それで、今日は僕の……いえ、わ、私のためにわざわざ面接の時間を、その……」
「あらあら、そんなに緊張しなくても大丈夫よ。ほら、私の合図に会わせて大きく息を吸ってごらんなさい。はい、いち、に、さーん」
 葉月の緊張ぶりがよほど可笑しかったのか、園長はひとしきりくすくす笑うと、柔和な笑みを浮かべたまま、不意に、ついさっきまでとはがらりと違う、まるで自分の保育園で預かっている子供に接するみたいな口調に変わって言った。
「え? あ、ああ、はい……」
 言われるまま、何度かぎこちなく深呼吸を繰り返す葉月。
「はい、よくできました。とっても上手に深呼吸できたわね、葉月さん。これで少し落ち着いたかな?」
 深呼吸を終えて幾らか落ち着いた表情になった葉月の顔を見て、園長は、園児に対して話しかけるような口調に加え、葉月のことを名字ではなく下の名前で呼んで、これもまた幼児に向かってそうするように、大げさな身振りで両手を叩いてみせた。
「え、ええ、まあ……」
 最初に受けた印象とは打って変わった園長の仕草に戸惑いを覚えつつも、いつも小さな子供と接しているとそういうことが癖になるのかなと思いながら、葉月は曖昧に応えた。
「そう、よかった。じゃ、いろいろお話できるわね? 葉月さん、食べ物は何が好きなのかしら。 何が好きか、ちゃんとお話できるかな?」
 小さく頷く葉月の様子を満足そうに見ながら、ますます葉月を子供扱いするみたいな調子で重ねて言う園長。
「あ、あの、卵焼きです。姉さ……姉のつくってくれる卵焼き」
 深呼吸でいったんは少し落ち着いたのに、すっかり態度の変わった園長の様子に再びしどろもどろになりながら、葉月は僅かにうわずった声で応えた。
「そう、葉月さんは卵焼きが大好きなの。可愛いお顔にぴったりね」
 園長は葉月の返答を聞くと、やはり幼児をあやしてでもいるかのような声で言い、続けてこんな質問をした。
「じゃ、動物は何が好きなのかな? わんちゃんかな、それとも、にゃんこちゃんかな。あ、ひょとすると、お鼻の長い象さんかしら」
 それに対して葉月は考え考え「犬です」と返したのだが、その後も園長からの質問が途切れることはなかった。
 けれど、どの質問も、アルバイトの面接に来た大学生に向けてのものとはどうしても思えないものばかりだった。しかも、内容だけでなく、園長が葉月に質問をする口調が、いかにも幼児に対して優しく話しかけているふうなのは最後まで改まらなかった。

 結局、園長と葉月とのそんなやり取りは三十分ほども続いただろうか。
 そうして、ようやく最後の質問に葉月が僅かに首をかしげながら応えると、園長が満足げに大きく頷いて穏やかな声で言った。
「うん、いいわよ。葉月さん、とってもお利口さんだこと。これなら、ひばり保育園に来てもらっても大丈夫でしょう。――明日から来られるわね?」
「あ、はい……」
 これじゃまるで保育園への入園を希望する児童への面接みたいだなという、妙にくすぐったいような違和感を抱き続けたまま、それでも、面談に立ち会っている姉の手前もあって、そんな思いを言葉に口にすることもできず、葉月はおずおずと返事をするしかなかった。
「じゃ、この紙にサインしてもらおうかな。はい、ここに今日の日付と、その下のここにお名前を書いてちょうだい。葉月さん、お利口さんだもん、お名前も上手に書けるよね?」
 ひとしきりの質問が終わっても園長はまだ子供向けの口調を改めることなくそう言って、あらかじめ自分の欄に署名・捺印した雇用契約書を葉月の目の前に差し出した。
 契約書と一緒に差し出されたペンで日付と自分の名前を記入し、印鑑の代わりに右手の親指に朱肉を付けて拇印を押せば、それで契約は終了。葉月にとって生まれて初めてのアルバイトの契約はこうして無事に交わされた。
 だが、この時の葉月には、それがどれほど羞恥に満ちたアルバイトになるのか、想像することすらかなわなかった。

「あらあら、葉月さん、自分のお名前、ちゃんと漢字で書けるのね。本当になんてお利口さんなのかしら」
 葉月が署名・捺印した契約書をすっと手元に引き寄せ、書き損じがないことを確認した園長は、質問の時と同様、それこそ、ようやく自分の名前を書けるようになったばかりの幼児を褒めそやすみたいな口調で言った。
 そうして、不意に葉月の右手の手首をつかむと、自分の方にぐいっと引っ張る。
「え……? あ、あの、なにを……」
 突然のことに大きく両目を見開いてうろたえる葉月。
「そんなにびっくりしなくても大丈夫よ。お箸を持つ方の手のお父さん指が汚れちゃったから、きれいきれいしてあげるだけなの。葉月さんはお利口さんなんでしょ? だったら、ほら、そんなに暴れないでじっとしてましょうね」
「あの、あの……そんなこと、自分でします。指くらい、自分で拭きますから」
 朱肉で汚れた右手の親指を園長が拭いてくれようとしていることに気づいた葉月は、自分の右手をつかんでいる園長の手の柔らかさに思わず顔を赤らめて、躊躇いがちに首を振った。
「いいのよ、そんなに遠慮しなくても。自分じゃ綺麗に拭けないことがあるんだから、さ、ちゃんとお手々を伸ばしてちょうだい。葉月ちゃんのぷにぷにのお手々をきれいきれいしましょうね」
 園長は半ばたしなめるように半ばあやすように言って、強引に葉月の右手を自分の胸元近くまで引き寄せ、親指の先を柔らかいティッシュで拭い始めた。
 自分の母親よりも少し若いだけの、有り体に言って中年の女性だ。なのに、その柔らかな手の感触と、ブラウス越しにもはっきりわかる胸元の形のいい膨らみに、葉月の頬がぱっと赤く染まる。
「とってもすべすべしてるのね、葉月さんのお手々。ぷにぷにですべすべで、なんだか赤ちゃんのお手々みたい。こんなに可愛らしいお手々が汚れてちゃ可哀想だもの、うんときれいきれいしておこうね」
 それこそ幼い子供に言い聞かせるかのごとく甘い声で囁きかけながら、園長は撫でさすらんばかりに、たっぷり時間をかけて葉月の右手をティッシュで拭き清めるのだった。



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