偽りの保育園児



    第一章 〜園長室〜

               【二】

「はい、できた。ちゃんとおとなしくしてて、お利口さんだったわね」
 ようやくのこと葉月の右手を拭き終えた園長が、名残惜しそうな様子で手を離しながら言った。
 そこへ、二人から少し離れた所に座って面接の様子を見守っていた皐月が椅子から立ち上がって近づいて来た。そうして、葉月が腰かけている椅子のすぐ横に歩み寄ると
「念のために確認させていただきますが、正式に採用ということでよろしいのですね?」と、念押しするような口調で園長に話しかける。
「もちろん、合格ですよ。御崎先生は葉月さんのことを人見知りが激しくて気の弱いところがあるとおっしゃっておられたけれど、こうして話してみると、ちょっと恥ずかしそうにするところは見受けられるものの、自分のお名前も好きな動物や食べ物もきちんと言えるし、漢字でお名前も書けるし、思っていたよりもしっかりしてらっしゃるじゃありませんか。これなら、うちの保育園へ来てもらっても大丈夫です。ええ、他の子供たちともすぐ仲良くなれるに違いありません」
 園長は執務机越しに皐月の顔を見上げ、柔和な笑顔で応じた。
 その口調がアルバイトの採用の合否を告げるというよりも、新しい園児に入園を許可しているように聞こえたのは葉月の気のせいだろうか。
「ああ、よかった。面接に連れて来た甲斐がありました。それでは、さきほど園長先生が葉月に言っておられたように明日から登園させますので、よろしくお願いいたします」
 皐月は、かたわらの椅子にちょこんと腰かけている葉月の肩にぽんと掌を載せた。
「こちらこそ、よろしくお願いします。ただ、これだけは堅く申しておきますけれど、御崎先生からも弟さんに、契約書に記載されている事項は必ず遵守するよう念を押しておいてくださいね。弟さんがそうだとは申しませんけれど、近頃の若い方は無責任な人も多くて、せっかく契約書を交わしても、その後で随分と身勝手な主張をなさることもが少なくありませんから」
 相変わらず穏やかな声で応じる園長だったが、『契約内容の遵守』という言葉を口にする時は幾らか厳しい口調になり、鋭い眼光で葉月の顔をねめつけた。
 瞬間、どういうわけか、葉月の胸を、なんとも表現しようのない後悔めいた感情がよぎった。
 途切れることなく続く園長からの質問に最後の方はうんざりしかけていたのと、逆らうことなど考えもできない相手である姉に勧められたアルバイトの採用面接ということで、まるで書面を確認することなく署名・捺印してしまった契約書。なぜとはなしに、今になってそれが悔やまれてならない。

「ね、姉さん……」
 思わず葉月は、すがるような表情で皐月の顔を見上げた。
 が、不安でいっぱいといった顔つきの弟とはまるで対照的に、しっかり者の姉は涼しげな表情を浮かべるばかりだ。
「あらあら、なんて顔してんのよ、葉月ってば。あんた、まだ一回も働いたことがないから初めての契約書ってことでびびってんでしょうけど、そんな心配することなんてないわよ。私もそうだし同僚の先生方もみんな園長先生と雇用契約書を交わしてるけど、当たり前のことしか書いてないわよ、普通の雇用契約書なんて。例えば、遅刻や早退が三回あると一日の欠勤とみなすとか、お給料の計算期間は毎月二十日が締め日だとか、病欠の場合は診断書を提出しなしなければならないだとか、そういうことちょっとが難しい表現で書いてあるだけよ、普通の雇用契約書には」
 頼りなげな葉月の顔を見おろしながら、皐月はこともなげにそう言った。
 そのさりげない口調のせいで、『普通の雇用契約書』という言葉を皐月が妙に強調して繰り返し言ったことに葉月は気づかない。
「そうそう、そういうことよ、葉月さん。お姉さんにはちょっときつい言い方をしちゃったかもしれないけど、そんなに難しいことじゃないから心配しなくて大丈夫よ。お利口さんの葉月さんならちゃんと守れるようなことばかりだから心配しないで。――お弁当を食べる時はみんなで仲良くとか、決められた制服を着なきゃ駄目よとか、そんな簡単な、葉月さんだったらきちんと守れるような決まりごとばかりだもの」
 ゆっくりした動作で葉月の方に向き直った園長が皐月の言葉を引き継いだ。皐月に対する時とは打って変わった、わざとのように優しい口調だ。
「は、はい……」
 不安な表情を隠せないまま、それでも、二人から諭されて小さく頷く葉月。
「うん、ちゃんとお返事ができて、やっぱりお利口さんね、葉月さんは」
 園長は満足げに目を細めて頷き、少し間を置いてから続けて言った。
「それじゃ、せっかくだから、試しに制服を着てみましょうか。実を言うと、葉月さんのことは前もってお姉さんからいろいろ聞いていて、実際に会う前から合格って決めていたの。それで、これもお姉さんから先に聞いていた葉月さんのスリーサイズに合うような制服を業者さんにお願いして持って来てもらっていたのよ。だから、本当のことを言うと、今日は、面接っていうより、契約書にお名前を書いてもらうのと、制服のサイズ合わせとに来てもらったようなものなの。実際の登園の前に制服を試しに着てもらって、サイズが合うかどうか確かめておきたかったから」
 前もって採用を決めていたという園長の思いがけない言葉に、なぜとはなしに、葉月の胸の中に芽生えた言いようのない不安がますます大きく膨らんだ。と同時に、微かな疑問が生じる。
「……あのさ、姉さん」
 葉月はおそるおそる皐月の顔を見上げ、遠慮がちに訊ねた。
「園長先生は僕に制服の試着をしなさいって言ってるけど、僕、姉さんが制服を着てるとこなんて一度も見たことないよ? いつもは小さな子供たちの相手をするのに思いきり体を動かさなきいけないからってジャージを着てるし、通園の時は私服だし。四月の入園式の時だって、自分で買ったスーツだったよね? ひょっとしたら、姉さん以外の保育士さんたちは制服を持ってるのに、姉さんだけ勝手なことして私服で押し通したりしてるわけ?」
「なに言ってるのよ、葉月ったら。私だけ私服で押し通すだなんて、そんな身勝手なことするわけないでしょ? うちの保育園、ジャージは支給してくれるけど、保育士用の決まった制服なんて昔からないわよ」
 皐月は、要領を得ない顔つきの葉月に対して軽くかぶりを振ってみせ、部屋の片隅に置いてある、保育園の指定業者のマークが入った幾つかの紙袋にちらと視線を走らせて続けた。
「でも、あんたは正式な保育士じゃない、アルバイトのアシスタントだから、違いが一目でわかるようにわざわざ園長先生が用意してくださったのよ。あんたのことを新しい保育士だと勘違いした親御さんたちが育児のことで何かと相談を持ちかけても、まだ大学に入ったばかりのあんたが何か答えられるわけないじゃない。そんな混乱を防ぐために、正規の保育士とアルバイトのアシスタントを区別できるようにって」
「……そ、そうなの?」
 皐月の説明を聞いても、どういうわけか疑問は解消しない。いや、解消しないどころか、ますます不安が高まってならない。葉月は不承不承の態で微かに首をかしげるばかりだった。
「ええ、そう。御崎先生のおっしゃる通り、葉月さんが保育士さんと間違われないようにするために用意した制服なのよ」
 疑わしげな眼差しで皐月の横顔を見上げる葉月に、唇の両端を吊り上げるような笑みを浮かべて園長が言い、悪戯めいた声で続けた。
「ま、それと、葉月さんが他の園児たちから浮いちゃわないようにするためにっていう目的もあるんだけどね」
「僕が他の園児から浮かないように……? どういうことなんですか、それ?」
 思いがけない言葉に、葉月がきょとんとした表情で園長の方に向き直る。
「うふふ。それは、葉月さんが制服を着てみればすぐにわかることよ」
 園長は謎々でも楽しむかのように囁きかけた後、どこか冷ややかな声で続けた。
「ところで、葉月さん。面接の時は自分のことを『僕』じゃなく、ちゃんと『私』って言い直していたわよね? 御崎先生のことも、『姉さん』じゃなく『姉』って言っていたんじゃなかったかな? なのに、今はもう油断しちゃったのかしら。まるで自分のお家にいる時みたいに『僕』や『姉さん』だなんて言っちゃって。きちんと雇用契約を交わした上で、ここは園長室なのよ。それなりの言葉遣いをしなきゃいけないんじゃないのかな。お利口さんの葉月さんだもの、できるよね?」
「あ……す、すみません。気をつけます」
 不意の叱責に、葉月は、ついさっき園長が口にした言葉の真意を詮索することも忘れて体をすくめてしまう。
「いいお返事だこと。じゃ、ちゃんと注意してちょうだいね。まず、自分のことは『私』と呼ぶこと。ただ、『私(わたくし)』じゃ堅苦しいから『私(わたし)』でいいわ。わかった?」
「は、はい」
「それと、いくら実の姉弟でも、保育園にいる間は、他の先生方に接するのと同じように、お姉さんのことは『御崎先生』と呼ばなきゃいけないわね。お家だったら『姉さん』でもいいけど、けじめをつける時はきちんとしましょう」
「……はい、わかりました」
 葉月は思わず姿勢を正して生真面目に頷いた。
 にこやかな笑みを浮かべていても、元来が威厳のある園長だ。初対面とはいえ、皐月に対するのとはまた別の意味で、その言いつけに逆らうことは難しい。
「それじゃ、私は弟のことをどう呼べばいいでしょうか? 御崎さんでいいですか?」
 葉月がおずおずと頷くかたわら、どこか芝居がかった様子で皐月が園長に尋ねた。
「……そうですね。でも、名字での呼び合いだと、先生方はわかってくださるとしても、子供たちが混乱するかもしれませんね。年長さんはともかく、年中さんや年少さんの子供だと、『御崎先生』と『御崎さん』の区別がつかないかもしれません。だから、葉月さんのことは下の名前で呼んであげた方がいいんじゃないかしら」
 園長は葉月と皐月の顔を交互に見比べて言い、更に少し考えてこう付け加えた。
「ああ、それと、どうせ下の名前を呼んであげるんだったら、『葉月さん』ではなく『葉月ちゃん』の方が親しみがあっていいかもしれませんね。うん、そうね、そうしましょう。他の先生方にも、御崎先生の弟さんのことは『葉月ちゃん』と呼ぶよう伝えておくことにします」
「はい、承知し……」
「ち、ちょっと待ってください」
 皐月が園長に向かって恭しくお辞儀をして同意をしめすのを、葉月が途中で遮った。普段の二人の間柄から考えれば滅多にないことだ。とはいえ、葉月の胸の内を考えれば、いつもは気の弱いくせに咄嗟に抗議の声をあげてしまったのも無理からぬところか。
「僕……あ、じゃなかった、わ、私は大学生なんですよ。そ、そりゃ、背も低いし体も華奢だし童顔だし、子供っぽく見えることは否定しませんけど、でも、これでもちゃんとした大学生で、もうすぐ十九歳になるんです。それなのに、『葉月さん』はともかく、『葉月ちゃん』だなんて、そんな呼び方、困ります」
 その外見と、声変わりも済んだ筈なのに同年代の男子と比べるとまだ甲高い声のせいで、高校時代も大学に入ってからも、友人たちから『可愛い葉月ちゃん』とか『お姫様』とかことあるごとに呼ばれからかわれてきた葉月だ。それが、アルバイト先でも同じ目に遭うなんて。
「なに言ってるのよ、葉月ったら。せっかく園長先生が親しみやすいようにって呼び方を考えてくださったのに、文句なんて言ったら罰があたるわよ」
 背筋をぴんと伸ばして腰に手の甲を押し当てた皐月がたしなめるように言い、じと目で葉月の横顔を見おろしてこんなふうに続けた。
「だいいち、うちの保育園の保育士さんたち、前からあんたのこと、『葉月ちゃん』って呼んでるじゃない。今さら恥ずかしがることなんてないんじゃないのかな」
「そ、それは……」
「あら、そうだったんですか? うちの先生方はもう弟さんのことを『葉月ちゃん』って呼んでいるんですか?」
 今度は葉月が言葉を遮られる番だった。皐月が言った内容を耳にするなり、園長は葉月の抗弁などまるで意に介するふうもなく、ぱっと顔を輝かて念押しするように聞き返した。
「はい。園長先生もご存じの通り、私は先生方をうちに招待してお茶の時間を持ったりささやかな食事の席を設けたりしています。弟が同居するようになってからもそれは変わらず続けているのですが、初めて弟に会った先生方はどなたも葉月のことを私の妹だと勘違いなさるようで。それも、見た目がこうですから、高校生、いえ、どうにかすると中学生の女の子だと思い込まれることも多くて、後で大学生弟だと説明して誤解を解いても、第一印象というのはなかなか拭い取れないものなのか、それからもうちにいらして葉月に会うたびに『葉月ちゃんはいつ見ても可愛いわねぇ』などとおっしゃられることがたびたびなんです。ま、私も姉として、弟のことを可愛く思っていただけるのはとても嬉しいんですけれど」
 くすっと短く笑って皐月が説明する。
「まぁまぁ、そういうことだったんですか。それはよろしゅうございます。先生方がもう『葉月ちゃん』という呼び方をしておられるなら、なにも問題はありませんね。結構なことです」
 園長は鷹揚に頷いてから、改めて葉月の瞳を覗き込むようにして言った。
「それじゃ、新しい制服を着てみましょうね、葉月ちゃん。とっても可愛らしい制服だから、きっと葉月ちゃんにお似合いよ。――御崎先生、壁際に置いてある三つの紙袋のうち、一番手前のを持ってきてもらえますか」
 園長は、それまで『葉月さん』と呼んでいたのを早速のこと『葉月ちゃん』と呼び方を変えて言い、ちらと皐月に目配せをして、部屋の隅に並べて置いてある紙袋を指し示した。
「承知しました。――これでよろしいでしょうか」
 さほど広くはない園長室。皐月は機敏な身のこなしで壁際に歩み寄ると、待つほどもなく、真新しい紙袋を一つ手に提げて戻ってきた。
「ええ、それで結構です。あらかじめ聞いておいた葉月ちゃんのサイズに合わせて制服と体操着、それに園内着を出入りの業者さんにお願いして用意していただきました。とりあえず、制服を試着してもらってサイズを確認しておきましょう。制服が合うようなら、体操着と園内着も問題ない筈ですから」
「それでは、用意いたします」
 園長が首を軽く縦に振るのを見届けて、皐月が、執務机の横に置いた紙袋の中に両手を差し入れた。
 いいしれぬ不安とも後悔の念ともつかぬ表現しようのない感情が葉月の胸の中で更に大きく膨れあがる。



戻る 目次に戻る 本棚に戻る ホームに戻る 続き