偽りの保育園児



               【三】

「うわっ、可っ愛いぃんだ!!」
 突然、室内に嬌声が響き渡った。声の主は、紙袋から取り出したばかりの新しい衣類を広げて両手で捧げ持った皐月だ。
 反射的に葉月が皐月の方に振り向いた。
 葉月の反応を楽しむかのように、葉月の顔を見据えたまま、少し遅れて園長がおもむろに首を巡らせる。
 皐月が両手で広げて持っていたのは、紛うことなき、真新しい制服だった。それも、ひばり保育園の園児が揃って身に着けているセーラースーツだ。いや、正確を期すためにもう少し詳しく表現すると、ひばり保育園に通う園児の内でも女の子用の制服として採用されているセーラーワンピースだった。
 ひばり保育園の園児が着る制服は男児用も女児用も基本的にはセーラースーツだ。ただ、男児用の制服が上着と半ズボンとの組み合わせでツーピースになっているのに対し、女児用の制服は上着の裾をふわりとした曲線を描くようにして丈を延ばし、その延長部分がそのままスカートになるようデザインされたワンピースに仕立ててあるといった違いがあるから、皐月が広げ持った制服の裾がスカートになっているところを見れば、それが女児用のセーラーワンピースだということは一目瞭然だった。それも、季節に合わせて、長袖ではなく二の腕の中ほどまでの三部袖を丸く膨らませ、風通しのいい薄手の生地で縫製した夏用の制服なのは間違いない。
 真っ白で大きめのセーラーと幅の広いリボンふうのボウタイとの組み合わせが見るからに可愛らしく、同じ地区にある幾つかの保育園や幼稚園の中でも評判のいい制服だといつも皐月が自慢げに話しているし、その制服を着た園児たちが勢揃いした音楽会の写真を見たこともあるから、それがひばり保育園の制服だということは葉月にも一目でわかった。 けれど、それがひばり保育園の制服だとわかった瞬間、葉月の脳裏を一つの疑問がよぎる。自分が勤めている保育園の園児が着る、すっかり見慣れている筈の制服なのに、どうして姉さんはあんな甲高い嬌声をあげたんだろう――ふと、そんな疑問を葉月は抱いたのだ。
 が、その疑問も、皐月が
「園長先生、この色もいいですね。セーラースーツっていうとどうしても海をイメージするからブルーだっていう先入観があるんですけど、このパステルピンクの生地もすごく可愛らしく仕上がっています。特に女の子用だと、こっちの方が断然お似合いですよ」
といかにも楽しげに言いながら新しい制服を裏返したり下から覗き込んだりしている様子を見ているうちに次第に解けてきた。おぼろげながら思い出すに、皐月から見せられた音楽会の写真に写っていた園児が着ている制服の色合いは、どれも、白とマリンブルーとの組み合わせだった筈だ。男児用と女児用とで生地の色を変えているようなことはなかったと記憶している。そこへ、これまで目にしたことのないパステルピンクを基調にした生地で仕立てた女児用のセーラーワンピースを目にしたものだから、皐月が思わず嬌声を発したのだろうと想像がつく。
 けれど、その疑問が解消すると同時に、更なる疑念が湧きあがってくる。
(あれ? あの紙袋に入ってるのって、僕が試着する制服じゃなかったっけ? なのにどうして園児の制服が入ってるんだろう。ひょっとして、女の子用に新しい色の制服を試しにつくってもらったのが間違って入ってたのかな?)葉月は胸の中で呟いた。
 が、それは縫製業者の間違いなどでは決してなかったのだ。
「どうやら御崎先生にもその色の制服を気に入っていただけたようですね。業者さんと念入りに打ち合わせを繰り返した甲斐があるというものです」
 両袖を左右の手に持って改めて制服を大きく広げてみせた皐月に向かって、園長は何やら含むところのありそうな笑みを浮かべて言った。そうして、葉月の方に一瞬だけちらと目をやってから、もういちど皐月の方に向き直って僅かに首をかしげる。
「はい。この制服、私はとっても気に入りました。私が気に入ったのですから、もちろん、弟も気に入るに違いありません」
 皐月は園長に向かってにっと笑ってそう言い、パステルピンクの生地で仕立てたセーラーワンピースの袖を大きく広げ持ったまま、葉月が腰かけている椅子と執務机との間に歩を進めた。
 そうしてすっと膝を折ると、手にしたセーラーワンピースを葉月の体に正面から押し当てる。
「え……!?」
 葉月の顔に、驚愕と戸惑いがない交ぜになった表情が浮かんだ。
「わざわざ園長先生が葉月のために新調してくださった制服だもの、気に入らないわけないよね? 新しい色でつくってくれるよう園長先生が業者さんにお願いして用意してもらった可愛い制服だもの、喜んで着るに決まってるよね?」
 真新しいセーラーワンピースを葉月の肩に押し当てた皐月は、そんなふうに、穏やかな声ながらも有無を言わさぬ強い口調で決めつけるのだった。
「え……? これを着るの、ぼ、僕……なの!?」
 葉月は、自分の体に押し当てられたセーラーワンピースと、わざとのようなにこやかな笑みを浮かべる皐月の顔とをのろのろと見比べて蚊の鳴くような声を出した。
「僕じゃないでしょ? 自分のことは私と呼びなさいって園長先生から注意されたんじゃななかったかしら。ほら、言ってごらんなさい。『わたし』よ、わ・た・し」
「ちょっと待ってよ、姉さん。今はそんなことにかまってなんかいられないんだってば。そんなことより、これが僕の制服だって本当なの? ひばり保育園の女の子用の制服を僕に着せるつもりなの!?」
 怯えの色を顔に浮かべながらも、葉月は激しくかぶりを振った。
「そうよ。見てごらんなさい、ほら、ぴったりじゃない」
 顔色を失った弟とは対照的に皐月は涼しい顔で言って、パステルピンクの制服をますます強く葉月の体に押し当てた。
 言われて今さら確かめるまでもなく、セーラーワンピースを肩に押し当てられて反射的に自分の体を見おろした瞬間に、サイズがぴったりなのは見て取っていた。皐月が紙袋から取り出した真新しい制服を目にすると同時に覚えた違和感。その違和感の正体が、見た目は幼児用の制服なのに、そのサイズが随分と大きく仕立てられていることに気がついたせいだということに、三部袖のセーラーワンピースを体に押し当てられた瞬間に理解していた。
 そう。葉月の制服が収められている筈の汚れ一つ付いていない紙袋に、保育園に通う女の子用の(としか見えない)制服が入っていたのは、縫製業者の手違いなどではなく、園長が縫製業者に指示してそうさせた結果だったのだ。
 だけど、なんのためにそんなことを……。「ああ、そういえば、うちの保育園でどんなお仕事をしてもらうか葉月ちゃんにはまだ説明していなかったわね。いいわ、お仕事の内容を私が教えてあげる。それを聞けば、どうして園児と同じ制服を着なきゃいけないか、葉月ちゃんも納得してくれるでしょう」
 園長が執務机の向こうで椅子から立ち上がりながら葉月の顔を見て言い、おもむろに皐月の方に視線を向け直した。
「私が説明している間に、御崎先生は葉月ちゃんのお洋服を脱がせてあげてちょうだい。葉月ちゃん、とってもお利口さんの筈なのに、今はなんだかむずがってばかりで自分じゃお洋服を脱ぎ脱ぎできないみたいだから」
「承知しました。――ほら、葉月、椅子から立ちなさい。汗臭い洋服を脱がせて、新しい制服を着せてあげるから。なんの飾り気もない綿のシャツなんかさっさと脱がせて、真新しい可愛い制服に着替えさせてあげるからね」
 それまで膝立ちの姿勢になっていた皐月も園長に従ってさっと立ち上がると、持っていたセーラーワンピをそっと執務机の上に置いて、椅子に腰かけている葉月の脇の下に両手を差し入れた。
「ちょ、ちょっと待ってよ。そんなの、やだってば。大学生の僕が保育園の子供の、それも女の子の制服なんて着られないってば。駄目だって、そんな無理に立たせないでってば……」
 脇の下に手を差し入れて強引に立たせようとする皐月に対して、葉月は椅子の肘掛けを握って身をすくめる。
「暴れちゃ駄目でしょ、葉月ってば。んとに聞き分けのない子なんだから。いい加減、おとなしくなさい!」
 皐月が語気を荒げると共に、抵抗もむなしく、力尽くで肘掛けから両手を引き離され、葉月は強引に床に立たされてしまう。
 そこへ、横合いから、たしなめるような園長の声が飛んできた。
「駄目ですよ、御崎先生。子供というのは、叱ってばかりだと萎縮してしまうから、もっと優しく接してあげなきゃいけませんね。それに、先生方には弟さんのことを葉月ちゃんと呼んでいただくことにしたのですから、御崎先生もそれにならっていただかないと。葉月ちゃんはお姉さんのことを御崎先生、御崎先生は弟さんのことを葉月ちゃんと呼ぶ。お互い様なんですから、保育園にいる間や通園の途中はちゃんと決まり事を守ってください。他の園児たちや先生方の手前、しめしがつきませんからね」
「申し訳ありません、園長先生のおっしゃる通りです。――じゃ、葉月ちゃん、今着てるお洋服を脱ぎ脱ぎしましょうね。ううん、大丈夫。葉月ちゃんは何もしなくていいのよ。先生が脱がせあげるから、葉月ちゃんはじっとしていればいいの。少しの間だもの、お利口さんの葉月ちゃんは先生の言うことをきけるよね?」
 園長の言葉にわざとのような大げさな仕草で恭しくお辞儀をしてみせ、皐月は一瞬、弟が小さかった頃のことを思い出すかのようにすっと目を閉じてから、面倒をみている園児に接する時と変わらないほど優しげな声で言って、葉月が着ているシャツの第一ボタンに指をかけた。
「だから、やだってば!」
 悲鳴じみた声をあげて、葉月は皐月の手を振り払おうとする。
 けれど、相手は、体が自分よりも一回り大きい上に、合気道の有段者だ。抵抗しようとする体の動きの一つ一つがいとも簡単に封じられ、手足の関節を逆に抑えこまれて、気がついた時には体の自由をすっかりを奪われてしまっていた。



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