偽りの保育園児



 そうしている間にも、園長が、葉月を採用した理由を淡々とした口調で話し始めていた。
「どんな仕事でもそうだけど、学校で習っている時と実際に現場に立った時とでは、考えられないほどの違いがあるものなのよ。特に、うちみたいに小さな子供相手の仕事だと尚更その傾向が強いわね。いくら大学や短大で幼児心理学とか幼児教育論を履修したとはいっても、それは、結局のところ、大多数の平均的な子供たちの行動を大雑把に記述しただけのものにすぎない。それに対して、一人一人の子供たちというのは、私たちが思ってもみない突拍子もない行動を取るものなの。言い換えれば、一つ一つの突拍子もない行動をならして平均化して理想化したものが教科書に書いてある内容だということになるわね」
 葉月に対するそれまでの子供扱いが嘘みたいな、まるで大学で講義でもしているかのような園長の口調。
「理想に燃え使命感に燃える新人の保育士さんたちを、毎年、ひばり保育園も迎え入れています。だけど、なんの問題もなく仕事に馴染んでゆく保育士さんはごく稀れ。いいえ、程度の差こそあれ、教科書で習ったのと現場で立ち向かう現実とのギャップに悩まない保育士さんなんて一人もいないと言った方が正確でしょうね。――私たちの仕事は、第一に、子供たちを預かって保護者の代わりに無事に保育することだけど、それだけじゃないの。私たちには、ギャップに悩む保育士さんたちを励まし、きちんと子供と接することができるよう導く使命もあるんですよ。特に、園長である私や、今年度から主任になってもらった御崎先生みたいな人にはね」
 そこまで言って、園長は静かに口を閉ざした。
 だが、体の自由を奪われ、気がつけば皐月の手で綿シャツとスラックスを脱がされてしまった葉月には、園長が何を言わんとしているのか、まだぴんとこない。
 要領を得ない顔つきの葉月をちらと見て、なにやらおかしそうな表情を浮かべた園長は、執務机をまわりこんでこちらに歩み寄って来つつ、再び口を開いた。
「ひばり保育園は今年も新しい保育士さんを採用しました。採用するかどうかを決める面接にあたって、成績も優秀だしやる気もあるし、この人なら大丈夫だと太鼓判を押したのは私です。でも、彼女も例外ではありませんでした」
 分厚い絨毯の上をスリッパの音を響かせることもなく静かに歩み寄って来た園長は、綿シャツの下に着ていたTシャツも皐月の手によって剥ぎ取られんばかりになっている葉月の目の前で足を止めた。間近で見ると、園長も随分と体格が良く、身長も皐月とさして変わらないほどだということに今更ながら葉月は気がついた。
「彼女は短大を卒業するまで、父親以外には、男性と接する機会が殆どなかったそうです。幼稚園から短大まで女子校だった上、親類の中にも男の従兄弟は一人もいなくて、女の子ばかりだったと聞いています。そのせいでしょうね、短大の幼児教育科では男児と女児との差異も習った筈なのに、うちの保育園で実際に腕白盛りの男の子と接してみて、どう対処していいのかわからずに、四月の終わり頃にはすっかり自信をなくしてしまいました。……まぁ、もっとも、初めて接する男児の行動が自分の理解の範疇を超えていたということだけがその理由の全てというわけではないのですが……」
 それまで淡々とした口調で話していた園長だが、不意に口ごもってしまい、顔が曇った。「園長先生がおっしゃっているのは、遠藤弥生さん――遠藤先生のことよ」
 右手で葉月の自由を奪い器用に左手だけでTシャツも脱がしてしまった皐月が、園長の言葉を引き継いだ。
「遠藤先生? ……遠藤先生がどうしたっていうの?」
 六月の上旬に初めて顔を会わせた、マンションにいる間ずっと伏し目がちにしていた弥生の物憂げな表情が脳裏をよぎる。葉月は、今にも裸に剥かれそうになっている自分の置かれた状況も忘れ、ぎこちない動きで首を巡らせると、背後からおおいかぶさるようにして立っている皐月の顔をおずおずと見上げた。
「遠藤先生が卒業した短大、元々は女子ばかりだったんだけど、学生の数が減ってきたからって、男子学生の募集も始めたんだそうよ。それが丁度、遠藤先生が入学する年だったそうで、幼児教育科にも一人だけ男子学生が入ってきたんだってさ。それも、遠藤先生と同じゼミにね」
 こちらも葉月に対する子供扱いはすっかりなりをひそめ、低い声でそう説明し始める皐月の口調は憎々しげだった。
「学生の間は何もなかったんだけど、遠藤先生、卒業した後うちの保育園にやって来て、園長先生がおっしゃったように、やんちゃ盛りの男の子の扱いに困って、それで、同じゼミにいたその男に相談したんだって。ま、男の子の行動原理を聞くには一番手近な存在だから、遠藤先生がそうしようと思った気持ち、私もわかるんだけど……」
 そこまで言って、皐月も園長と同じく口ごもってしまう。
 けれど、ぶるんと首を振ると、一度だけ大きく息を吸い込んで、感情を押し殺した声で皐月は続けた。
「そいつがとんでもないヤツでさ、相談を持ちかけた遠藤先生を言葉巧みに自分のアパートへ誘い込んで、でもって、狼藉に及んだのよ。……遠藤先生が暴れて大声で助けを求めたおかげで未遂に終わったんだけど、それが遠藤先生の心に大きな傷跡を残しちゃってさ」
「……」
 思いもかけない皐月の説明に、葉月も言葉を失ってしまう。
「まさかそんなことがあったなんて知らない私は、遠藤先生の落ち込みようがあまりにもひどいから、御崎先生にお願いして事情を聞き出してもらったの。男の子の扱いがわからないってだけじゃ説明できないくらい、遠藤先生、それこそ、いつ保育園を辞めてもおかしくないような思い詰めた顔をしていたから。……でも、御崎先生のおかげでおよその事情はわかったものの、それでどうにかしてあげられるわけじゃなかった。それまでも男の子の扱いに悩んでいた遠藤先生は、それ以来、極度の男性不信に陥った上に、とうとうそれが高じて、保育園の中でも男の子が近づくだけで怯えるようになってしまったの」
 一瞬しんと静まり返った部屋の中に、再び園長の声が微かな波紋になって広がってゆく。

「……で、でも……」
 部屋を満たす重苦しい空気に耐えかねて、葉月が小刻みに震える声を絞り出した。
「そう。でも、だよね。でも、それは僕には関係ない話だ――あんた、そう言いたいんでしょ?」
 まるで、短大時代に弥生と同じゼミだったその男が目の前にでもいるかのような冷え冷えした声で、皐月は葉月の胸の内を見透かしたかのように言った。
「だけど、関係ないって思ってるのはあんただけ。実は、これが、おおいに関係してたりるんだな、可愛い可愛い葉月ちゃんと」
 まわりの物を凍りつかせるような冷たい声から一転、皐月は今度は今にも笑い出しそうな声でそう言って、強引に葉月の右手を肩の上まで上げさせ、すっかりあらわになった脇の下をじっくり眺めまわすと、
「あんたってば、成長期なんてとっくに済んでる筈なのに、声は高いままだし、髭なんて私の産毛よりも薄いくらいだし、お肌もぷりぷりのつるつるだし、脇の下なんて、じっくり眺めてもまっちろいお肌が丸見えだし、体全体も、よぉく見ないとわからないほどしか無駄毛が生えてないし、ほんと、とてもじゃないけど大学生の男の子だなんて、いくら説明されても信じられない体してるよね。そりゃ、いくらなんでも胸が膨らんでるわけじゃないけど、それにしたって、ちょっと発育が遅れてる中学生くらいの女の子って感じで、アキバあたりをうろついてるようなお兄さんにだったら却ってウケがいいんじゃないかってとこだもんね」
と、どこか嘲るような口調で続けた。
「き、急に何を言い出すんだよ……!?」
 小さい頃の「可愛い」は男の子にとっても褒め言葉だが、同じ言葉でも、長じてから言われると、口にする者の言いようもあるのだろうが、いかにも馬鹿にされているようで我慢できないものだ。しかも、常日ごろからそんなふうに言われ続け、そんな体つきを自身がコンプレックスに感じている葉月にとっては尚のこと。
「あらあら、そんな怖い顔しなくてもいいじゃない。あんたのこと、可愛いって言ってるのは私だけじゃないんだから。遠藤先生だって、初めて見たあんたのこと、『可愛らしい妹さんですね。中学生ですか?』って私に言ったんだから。でもって、その後、遠藤先生はこう言ったのよ。『女の子はいいですよね。でも、男の子は世の中から一人残らずいなくなっちゃえばいいんです。もちろん、大人の男もいなくなっちぇばいいけど、子供もそう。保育園で預かっている男の子にしたって、いつ暴れ出すか知れたものじゃないし、それに、今は可愛らしげにおしっこを出すしか能のないおちんちんだって、大人になったら、いやらしくて汚らしい液体を出すようになるに決まってる。だから、男の子も大人の男も、みんないなくなっちゃえばいいんです!』ってね」
 手首をねじりあげるようにして上げさせていた葉月の右手を元に戻しながら、感情の起伏を押し殺すようにして皐月は言った。
「極度の男性不信に陥った遠藤先生を励ますためにマンションへ招待したのはいいけど、そこに弟がいたんじゃまずいかなと思って一瞬はあんたのことを妹だと思わせとこうかとも考えたんだけど、でも、いつまでも騙し通せるわけなんてないし、騙してたことがわかったら却って事態が悪化しちゃうかなって考え直して、本当のことを言ったのよ。――でも、意外なことに、遠藤先生、あまり取り乱さなかった。玄関からダイニングルームへ行く途中に自分の部屋から出てきたあんたと顔を会わせただけっていうほんの短い間でも、大学生の男を目の前にしたんだから、もっと大騒ぎするんじゃないかと思ったけど、こっちが拍子抜けするくらい平気な顔してたのよ、遠藤先生」
 皐月は、それまで葉月の関節を締めあげていた右手の力を緩め、なんとも表現しようのない笑みを浮かべた。
「ええとね、ダイニングルームであれこれ話してさ、逆に私への気遣いもあってのことだろうけど、ほんの少し遠藤先生が笑顔になった頃を見計らって、あんたのことを説明したわけよ。ああ見えても、あの子、本当は弟なんだよって。でも、遠藤先生、騒いだりしなかった。それどころか、はにかんだ様子で『あんな子ならいいですね。男の子でも、あんな子だったら私、近くにいても怖くないかもしれません』って言ったのよ。驚いた私は『でも、あいつだって男なのよ? 見た目はあんなふうだけど、いつ狼に変わるかしれない男どものの仲間なんだよ?』って念を押したんだけど、私の言うことなんてまるで聞こえないふうで、『だって、ちっともそんなふうに見えないじゃないですか。さっき廊下で顔 を会わせた時なんて、弟さんの方が恥ずかしそうにおどおどしちゃって。顔を真っ赤にしてぺこりと頭なんかさげちゃって。だから、なんだか、弟さんとだったら大丈夫みたいな気がして仕方ないんです』とかなんとか言っちゃってさ」
 その時の状況を思い出したのか、皐月はくすりと短く笑った。
「考えてみれば、遠藤先生、保育園での最初の自己紹介で、小池徹平のファンだとか言ってたのよね。あんた、どことなく面影がないわけじゃないし。そりゃ、ま、あんたと比べれば徹平の方がよほど男っぽくてしっかりしてるように見えるけど、基本的なラインは同じかもしれないよね。それに、あんただって、遠藤先生みたいな楚々とした感じの女の人が好きなんでしょ? 一目でわかったわよ。他の先生方と初めて顔を会わせた時はただ恥ずかしがるだけだったのに、遠藤先生を初めてお招きした時は、あんた、ほんとに顔を真っ赤にしてたもん。人見知りが激しいところにもってきて、ずばり好みの女性と顔を会わせて、あんた、どうしていいかわからなくておどおどするだけだったんでしょ? そんなところも遠藤先生の保護欲を掻き立てちゃったんでしょうね。保育士になるくらいだから、遠藤先生も私と同じくらい子供好きに決まってる。もともと子供好きで保護欲とかが強い女性があんたみたいな子をみたら、そりゃ、たまんないかもしれないよ。――で、あんたも満更じゃないんでしょ?」
 皐月は、最後の方を強く念押しするように強調して言った。
 葉月の顔がかっとほてり、すっかり裸に剥かれた上半身も赤く染まった。
 それを見た皐月は、葉月の背中をぴしゃりと叩いて強い調子で断言する。
「だから、あんたなのよ。この役を任せられるのは、あんたしかいないのよ」
「つまり、そういうことです。これでわかってもらえたましたね?」
 園長が穏やかな声で言った。



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