偽りの保育園児



「……わかりません。つまりとか、そういうことだとか言われても、僕にはさっぱりわかりません。何なんですか、その、僕にしか任せられない役って? それが、保育園の制服と関係あるんですか?」
 弥生に対する憎からぬ想いを見透かされた葉月は、自分の置かれた立場がどんなものなのかまだ理解できない苛立たしさとが相まって、少しばかり逆切れ気味に唇を尖らせた。
「やれやれ、これだけ説明してもまだわかんないわけ? あんたってば、優柔不断で気が弱いだけじゃなくて勘も鈍いんだね。もっとも、遠藤先生にしてみりゃ、そういうとこがいいのかもしれないけどね。自分が一緒にいてあげなきゃ何もできない頼りない葉月ちゃんって感じでさ」
 皐月はひとしきり冷やかし気味に言って、すぐに真顔になった。
「じゃ、説明してあげる。あんたにしか任せられない重要な役っていうのが何なのか。――遠藤先生は極度の男性不信に陥っている。ううん、不信というより、恐怖症と言った方が正しいかしらね。だって、おもらしでパンツを汚しちゃった男の子に近づくのも怖々だし、やっとのことパンツを脱がせることができても、おちんちんが見えた途端、顔をひきつらせて今にも悲鳴をあげだしそうになるくらいなんだから。これが幼稚園だったら夏休みの間にじっくり時間をかけて精神的なリハビリをすることもできるんだけど、うちは保育園だから、ちゃんと決まった夏休みなんかなくてさ。ま、小学校や中学校が夏休みの間は自由登園になってて実際に登園してくる園児は普段の半分とか三分の二くらいだから、その間に先生方には順番に休みを取ってもらってるけど、どんなにやりくりしても、せいぜい一週間ってとこ。そんな短い期間じゃ遠藤先生の心の傷が癒えるわけないってことは、あんたにもわかるわよね。今は定期的にカウンセラーのところに通いながらなんとかして仕事を続けてるけど、いつどうなっちゃうか知れたものじゃないのよ、本当のところ」
 そこまで言って皐月は溜息をついた。が、じきに思い直したかのように説明を続ける。「でも、さっきも言った通り、そんな遠藤先生にとってもあんただけは別なのよ。あんたが男の子だってわかってもあまり怖がる様子もない。だから、あんたにはなるべく長い時間、遠藤先生と一緒にいてあげて欲しいの。でもって、あんたっていう男の子と一緒にいても大丈夫だってことを実感してもらって、遠藤先生に自信を取り戻してもらいたいのよ。遠藤先生に毎日の仕事を続けてもらいながら精神的なリハビリを施すには、そんな方法しかないの。それが、前もって園長先生と相談して決めた方法なのよ」
「……けど、それでも、僕が保育園児の制服を着る必要なんてないじゃない。アシスタントとして遠藤先生の仕事を手伝えば、それでいいんじゃないの?」
 一通りの説明を聞いて、おおよその事情は葉月にもわかった。それはわかったけれど、でも、まだ説明のつかない部分が残っているのは事実だ。
「それじゃ駄目なのよ。確かに、遠藤先生にとって、あんたは他の男とは違う。でも、遠藤先生の精神状態は刻々と変化するのよ。普段の比較的落ち着いている時はあんたと一緒にいても大丈夫だったとしても、いつ精神状態が昂ぶってパニックを起こすかわからないの。そんな状態になるのは稀れでしょうけどってカウンセラーの先生は園長先生に説明してくださったけど、その可能性が全くのゼロというわけじゃない。その時、男のあんたがすぐそばにいたりしたら、それこそどうなるか想像もつかないの。下手したら、パニックを起こした遠藤先生、自分で自分を傷つけちゃうかもしれない」
 皐月は大きく首を振った。
「そんなことにならないよう、遠藤先生と一緒にいてもらうあんたに、保育園の女の子の格好をしてもらうことにしたのよ。遠藤先生の精神状態が万が一にもひどく昂ぶっちゃった時に、目の前にいるのが女の子だって言い聞かせるために。遠藤先生の近くには男なんていませんよ。大人の男も園児の男の子も一人もいませんよ。そばにいるのは可愛い制服を着た女の子ですよ。そんなふうに説得するために。そうやって遠藤先生の心を鎮めながら、落ち着いたら、あんたが男の子だってことを改めて思い出してもらう。そんなことを何度も繰り返して、男の子と一緒にいても大丈夫なんだって自信を取り戻させる。そうして、男の子なんてちっとも怖くないんだってことを心に刻みつけてもらう。――ここまで説明すれば、勘の鈍いあんたでもわかるよね?」
「……」
 念を押すみたいにして同意を求める皐月に、けれど葉月は一言も応えられない。
「でも、そのお顔を見ると、まだ納得できていないみたいね。うふふ、葉月さんが何を言いたいのか、私にもわかるわよ。『けど、女の子の格好をするにしたって、わざわざ保育園児の真似までしなくてもいいじゃないか。男の子だと思わせなければいいんだったら、遠藤先生のアシスタントとして、女性の保育士の格好をすればそれでいいじゃないか。なのに、こんな、僕の体に合わせた大きな園児服まで用意するなんて。どうせ女装するにしても、年相応の格好で女装させてくれればいいじゃないか』――葉月さん、そう言いたいんでしょう?」
 葉月の表情を読み取った園長が、これ以上はないくらい真剣な表情で言った。
 園長が口にした『女装』という言葉に思わず頬を赤らめながら、葉月が弱々しく頷く。
 それを見た園長が、一度だけ小さく首を横に振って応じた。
「でも、それじゃ、根本的な解決にはならないのよ。葉月さんに女性アシスタントとして遠藤先生と一緒にいてもらって、それで仮に遠藤先生が心を開くことになっても、それだけでは、『互いに好意を持っている御崎葉月さんという個人に対して』遠藤先生が心を開いたということでしかないの。けれど、それでは、なんの解決にもなっていません。遠藤先生には、保育園にいる全ての男の子、そして、世の中ににいる全ての男性に対して心を開いていただかなければならないんです。そうでないと、保育園で園児の面倒をみることも難しく、園児の父親とは保護者面談もできないということになってしまいます。だから、葉月さんという特定の個人だけに心を開くような不完全な結果なんて、なんの解決にもならないの」
 一息でそこまで言って、園長は、葉月の反応を確認するかのように言葉を切った。
 が、あまりにも真剣な園長の口調に気圧されたのか、葉月は無言のままだ。
 待つほどもなく、再び園長の口が開いた。「だから、葉月さんには女の子の園児の格好をしてもらう必要があるんです。実は男性だけど女の子そのままの格好をした葉月さんのお世話を続けるうちに、男の子も女の子も思っていたほどの違いなんてないじゃないかと遠藤先生も気づいてくれるに違いありません。相手が女の子のつもりで面倒をみていたら、結果として男の子の面倒をみていた。その事実を受けとめることで、遠藤先生に自信が戻ってくることを私たちは期待しているの。だからこそ、葉月さんには、大学生が務める臨時アシスタントの御崎葉月さんではなく、ひばり保育園に通う女の子の御崎葉月ちゃんになってもらわないといけないのよ」
「この役、最初は、うちの保育園に通っている本当の園児に任せることも考えたのよ。でも、事情を全部わかった上で男の子なのに女の子のふりをしてくれる保育園児なんているわけないわよね。それに、めぼしい男の子に強引に女の子の格好をさせたとしても、親御さんから苦情が来るのは目に見えているし。だから、あんたしかいないの。この役にふさわしいのは、葉月、あんたしかいないのよ。こんなに言ってもまだわかんないって言うなら、もう姉弟の縁を切るからね」
 園長の言葉が終わるか終わらないかのうちに、葉月の耳元に口を寄せて皐月が決めつけた。
「……そ、そんな……だいいち、急にこんなこと言われても……」
 二人に対して言い返す言葉が咄嗟には出てこない。おずおずと口を開きかけた葉月だが、途中で唇の動きが止まってしまう。

「さ、難しいお話はこのくらいにして、可愛い制服を着てみようね。葉月ちゃん、優しいお顔をしてるから、ピンクのセーラーワンピ、絶対に似合うわよ。他の子供たちはブルーのセーラーワンピだけど、葉月ちゃんだけ特別にピンクなのよ。嬉しいでしょ?」
 唇を震わせ長い睫をしばたたかせるばかりの葉月に向かって、再びがらりと口調を変えた園長が、わざとのような優しい声で話しかけた。そうして、すっと両手を伸ばして、葉月が穿いているスラックスのボタンに指をかける。
「いろいろお話をしている間に、御崎先に上のお洋服をみんな脱ぎ脱ぎさせてもらったみたいね、葉月ちゃん。じゃ、次は私がおズボンを脱ぎ脱ぎさせてあげるから、いい子でおとなしくしているのよ」
「や、やめてください。ぼ、僕、小さな子供のふりなんてできません。保育園に通う女の子になんかなれっこありません!」
 園長の手から逃れようとして腰を退きながら、葉月はなけなしの気力を振り絞って叫んだ。が、葉月の口を衝いて出たのは、叫び声というよりも、どちらかというと悲鳴に近かった。
「なれっこありませんですって!? でも、なってもらうしかありませんよ。ひばり保育園の代表者たる私と、御崎葉月さんとの間で、もう雇用契約を交わしてあるんですから。ついさっき自分の手で雇用契約書に署名をして拇印を押したという事実を忘れたなどとは言えませんよね?」
 葉月の悲鳴じみた抗弁を耳にするなり、園長の口調が再び一変した。これまで聞いたことのないような冷ややかな声だ。
「で、でも、あれは……あれは、どんなことをするのか前もって聞かせてもらってなかったから……」
 心臓を冷たい手で鷲づかみにでもされるような思いにとらわれながら、葉月は金切り声をあげた。
「あら? どんな仕事なのかは、簡単なアシスタントだという説明を御崎先生から前もって聞いてもらっている筈ですよ。園児と同じ制服を着用する必要があるとか、園内では女の子として過ごすとか、そういった細々したことは聞いていないかもしれませんけれど、それは、こちらがわざとか隠していたわけではありません。そちらから細部の説明を求められれば、いつでも説明できるよう準備していました。確認されなかったそちらの落ち度と言うしかありませんね。――あと、念のため付け加えておきますけれど、最近は契約を交わした後であれこれと追加条件を出したり勝手に契約を解除しようとする人が増えてきているようですので、そんなことにならないよう、契約書には連帯保証人の名前を記載させていただくことにしています。葉月さんの場合、お父様とお母様の名前が連帯保証人として契約書に記載されています。当方の承諾なしにそちらが一方的に契約を解除した場合、お二人にご迷惑がかかることになります。お父様は県立高校の校長先生で、お母様は市立小学校の教頭先生。尊敬される立場にあるお二人にご迷惑をかけることは、葉月さんとしても本望ではありませんわよね?」
「そ、そんな……」
 葉月は唇を噛みしめ、背後に佇む皐月の顔を見上げた。
「姉さんからも何か言ってよ。父さんや母さんに迷惑がかかるだなんて、そんなの……」
 だが、そう言う葉月に対して皐月から返ってきたのは予想外の言葉だった。
「なにを馬鹿なこと言ってんのよ、葉月ったら。あんたがちゃんと仕事をこなせば契約違反にはならないんだから、父さんや母さんに迷惑がかかることなんてないじゃない。それとも、最初から契約違反する気満々なわけ?」
 皐月はこともなげにそう言うと、背中越しに葉月の顔を見おろすようにして、こんなふうに付け加えた。
「だいたい、せっかく園長先生もあんたのことを気に入ってくださったのに、それに対して文句つけるなんてどうかしてるんじゃない? 考えてもごらんよ。目的は遠藤先生の心のリハビリってことになってるけど、それがきっかけになって、憧れの遠藤先生とお近づきになれるんだよ? 先生の方が二つ年上だけど、あんたみたいな優柔不断な男、年上の女性に引っ張ってもらった方がなにかとうまくいくに決まってるんだから、二人がおつきあいすることになっても、私は反対なんてしないわよ。ううん、それどころか大賛成。可愛い弟がどっかの得体の知れない女に引っかかるんじゃないかって心配しなくてもいいんだから。私が主任になった年に入ってきた新人の優秀な保育士さんが引っ込み思案の弟とつきあってくれるんだもの、姉さんとしちゃ大歓迎よ。それに、あんた、研究職に進みたいみたいだけど、教員免許も取るんでしょ? だったら、四年生になったら保育実習を履修しなきゃいけないんだけど、それを前もって保育園で経験できるんだなんて、願ったりかなったりじゃない。それも、園児としての経験を積めるんだから、今度いざ実習が始まったら子供たちの気持ちが手に取るようにわかって、いい成績を狙えるわよ、きっと。それに、保育園で大勢の子供たちと生活するうちに、あんたの優柔不断で気の弱いところも治るかもしれないし。――ほら、こうして考えてみると、いいことばっかだよ。いつまでもぶうたれてないで、この計画を考えてくれた園長先生と私に感謝するのが本当じゃないかしらね?」
 しれっとした顔でそんな言葉を口にする皐月に、葉月はもう何も言い返せない。
 言葉を失い唇を噛みしめる葉月に向かって、改めて優しい保育士の顔になった皐月が、あやすように言い聞かせる。
「さ、わかったら、園長先生にズボンを脱ぎ脱ぎさせてもらおうね。ズボンを脱ぎ脱ぎさせてもらって、可愛い制服を着せてもらおうね。ほらほら、お尻をそんなに後ろに退いたりしないの。それに、ほら、そんなに脚を突っ張ったりしちゃ駄目だってば」
 園長の手から逃れようとする葉月の体をぐいっと前方に押し出した皐月は、絶望的な表情を浮かべる弟の耳元に、家の中では一度も聞いたことのない甘ったるい声で囁きかけた。



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