偽りの保育園児



               【二】

 じくじく湿っぽい感触が下腹部から伝わってくるのを歯咬みして耐える葉月を乗せたバスがやがて着いたのは、皐月のマンションと保育園との中ほどから街の中心方向へ少し走った場所にある公立の水族館だった。こじんまりした建物だが、園児手帳や職員証を提示すれば地元の保育園と幼稚園の園児と付き添いの保育士は無料で入園できる上、敷地の中に様々な深さのプールが併設されているため、春や秋の遠足だけではなく、ひばり保育園のように自分のところにプールが設置されていない保育園や幼稚園だと、暑い盛りに園児たちに水遊びをさる場合もここに連れて来ることも多く、皐月にとってはすっかりお馴染みになった水族館だ。
 しかし、この水族館の特徴はそれだけではない。水族館の直営というわけではないのだが、広い駐車場の一角を借りて営業しているレストランが、なかなか美味しい料理を出すことで地元では有名なのだった。建物は地味で、料理も派手さはないのだが、地元出身のシェフの材料に対する目利きが確かな上、和食やフレンチ、イタリアンや中華といった既存の枠組みにとらわれない自由な発想で旬に合わせた調理をすることで素材の持ち味を引き立てたランチを提供してくれ上、まるで気取った様子がなく、デパートの大食堂みたいな気楽さもあって、大勢の客で混み合っているのが常だった。
 皐月は、園長室での面談を終え、バスに乗り込むと同時にこのレストランに予約の電話を入れて、かろうじて三人分の席を確保してもらっていたのだ。せっかくの日曜日にわざわざ出勤してもらった水無月へのささやかなお礼に昼食をご馳走するためだった。

 大型車専用レーンにマイクロバスを駐め、レストランに足を踏み入れた三人は、窓際の席に案内された。アスファルトで舗装された駐車場だが、レストランのまわりはちょっとした花壇になっており、ほどよく利いたエアコンと相まって、夏の日の昼過ぎでも、窓を通して見る風景に暑苦しさはまるで感じない。
「本当は冷たいワインが欲しいところですけど、水無月さんにバスを運転してもらっている手前そうもいきませんから、とりあえず、ペリエで乾杯しましょう」
 オーダーを済ませた皐月は、ワインの代わりに注文したよく冷えた発泡性のミネラルウォーターが運ばれて来ると、びっしり汗をかいたグラスを高々と持ち上げた。
 そこへ、うきうきした顔の水無月と、おどおどした様子の葉月がグラスを合わせる。細かな泡が絶えず浮かび上がるグラスが三つ軽く触れあって涼やかな音をたてた。
「ああ、よく冷えていておいしいこと。それに、誰かと一緒に食事をすることなんて滅多にないから楽しいわ。誘ってくれた御崎先生にお礼を言わなきゃね」
 一口二口とペリエを飲んで、水無月はグラスをテーブルに戻しながら嬉しそうに目を細めた。
「そんな、お礼を言うのはこちらの方です。お休みの日にバスを出していただいた上、勝手なお誘いにつきあっていただいて感謝しています」
 皐月は恐縮しきりの態で言ってから、にこやかな笑顔になった。
「それに、このお店、私も来てみたかったんです。子供たちを連れて遠足や水遊びに来るたび、バスをおりるとすぐに気になって、入り口に立てかけてあるメニューを見ていたんですよ。でも、園の行事の途中に入るわけにはいかないし、夕方はやってないし、日曜日のランチくらいしか来る機会はないけど、外へ出るのが好きじゃない弟はつきあってくれないしで、なかなかチャンスがなかったんです。それが、こうして水無月さんや妹と来ることができて、私自身が一番楽しんじゃってるんじゃないかしら」
「そうだったの? 実を言うと、私も子供たちや先生方を送り迎えしているたびに気にはなっていたんだけど、やっぱり、仕事の途中に一人で入るわけにはいかなくて」
 水無月は更に目を細めて頷いた。
 通園バスは朝夕の送り迎えだけではなく、遠足や水遊びで水族館へ行く時にも活躍している。ただ、送迎バスの定員は水無月を除けば付き添いの大人が一人と園児が四十人ということになっているから、年長・年中・年少クラスが全員で移動するとなると水無月は往復で大忙しだ。しかも、やっと園児たちを送り届けたと思っても、水無月は事務作業も一手に任されているから、そのままとんぼ返りで園に戻って帳簿の整理ということになる。そのため、やはり皐月と同じようにレストランの存在を気にしながらもこれまで店の中に足を踏み入れる機会には恵まれなかったらしい。
「その点、葉月ちゃんは幸せね。保育園に通うことが決まった途端、評判のお店で入園祝いをしてもらえるんだから」
 三人は、葉月と皐月が横に並び、二人の向かい側に水無月という形で座っているのだが、それまで向かい側の水無月と言葉を交わしていた皐月が、不意に葉月の横顔を見て言った。
「そんな、入園祝いだなんて……」
 思ってもいなかった言葉を急にかけられた葉月はどう応じていいのかわからず、途中で口をつぐんでしまう。



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