偽りの保育園児



「ママ、あのお姉ちゃん、ごはんをこぼしてキティちゃんのエプロン汚しちゃってるよ。キティちゃんが可哀想だよね」
 突然、甲高い幼児の声が店内に響き渡ったいた。
 見れば、小学校の低学年くらいだろうか、おしゃまな感じの小さな女の子が葉月と同じお子様ランチを食べながら、少し得意げな表情で、隣の席に腰かけている母親に話しかけていた。自分は全くエプロンを汚していないのを自慢したいだろう、まるで遠慮のない大きな声だ。
「え? ああ、そうね。エプロン、汚しちゃってるわね、あのお姉ちゃん。うん、キティちゃんのお顔がケチャップで汚れちゃって可哀想かもね。でも、ごはんの食べ方が上手とか下手とかは人それぞれだから、そんなことで大声を出しちゃ駄目なのよ。もしも美亜がエプロンを汚しちゃって、そのことを大勢の人の前で大きな声で言われちゃったら恥ずかしいでしょ? だから、そんなこと、大きな声で言っちゃ駄目なの」
 美亜というのがその子の名前なのだろう、若い母親は愛娘の不躾を優しくたしなめつつ、気遣わしげな視線を葉月に向けた。
 けれど、小さな子供に理屈が通じるものではない。美亜は拗ねたように頬を膨らませると、自分のエプロンと葉月のエプロンとを見比べ、勝ち誇ってますます大きな声を出すのだった。
「でも、美亜、エプロン汚してないもん。ごはんだってハンバーグだってレタスだってちゃんと食べられるから、エプロンのキティちゃん、ちっとも汚れてないもん。だから、美亜、恥ずかしくないもん。美亜、あのお姉ちゃんじゃないから恥ずかしくないもん」
 母親と美亜がそんなやり取りを交わす中、葉月は今度はハンバーグの上に載った目玉焼きを食べさせてもらっていた。けれど、今度もまた皐月が他の客たちに気づかれないようそっとスプーンを傾けたものだから、半熟の黄身が流れ出て葉月の唇の端を汚してしまう。
 それを見た母親は
「ま、確かにそうだけど、でも、駄目なことは駄目なのよ。とにかく、よその子が恥ずかしがるようなことを言うのは駄目なの」
と、美亜よりも遙かに体の大きな葉月の食事風景に苦笑交じりに再び我が娘をたしなめるしかなかった。
「なによ、ママったら。いつもいつも、これは駄目、あれも駄目って、駄目駄目ばっか言っちゃって。美亜、もう小学生なんだよ。いつまでも幼稚園のガキンチョじゃないんだから、たまには美亜のイケンを聞いてくれてもいいじゃないのよ。美亜、もう、ごはんのたびにエプロンを汚しちゃうようなお子ちゃまじゃないんだから」
 いつも口で言い負かされているのが悔しいのだろう、美亜はぷいっと唇を尖らせた。
 それに対して母親の方も少し思案顔になり、しばらくの間なにやら考えた後、やれやれ仕方ないといった表情を浮かべて、こんなふうに応じる。
「そうね、確かに、美亜の言うことにも少しは耳を傾けてあげなきゃいけないかもね。たしかに美亜、小学校に通うようになって給食が始まったら、途端にごはんの食べ方も上手になったし、近所の小っちゃい子供たちの面倒をみるようになって、急にお姉さくらしくなってきたもんね。うん、わかった。じゃ、美亜の言うことを聞いて、これからは駄目駄目ばかり言わないように気をつける。で、ママはなんでも駄目って言わないように気をつけるから、美亜はよその子が恥ずかしがるようなことを言わないように気をつけること。これでどう? これでおあいこだよね?」
「ほんと? 美亜、お姉さんらしくなってる? うふふ。美亜ね、気をつかってるんだよ。もう幼稚園のガキンチョじゃないから、保育園や幼稚園に行ってる小っちゃな子たちのお姉ちゃんだから、お手本になるよう頑張ってるんだよ。ママ、ちゃんと美亜のことわかってくれてたんだ。やっぱ、美亜のママ、最っ高だよ。うん、わかった。よその子が恥ずかしがるようなこと、美亜、もう言わない。美亜、もうお姉ちゃんだもん、よその子のことを考えてあげられるもん」
 母親の言葉に、美亜は最初のうち少しはにかむような表情を浮かべたが、すぐにぱっと顔を輝かせて言い、声を弾ませて続けた。
「でも、その前に一つだけママにお願いしていい? ママと美亜、おあいこだけど、その前に一つだけどうしてもお願いを聞いてほしいの」
「いいわよ、どんなお願い?」
 それまでの拗ねた様子とは一転、娘の殊勝な態度に母親の顔がほころぶ。
「うん。あのね……エプロン、外してもらえないかな? 美亜、もう小学生なんだから、こんなエプロン恥ずかしくてたまんないよ。絶対にお洋服を汚したりしないから、こんなお子ちゃまエプロン、外してもいいでしょ? このお店だけじゃなくて、別のお店でお子様ランチを食べる時でも、エプロンは着けさせないでほしいの。それが美亜からのお願い。いいでしょ、ママ? 美亜、お姉ちゃんだから、絶対にごはんこぼさないから」
 美亜は少し照れくさそうに、けれど半ば真剣な表情で母親の顔を見上げた。
 母親は再び思案顔になったものの、点々とケチャップの汚れが付いている葉月のエプロンと、シミ一つ付いていない自分の娘のエプロンとを見比べると、やがて根負けしたように小さく頷き、その後もういちど大きく頷き直してから、美亜の首筋の後ろで結わえた紐に指をかけながら言った。
「いいわ、わかった。美亜のお願いを聞いて、エプロンを外してあげる。でも、ちょっとでもお洋服を汚したら、またエプロンに逆戻りよ。いいわね?」
「うん、約束する。絶対にお洋服を汚さない。でもって、もしも汚しちゃったら、ちゃんとエプロンする。それでいいんだよね、ママ」
「そう、それでいいのよ。ちゃんと約束できるなんて、本当に美亜はお姉ちゃんになったわね。――はい、いいわ、エプロンを外してあげたわよ。だから、美亜も約束を守ってね」
 短い言葉のやり取りの間に手早くエプロンを外した母親は、それを丁寧に折りたたんでテーブルの隅に置き、改めて美亜の目を覗き込んだ。
「まっかせといてよ、ママ。美亜、聞き分けの悪い小っちゃい子じゃないもん、ちゃんと約束を守れるお姉ちゃんだもん」
 ハローキティの顔が描かれたいかにも幼児向けといったデザインの紙製のエプロンから解放され、自分がまた少しお姉さんになったんだという自信に顔をほころばせた美亜は母親に向かってにまっと笑ってみせた後、どこか自慢げに胸を張って葉月の方に振り向いた。
「あの美亜ちゃんっていう子、エプロンを外してもらえたみたいね。お母さんと美亜ちゃんとのお話を聞いてると、あの子、この春から小学校に通うようになって急にお姉ちゃんらしくなって、それでエプロンも外してもらえたみたいね。なのに、うちの葉月ちゃんときたら――」
 皐月は、葉月の唇の端に付いた目玉焼きの黄身をエプロンの端で拭い取り、ジュースの入った丸いプラスチックの容器を半ば強引に持たせながら、すっと目を細めた。
「まだちゃんとスプーンを使えなくて、お姉ちゃまが食べさせてあげても上手に食べられなくて、ごはん粒や目玉焼きをこぼしてばっかなんだよね?」
「ち、ちがう。あれは葉月のせいじゃない。お姉ちゃまがスプーンをかたむ……」
 お姉ちゃまがスプーンを傾けたせいだ。思わず反論しかけた葉月だが、ジュースの容器に差し込んだストローを咥えさせられたせいで、あとは言葉にならなかった。
 だが、それでも口を開こうとするものだから、ストローから口の中に流れ込んだジュースが唇の端から溢れ出て顎先から胸元に滴り落ち、ケチャップの跡がうっすら残る紙製のエプロンに今度は黄色のシミを付けてしまう。
「ほら、言ってるそばからまたエプロンを汚しちゃって。美亜ちゃんは小学校の一年生だけどエプロンはちっとも汚してないのよ。なのに、葉月ちゃんは五年生のくせに、ごはんだけじゃなくジュースもちゃんと飲めないなんて、困ったお姉ちゃんだこと。――あ、でも、そうね。葉月ちゃんは明日から保育園の年少さんだもん、エプロンをごはんやジュースで汚しちゃってもちっとも変じゃないんだっけ。そうだよね、だったら、ごはんの食べ方が上手じゃなくても仕方ないよね。うん、そうだよね。年少さんの葉月ちゃんより小一の美亜ちゃんの方がずっと年上のお姉ちゃんだもん、小っちゃな妹の葉月ちゃんがエプロンを汚しちゃうのも無理ないよね。葉月ちゃんよりも美亜ちゃんの方がずっとずっとお姉ちゃんのしっかり者なんだもんね」
 皐月は、ジュースをエプロンの端で拭ってやりながら皮肉めいた口調で言い、葉月の耳元にそっと唇を寄せて囁いた。
「だけど、本当は葉月ちゃん、大学一年生のお兄ちゃんなんだよね。大学生のお兄ちゃんのくせにキティちゃんのエプロンを汚しちゃってるんだよね。やれやれ、いつになったら美亜ちゃんみたいなお姉ちゃんになれるのかな、葉月ちゃんは。あ、そうだ。困ったお兄ちゃんの葉月ちゃんが早くしっかり者のお姉ちゃんになれるよう、美亜ちゃんが要らなくなったエプロンを貰ってかえろうか。でもって、エプロンに『早く葉月ちゃんを美亜ちゃんみたいなお姉ちゃんにしてください』ってお願いするの。どう? こんなマジナイ、とっても効きそうに思わない?」



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