偽りの保育園児



               【三】

 そんなふうに羞恥に満ちた昼食を終えてようやくレストランをあとにし、穿き慣れない踵の高いサンダルのためおぼつかない足取りでバスに向かって歩き出した葉月だが、皐月に手をつかまれ、くるりと体の向きを変えさせられてしまう。
「どこへ行くつもりなのよ、葉月ちゃんてば?」
 葉月の手をつかんだ皐月は、どことなく意地悪そうな笑みを浮かべて言った。
「え? どこへ行くつもりって……帰るんでしょ? お家に帰るんじゃないの?」
 レストランに出入りする客や駐車場を行き来する人々に怪しまれないよう少女めいた口調を意識しながら、葉月はきょとんとした顔つきになって聞き返した。
「なに言ってるの、葉月ちゃんたら。せっかく水族館まで来たのに、ごはんを食べただけですぐに帰っちゃうような勿体ないことするわけないでしょ? ほら、これを首にかけるのよ」
 皐月はにやっと笑い、自分のポーチから小ぶりの手帳を取り出すと、手帳の背に開いている丸い穴に丈夫そうな紐を通し、その紐を固く結んで葉月の首にかけさせた。
 まだきょとんとした表情のまま葉月が視線を落とし、紐で首にかけさせられたばかりの手帳を確認すると、それは、園長室で手渡された園児手帳だった。
「あ、これ……」
「そう、葉月ちゃんの園児手帳よ。お出かけ前に、小物ハンガーにかけた鞄から取り出して持って来てあげたの。これがあれば水族館に只で入れるから、ごはんの後の散歩を兼ねてお魚を見てまわろうね。ほら、お姉ちゃまもちゃんと保育園の職員証を持ってきたんだから」
 皐月は笑顔でこともなげに言って自分の職員証を見せ、かたわらに立つ水無月の方をちらと見た。
 それに合わせて水無月も自分の小物入れから職員証を取り出す。
「ほら、おばあちゃまもちゃんと持って来たわよ。これで、三人揃って水族館に入れるわね。おばあちゃま、遠足や水遊びのために子供たちを何度もバスで送り迎えしてきたけど、これまで中に入ったことがなかったの。孫娘がお泊まりに来るたびに連れてってあげようかとも思っていたんだけど、孫娘はデパートでのお買い物の方がお気に入りで、こっちに来るチャンスがなくてね。それで葉月ちゃんと一緒にお魚を見てまわるのが楽しみで楽しみで」
 水無月は葉月の目の前で自分の職員証をいかにも嬉しそうに振ってみせ、皐月がつかんでいるのとは反対側の葉月の手をとって、さっさと歩き出した。

「あら、珍しい。日曜日に来園なんて、今日は保育園で特別の行事でもあるの?」
 皐月の顔を見るなり、すっかり顔馴染みになってしまった受付の女性職員が話しかけてきた。保育園の行事で何度も訪れているから、今や、その若い女性職員とは、皐月がわざわざ職員証を見せなくても顔パスで入園できる程の仲だ。
「うん、ちょっとね。いつもバスで子供たちを送り迎えしてもらっている事務係の人にも一度は水族館の中を見てもらっておいた方がいいと思ってつきあってもらったのよ。紹介するわね、こちら、水無月さん」
 少し遅い昼食を終えたこの時間帯、水族園への客の出入りも落ち着いたようで、比較的空いているゲートのすぐそばで皐月は受付の職員に水無月を紹介した。
「あ、じゃ、こちらが『水無月のおばちゃん』ですか。子供たちからいつも聞いています。今日も水無月のおばちゃんがバスで送ってくれたんだよって。今日は楽しんでいらしてくださいね」
 職員はにこやかな笑みを浮かべ、水無月の職員証を形ばかり確認すると、ぺこりとお辞儀をした。
「そうですか、子供たち、私のことを話してくれているんですか。嬉しいことですね。ええ、今日はこの葉月ちゃんと一緒に存分に楽しませていただくことにします。ほら、葉月ちゃんも水族館のお姉さんにご挨拶なさい」
 水無月の方もにこやかな表情で会釈を返し、皐月の後ろに身を隠そうとする葉月の手を引いて職員の前に連れ出した。
「えーと、こちらのお子さんは?」
 自分の目の前に立って身をすくめる葉月の様子に一瞬だけ表情を固くした職員だったが、葉月が首にかけている園児手帳に気がつくと、今度は、どう見ても保育園児には思えない葉月の背の高さに困惑の顔つきになり、皐月にともなく水無月にともなく、葉月の顔と園児手帳とをちらちら見比べながら訊いた。
「実は私の妹なのよ。明日から私が勤務する保育園に通うことになっているの。はい、これ」
 皐月は職員の困惑ぶりに胸の中で面白そうにぺろっと舌を突き出しながら、葉月の首にかけさせた園児手帳を広げてみせた。
「あ、御崎先生、妹さんがいたんだ。たしか、弟さんがいるとかって前に聞いたことがあるけど、妹さんもいたのね。弟さんは大学生だって聞いけど、妹さんとはだいぶ年が離れているのね。――はい、お名前はみさきはづきちゃんね。クラスは特別年少クラス、ひよこ組……え、年少さんなの、葉月ちゃん!?」
 皐月の背後から姿を現した自分とあまり背の高さが変わらない少女が首に園児手帳をかけているのだけでも当惑の極みなのに、しかも年少クラスだというのだ。これで驚かない方がどうかしている。
「うん。ま、年少クラスっていっても、職場体験での仮の年少さんだけどね。実は――」
 皐月は職員が記載事項を確認するのを待って園児手帳を閉じ、保護者たちに説明する手筈になっている偽りの経緯を口にした。
「はぁ、なるほどね。ふぅん、そういうこともあるのかな」
 皐月の説明に職員は半信半疑に呟きながらも、相手が顔なじみの皐月ということもあって
「うん、まぁ、園児手帳は本物だし、いいわ、入ってちょうだい。普段は園児たちのお世話で大変でしょうから、今日はゆっくり楽しんでいってね」
と応じて頷き、親子連れの入園客がゲートに近づいて来るのに気づくと、事務的な顔つきに戻ってもくるりと体の向きを変えてしまった。
「じゃ、行こうか、葉月ちゃん。ひばり保育園の子供たちは、この春に入園した年少さんのお友達も含めて、みんなここに来たことがあるのよ。なのに葉月ちゃんはまだだから、保育園でお魚の話になってもみんなについていけないでしょ? そんなことになったら可哀想だから、今日のうちに連れて来ておいてあげたかったの。それで、水無月さんへのお礼も兼ねて三人で来ることにしたってわけ。だから、どんなお魚がいるのか、ちゃんと見ておくのよ。みんなが綺麗な熱帯魚のお話をしてるのに、葉月ちゃんだけ、そんなお魚見てないよなんて言ったら、葉月ちゃん、みんなからバカにされちゃうかもしれないんだから。だから、どんなお魚がいたのかちゃんと憶えておいて、晩ごはんを食べながら、どのお魚が綺麗だったかお姉ちゃまに話してちょうだいね。さ、行きましょう」
 皐月は職員に向かって軽く頷いてみせてから、葉月の右手を引いて歩き出した。



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