偽りの保育園児







 皐月の体に異変が起きたのは、水族館の展示棟に足を踏み入れて大小様々な水槽を見てまわり始めてから三十分ほど経った頃だった。それまで、穿き慣れない踵の高いサンダルでおぼつかない足取りになりながらも、他の入館者たちに正体を見破られないまいと、皐月や水無月に手を引かれるまま、たとえば色とりどりの熱帯魚が群れになって泳ぎ回る水槽の前では魚に見入る少女のふりをし、たとえばウツボの水槽の前では怖そうに身を固くする少女を演じていたのが、急に足取りが重くなり、二人が促してもなかなか歩を進めようとしなくなってきたのだ。
「どうしたの、葉月ちゃん? あんよが痛いのかな? だったら、カフェかどこかで休んでいこうか?」
 二階の展示場へ向かうスロープに足をかけた後なかなか歩き出そうとしない葉月に、水無月が心配そうな表情で話しかけた。
 けれど、葉月は無言で首を振るだけだ。
「駄目じゃないの、葉月ちゃん。水無月さんが心配してくれているのに、何も話さないで首を振るだけだなんて。もう五年生なんだから、もっとちゃんとしなきゃ駄目よ」
 口をつぐんだまま視線を落とす葉月に、皐月は、幼児に対して言って聞かせるというよりも、小学校高学年の児童に対して少し強い調子で叱責するといった感じで声をかけた。時によっては保育園の年少さん扱いで羞恥をくすぐられ、時によっては今みたいに小五の女の子扱いで屈辱を煽られといった手練れで皐月に弄ばれ、葉月の心は千々に乱れ、瞬間的ではあるれけど自身が本当は何者なのか、自分に対する自信といったものが揺らぐのを止められない。
「……あ、あんよじゃないの……」
 思わず口にしてしまった幼児言葉に、葉月はおずおずと視線を床に落とす。
「そう、あんよが痛いってわけじゃないのね。じゃ、どうしたの? どうして欲しいのか、ちゃんとお姉ちゃまに教えてちょうだい。年少さんでも、そのくらいは教えられるよね」
 皐月は、今度は保育園の幼女をあやすように言った。
「さ、寒いの……寒くて、それで……」
 葉月は、まるで皐月の視線から逃れようとでもするみたいに麦わら帽子のつばを下げ、今にも消え入りそうな声で応じた。
「あ、そっか、寒かったんだ、葉月ちゃん。そうだよね、レストランの中もこの建物の中もよく冷房が利いてて、外は真夏だなんて思えないほどだもん」
 皐月はようやく納得したような表情を浮かべ、くすっと笑っておかしそうに言った。
「それに、本当は男の子の葉月ちゃんだもん、今までノースリーブのお洋服なんて着たことがないよね。それが急にホルターネックのサマードレスとかキャミソールなんだから、余計に寒く感じちゃうよね」
「や、やだ……葉月のこと、男の子だなんて、そんなこと言っちゃやだ」
 麦わら帽子の広いつばで顔を隠したまま、葉月は幼児がいやいやをするみたいに小さく首を振った。
「あら、葉月ちゃん、自分のこと、男の子だって言われるのがいやなんだ。ふぅん。そろそろ、自分が年少さんの女の子だっていう自覚が出てきたのかな」
 皐月がからからい気味に言う。
「ちがう。……葉月、男の子だよ。男の子だけど、他のお客さんたちに男の子だって知られたらどうしていいかわかんないもん。男の子のくせに……十八歳の男の子のくせにこんな格好してるだなんて他の人たちに知られたらどうしていいかわかんないんから……」
 葉月が声を絞り出すのに合わせて薄い胸が動き、細い肩が震えて、麦わら帽子にあしらった小花の飾りが揺れる。その様子は、確かに、誰かの庇護のもとでなければ何もできない幼い女の子そのままだった。
「わかった。葉月ちゃんのこと、男の子だって言わない。これからはもうずっと年少さんの女の子のつもりで話しかけてあげる。それでいいんだよね?」
 僅かな間も置かず、皐月はいかにも恩着せがましく応じた。
「……うん……」
 スロープにかけた自分の足をじっと見つめて、葉月は蚊の鳴くような声で応えた。
「じゃ、これからずっと葉月ちゃんは年少さんの女の子で決まりね。いい? これは葉月ちゃんが自分で言い出したことなんだから、そこんとこ忘れちゃ駄目よ」
 葉月が麦わら帽子を揺らしながら弱々しく頷くのを見て有無を言わさぬ強い調子で決めつけた後、まるでそれが嘘だったかのようにころりと口調を変えて優しく訊いた。
「葉月ちゃん、さっき、寒い寒いって言ってたよね。それで気分が悪くなっちゃったの?」
「……あ、あの……あのね、葉月、寒くて元気がなくなってたんじゃないの……」
 葉月は何かを訴えかけるかのようにおそるおそる口を開いたが、すぐに羞じらいの表情を浮かべて言葉を飲み込んでしまった。
「じゃ、どうしたの? どうして、急に歩くのが遅くなっちゃったの? 寒くて元気がなくなったわけじゃないって、だったら、どうしちゃったのかな?」
 皐月はキャミソールの上から葉月の背中をぽんぽんと優しく叩き、様子を探るように言った。
 だが、どうして葉月の歩みが遅くなったのか、その理由について実は皐月には思い当たる節があった。おそらくそうだろうと思い当たるところがありながらも、それを葉月自身の口から聞きたくて、わざと気づかないふりをして何度も繰り返し尋ねているのだ。
「……あのね……あのね、葉月……」
 葉月は何度も最後まで言葉にしようと唇を動かすのだが、そのたびに口をつぐんで目を伏せてしまう。
 けれど、それが長くは続かないだろうということも皐月にはわかっていた。葉月の歩みが遅くなった理由が皐月の想像通りなら、もうそろそろ限界の筈だ。
「どうしたの、葉月ちゃん? 何か言いにくいことなのかな? お姉ちゃまに教えるのが恥ずかしいことなのかな?」
 皐月は重ねて訊きながら、葉月の背中に添えていた手をゆっくり下におろし、お尻の膨らみをスカートの上から二度ぽんぽんと叩いた後、更にその手を葉月の体の前にまわして、おヘソの下のあたりをぐっと押した。
「や! そんなとこ触っちゃやだ。……出ちゃう、出ちゃうから、そんなところ触らないでってば、お姉ちゃま」
 葉月は反射的に腰を退き、僅かに前屈みになって、ぶるっと腰を震わせた。
「出ちゃうって、何が出ちゃうの? 園長先生のお部屋や葉月ちゃんの新しいお部屋で出しちゃったのと同じ、白いおしっこが出ちゃうのかな?」
 切ない喘ぎ声で懇願する様子に、葉月の歩みが遅くなった理由が自分の想像していた通りだという思いをますます強くし、皐月は満足げな声で確認するように言った。
「……違う。白いおしっこじゃない。……白いおしっこじゃない方のおしっこが出ちゃいそうなの。だから、そんなとこ押しちゃやだってば……」
 皐月の手は、体をくねらせ、どこか甘えるようにそう言う葉月の膀胱のあたりをショーツの上から押さえつけていた。ただでさえ尿意の高まりを覚えて足の運びが滞りがちになっていた葉月だから、そんなところを力まかせに押されたりしたらどうなってしまうかしれたものではない。
「そうなんだ。葉月ちゃん、おしっこを我慢してたんだ。でも、そうだよね。着慣れないノースリーブのお洋服で冷房の利く所にずっといたんだもん、体が冷えておしっこが近くなっちゃっても変じゃないよね。でも、どうして黙っていたの? もう出ちゃいそうになるまで、どうしてお姉ちゃまに教えなかったの? 教えてくれたらすぐにトイレへ連れて行ってあげたのに」
 それまで言い澱んでいた葉月が自ら「おしっこ」という言葉を口にしたことに皐月は思わずほくそ笑み、意地悪な質問を重ねた。



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