偽りの保育園児



               【二】

 その後、大急ぎで着替えさせられた葉月は、朝食も与えられないまま皐月に手を引かれてマンションから連れ出され、通園バスを待つため歩道の端に立たされた。
 朝食を口にできなかったのは皐月が「お姉ちゃま、ちょっと寝坊しちゃったから、急がないと」と繰り返し言って慌てて葉月を連れ出したせいだ。これまでなら他の保育士とローテーションを組んで順番に受け持っていた送迎バスの添乗係を今日からは毎日一人でこなさなければならなくなったにもかかわらず目覚まし時計を合わせ直し忘れていたせいだと皐月は説明するのだが、実のところ、それは、でっちあげの口実にすぎない。本当のことを言えば、皐月は、ホットミルクに混入した薬剤の効果を確認するため明け方前に葉月の部屋に忍び込み、まだ睡眠導入剤のせいでぐっすり眠りこけている葉月の股間をまさぐって、そこがぐっしょり濡れているのを確かめてからこちら、ずっと起きていて、たっぷり時間をかけて普段よりも丹念に化粧を施すことができたほどだ。そうしておきながら、皐月は、葉月のベッドの枕元に置いてある目覚まし時計が起床時間になっても鳴らないようベルを止めるボタンを押しておき、大急ぎで準備をしなければ通園バスに乗り遅れるというぎりぎりの時刻になるまで待っていたのだった。
 わざわざそんなことをしたのは、トイレへ行く時間を葉月に与えないようにするためだった。結果として朝食を摂る時間も奪ってしまうことになったが、それはあくまでも副産物にすぎない。皐月の狙いは、葉月に朝一番のトイレを使わせないようにするところにあった。
 むろん、皐月が葉月にトイレを使わせなかったのは、保育園で更に恥ずかしい目に遭わせて、それを口実に、葉月が自分や弥生、それに他の保育士たちの言いつけに従わざるを得なくなるよう仕向けるためだった。だが、葉月は皐月のそんな企みにはまるで気づいていない。悪だくみに気づいていないどころか、むしろ、皐月が自分を急かす理由にしても、要らぬパンツの穿き替えなどで余計な時間を費やしたせいだとさえ思い込み、通園バスに乗り遅れないようにと、言われるままマンションから連れ出されたのだった。




 待つほどもなく水無月の運転するバスがやって来て、皐月に背中を押されおずおずとステップに足をかけた葉月だが、運転を担当する水無月の他に既に先客が乗り込んでいるのに気づいて、はっとしたように両目を大きく見開いた。
 その先客というのは、自分が通っている中学校のジャージを着た芽衣で、運転席のすぐ後ろの席に腰かけていたのだが、扉が開くと同時に乗降口まで足早に近づいてきて、ステップを昇る葉月に向かって優しく手を差し伸べているのだった。
「おはよう、葉月ちゃん。今日からよろしくね」
 驚いてステップを昇る脚を止めた葉月の体に腕を絡め、強引に通路へ引き上げるようにしながら、芽衣は声を弾ませた。
「ど、どうして芽衣ちゃ……芽衣お姉ちゃまが乗ってるの?」
 思いがけない再会に昨日の水族館のトイレでの痴態が脳裏をよぎり、葉月は顔を赤くしながらおそるおそる訊いた。
「うふふ。私、葉月ちゃんと同じなんだよ」
 葉月の問いかけに、芽衣は悪戯っぽく笑って応えた。
「は、葉月と同じ……?」
「そう、葉月ちゃんと同じで、職場体験。保育士さんたちが保育園でどんなお仕事をしているのか、実際に体験させてもらうことになったの。ほら、昨日、葉月ちゃんのお姉さん――御崎先生が私に耳打ちしてたでしょ? あれって、よかったら保育園で職場体験させてもらえるよう園長先生のお許しを貰ってあげてもいいわよっていう御崎先生からのお誘いだったのよ。もちろん、私はすぐにお願いしたわよ。葉月ちゃんもそうらしいけど、私も将来は保育士さんになりたくて仕方ないんだもん。それに、せっかく知り合いになれた可愛い葉月ちゃんと少しでも一緒にいたいし。だから、葉月ちゃんと同じ保育園で職場体験させてもらうことにしたの」
 芽衣はいかにも嬉しそうにそこまで一気に早口で説明し、それから、少し間を置いて付け加えた。
「でも、何から何まで葉月ちゃんと同じってわけじゃないんだけどね。葉月ちゃんは年少さんの園児として保育園生活を経験することになっているけど、私は保育士の見習いとして職場体験をするのよ。だって、中学生にもなって、もういちど保育園児に戻るなんて変だもん。でも、葉月ちゃんはまだ小学生だし、とっても可愛いから、保育園児に戻るのもいいと思うよ。だって、実際、保育園の制服がこんなに似合ってるんだもん。――正直言って、体の大きな葉月ちゃんが年少さんになって保育園に通うことになってるって御崎先生から昨日教えてもらった時はなんだか変に思ったけど、これなら、ちっとも変じゃないよ。葉月ちゃん、私より背が高いけど、でも、保育園の制服、とっても似合ってるよ。背が高いことさえ気にしなかったら、どこから見ても可愛い保育園児だよ。それも、短いスカートから可愛いパンツをちらちら見せてるとこなんか、年少さんそのものだよ。うん、これなら大丈夫。他の子供たちに混ざっても変じゃないから自信を持って」
「そ、そんな……」
 芽衣は親切心から、初登園の葉月を元気づけようとして「自信を持って」と言ったのだろうが、当の葉月にしてみれば、保育園の年少さんにしか見えないと言われても、なんの慰めにもならないどころか、むしろ、羞恥をこれでもかと煽りたてられるばかりだ。しかも、制服に着替えさせられた時から気になって仕方のなかったスカート丈の短さを改めて指摘され、ますます顔が赤く染まってしまう。
 赤い顔で俯いたままそれ以上は何も言えなくなってしまった葉月と、幼い妹を気遣うしっかり者の姉さながらの芽衣。そんな二人の様子を眺めながら、皐月は思わず胸の中でにやりとほくそ笑まずにはいられなかった。水族館のトイレで出会った時、自分の企みを進めるための持ち駒として芽衣を利用するのもわるくないかなとふと思いつき、さりげなく計画に引き入れた皐月の狙いはどうやら的中したようだ。



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